日本歴史地名大系 「有田郡」の解説
有田郡
ありだぐん
面積:四三七・〇六平方キロ
有田川および広川流域、西は紀伊水道から東は奈良県境までがおよその郡域であるが、平地︵耕地︶は両河川の下流域や湯浅湾岸にみられる程度で、全体に山がちの地形。最高峰は奈良県境にある白しら口くち峰で一一〇九・九メートル。古くは﹁あて﹂郡とよばれ、郡名の初見は﹁日本書紀﹂持統三年八月一六日条で﹁摂津国の武庫海一千歩の内、紀伊国の阿あ提て郡の那な耆き野の二万頃、伊賀国の伊賀郡の身野二万頃に漁猟することを、禁め断めて、守護人を置きて、河内国の大鳥郡の高脚海に准ふ﹂とみえる。養老四年︵七二〇︶一〇月付の平城宮出土木簡に﹁安諦郡﹂、﹁続日本紀﹂天平三年︵七三一︶六月一三日条に﹁紀伊国阿
郡海水変如
血色
、経
五日
乃復﹂と所見。こうして古くは阿提・安諦・阿
の字が用いられたが、大同元年︵八〇六︶七月七日、時の平城天皇の名﹁安殿﹂に近いことから、﹁在田郡﹂と改められた︵日本後紀︶。中世以来、﹁有田﹂の文字を混用する。なお﹁在田﹂の由来については、﹁続風土記﹂は、﹁古事記﹂中巻に﹁木之荒田郎女﹂、﹁日本霊異記﹂下巻に﹁安諦郡之荒田村﹂があり﹁荒田・在田其称近き時は在田は旧荒田にして取りて郡名とせられしより其地名は改りしならんか﹂とする。荒田村の現地比定は困難であるが、考慮すべき所説であろう。近世、和歌山藩は郡名公称を在田としたが、明治以後は有田となった。
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〔原始〕
有田川流域の人間の生活の痕跡は、吉備町土はぶ生い池け遺跡などで採集された先土器・縄文草創期の遺物から始まる。次いで縄文時代の遺跡や遺物散布地は、これより上流域に主としてみられる。農耕以前の、狩猟・漁労による生活の反映であろう。金屋町には、縄文後期の土器、原始絵画のある石斧、石鏃・サヌカイト製スクレーパーなどを出土した糸いと野の遺跡はじめ、遺物散布地が数ヵ所あり、清水町でも石器や中期・後期の土器片が発見された粟あ生お遺跡や、三みせ瀬が川わ・西にし原はら・清水などの遺物散布地や集落跡が知られる。いっぽう海上に浮ぶ広川町の鷹たか島は、地じノ島︵現有田市︶とならぶ考古遺跡の宝庫で、時代は縄文から中世に及ぶ。縄文時代の遺物では多数出土した中期前半の土器に特色があり、﹁鷹島式﹂とよばれており、県下各地はじめ中部・北陸・中国地方から関連土器が発見されている。
弥生時代に入ると、水田適地を得られやすい吉備町以西が遺跡の中心地となる。なかでも吉備町尾おな中か遺跡は大規模な集落遺構で、集落は濠をめぐらし、中期の円形竪穴住居三、後期末から終末期の方形竪穴住居六などが調査されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報