関ヶ原の戦い(読み)セキガハラノタタカイ

デジタル大辞泉 「関ヶ原の戦い」の意味・読み・例文・類語

せきがはら‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【関ヶ原の戦い】

 
51600西60  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関ヶ原の戦い」の意味・わかりやすい解説

関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい

1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成(みつなり)を中心とする西軍によって、美濃(みの)国関ヶ原(岐阜県不破(ふわ)郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。

岡本良一

三成挙兵


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暗夜豪雨をついて関ヶ原へ


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勝敗を決めた寝返り

家康は機嫌の悪いときには爪をかむ癖があったが、この日も勝敗の帰趨(きすう)が定まらなかった午前中、しきりに爪をかんでいらいらしていた。しかし午後になって、かねて内応を約しながらも、去就を明らかにせず形勢を観望していた小早川秀秋が、家康からの厳しい催促にようやく寝返りを決し、にわかに大谷隊の側背に攻撃をしかけたのを境に、西軍はみるみる総崩れとなり、午後4時ごろ東軍の地すべり的大勝が決定した。三成は伊吹山(いぶきやま)に逃れたが潜伏中を捕らえられ、後日、小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都で斬(き)られたほか、西軍の主将として大坂城にあった毛利輝元は安芸(あき)(広島県)など9か国112万石から周防(すおう)、長門(ながと)(山口県)2か国36万石に大減封されるなど、西軍に加わった諸大名は取潰(とりつぶ)し、減封などいずれも厳しい処分を受けた。それに伴い豊臣秀頼(ひでより)も摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)(兵庫県、大阪府)で65万石の一大名に成り下がり、徳川氏の覇権が事実上確立するに至った。

[岡本良一]

『旧参謀本部編『日本の戦史 6 関ヶ原の役』(1965・徳間書店)』『桑田忠親編『日本の合戦 7』(1978・新人物往来社)』『松好貞夫著『関ヶ原役――合戦とその周辺』(1964・人物往来社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関ヶ原の戦い」の意味・わかりやすい解説

関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい

 
5 (1600) 西3 () 4調56西7915西西91 4204  

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防府市歴史用語集 「関ヶ原の戦い」の解説

関ヶ原の戦い

 1600年に石田三成[いしだみつなり]が徳川家康[とくがわいえやす]を倒すために、毛利輝元[もうりてるもと]を総大将にたてて兵を挙げたのがはじまりです。岐阜県の関ケ原[せきがはら]で戦いになりましたが、徳川方が勝利しました。

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