豊臣秀頼(読み)トヨトミヒデヨリ

デジタル大辞泉 「豊臣秀頼」の意味・読み・例文・類語

とよとみ‐ひでより【豊臣秀頼】

 
159316156()()()()60  

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精選版 日本国語大辞典 「豊臣秀頼」の意味・読み・例文・類語

とよとみ‐ひでより【豊臣秀頼】

 

(一)()祿
 

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百科事典マイペディア 「豊臣秀頼」の意味・わかりやすい解説

豊臣秀頼【とよとみひでより】

 
()()()()6016031605()
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊臣秀頼」の意味・わかりやすい解説

豊臣秀頼
とよとみひでより
(1593―1615)


()()殿()1594312()57953使()7()()()()()9615()()12979()9846()()16005西700347()()()054退14111515殿


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊臣秀頼」の意味・わかりやすい解説

豊臣秀頼
とよとみひでより

 
[]2(1593).8.3. 
[]20(1615).5.8. 
殿574 (1595) 1 (96) 1217538681019 ( )  () 殿  

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改訂新版 世界大百科事典 「豊臣秀頼」の意味・わかりやすい解説

豊臣秀頼 (とよとみひでより)
生没年:1593-1615(文禄2-元和1)


159119839836016030514殿5

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「豊臣秀頼」の解説

豊臣秀頼
とよとみひでより


1593.8.31615.5.8

(殿)()1594(3)1600(5)651114殿

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊臣秀頼」の解説

豊臣秀頼 とよとみ-ひでより

1593-1615 織豊-江戸時代前期の大名。
文禄(ぶんろく)2年8月3日生まれ。豊臣秀吉の次男。母は淀殿。文禄4年世嗣となる。関ケ原の戦いののち65万石余の一大名に転落。慶長8年内大臣となり徳川秀忠の娘千姫と結婚。10年右大臣。方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川軍とたたかうが,大坂夏の陣に敗れ,慶長20年5月8日大坂城内で母とともに自害。23歳。幼名は拾(ひろい)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「豊臣秀頼」の解説

豊臣秀頼
とよとみひでより

1593〜1615
安土桃山時代の武将
秀吉の2男。母は側室淀君。1598年秀吉の死後そのあとを継いだが,関ケ原の戦い(1600)後,蔵入地約200万石の大大名から摂津・河内・和泉の60余万石の一大名に転落。徳川家康の孫千姫と政略結婚を強いられ,方広寺鐘銘事件を契機に大坂の役('14〜15)に敗れた。大坂城の天守閣炎上の際,淀君とともに自害し,豊臣氏は滅亡。

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367日誕生日大事典 「豊臣秀頼」の解説

豊臣秀頼 (とよとみひでより)

生年月日:1593年8月3日
江戸時代前期の大名
1615年没

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世界大百科事典(旧版)内の豊臣秀頼の言及

【大坂城壁書】より

…追加の署名には上杉景勝を加えて6名とするが,この人々は後のいわゆる豊臣氏五大老に当たるから,この条目は豊臣氏五大老の署名による大名・公家・門跡統制令ということができる。そしてこの条目は,豊臣秀頼の家督継承が確定し,同年7月いわゆる五大老・五奉行並びに在京諸大名が忠誠を誓ったその翌月発布されており,秀頼による豊臣政権の基本的法令とみなすことができる。条目5ヵ条追加9ヵ条計14条のうち前者の第1条では大名間通婚の制,第2条では大名間の私的誓約の禁止を定め,そして第3条では喧嘩口論に対する措置,第4条で無実の事件を訴訟した場合の措置,第5条で乗物に対する特権付与の制を定めている。…

【大坂の陣】より

…江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。
[原因]
 1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限を手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。…

【五奉行】より

…したがって五奉行は豊臣氏諸奉行の代表として秀吉没後の政務を担当したわけであり,長束は主として財務を,前田は所司代として洛中洛外ならびに社寺に対する諸政を担当し,他の3奉行は諸大名との交渉や人質問題,一般庶政・司法を担当したといわれる。そして日常の政務については1人ないし2人,大事の政務については5人協力のもとにこれを処置し,とくに豊臣氏蔵入地(太閤蔵入地)の算用については責任を有し,豊臣秀頼が成人したときにこれを報告する責任を負うものとされ,全般について五大老の上首である徳川家康と前田利家の指揮・監督を受けるように遺命されていた。したがって五奉行は秀頼擁立体制の実務面における中枢であったといえよう。…

【鐘銘事件】より

…1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。…

【方広寺】より

…京都市東山区にある天台宗の寺院。大仏殿とも呼ぶ。豊臣秀吉の創建で1595年(文禄4)完工。6丈(約18m)木製金漆塗座像大仏が安置されたが96年(慶長1)地震のため大破し,98年秀吉の死後,秀頼は復興を命じ,1612年銅像大仏が落成。大仏は62年(寛文2)の地震で再び小破したので木像に造り替えられたが,1798年(寛政10)雷火のため大仏,本堂,楼門が焼失した。天保年間(1830‐44)に尾張国の有志が半身の像を造り,仮堂に安置したが,1973年火災で焼失,現在は鐘楼と鐘のみを残す。…

※「豊臣秀頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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