デジタル大辞泉
「洋務運動」の意味・読み・例文・類語
ようむ‐うんどう〔ヤウム‐〕【洋務運動】
中国で、19世紀後半、清朝の漢人官僚によって推進された近代化政策。西洋軍事技術の導入、官営軍事工場の設立などによって、清朝の衰退の回復を図った。
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洋務運動 (ようむうんどう)
Yáng wù yùn dòng
19世紀後半,中国の清末に起こった西洋の科学,技術を導入して自強をはかろうとした改革運動。洋務の語はそれまで︿夷務﹀と称され,清朝と諸外国との関係・交渉の事務いっさいを指していたが,アヘン戦争以降,洋務は,魏源,林則徐,馮桂芬︵ふうけいふん︶,王韜︵おうとう︶︵1828-97︶によって唱えられるようになり,中学を体︵本体︶とし西洋を用︵作用︶とする中体西用論を旨とした欧米の文物の摂取,受容をその内容とする。そして曾国藩,李鴻章,左宗棠︵さそうとう︶などの有力督撫︵総督・巡撫︶によって推進された洋務運動は,初期には太平天国対策や辺境防備など軍事力の増強に力が入れられ,やがて教育や実業などの各方面にも及んでいった。
洋務の推進は,まず清朝政府が1861年︵咸豊11︶,北京に総理衙門︵そうりがもん︶を設立したことに始まる。翌年そこに外国語学校である同文館が付設され,アメリカ人宣教師マーティンW.Martin︵中国名は丁韙良︶が校長として招かれた。主に八旗の子弟を,後には漢人も入学させた。いっぽう地方の有力督撫の事業には以下のものがある。
︵1︶軍需工場。1865年︵同治4︶,李鴻章は上海に江南機器製造総局︵江南製造局︶を,南京に金陵機器局を設立し,銃弾,火薬,銃砲などを製造した。また68年には江南製造局が繙訳館を設立し,アメリカ人宣教師フライヤーJ.Fryer︵中国名は傅蘭雅︶やワイリーA.Wylie︵偉列亜力︶らを招き,︽汽機発軌︾︽泰西採煤図説︾ほか自然科学,技術,歴史,国際法などに関する外国書が翻訳された。
︵2︶実業。82年,李鴻章は上海機器織布局を設立した。この工場は外国綿布に代替することをねらいとし,10年間の綿布製造独占権と免税特権をもっていた。すなわち上海で販売する場合には無税,内地へ移出する場合には正税︵5%︶のみを納めればよいという特権が与えられた。94年︵光緒20︶には盛宣懐が上海華盛機器紡織総厰,張之洞が湖北紡紗局をそれぞれ設立し,紡績部門への拡大が試みられた。交通,運輸に関しては,1873年に輪船招商局が作られ,沿海,内河で英米の汽船会社との対抗が企図された。また鉄道建設も80年,唐山と胥各荘間に石炭輸送のための鉄道が敷設された。これら実業の推進に当たり,資金の調達および経営に関し,商人の参加を求めた点が注目される。すなわち洋務企業はその経営形態において,官辧,官督商辧,官商合辧などの方式が見られ,官僚資本の形成とともにしだいに民間資本の参加が増大していく。
︵3︶教育。人材養成の試みは学校設立の動きとして表れた。先に見た同文館などの外国語学校に始まり,福建の船政学堂︵1866。左宗棠︶,上海の機器学堂︵1867。曾国藩︶などの機械技術学校,北洋水師学堂︵1880。李鴻章︶,天津武備学堂︵1886。李鴻章︶などの軍官学校が設立された。これら官立学校に加え,上海格致書院︵1873︶,正蒙書院︵1878︶など,洋務に呼応した私立学校も登場した。また,外国留学については,容閎︵ようこう︶の建策により72年から14年間にわたり,合計120名の学生が送られた。77年には福建船政学堂からヨーロッパへ留学生が派遣され,馬建忠︵1845-1900。随行員,鉄道建設を主張︶,厳復などが参加している。
洋務運動を推進した有力督撫はそれぞれに海軍を創設し,海防の名の下に軍事力の強化を図った。左宗棠は福州船政局︵馬尾船厰︶に拠って南洋海軍を編成し,李鴻章は71年から94年にかけて北洋海軍の増強に努めた︵北洋軍閥︶。しかし,清仏戦争において南洋海軍が,また,日清戦争において北洋海軍が壊滅すると,従来の洋務に伴った自強・求富策は一頓挫をきたした。ただし,洋務運動がその結果としてもたらした地方督撫の実力涵養,上からの企業経営とそれによる民間資本の吸収,科学技術に関する人材養成などは次代に引きつがれることになった。
ところで洋務推進の背景をなす洋務論は,中華思想を維持しながら欧米の科学技術を導入しようとしたため,不可避的に折衷的なものにならざるをえなかった。清仏戦争の敗北により,従来の軍事改革による富国の達成が挫折すると,80年代後半には何啓︵1858-1914︶,胡礼垣による洋務論批判︵︽新政真詮︾︶,さらには政治改革︵変法︶の主張が現れた。また鄭観応など洋務運動に携わった者からも変法が唱えられた。
→戊戌︵ぼじゅつ︶変法
執筆者‥浜下 武志
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洋務運動【ようむうんどう】
中国で19世紀後半,清朝の官僚が行った富国強兵のための改革運動。太平天国との戦い,アロー戦争によって,西洋近代兵器の必要性を感じた李鴻章(りこうしょう),曾国藩,左宗棠(さそうとう)らは,官営軍需工場,外国語学校等を設立。1872年輪船招商局︵招商局︶,1874年―1878年北洋海軍,1878年開平礦務局,1890年代初めからの鉄道建設,1890年漢陽製鉄所,1891年大冶鉄山の開発へと進展した。しかし,1895年日清戦争の敗北により,単なる西洋技術の模倣にすぎず,旧体制温存の意図も暴露され挫折した。変法自強運動とか,同治中興,同光新政などと呼ばれるものは,この運動の中の出来事である。
→関連項目官営工業|盛宣懐|中体西用論
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洋務運動(ようむうんどう)
清末,1860年頃から始まった西洋軍事技術の採用を中心とする富国強兵運動。太平天国およびアロー戦争の経験によって,西洋兵器の優秀性を認めた恭親王奕訢(えききん)や曾国藩(そうこくはん),李鴻章(りこうしょう)らによって推進された。まず近代兵器自給のため,65年江南製造局(官営兵器工場)の設立,66年福州船政局(官営造船所)の設立,ついで天津,福建,雲南その他に近代的な兵器工場が設立された。72年輪船招商局(汽船会社)の設立,74~88年の北洋海軍の建設,78年開平礦務局(かいへいこうむきょく)(炭鉱)の設立,90年代初めから開始された鉄道建設,90年漢陽製鉄所の建設,91年大冶(だいや)鉄山の開発などが続き,90年代には官営,民営の機械紡織工場の建設も盛んになった。しかし洋務運動の課題であった富国強兵策は,清朝の支配体制をそのまま温存強化するのが目的であったから,たんなる西洋近代技術の輸入模倣に終始した。反体制的な思想,制度はいっさい排斥されて,真の富国強兵を達成することができず,日清戦争に至って欠陥を暴露した。
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洋務運動
ようむうんどう
中国、清(しん)末の1860年ごろから90年代まで行われた、ヨーロッパの近代技術を取り入れ、中国の自強を図ろうとした運動。太平天国の乱を鎮圧するのに力のあった曽国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)らの漢人大官僚、および恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)らの洋務派と総称されるグループが中心になって推し進めた。「自強」と「求富」がスローガンであった。最初、軍事工業部門から始まり、70年代には官督商弁(官民合営)方式がとられて民間企業部門にも広がった。85年以降、洋務派は海軍部門を握り、北洋海軍も創設した。洋務運動の結果、確かに、太平天国の乱などで動揺した清朝の支配を一時的には立ち直らせることができた。しかし根本的な解決にはならず、清仏戦争(1884~85)、日清戦争(1894~95)の敗戦を経て洋務運動の破産は決定的なものになった。
洋務運動の評価に関しては、それが中国の民族産業の発展を阻害したという説と、推進側の主観的な意図とは別に、客観的には中国における資本主義発展の基礎をつくりだしたという説に分かれ、いまなお論争中である。
[倉橋正直]
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洋務運動
ようむうんどう
1860年ごろから清朝の漢人高級官僚によって行われた富国強兵をめざす近代化
アヘン戦争やアロー戦争での敗北を通じて明らかになった清朝の衰弱を,欧米の近代文化・技術の移植によって回復しようとしたもの。近代兵器を製造することを主眼に,官営軍事工場・外国語学校の設立,海外留学生の派遣,西洋科学書の翻訳などの事業が進められた。太平天国運動の平定に活躍した曾国藩 (そうこくはん) ・李鴻章 (りこうしよう) ・左宗棠 (さそうとう) らが中心になり,同治中興 (どうちちゆうこう) の安定を実現させたが,中体西用の考えが基本にあるため,技術の導入や模倣にとどまり,制度や思想面までの改革とならず,中国自体の近代化は果たさなかった。
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世界大百科事典(旧版)内の洋務運動の言及
【清】より
…税関を管理する[総税務司](その長官はイギリス人の指定席)は総理衙門の下部機構というしくみではあったが,実際にはほとんど独立の機構同然だったから,洋務派は上には公使団,下にはお雇い外国人の双方とうまくやっていかねばならない立場にたっていたのである。 自強を看板にかかげて大々的に遂行された[洋務運動]は,まず清仏戦争で手痛い打撃を受け,ついで日清戦争(1894‐95)の敗戦で決定的に破産した。とりわけ日清敗戦の打撃は甚大で,下関条約に規定された賠償金2億3000万両︵テール︶(遼東半島還付金をふくむ)は戦前の国庫歳入のほぼ3年分に相当する巨額であった。…
【中国科学】より
…科学技術の面で業績を挙げても,それがただちに立身出世につながらないような社会が育てられていった。アヘン戦争によって中国の弱体化が暴露されるにおよんで,ヨーロッパの科学技術を導入し,それによって富国強兵を図る︿洋務運動﹀が起こった。しかしこれは十分な成功を得ることができなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」