日本歴史地名大系 「波郡」の解説
波郡
つくばぐん
面積:三〇三・六六平方キロ
県南西部に位置。筑波山以南、鬼き怒ぬ川流域にかけて南北に延びる。北は真まか壁べ郡、西は真壁郡・下妻市・結城郡・水みつ海かい道どう市、南は北相馬郡・取とり手で市、東は稲いな敷しき郡・土浦市・新にい治はり郡。西縁・南縁の一部を小こか貝い川が流れ、西南端を鬼怒川が南流。北部には筑波山系の小水路を集めて南流する桜川︵筑波川︶があり、流域は水田が広がる良好な農耕地帯。西岸には小貝川東岸に迫る関東ローム層の筑波稲敷台地が南北に走り、山林・畑地を形成。台地中を蓮はす沼ぬま川・東ひが谷しや田た川・西谷田川の小水系が南流し、随所にヤトがみられ、流域は水田となっている。小貝川東岸一帯は近世の新田開発で水田化された広大な地域で、郡内最大の水稲生産地。
筑波の地名は﹁古事記﹂景行天皇段、﹁日本書紀﹂景行天皇四〇年条に
<資料は省略されています>
とみえ、﹁常陸国風土記﹂には﹁筑波の郡東は茨城の郡、南は河内の郡、西は毛野河、北は筑波岳なり﹂の記載があるが、﹁茨城の郡﹂は近世初期の郡域整理により新治郡となり、﹁毛野河﹂︵鬼怒川︶はその乱流の歴史を考えると、現在の小貝川筋が八世紀の鬼怒川と考えられ、郡の西限は下総国界であった。したがって郡の位置は古代以来大きな変動はないが、﹁河内の郡﹂は太閤検地によって西半が筑波郡とされ、さらに明治以降に河内郡・新治郡・北相馬郡との間で境界変更が行われ、郡域が拡大した。現郡域は筑波山南の桜川流域、筑波稲敷台地、小貝川・鬼怒川流域の三地区に大別される。また筑波町・大穂町・豊里町・谷田部町域に﹁筑波研究学園都市﹂の一部が新設され、多大な影響を与えている。
〔原始〕
筑波山は幾度もの変動を経て約一千万年前に出現し、やがて関東平野も現れたが、六〇万年前頃に陸地は沈下し、古東京湾が形成され、筑波山系は南北に突出た半島となった。三万五千年前の富士山大噴火で今日の関東ローム層台地が形成され、隆起・沈下と浸食によって桜川・小貝川流域や筑波稲敷台地のヤトが作られた。現在の地形の安定がみられるようになったのは二千年くらい前で、筑波山周辺でヒトの生活が開始されたのもこの時期であろうか。先土器時代の遺跡には大穂町の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報