日本歴史地名大系 「本荘市」の解説 本荘市ほんじようし 面積:一八九・五〇平方キロ 由利郡南端部の山形県境を形成する鳥海山・丁(ひの)岳(とだけ)山地の水を集めて北西流する子(こよ)吉(し)川︵古雪川︶と、その支流石(いし)沢(ざわ)川・小(おと)友(も)川・芋(いも)川のそれぞれ下流域。西の海岸線を除き、周囲はすべて由利郡で、接する町村は北から時計回りに、岩(いわ)城(き)町・大内町・東由利町・由利町・西目町となる。海岸線に沿って国道七号︵旧北(ほつ)国(こく)道︶が南北に走り、子吉川下流南部から横手市に通じる国道一〇七号が石沢川に沿うように分岐する。さらに子吉川に沿って南西に国道一〇八号が通じ、雄(おが)勝(ち)郡上(かみ)院(いん)内(ない)で国道一三号に合する。また本荘市街から大(おお)曲(まがり)市へ通じる国道一〇五号が北東へ走る。ほぼ海岸線に沿う国鉄羽越本線は、本荘市域内では内陸部を走る。 本荘は近世期を通じて本庄とも記され、もとは本城であったという。慶長七年︵一六〇二︶由利郡は最上義光に与えられ、義光は家臣の楯岡豊前守満茂を由利に移し、経営にあたらせた。慶長一五年楯岡満茂は地の利を得た子吉川下流の尾(おざ)崎(き)山︵現本荘公園︶に本城城の築造を開始した。楯岡氏は本姓を本城氏と称したので、居城を本城と称したといわれる。この本城が、本庄もしくは本荘となるのは、元和八年︵一六二二︶楯岡氏が退去した後といわれる。 〔原始〕 本荘市内には二七の遺跡が確認されているが、ほとんどが中期・後期・晩期に属する縄文式土器の遺跡包含地で、発掘例が少ないため詳細は不明。遺跡は子吉川本支流の河岸段丘上と、海岸部段丘上に位置する。本荘市街南方の葛(くず)法(のり)字葛法には須恵器坏を出土した窯跡があり、注目されている。 〔古代・中世〕 ﹁続日本紀﹂宝亀一一年︵七八〇︶八月二三日条に﹁由理柵ノ者、居シテ賊ノ之要害ニ、承ク秋田ノ之道﹂とある。出(でわ)羽(の)柵(き)が秋田に北進したのは天平五年︵七三三︶であり、当初庄(しよ)内(うない)︵現山形県︶から秋田への道は海沿いの道しかなかったと考えられるので、由(ゆり)利(の)︵理︶柵(き)の築造は天平五年を大きくは下らない時代と考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報