デジタル大辞泉
「紅衛兵」の意味・読み・例文・類語
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こうえい‐へいコウヱイ‥【紅衛兵】
(一)〘 名詞 〙 一九六六年、中国でつくられた急進的な学生や青少年の組織。毛沢東の直接的な指導を受け、文化大革命の先頭に立って活動したが、まもなく共産党中央によって制圧され、六七年の三・七指示で学園復帰を命じられ、一部は農村へ下放された。特に初級中学以下の少年のグループは紅少兵と呼ばれた。
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紅衛兵
こうえいへい / ホンウエイピン
﹁毛沢東(もうたくとう)思想﹂の申し子として文化大革命初期の推進役となり、中国社会を震撼(しんかん)させた青少年集団。1966年8月18日、赤い教典﹃毛沢東語録﹄を手に手に北京(ペキン)の天安門広場で開かれた百万人大集会に出現した紅衛兵は、﹁四旧︵古い思想・文化・風俗・習慣︶打破﹂をスローガンに街頭進出し、熱狂的に﹁毛主席万歳!﹂を叫んで暴れ回った。﹁大字報﹂︵壁新聞︶を各所に張り巡らし、大串連(ターチョアンリエン)︵経験大交流︶と称して長征隊を全国津々浦々から北京に送ったが、やがて武闘を繰り返して文化大革命の混乱に拍車をかけたために、文革の起爆剤としての役割を終えたあとは、中国共産党中央と国務院によって制圧されていった。﹁下放﹂の名のもとに農村に送られたものも多かったが、1976年の﹁四人組﹂失脚後、大半は都市に戻り、その後の民主化運動に大きな役割を果たした。
﹇中嶋嶺雄﹈
﹃高木健夫著﹃紅衛兵﹄︵1967・合同出版社︶﹄▽﹃スタンレー・カーノウ著、風間龍・中原康二訳﹃毛沢東と中国――終りなき革命﹄︵1973・時事通信社︶﹄▽﹃唐亜明著﹃ビートルズを知らなかった紅衛兵――中国革命のなかの一家の記録﹄︵1990・岩波書店︶﹄▽﹃葛慧芬著﹃文化大革命を生きた紅衛兵世代――その人生、人間形成と社会変動との関係を探る﹄︵1999・明石書店︶﹄▽﹃黒明著、多田敏宏訳﹃紅衛兵世代は今――毛沢東に捧げた青春﹄︵1999・近代文芸社︶﹄▽﹃張承志著、小島晋治・田所竹彦訳﹃紅衛兵の時代﹄︵岩波新書︶﹄
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紅衛兵
こうえいへい
Hong-wei-bing
中国の文化大革命の推進力となった青年,学生の組織。最初は,清華大学の付属中学の学生たちによって 1966年5月につくられた。同月25日北京大学の7人の学生と教師により初めて実権派 (劉少奇派) 批判の大字報 (壁新聞) が出され,6月1日毛沢東に認められて全国にラジオ放送されて以来,たちまち全国の中学 (高校) ,大学の学生によって大字報の嵐が広まった。6月13日には大学入試延期の決定が出され,学生の﹁造反有理﹂が認められたが,その後,実権派が学校に工作組を派遣して運動の弾圧をはかった。この工作組との闘争のなかで紅衛兵が組織された。8月18日初めて全国の紅衛兵が北京に集り天安門で毛主席と接見し,20日より四旧 (旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣) 打破を叫んで街頭に進出し,文化財や書物を破壊したり暴力を行なったりして文革推進の先頭を走った。最初毛主席は彼らを支持し,11月までに前後8回 1300万人の接見を行なった。しかし,各地の紅衛兵組織が必ずしも統一されておらず対立や内部抗争の様相を見せたのみならず,政治権力闘争と絡み中央文革小組のコントロールがきかなくなったこともあり,劉少奇,鄧小平をはじめ実権派を打倒した毛沢東にとって,政治秩序の回復が次第に政治課題となった。67年2月から中央と国務院は紅衛兵の﹁全国的経験交流﹂ (大串連) の停止を呼びかけた。特に同年7月の武漢事件後,毛沢東は紅衛兵組織の指導者を呼び,みずから説得に乗出し紅衛兵運動を抑制しはじめた。以後,紅衛兵組織は存在したが,影響力を失った。
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紅衛兵 (こうえいへい)
Hóng wèi bīng
中国プロレタリア文化大革命の起爆剤となった活動的な学生グループをいう。1966年5月,北京の中学校で組織化が始まり,同年8月18日には天安門広場で百万人集会を開いて毛沢東の激励を受け,全国各地で急速に組織化されたが,まもなく内部統制がきかなくなり,毛沢東,林彪ら〈文革〉指導部からもうとまれて,67年の〈三・七指示〉で学園復帰を命じられ,〈下放〉の名のもとに地方へ追放された。
→文化大革命
執筆者:山田 敬三
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紅衛兵【こうえいへい】
1966年に本格化した中国文化大革命の一つの推進力をなした学生組織。《毛沢東語録》を片手に〈造反有理,破旧立新〉をスローガンに,北京市内をはじめ各地で運動を展開。中学生以上で組織。初め学生中の紅五類(労働者,農民,解放軍兵士,革命幹部,革命戦没兵士)の子弟のみで組織。後その資格は変化。毛沢東の支持下に各学校単位から連合組織へと統合発展。1967年にはその急進化を統制するため,学園復帰の指示が出された。
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紅衛兵
こうえいへい
毛沢東は彼らを﹁造反有理︵反逆には必ず道理がある︶﹂として支持,激烈な運動を展開した。1967年3月学園復帰を命じられ,68年12月には﹁下放﹂と称して地方の農村へ追放され,運動は終えんした。
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世界大百科事典(旧版)内の紅衛兵の言及
【中華人民共和国】より
… 文革の過程は,69年4月の中共9全大会までと,それ以後76年の毛沢東の死(9月)および︿四人組﹀の逮捕(10月)までの二つのサイクルからなる。 第1のサイクルは,紅衛兵の登場,実権派からの奪権,武闘,新しい権力機構としての革命委員会の誕生,などを特徴とする。毛沢東が,︿走資派﹀や文化領域の︿権威者﹀たちに攻撃を集中したのは,彼らこそ︿ブルジョア的諸権利﹀の体現者であると認めたからだが,︿ブルジョア的諸権利﹀についての理論的解明はなされず,運動の尖兵となった[紅衛兵]は社会的経験の乏しい高校生や大学生たちであった。…
【文化大革命】より
…しかし,[劉少奇](国家主席)ら実権派官僚の押えこみにあって,運動は燃え上がらなかった。そこで毛沢東は[林彪](国防相)と結んで人民解放軍を味方につけながら,思想問題に敏感で組織的に自由な大学や高校,中学の学生の間に︿[紅衛兵]﹀を組織し,そのエネルギーを実権派批判に向けた。
﹇第2期﹈
66年8月の中国共産党8期11中全会で,毛沢東はみずから会場に劉少奇攻撃の[大字報](︿司令部を砲撃しよう﹀)をはり出すなどし,強引に︿プロレタリア文化大革命に関する決定(16ヵ条)﹀を決定し,この中で運動の目的を,︿資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし,ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する﹀ことだと指し示した。…
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