﹃産経新聞﹄が連載﹁歴史戦﹂の第9部で﹁兵士たちの証言﹂を引き合いに出して南京大虐殺否定論を展開しています。2月15日の第1弾では熊本第6師団の下士官として南京攻略戦に従軍した人物が登場しています。
しかし記事中にもあるように、第6師団はなにぶん師団長が戦犯裁判で死刑になっているため身内をかばう意識が強く、この師団の関係者の﹁見なかった﹂﹁なかった﹂証言は一番あてになりません。偕行社の﹃南京戦史資料集﹄にも第6師団だけ﹁不法殺害を思わせる手記、日記の類い﹂が載っていない。これについて秦郁彦氏は﹁連隊会は第六師団を担当した編集委員の努力に感謝したという話が伝わっている﹂としています︵﹃南京事件 増補版﹄、290-291ページ︶。
1984年に﹃朝日新聞﹄が第6師団歩兵第23連隊︵都城︶の兵士の日記に南京戦での虐殺が記されているのを報じた際には、連隊会が“犯人探し”をした、という実績もあります。日記には﹁近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり﹂﹁今日もまた罪のないニーヤを突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする﹂など、﹁無抵抗の民間人﹂を殺害したことが記されていました。
この日記について秦氏は﹁都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する元兵士︵中略︶もいるし、確実と考えてよいと思う﹂、としています︵﹃昭和史の謎を追う﹄、文春文庫、上巻196ページ︶。
もちろん、だからといって個々の﹁見なかった﹂証言が虚偽とも限りません。﹁筆者は東京・目黒区の一角に住んでいるが、朝刊を開いて、前夜、近所で火事や犯罪が起きているのを知り、びっくりすることが多い。新聞がなければ、聞かれても﹁知らない﹂﹁見ていない﹂と答える事例がほとんどであろう。その種の証言を苦労して山ほど積みあげても、火事の確実な目撃者が二人現れたら、シロの主張は潰れてしまうに決まっている。﹂というのはまたしても秦郁彦氏︵﹃昭和史の謎を追う﹄上巻183-184ページ︶。 一人の人間が直接経験できるのは歴史的な出来事の断片にすぎませんから、たまたま虐殺の痕跡など無いところしか通らなかった人間がいたとしても不思議はないのです。
なお、南京占領後に第11軍司令官として第6師団を指揮下においていた岡村寧次が﹁第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様﹂と回想しているのは有名な話です。また戦後に戦犯として処刑されることになる谷寿夫から37年末に師団長を引き継いだ稲葉四郎の言葉として、岡村は﹁わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する﹂ともしています。
2月16日の第2弾では海軍第2連合航空隊第12航空隊に所属していた下士官が登場していますが、当時第2連合航空隊第13航空隊に所属していた奥宮正武氏︵海軍大本営参謀、戦後は航空自衛隊で空将︶は著書﹃私の見た南京事件﹄︵PHP研究所︶で全く異なる証言をしています。彼は占領後の南京で撃墜された自軍パイロットの遺体収容のための捜索活動をしていますが、その間2日にわたって約500人の中国人が殺害されるところを目撃しています。殺害を担当していた部隊にどうやって多くの中国人がおとなしく連行されてきたのかを尋ねたところ、食事を与えるという嘘をついて連れてきた、という趣旨の返答を得ています。
最も大規模な集団殺害は南京占領直後に集中していますが、占領から1週間たっても2日で500人の集団殺害を1人の人間が目撃できたわけですから、全体の規模を推し量る材料の一つになるでしょう。