立志社(読み)リッシシャ

デジタル大辞泉 「立志社」の意味・読み・例文・類語

りっし‐しゃ【立志社】

明治7年(1874)板垣退助らを中心に高知県結成された政治結社。当初は士族救済を目的としたが、のち、民選議院設立運動など民権運動の中核的存在となった。

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精選版 日本国語大辞典 「立志社」の意味・読み・例文・類語

りっし‐しゃ【立志社】

 

(一)退
 

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改訂新版 世界大百科事典 「立志社」の意味・わかりやすい解説

立志社 (りっししゃ)


18744退︿︿7527477西西40776784西9801181125108225833

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立志社」の意味・わかりやすい解説

立志社
りっししゃ


18747416退()()83()()()西()()7778808184

 

1970

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百科事典マイペディア 「立志社」の意味・わかりやすい解説

立志社【りっししゃ】

 
1874退西西1883
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立志社」の意味・わかりやすい解説

立志社
りっししゃ

 
退1874475277698081826833  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「立志社」の解説

立志社
りっししゃ

自由民権運動の代表的地方政社。1874年(明治7)4月高知で結成。結社の動機は,民撰議院設立建白書の目標を追求し,また土佐派が東京での運動継続が困難になったため,郷里で政府批判の勢力拠点を構築することにあった。板垣退助を中心に,片岡健吉・林有造らを幹部として士族を結集,教育・士族授産・民権運動を展開した。77年西南戦争で西郷軍に呼応する動きもあったが機会を失し,片岡を代表として国会開設を要求する立志社建白を提出したが却下された。これを契機に愛国社,国会期成同盟,自由党へと発展する勢力の中心的政社として活動。自由党の創立に際し,高知で結成された海南自由党へと発展的に解消した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「立志社」の解説

立志社
りっししゃ

明治前期,自由民権運動の中心となった代表的政社(1874〜83)
征韓論で辞職した板垣退助が帰郷し,1874年4月片岡健吉・植木枝盛 (えもり) らと高知に設立。当初は士族救済の経済活動が主であったが民権思想の普及にもつとめた。愛国社設立・再興,国会期成同盟・自由党結成など自由民権運動の全国的発展に中心的役割を果たし,'82年海南自由党を組織して,翌年発展的に解消した。

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世界大百科事典(旧版)内の立志社の言及

【愛国志林】より


188038

【地方結社】より

…結社の規模も町村単位,数ヵ町村単位,郡単位,数郡単位から府県単位にいたる多様な地域規模の結社が存在した。 士族結社として著名なものに,弘前の東奥義塾(1872年キリスト教主義による学校として出発,本多庸一らが著名),盛岡の求我舎(1873年創設,東北最初の民権政社,鈴木舎定ら),宮津の天橋義塾(1875年創設,小室信介・沢辺正修らが中心,社員約400),高知の立志社(1874年創設,自由民権運動の震源地,板垣退助・片岡健吉・植木枝盛ら),熊本の相愛社(1878年創設,池松豊記・有馬源内ら,社員580余)などがあるが,これらはおおむね旧藩時代の結合を土台とし,士族の新時代への適応のための相互扶助と学習活動を目的として,ときには旧藩主の支持と支援のもとに結成され,しだいに民権や国権の拡張を唱える政治結社の色彩を強めていった。士族結社は旧藩士としての情誼(じようぎ)的地縁的な紐帯(ちゆうたい)を背景としたから,その結合は固かったが,同時に他の階層を含みにくい閉鎖性を伴った。…

※「立志社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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