今年の三月十一日の夜、いや十二日の早朝、私は、ガンジー・ピース
・ファンデーションのベッドで、眼を醒ました。
突然、得体の知れぬ胸苦しさに襲われ、咳が出て止まらないのである。
真夜中のベッドで、あちこち、体のむきを変えたり、色々、咳を止め
ようとしたが止まらなかった。
そのうち、大きくせきこんで、胸部から口睦内に、何か得体のしれぬ
液体が、口一杯に咳上ってきたので、慌てて、シャワー室に入り、洗面台
に吐出した。
白い陶器は真紅に染った。
私は、洗面台の縁を両手でしっかり掴んで、次々に咳上げてくる血液
を、したたか、吐き出した。
血潮は、螢光燈に照らされ、排出口で淀み、自い陶器の肌に縞をなし
て、音もなく流れた。
私は、真紅の液体を吐き出した瞬間、しまったと思った。
二月五日から、約一カ月の間、私は不眠不休で、インド民衆のストラ
イキ・暴動と、インド政府のむごい殺傷の間隙をぬって、各地を訪れ、
今迄指導したガンジー翁の弟子達でつくった、各種の仕事のセンターを
歩いてきた。
U・P・州のラクノー市にある植物園で、乾燥にも強く、アルカリ地
帯にも生える、モリンガー・オリファラという樹の標本をつくり、これ
がまた、十年程前の大飢饉のとき、餓死地帯を歩いたとき食べた、花の
蕾や、若葉の樹であったことを知って、一昨年来西アフリカ地域に起っ
た砂漠、半砂漠の地帯に起った悲惨な餓死の問題が解決出来るかも知れ
ぬと思った。
インドの文化は、西パキスタンのインダス文化からきたことで、文化
による砂漢化の鍵を探るため、三月三日から約一週間、カラチ、モンジ
ョダロー−ラホール−ハラッパ−ラホール−ニューデリーと歩いて帰って
きた直後の出来事であった。
また、私は、第二次大戦中、ボルネオで、米戦闘機の銃撃を受け、右
胸部に、十三ミリの磯関砲弾が貫通し、殆んど片肺に近い状況なので、
医師から常々無理をせぬように、警告されていた。
私は、テツキリ、肺をやられたと思った。
右肺に、ピーピーと妙な音がした。
しかし、洗面台の上の血液には、鮮かであるが、気泡は渥じっていな
かった。
一昨夜、三月十日の夜、ラホールより往復、三百五十Kの半砂漠地帯に
ある、ハラッパの廃墟をフォードのジープで、約百二十K時のスピード
で往復し、ハラッパの遺跡では、約五十度に近い真昼間の炎天下で、三
時間近く調査し、ラホールの宿に帰って、顔を洗った時、濡れた両手に、
うっすらと血がにじんでいた。
インドの四月・五月・六月、田舎を歩くと、よく鼻腔が乾燥し、亀裂
で血管を切り、鼻血を出すことがある。
次々に咳上げ、吐き出される血潮を見ながら、私の脳の中に、ラホー
ルの宿でのことが思い出され、ピーピーと、変な音が右の気管支でする
が、胸の痛みがないことで、これは、鼻腔の奥がやられたに違いないと思
った。
洗面台を掴んだ両手を見ると、全く艶が無くなり、二十年も年老いた
ように、シワだらけになって、段々力が抜けてゆく。
出血をとめるために、洗面台の蛇口をひねって水を出し、鼻を冷やし、
血液を流して、次に、左手で、シャワーをひねって、蛇口から水がほと
ばしり出るのを見て、シャッをぬぎ、パンツをとって、頭からシャワーに
かかった。
頭の頂上から、顔、首、体と滝のように、冷水は流れるが、咳上げる
血液は一向に止まらず、逆に、シャワーの流し場が真紅になった。
これは、もう、俺は、一巻の終りになるのかも知れぬという思いが、
手足から、冷寒が、体にはい上ってきて、思わずしゃがみこみ、私はマ
ブタをとじた。
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