益田時貞(読み)マスダトキサダ

デジタル大辞泉 「益田時貞」の意味・読み・例文・類語

ますだ‐ときさだ【益田時貞】

天草四郎あまくさしろう

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精選版 日本国語大辞典 「益田時貞」の意味・読み・例文・類語

ますだ‐ときさだ【益田時貞】

 

(一)西
 

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朝日日本歴史人物事典 「益田時貞」の解説

益田時貞

 
15.2.28(1638.4.12)
1?(1624)
,()西,912,西,,,,,26,,,,,,,,16,,,,, ,使,23(1616,31)14(1637)10,,,,,,50()22,3(),7,15,使,228,29,,<参考文献>  
()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞 (ますだときさだ)
生没年:1623?-38(元和9?-寛永15)

江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。一揆の首謀者である一部の庄屋や牢人たちは,彼を農民結集の核として天より下った救世主に仕立て,さまざまな奇跡を演じさせた。島原藩側では蜂起当初より15~16歳の彼を一揆の中心人物とみているが,彼の原城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれ,翌年2月27,28日の総攻撃によって全員虐殺されるまで,固い団結の象徴であった。しかしついに素顔をみせることなく,彼の首と目されるものが母親らのそれとともに長崎に送られて晒(さら)された。
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百科事典マイペディア 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞【ますだときさだ】

 
西()1637  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「益田時貞」の解説

益田時貞
ますだときさだ


1623?38.2.28

西婿37000

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「益田時貞」の解説

益田時貞 ますだ-ときさだ

天草四郎(あまくさ-しろう)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「益田時貞」の意味・わかりやすい解説

益田時貞
ますだときさだ

天草四郎

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世界大百科事典(旧版)内の益田時貞の言及

【島原の乱】より

…江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。…

※「益田時貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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