日本歴史地名大系 「関町」の解説
関町
せきまち
[現在地名]南関町関町
北東に大おお津つ山︵二五六・一メートル︶、東南部を関川が流れ、東は関せき東ひがし村、北は関せき外ほか目め村、南は関村と接する。豊前街道沿いに開けた在町。元禄国絵図などに﹁関村之内関町﹂とあり、関村からの分村。大おお津つや山ま関の南に位置するために称された﹁南関﹂の地は、各村分立以前の関村域をさしたが、当町の成立以後は当地の呼称に変わっていった︵西遊日記など︶。近世は南関手永に属する。
在町としての成立は﹁南関紀聞﹂によると、慶長六年︵一六〇一︶に
嶽山麓の五五軒を移し南関町を建てたという。寛永一六年︵一六三九︶の玉名郡田畠高帳に﹁二斗八升八合 関町 御番所﹂とあり、同年には在町としてあった。﹁国誌﹂には﹁高七百八十七石余、瓦屋敷ト云小村アリ﹂﹁上町中町田町横町等ノ町筋アリ、上町構口ヨリ田町橋際マテ五町五十七間竈数百四十八﹂とあり、小村の瓦かわ屋らや敷しきは文禄・慶長の役の際に連れてこられた瓦師が居住した所という。
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関町
せきちよう
- 三重県:鈴鹿郡
- 関町
面積:八〇・五九平方キロ
鈴鹿山脈の最南部に位置し、東は亀山市、南は安あ芸げ郡芸げい濃のう町・阿山郡大おお山やま田だ村、西は同郡伊い賀が町に接し、北は鈴鹿山脈を隔てて滋賀県甲賀郡甲賀町・土つち山やま町に接する。鈴鹿川の上流域および支流の小お野の川流域にある鈴鹿郡に残る唯一の町。古代駅制の鈴鹿駅、日本三関の一つ鈴鹿関が設置されるなど、古くから畿内と東国を結ぶ交通の要衝として発達した。近世に入って東海道が整備されると、関宿・坂さか下のした宿はともに五十三次の宿場町として繁栄をみた。明治二三年︵一八九〇︶関西鉄道︵現国鉄関西本線︶が開通すると、宿場町としての機能は急速に衰微し、代わって製糸業がおもな産業となったが、昭和初期の不況以来往年の活況はない。
関町
せきまち
[現在地名]高岡市関町・関本町 ・関大町 ・上関町 ・寺町
蓮れん光こう寺じも門んぜ前んの南東に続き、南東は神かん主ぬし町。南は佐さ野の村。高岡町の南端に近く、寺町の様相を呈した。本町で、町名は当地一帯の台地が関野と称されていたことにちなむという︵富山県教育界雑誌︶。時割は二時二歩二厘で︵不歩記︶、明治六年︵一八七三︶の坪数五千五九〇坪二合︵沽券調総計帳︶。天明五年︵一七八五︶の家数四一︵家数書上帳︶、明治五年の家数七八︵高岡史料︶。文化六年︵一八〇九︶京田屋与三次郎が孝子として、同一三年には桶屋宗右衛門の妻つると倅仁十郎が、節婦・孝子として表彰された︵高岡市史︶。分限者に荒屋新左衛門がおり︵天保九年分限帳︶、文久元年︵一八六一︶の町頭は梶屋和助・水上屋吉兵衛︵町頭等交名帳︶。
関町
せきまち
関町
せきまち
関町
せきまち
[現在地名]加賀市大聖寺関町
大聖寺南西隅、越えち前ぜん町の西に続く両側町で、西端に北陸街道の大聖寺関があった。延宝元年︵一六七三︶以前の大正持絵図︵金沢市立図書館蔵︶では街道北側に町家があり、南側は林野である。天明六年︵一七八六︶の大聖寺絵図では両側とも足軽・徒士らの住居となり、関所は道の北側にあってその向いに女番所と家老生駒氏の下屋敷があった。また越前町境に木戸が設けられていた。大聖寺関は慶長一五年︵一六一〇︶頃にはすでに設置されていたといい︵三壺記︶、寛永一六年︵一六三九︶大聖寺藩創立により関番足軽一〇人余が配備されたが、越中境さかい関︵現富山県朝日町︶とともに加賀藩の南北の要関で、有事の際には加賀藩が士卒を派遣したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報