2012年3月27日火曜日

ポーランド旅行 17 ビルケナウ強制収容所

アウシュヴィッツ収容所では収容しきれなくなったため、第二収容所として大規模に増設された

ビルケナウ強制収容所に向かうため駐車場から、いつものバスに乗りました。



「死への鉄路」がアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウへと続いています。


ビルケナウ強制収容所は、アウシュビッツ強制収容所の西約3kmのところ、
ブジェジンカ村(Brzezinka)にあります。




いきなりですが死の門に上ってます。

さすがに私も精神的に来ていて、写真を撮る枚数がビルケナウでは極端に減っています。









死の門の2階、中央衛兵所の窓から線路とバラック群を見下ろします。

広いです。


300棟以上のバラックはほとんど破壊され、今残されているのは、45棟のレンガ造りと22棟の木造だけです。


鉄道引き込み線・降車場(ランペ)

上はGoogle マップで見たビルケナウ収容所です。



総面積は1.75平方キロメートル 東京ドーム約37個分だそうです。

ピーク時の1944年には90,000人が収容され、そのほとんどはユダヤ人です。






収容所の内部から見た死の門です。

そしてここが貨物列車の終着駅、死へのターミナルだった場所です。



監視塔











アウシュヴィッツより少ないですが、ここにもパネルが展示されています。


軍医の「選別」を受けている所です。 

分け方は 


労働用、検体(人体実験用)、価値なしの三つです。



ほぼ7割以上の人々が、「価値なし」と 選別され、列車から直接ガス室に送り込まれました。




建物「29号棟」にアンネ・フランクも一時期収容されていました。





子供の収容棟(16号棟)

この被収容者の中にいた画家に描かせたものだそうです。


1棟あたり700人~1000人の収容者が入り、一つのセルに5人以上が寝かされたそうです。



ナチスの報告書より、労働者は3カ月程度で 

過労死させるのが最も効率が良いと考えられていました。 





トイレの時間が決まっていて、朝と夕方の2回だけ、しかも集団でです。


あとで、45歳のマダムに、私が
「決められた時間にしかトイレにいけないなんて考えられない。」
と話すと


さすが年上のお姉様、


一言おっしゃいました。



「食べ物をほとんど食べてないから・・。」



ハッっと気がつかされました。


たとえとして正しいかどうかあれですが、マリーアントワネットが
「パンがなければブリオッシュを食べればいいのに。」発言も、高貴な生まれの王妃には
「食べ物がない」という状況を想像できなかったからで、

私も今の自分の満たされたお腹状況からでしか、判断できなかったということで、
相手の状態にたって物事を考え、それに気づくというのは難しく、

でもそれこそがこの悲劇を繰り返さないことで一番大事なことなんだと気づかされました。







世界中から年間100万人以上の人がアウシュヴィッツを訪問しています。

ドイツの子供たちは必ず社会化見学で訪れると中谷さんは言いました。


2009年の年間入場者は130万人と過去最高を記録したそうですが、
そのうちアジアからの年間訪問者数は日本8200人,韓国3万5000人です。

この人数の違いは何なのでしょうか、理由は直行便があるとかだけではないはずです。



現在では死の門の列車入り口は金網で閉じられているので、再び列車が入り込むことはないです。


DVD






































































































2012年3月24日土曜日

パントマイム舞☆夢☆踏

ポーランド旅行記の途中ですが、昨日ライブに行って来たのでブログにします。

もう3年ぐらい前になりますが、チェコのプラハに行ってみたいと思い検索していたら

まりんさんのブログを発見し、すごい憧れて泊まる場所を民宿桐渕に決めたのですが、







まりんさんが所属しているマイム集団パントマイム(まい)()とう)

の20回目の公演があるとの事で早稲田の学生会館向かいました。


私はこれがパントマイム初体験です。




会場向かいではダンスを練習している方々が大勢いました。

舞台真正面の席に座ってしまったので、役者さんと目が合ってしまい気恥ずかしかったです。


パントマイム初見での私の感想は

スピード感が凄まじく、躍動的過ぎました。

言葉以外のカラダ全体、指先から全てを使っての表現に圧巻です。


自己紹介の仕方など非常に面白くて

新しい世界を魅せていただけました。

みなさんスタイルがよくて、おなか出てなくて羨ましいです。

こんなこと書きたくないですが、私ももっと若いころに見ていたら、触発されてパントマイム始めていたと思います。






まりんさんのにわとりがとても可愛いかったです。







あと余談ですが、

石川友梨さんがまりんさんに似てるなと


大沼由加理さんは将来、火サスなどで思い募らせ
思わず人をあやめてしまう犯人役が似合う人だと勝手に想像しました。


2012年3月20日火曜日

ポーランド旅行 16 アウシュヴィッツ強制収容所:ostatni





























































    



































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使 使












































































































































































なのでちゃんと学術的に正しく学びたいという方は、東海大学教授の鳥飼行博さんのホームページがデーター量も高く、日本語でホロコーストを詳しく解説していてためになると思います。

強制収容された人々の写真ですが、ほとんどポーランド人でユダヤ人は少ないそうです。

最初の頃はこうして連行されてきた日と死亡した日が記載されています。

この行為はゆえに、

収容所の存在を国際社会に証明するためで、報告書も、収容名簿も作られていましたが、

どんどん収容者が増えていき、

仕切れなくなるにつれ無尽蔵にガス室で殺された人たちにはないものです。




これが1日分の食事だそうです。

 朝:コーヒーと呼ばれる黒い液体(コーヒー豆から抽出されたものではない)
 昼:具も味もほとんどない スープ

 夜:パンと 少々のバター


Starvation(餓死)






10号棟と11号棟の間には鉄柵をつけたレンガ塀が。 

この奥にある壁が≪死の壁≫と呼ばれる場所です。


1万1千人、主にポーランド将校が銃殺されました。

死の壁右が11号棟


左の10号棟は人体実験病院で、モルモットと呼ばれたおもに双子の子供など被験者に銃殺光景を見せないように窓には板が打ち付けられ目隠しがしてありました。

「死の天使」と恐れられたヨーゼフ・メンゲレが人体実験を繰り返し行った所です。

ごめんなさい、人工の「シャム双生児」とか、流石にこの人がおこなった行為はこのブログには書けないです。





ここで中谷さんが日本のシンドラーと呼ばれている杉原千畝領事のお話をされました。

正しい事、善意でしたことを悪い要に解釈されてしまうのは

助けたのがユダヤ人だったからと・・・

ゆえにいかにユダヤ人を助けるのにどれだけ勇気がいたかという事です。






11ブロックは「死のブロック」と呼ばれました。

囚人はマットが敷かれた場所に寝かされたり、


その次にはこういった三段ベットに一段に二人ずつ寝かされました。


脱走者がでた場所では、連帯責任を取らされランダムで10人が選ばれて殺されるのです。

そして脱走計画者を密告すれば、自分は生き残れるルールがあったり、



同じ囚人でもブロック長には広く大きい部屋を与え、扱いを変え自分だけは生き残れるという希望を持たせ、囚人に囚人を監視させました。

こういったシステムを作ることで、もともと人間の内のなかにある心理をうまく利用し反乱や脱走が起こるのを防ぎました。 


餓死室

ヨハネ・パウロ2世から贈られた大きなろうそくが部屋の真ん中に置かれています。

コルベ神父が身代わりとなって入った場所ですね。






中谷さんが遠藤周作 『女の一生〈2部〉サチ子の場合』を読んで長崎に行くと、コルベ神父の作品に巡りあえ、またよく分かると語りました。


窒息室 


餓死室の右隣の部屋では、窒息刑と呼ばれる30人から40人を部屋につめ空気が入らないようにした部屋です。 


そしてこの第11ブロック地下牢が1941年9月3日、アウシュヴィッツでガス殺が初めて行われた場所で、
チクロンBの人体に与える殺傷能力がどの程度なのかを試験するため、

実験対象として約600人のソ連軍捕虜と収容所内の病院に入院していた約250人の患者を実験対象にしました。

「満員の密室の中で、即死の効果を得ることができた」という結果から

アウシュヴィッツではチクロンBを用いたガス殺が行われることになりました。





立ち牢

四人ぐらいの人がここで3、4日も立たされるという刑


奥の高いポプラは67年経ったもので 、左の小さいのは木が弱ってきて危ないということで、最近新しいポプラに植え替えられました。

当初はこの高さのポプラが並んでいました。 



集団絞首刑台

ここは収容者たちの点呼広場で、その前には絞首台が置かれています。

絞首刑の様子を拘留者の目に焼きつけ恐怖心を煽るためです。




そしてここが現存しているガス室です。










ガス室のすぐ横にあるこの絞首台で収容所の初代所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスが1947年4月処刑されました。通常はルドルフ・ヘスと表記されるので、93歳まで生きたナチ副総統(総統代理)のルドルフ・ヘスと混合してしまいます。



あの木立の向こうにちらりと見える屋敷に所長ルドルフ・ヘス所長は家族と共に住んでいました。

そして右のレンガは収容所なのです。

こんな近い距離だということに驚きです。

そしてこの家のすぐ向かいの絞首台でルドルフ・ヘスは死にました。







これで一先ずこのブログではアウシュヴィッツについてお休みさせてください。



そして、




次はここでは収容しきれなくなった為に作られた、



ビルケナウ収容所に続きます。