朱熹(読み)シュキ

デジタル大辞泉 「朱熹」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐き【朱熹】

 
11301200()()西()()()()()()()()()()()()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「朱熹」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐き【朱熹】

  1. しゅし(朱子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朱熹」の意味・わかりやすい解説

朱熹
しゅき
(1130―1200)


()()()()()()

  2016217

生い立ち


()()西()()()()()()()

 14()10971143()()()()110111471924簿()簿4()()()10931163

  2016217

学問と著述


28退20()()()()4046()()()()()()622144()()()()

 20()()()()西()()()稿

 ()()()()()()

 49西()2()()161()165()()使()3()()()45()

 ()()()()

 10

  2016217

思想的特徴


()()()()

  2016217

19 197819 19791978

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改訂新版 世界大百科事典 「朱熹」の意味・わかりやすい解説

朱熹 (しゅき)
Zhū Xī
生没年:1130-1200


411304

 14319330278

 24簿簿10341133-804040︿︿

 28294920西50525253616265綿

 6545︿︿︿︿671︿

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百科事典マイペディア 「朱熹」の意味・わかりやすい解説

朱熹【しゅき】

 
()197150241137-1181
 

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「朱熹」の解説

朱熹(しゅき)
Zhu Xi


11301200

()(西)()()()()()()()()()()()()

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朱熹」の意味・わかりやすい解説

朱熹
しゅき

朱子」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の朱熹の言及

【宇宙】より

…かの杞憂(きゆう)の話(《列子》天瑞篇)はこの気一元論の展開である。 このような気一元論を根底にすえ,《淮南子》的生成論,渾天説的構造論,さらに邵雍(しようよう)(康節)的終末論(天地崩壊論)を統一したのが宋の張載―朱熹(しゆき)(朱子)であった。彼らの壮大でダイナミックな宇宙論は,前近代における中国的宇宙論のクライマックスといっても過言ではない。…

【占い】より

…売卜は賤業とみなされていたが,れっきとした官僚でも進退きわまったときにはしばしば筮竹を握った。南宋の朱熹が政敵の弾劾文を上奏しようとした際,その可否を卜して〈遯(とん),家人に之(ゆ)く〉の占いに遭い,やむなく断念してその草稿を焼き,それ以後〈遯翁(とんおう)〉(遯は隠遁の意)と号したというのは有名な逸話である。 卜筮者は歴代,太卜という下位ながら官僚組織のなかに組みこまれたが,中国では天文学者も太史局,司天台,欽天監(きんてんかん)などと呼ばれる官僚組織の一員であり,彼は同時に占星術師であった。…

【易】より

…ちなみに,《易》の英訳名は《Book of Changes》である。《易経》が成立し,その注解(十翼という)が書かれて以後,易は哲学的思弁の対象となり,中国のみならず東アジアの思想史に刺激を与え続けたが,南宋の朱熹が喝破したように《易》は本来卜筮の書なのである。次に占筮の実践方法を具体的に述べてみよう。…

【易学】より


()()

【楽譜】より


︿︿︿()(1248)(1202)(1269)

【格物致知】より


()︿︿︿

【偽学の禁】より

…中国南宋の慶元年間(1195‐1200),朱熹(しゆき)(子)とその学派に加えられた弾圧事件。〈慶元の党禁〉ともいう。…

【郷約】より

…患難相恤(あわれ)む〉を四大綱領とし,〈呂氏郷約〉または〈藍田郷約〉とよばれた。その後,南宋の朱熹がこれを補訂して〈朱子増損呂氏郷約〉をつくり大いに普及した。郷約が最も盛んに行われたのは明の中期以後であり,当時解体化の傾向にあった郷村組織を再編成しようとする意味があったであろう。…

【近思録】より

…中国,南宋の朱熹(しゆき)が友人の呂祖謙と共に編纂した,北宋の道学(宋代に起こった新儒教)者の選集。題名は《論語》子張篇,〈博く学んで篤(あつ)く志し,切に問いて近く思う〉にもとづく。…

【敬】より


()

【建甌】より


西

【克己】より


︿︿︿()︿()

【湖南学派】より


()()()

【詩経】より

…儒家の経典として,注釈に,漢代,朝廷に斉・魯・韓の三学派,民間に毛氏学派があったが,完全に伝わっているのは,毛氏の解釈(いわゆる《毛詩》)に後漢の鄭玄(じようげん)の補注を加えた《毛伝鄭箋》だけである。唐までは,孔穎達(くようだつ)《毛詩正義》を含め,このテキストが使用されたが,宋の朱熹(子)は,各篇の成立事情に関する旧説をしりぞけ,詩そのものの内容に即して理解しようとして《詩集伝》を著した。最近は,フランスのグラネなど,民俗学的見方で解釈し直そうとする試みもなされている。…

【四書集注】より

…《論語集注》《孟子集注》《大学章句》《中庸章句》の4編より成る。南宋の朱熹(しゆき)がもっとも力を注いだ著述で,死の直前まで改稿の手を休めなかったといわれる。宋代の学者の注釈をふまえつつ,自己の世界観にもとづいて新たな解釈を加えており,注釈学と哲学とがみごとに融合している。…

【四端】より

…孟子によれば,人の身体に四つの手足があるように,心のなかにも惻隠(そくいん)(あわれみいたむ心),羞悪(しゆうお)(悪を恥じ憎む心),辞譲(譲りあう心),是非(よしあしを見わける心)の四つが本来的に備わっていて,これら四つの芽生え(四端)を,それぞれ仁,義,礼,智という完全な徳へとたいせつに育てあげねばならないという(《孟子》公孫丑上篇)。朱熹は仁義礼智を〈性〉(本性)とし,〈四端〉とはそれらが〈情〉として外に現れ出た〈緒〉(端緒,いとぐち)だと解釈する(《孟子集注(しつちゆう)》)。【三浦 国雄】。…

【朱子語類】より

…朱子学の大成者朱熹(しゆき)が門人たちと交わした座談の記録集。1270年,黎靖徳(れいせいとく)が記録者別のノート(語録という)を項目別に再編成したもの。…

【小学】より


()2︿︿︿︿4︿︿2

【仁】より

… その後宋代になると,仁説は独自の哲学的展開をとげ,周敦頤(しゆうとんい)(濂渓)は宇宙論的に仁を解釈して,人類の最高規範とし,程顥(ていこう)(明道)は仁を人のうちにある〈天の元(げん)〉ととらえ,この〈元〉の生々流行を仁の本質とした。程頤(ていい)(伊川)は仁を〈理〉といい,〈公〉と説き,程頤の説をついだ朱熹(子)が〈仁は愛の理,心の徳である〉と定義づけたのは,愛を作用と見,仁を本体と見る立場に立っているからである。【安本 博】。…

【性善説】より


()︿︿ 

【性即理】より

…中国思想史上の学説。北宋の程頤(ていい)(伊川)によって提唱され,南宋の朱熹(しゆき)(子)によって発展させられたテーゼ。程伊川と同時代の張載(横渠(おうきよ))は〈心は性と情とを統括する〉と述べたが,伊川―朱子によれば,性(本性)は理であるのに対して情(感情,情欲としてあらわれる心の動き)は気であるとされる。…

【性論】より


()︿︿

【中国思想】より

…しかし宋学はこの哲学を,あくまでも政治・道徳の実践の原理たらしめようとしたのであって,禅宗が出家超俗を理想としたのとは,その立場が本質的に異なっている。この宋学は南宋の朱熹(子)によって大成された。 朱子学を構成する個々の要素は,すでに北宋の宋学で準備されたものが多く,朱子の独創と見るべきものは少ないが,これらを論理的に整合し,一つの完結した哲学体系としたのは朱子の力である。…

【張栻】より


()31()(34)20()︿50

【通鑑綱目】より


59()()()

【二程全書】より


()()()()()()

【白鹿洞書院】より


︿︿鹿

【風水説】より


西()

【文公家礼】より


()5()

【名臣言行録】より


()︿10()︿14()

【理気説】より


()() 

※「朱熹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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