千鳥ヶ淵 2014-04-02
*
Ⅱ 起源への旅
1 九段と染井
明治三年のソメイヨシノ
﹁幕末から明治初めのある時期、ソメイヨシノは染井を出て、やがて日本列島各地へ、さらには東アジアへと拡がっていく。薄明りのなかのその姿はとりわけおぼろげだが、それでもいくつか印象的な痕跡をこの桜は残している。
例えば東京都千代田区九段、靖国神社。ここにもその一つを見ることができる。﹂
靖国神社のソメイヨシノの由来‥明治3年に木戸孝允が植えたという
﹁参道の傍らには﹁東京に春を告げる﹁靖国の桜﹂﹂という掲示板が、桜色に縁取られて立っている。そこには﹁東京における染井吉野の開化基準木が、靖国神社の境内に三本あります﹂という紹介と﹁境内の桜は一〇〇〇本を数え、染井吉野約六〇〇本、山桜約三五〇本が中心で……﹂という解説にはさまれて、その由来が書かれている。
靖国神社と桜の縁は古く、明治三年維新の元勲木戸孝允公によって神苑内に染井吉野が植えられたのがはじめです。
これが正しいとすれば、最も古いソメイヨシノの記録の一つである。染井を出たソメイヨシノが残した最初の足跡。
靖国神社は明治二年、戊辰戦争の官軍側戦没者の霊を祀るために建てられた。その当時は﹁東京招魂社﹂とよばれていた。・・・現存最古のソメイヨシノは弘前公園にある。靖国神社の境内には明治三年に植えられた樹はないが、記録としては断然旧い。﹂
今も﹁ナショナリティ﹂﹁同一性﹂磁場の真っ只中にある靖国神社の桜
﹁明治以降の桜語りには必ずでてくる主題がある。ナショナリティとの関連だ。近代的な諸制度の導入とともに、桜も﹁国花﹂、つまり日本を象徴する花にされていく。ここでいう﹁ナショナリティ﹂は政治的なものにかぎらない。日本という同一性を強く感じさせる何かであればよい。
靖国の桜は今も日本の空間的な原点として語られる。境内のソメイヨシノが花を開けば、﹁東京の桜が咲いた﹂というニュースが全国に流れ、春本番の到来を告げる。・・・年度替わりの風物詩には、ナショナリズムに反発する人もつい桜を思いうかべる。
﹁ナショナリティ﹂とか﹁同一性﹂とは、根源的にはそういうものなのだろう。何かを区切ろうとする働き自体がうみだす磁場、といえばいいだろうか。靖国神社の桜は今もその磁場のまっただ中に立っている。﹂
ソメイヨシノの時空と日本近代の時空はここでも不思議な交錯を見せる
﹁春とともに咲く桜という樹があり、その多くをソメイヨシノという単一の品種が占める。土地によって早い遅いはあるが、ほとんどの人がはば﹁同じ春﹂の景色を経験する。だからこそ、開花宣言という形で春をことさらに共有する習慣が自然に受け入れられる。
そのソメイヨシノが最初に姿を現すのが靖国神社だとすれば、靖国のソメイヨシノは日本近代の空間的な原点であるだけでなく、時間的な原点でもあることになる。靖国神社の境内から日本全国へと、それこそクローンのように、同じソメイヨシノの景観が複製されていった。それは一つの国家、一つの軍隊、一つの学校システムをつくりあげた明治の日本に最もふさわしい光景かもしれない。
﹁明治三年のソメイヨシノ﹂ - ソメイヨシノの時空と日本近代の時空はここでも不思議な交錯を見せる。﹂"
一つの年代
靖国の桜‥田山花袋の証言﹁桜の木も栽えたばかりで小さく、・・・﹂
﹁実は靖国神社の桜には全く別の証言がある。田山花袋が﹃東京の三十年﹄でこんなことを書いているのだ。
……春の祭祀の時は、兄はいつも一日役所を休んで、そして袴をつけてそこにお詣りに行った。
その頃は境内はまだ淋しかった。桜の木も栽えたばかりで小さく、大村の銅像がぽっつり立っているばかりで、大きい鉄の華表︵とりい︶もいやに図抜けて不調和に見えた。
﹁大村﹂というのは日本陸軍の建設者、大村益次郎である。東京招魂杜の創建をとりしきった人物でもある。大村の銅像は明治二六年︵一八九三︶に建てられた。したがって、﹁桜の木も裁えたばかり﹂は明治二十年代後半にあたる。花袋の父親は西南戦争で亡くなり、靖国神社に祀られていた。・・・
ソメイヨシノは成長が速い。ほぼ十年でそれなりに花をつけ、二十年で花盛りをむかえる。明治三年に植えられたのなら、ごく幼い苗木だったとしても、明治二六年頃にはまさに花盛り。爛漫と咲いているはずである。﹂
靖国の桜‥山田孝雄の証言﹁明治十二三年頃より植付らるるという﹂︵室田老樹斎の調査︶
﹁桜の年代に関しては、さらにもう一つ重要な証言がある。山田孝雄﹃櫻史﹄に﹁靖国神社の境内また桜の一名勝地たるが、これは明治十二年頃より植え付けたるものといい……︵室田老樹斎の調査︶﹂とある。﹃櫻史﹄は桜の人文学の名著として今もこえるものがないが、引用されている室田の調査というのが、またすさまじい。﹂
﹁これは十年かけて東京各地の桜を一本一本︵!︶数えてランキングしたもので、﹁震災後に於ける東京府内の桜﹂︵﹃櫻﹄七号︶にまとめられている。そのなかで﹁第十三 靖国神社境内 五百五十本﹂の後に、﹁明治十二三年頃より植付らるるという﹂と付記されている。伝聞形なので、何かの記録で確認したわけではなさそうだが、室田は桜の古樹の年代鑑定が得意で、﹁老樹斎﹂と名乗ったはどの人である。年代の記載には何らかの根拠があったのだろう。
桜は建造物とちがい、一度つくったら数十年間そのままというわけではない。植え替えや植え増しはつねにある。だから植えた時期にある程度幅ができるのはしかたないが、明治三年、明治一二年、明治二六年と、二十年ものずれは大きい。・・・﹂
創建当時の境内
﹁花壇﹂﹁梅園﹂﹁本社其外﹂は﹁漸々年ヲ経候ヲ取打候﹂
﹁・・・神社側で編まれた﹃靖國神社誌﹄︵明治四四年︶をみると、﹁神苑﹂の項に﹁明治二年本社創建の設計書によるに、梅林、松林、桜林等あり。また花壇あり﹂とある。当初から、境内に桜の林をつくる計画になっていた。
﹃神社誌﹄に収められた﹁明治二年六月十三日軍務官ヨリ行政官へ差出書﹂には、予定物を四つに分類し、神社をまず建て、﹁花壇﹂﹁梅園﹂﹁本社其外︵そのほか︶﹂は﹁漸々年ヲ経候ヲ取打候﹂、つまり数年かけてだんだん整備していくとある。実際、社殿は当初、わずか一週間でつくられた板葺きの仮宮だった。本格的な社殿は明治五年、鳥居は翌六年にできる。桜も少しずつ植えられていったのだろう。﹃ファー・イースト﹄の写真でも仮宮の周囲は閑散としている。
文書にあげられた順番も興味ぶかい。梅と松と桜と花壇のうち、﹁差出書﹂に特記されているのは花壇と梅園の二つ。松と桜は﹁其外﹂だったとすれば、花壇と梅が主な植栽だったと考えられる。・・・少なくとも桜が中心だったとはいいがたい。﹂
招魂社の境内は、ちょうど西欧的な公園と江戸の盛り場をあわせたような空間だった
﹁・・・招魂社時代の境内は現在の靖国神社のイメージとはかなりことなる。坪内祐三の﹃靖国﹄を読むと、その当時の姿がよくわかる。例えば、大鳥居と拝門の間には現在も長方形の広い敷地があり、花見のときにはわいわいと浮かれ騒ぐ場所になっている。ここはもとは競馬場であった。明治四年から三一年まで例大祭には競馬が催され、相撲や花火とともに祭りを彩る一大﹁余興﹂になっていた。当時の新聞や本にも﹁競馬、相撲、花火﹂の組み合わせでよく出てくる。
招魂社の境内は、ちょうど西欧的な公園と江戸の盛り場をあわせたような空間だったのである。・・・﹂
田山花袋はここを﹁九段の公園﹂とよんでいる
﹁田山花袋はここを﹁九段の公園﹂とよんでいるが、まさにそんな感じで、明治になって公園化された上野を思わせるところが多い。上野とちがうのは、むしろ桜が最初から目立っていたわけではないことだ。﹂
明治7年服部誠一の﹃東京新繁昌記 初編﹄では・・・
﹁明治七年︵一八七四︶に出た服部誠一の﹃東京新繁昌記 初編﹄はこう書いている。
阪の両側花木数百株を栽え、錦繍馥郁︵ふくいく︶……その間また石燈籠十筒並べ……阪頂に到ればすなわち平面広闊︵こうかつ︶、もって群霊を招くべし。︵原文は漢文︶
﹃東京新繁昌記﹄は東京ガイドブックの走りにあたる本で、当時としてはかなりのベストセラーになった。・・・坂の頂は広い開放空間で多くの霊が招かれる。花木と招霊はちがった空間にわりふられ、桜が特別な位置を占めているわけでもない。﹂
明治10年岡部啓五郎﹃東京名勝図会﹄では・・・
﹁岡部啓五郎﹃東京名勝図会﹄︵明治一〇年︶になると、もう少し桜が鮮明になる。
社前は平面広闊にして、数十の玻瓈灯︵ランプ︶、一条︵すじ︶の賽神路︵さんけいみち︶を夾︵はさ︶み、同所両側は競馬場にて、数十株︵しゆ︶の桜花︵さくら︶を栽えたり。この地は最高の丘にて、一目都下を望むべし。……坂の左右、また数十株の桜花を植え、無比の勝地となれり。
坂の上/坂の途中という空間構成は同じだが、どちらにも桜が登場してくる。本数はともに数十本単位だ。﹁平面広闊﹂﹁ランプ﹂﹁競馬﹂という事物は﹃東京新繁昌記﹄と共通しており、最新︵モダン︶な西欧風空間とされていたのがわかる。﹂
﹁﹃東京名勝図会﹄には九段坂上の挿絵もある。﹁﹁雨堤の桜花﹂という題で﹁忠烈の祠前玉色繁︵しげ︶し 紅酣︵こうかん︶白戦軍屯に似たり たとい春風の吹き散じ去るも かえってまさに英傑芳魂︵ほうこん︶に比すべし﹂という漢詩がついている。坂の桜と死者の魂が重ねられているが、﹁吹き散じ去る﹂と﹁英傑芳魂﹂は逆接で結ばれており、いさざよく散る桜というイメージではない。
明治五~六年の錦絵、三代目安藤広重の﹃富士見町招魂社燈籠﹄︵﹃東京名所錦絵展 錦絵に見る靖國紳杜のあけぼの﹄図録に収載︶にも鳥居の向こう、現在の内苑に桜並木が描かれている。図録に﹁最も古い社頭図かと思われる﹂とあるように、ある程度信頼できる図像としては、これが最古のものだろう。﹃武江年表﹄続編の記車とも一致する。﹂
ソメイヨシノ説の典拠
中島茂子の回想‥靖国の桜は少しずつふえていったようだ
﹁・・・第二次大戦中に出版された大村益次郎の伝記﹃大村益次郎﹄︵昭和一九年︶・・・。この本は﹁靖国神社と桜樹﹂という章を設けて、中島佐衛︵元長州藩海軍局総管・中島四郎︶の夫人茂子の話を載せている。
今の靖国神社の境内にある桜樹のことであります。その桜樹は木戸孝允公が、染井‥・から、移し植えさせられたのが、最初と思います。染井には昔から公の御別荘を始め、その附近にも大小多くの桜樹がありまして、年々にその苗木を靖国神社の境内へ植えさせられた時には、私にも手伝を御命じになったことを、今によく記憶しています。その後には追々と他からも桜樹を植えまして、遂に今日の如く境内は桜林となりましたが、公の染井から栽えさせられたのが、初めと存じます。
この話からみても、やはり桜は少しずつふえていったようだ。﹂
昭和2年﹃松菊木戸公伝﹄では・・・‥﹁東京靖国神社の境内に染井別墅の桜樹を移植せる﹂
﹁・・・昭和二年︵一九二七︶に出た木戸孝允の正伝﹃松菊木戸公伝﹄・・・。このなかに﹁東京靖国神社の境内に染井別墅︵べつしよ︶の桜樹を移植せる﹂と書かれている。﹃大村益次郎﹄には、境内の桜をめぐってさまざまな伝承が流れているとあるが、木戸家周辺では、木戸が植えたことは公知の事実だったらしい。
﹁明治三年に木戸孝允がソメイヨシノを植えた﹂という話はここから来たのだろうが、﹁染井﹂だけでソメイヨシノだと断定することはできない。当時の染井は一大園芸産地で、さまざまな種頬の桜を売っていた。例えば、福島の開成山公園の桜は明治一二年に染井の﹁幸吉﹂から苗を購入したものだが、エドヒガンやヤマザクラのほか、いろいろな園芸品種もあった。・・・﹂
木戸が染井に別荘を購入した明治2年時点ではそこにソメイヨシノはなかった
﹁となると、焦点になるのは木戸の別荘にソメイヨシノがあったかどうかである。例えば﹃木戸日記﹄明治四年二月二二日︵旧暦︶には﹁染井に至る。満庭の満庭の桜花七八分綻︵ほころ︶び風光尤佳﹂とある。桜はかなりあったようだが、当初そのなかにソメイヨシノはなかったと考えられる。
小澤圭次郎の﹃明治庭園記﹄︵大正四年、﹃明治園藝史﹄収載︶にこんな証言が残っているのだ
。明治三二年、孝允の後を継いだ木戸侯爵が染井別荘に日本園芸学会の会員を招いた。その際、﹁孝允は、文人風を愛好せしに因り、今の紫薇︵しび︶、木蓮、吉野桜等は、後に栽培せし所なり﹂︵原文○印を傍点に変更︶と解説した、とある。﹁後に﹂がいつなのかはっきりしないが、少なくとも別荘を購入した明治二年当時、そこに吉野桜すなわちソメイヨシノはなかった。
﹃木戸公伝﹄のいうように、染井別荘から桜を移したのであれば、別荘にソメイヨシノはなかったのだから、木戸が植えた桜もソメイヨシノではない。他方、小島茂子の証言では別荘の﹁附近﹂とあるから、ソメイヨシノがふくまれる可能性はあるが、彼女は﹁ソメイヨシノ﹂や﹁吉野桜﹂といっているわけではない。﹂
﹁明治三年に木戸孝允がソメイヨシノを植えた﹂とするのは無理がある。木戸が植えたのは別の桜だった。
﹁明治三年に木戸が桜を植えたというのならありうるし、後で染井からソメイヨンノを移したことも考えられる。例えば﹃木戸日記﹄明治七年二月六日には﹁門前に桜樹十余を植えり﹂、翌三月一日に﹁平岡中島と染井に至る、庭中を遊観し……また二氏と桜樹の売物を一見のため巣鴨の在に至る﹂とある。この桜がソメイヨシノだった可能性もある。
けれども、二つの証言から考えるかぎり、﹁明治三年に木戸孝允がソメイヨシノを植えた﹂とするのは無理がある。これもソメイヨシノ伝承の一つとみた方がよさそうだ。木戸が最初に植えたのは別の桜だったのだろう。ソメイヨシノらしき桜の記録としては、二代目侯爵の解説や﹃日記﹄の記事は明治零年代にさかのぼる貴重なものだが、招魂社創建とは直接関係がないようだ。
先の﹁雨堤の桜花﹂にも﹁紅酣白戦﹂とあり、全体の景観でも紅色と白色の花が交じって咲いていたらしい。これも現在の姿とは大きくちがう。﹂
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿