第3章 山岳会の設立と登山の普及


2調


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日本山岳名著全集. 第1
小島烏水(1873-1948)

日本アルプス. 巻ノ3
 

7) 小島烏水『アルピニストの手記』書物展望社, 昭和11【712-60】

アルピニストの手記




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8) 「山岳会設立の主旨書」『山岳』1年1号,明治39【Z11-375】

山岳

山岳

山岳

日本山岳会の機関誌『山岳』の創刊号に掲載された宣言文です。会員勧誘のため、新聞社や出版社等にも別刷が配布されました。『日本風景論』と同様に山岳の美しさ、国土や文化との密接な結びつきを説き、もって登山の意義を明らかにし、登山者に連帯の呼びかけをしています。美文調の文体も『日本風景論』に似ていますが、これは烏水の初期の文章の特徴でもあります。日本山岳会を象徴する文章で、平成19(2007)年発行の『日本山岳会百年史』【FS4-H107】の冒頭にも現代的な表現に改めたものと共に掲げられています。



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ハイカー
武田久吉(1883-1972)

山旅の素描
茨木猪之吉画

山岳
高頭式(1877-1957)

山旅の素描
茨木猪之吉画

9) 高頭式編『日本山岳志』博文館,明治39【23-254】

日本山岳志


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山岳会は順調に発展し、ウェストンや志賀が名誉会員に推されています。なお、初期の会員には、島崎藤村、田山花袋、島木赤彦、柳田国男、小山内薫、伊良子清白といった文人や、高島北海、大下藤次郎、丸山晩霞、茨木猪之吉といった画家の名前が連なりました。これは烏水の人脈によるものですが、同時に、登山の文学や芸術に対する親和性を物語ってもいるようです。各地に独自の山岳会も設立され、登山の気運が高まりました。

文学・芸術に描かれた登山

明治時代にも山を好んだ文化人は数多く、江戸時代の文人墨客を思わせるような文豪や、登山家顔負けの本格的な登山をした歌人、山を愛し山中に消えた山岳画家等、個性豊かな人々がいました。ここでは、山に魅せられた文化人とその作品を紹介します。

夏目漱石(1867-1916)

夏目漱石全集. 別冊 (漱石遺墨集)


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10) 夏目漱石「二百十日」(所収:『鶉籠』春陽堂, 明治40【26-375】

二百十日

初出は明治39(1906)年10月『中央公論』【Z23-9】で、その直後に小説集『鶉籠(うずらかご)』に収められて刊行されました。「坊っちゃん」と「草枕」も併せて収録されており、いわゆるベストセラーになっています。「二百十日」とは、立春から数えて210日目を意味し、9月1日前後に当たります。暦の上で台風が到来しがちとされており、漱石が阿蘇で嵐に巻き込まれたのもこの日でした。登場人物は「圭さん」と「碌(ろく)さん」という若者で、道中二人で落語のように軽妙な会話を繰り広げながら、噴火口を目指して阿蘇山を登っていくという筋書きです。飄逸で楽天的な趣ですが、ところどころに近代化とは何かという漱石固有のテーマも見え隠れします。


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芥川龍之介(1892-1927)

芥川竜之介作品集. 第1巻
芥川龍之介


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梅・馬・鶯
「槍ヶ嶽紀行」

高村光太郎(1883-1956)、窪田空穂(1877-1967)


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大町桂月(1869-1925)

催眠術
大町桂月

歌人や随筆家として知られる大町桂月は、明治38(1905)年、博文館で雑誌の編集をしていた時に、烏水から受け取った原稿でウェストンの存在を知りました。烏水への返信に、自分もウェストンのように槍ヶ岳や赤石岳や白峰(北岳)にぜひ登ってみたいという心情を書き綴っています。

11) 大町桂月『関東の山水』博文館, 明治42【17-449】

関東の山水



桂月は全国を行脚して500編以上とも言われる紀行文を残し、明治後半から大正期に沸き起こった「山水ブーム」の立役者の一人となります。桂月の他にも多くの文人が「山水」をテーマとするさまざまな紀行文集を書き、愛読した人々の旅心を刺激しました。

枕頭山水
露伴『枕頭山水』

福来友吉
大橋乙羽『千山万水』

福来友吉
烏水『日本山水論』

福来友吉
花袋『山水処々』

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)(1873-1937)

日本現代文学全集. 第25 (高浜虚子,河東碧梧桐集)
河東碧梧桐


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日本の山水. 山岳編
河東碧梧桐『日本の山水』

大下藤次郎(1870-1911)


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学校における登山


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山岳
島木赤彦「女子霧ヶ峰登山記」

山岳
島木赤彦「女子霧ヶ峰登山記」

山岳
島木赤彦「女子霧ヶ峰登山記」

山岳
島木赤彦「女子霧ヶ峰登山記」

12) 上伊那郡教育会「信州駒ケ嶽遭難始末」(『山岳』8年3号、大正2【Z11-375】p.518-538)

山岳

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山岳

山岳

山岳

山岳

山岳

長野県中箕輪尋常高等小学校(現箕輪町立箕輪中部小学校・箕輪中学校)の教師と生徒あわせて11人が犠牲となった遭難事故の報告書です。登山の目的、日程、行程、服装、食料、携帯品、注意事項等、当時の学校登山計画の具体的な内容も窺えます。事故の原因は、宿泊予定だった山小屋の損壊と天候の悪化でした。当初は学校の不手際として激しく非難されましたが、同校では例年登山のため周到な準備をしていたこともあって、「之れがために登山の気風を減じてはならぬ」 (『長野新聞』大正2(1913)年9月2日)と、学校登山の理念そのものを否定されることはなかったようです。
翌年には遭難記念碑が立てられ、以後、登山道や避難用の石室が整備されることになりました。同校では十三回忌に当たる大正14(1925)年に駒ヶ岳登山が再開され、今日に至るまで続けられているとのことです。


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尚志会全史
第二高等学校の山岳部史

おわりに

日本山岳会が設立されてから10年後の大正4(1915)年、登山家の間ですでに有名人になっていたウェストンが3度目の(そして最後の)日本滞在を終えて帰国しました。また、烏水が11年半に及ぶ海外勤務となって日本山岳会の活動の中心から離れたのもこの年でした。他方では、同年発足した慶應義塾大学の山岳部を皮切りに、各大学の山岳部が次々に設立され、新たな登山の担い手となりました。以降の世代では、アルプスやヒマラヤといった海外の高峰に挑んで技術や体力の限界を極めようとする人々や、山奥に静かに分け入って精神的な充足を求める人々等、登山の楽しみ方が多様化していきます。
近年では、レジャー意識の高まり、ロープウェーや山小屋等の環境の整備、低価格で品質のよい登山用具の普及等によって、山はいっそう身近なものになりました。老若男女を問わず誰でも気軽に登山を楽しめるようになった一方、さまざまなメディアでリスク意識やマナー向上の必要性が訴えられてもいます。そうした山の話題を耳にするなかで、私たちが山に親しむ端緒を開いた明治の人々に思いを巡らせていただけたら幸いです。

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付録 山と食事



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