デジタル大辞泉 「正平」の意味・読み・例文・類語 しょうへい〔シヤウヘイ〕【正平】 南北朝時代、南朝の後村上天皇・長慶天皇の時の年号。1346年12月8日~1370年7月24日。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「正平」の意味・読み・例文・類語 しょうへいシャウヘイ【正平】 (一)[1] 〘 名詞 〙 =しょうへいぞめ︵正平染︶ (一)[初出の実例]﹁地は薄玉子に、承平(シャウヘイ)の染紋﹂(出典‥浮世草子・好色二代男︵1684︶五) (二)[2] 南朝の後村上・長慶天皇の代の年号。︵北朝では、光明・崇光・後光厳天皇︶興国七年︵一三四六=北朝貞和二年︶一二月八日に改元、正平二五年七月二四日に建徳元年︵一三七〇=北朝応安三年︶となる。その間の北朝年号は観応、文和、延文、康安、貞治、応安。将軍足利尊氏・義詮(よしあきら)。 せい‐へい【正平】 〘 名詞 〙 ( 形動 ) 心が正しく公平であること。また、そのさま。〔新唐書‐孔戣伝〕 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本の元号がわかる事典 「正平」の解説 しょうへい【正平】 日本の元号︵年号︶。室町時代︵南北朝時代︶の1346年から1370年まで、後村上(ごむらかみ)天皇、長慶(ちょうけい)天皇の代の南朝で使用した元号。前元号は興国(こうこく)。次元号は建徳(けんとく)。1346年︵興国7︶12月8日改元。正平年間の北朝の天皇は光明(こうみょう)天皇、崇光(すこう)天皇、後光厳(ごこうごん)天皇。北朝では、貞和(じょうわ)︵1345~1350年︶、観応(かんのう)︵1350~1352年︶、文和(ぶんな)︵1352~1356年︶、延文(えんぶん)︵1356~1361年︶、康安(こうあん)︵1361~1362年︶、貞治(じょうじ)︵1362~1368年︶、応安(おうあん)︵1368~1375年︶の元号を使用した。室町幕府の将軍は足利尊氏(たかうじ)︵初代︶、足利義詮(よしあきら)︵2代︶、足利義満(よしみつ)︵3代︶。1350年︵正平5/観応1︶から1352年︵正平7/文和1︶にかけて、室町幕府は足利直義(ただよし)︵尊氏実弟︶派と、尊氏側近の重臣高師直(こうのもろなお)派に分裂して、﹁観応の擾乱(じょうらん)﹂と呼ばれる内訌(ないこう)が起こった。直義派が関東・北陸・山陰を押さえ、足利直冬(ただふゆ)︵直義の養子︶が九州で勢力を伸ばしていたことから、尊氏は1351年︵正平6/観応2︶に南朝に和議を提案、南朝方も尊氏の帰順を受諾して直義追討の綸旨を発した。これにより、北朝の崇光天皇と皇太子は廃位となり、北朝が使用していた﹁観応﹂の元号も廃されて、南朝の﹁正平﹂に統一された︵﹁正平一統﹂︶。翌年、南朝方は京と鎌倉を同時に急襲、鎌倉にあった尊氏は武蔵国に、京の義詮は近江国に逃れて﹁正平一統﹂を破棄し、元号を﹁観応﹂に戻した。その後間もなく、北朝方は京と鎌倉を奪還するが、南朝方は光厳・光明・崇光の三上皇を連れ去った。そのため、北朝方は光厳上皇の第二皇子である後光厳天皇を擁立し、直後に﹁文和﹂と改元した。 出典 講談社日本の元号がわかる事典について 情報
普及版 字通 「正平」の読み・字形・画数・意味 【正平】せいへい 心が正しく平安であること。︹管子、心術下︺そ民の生や、必ず正を以てす。之れを失ふ以のは、必ず喜樂哀怒を以てす。 字通﹁正﹂の項目を見る。 出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報