Abstract 知的財産権の強弱とその是非を巡る論争において、権利者と利用者の間の利益配分の社会的・経済的妥当性が論点になりがちである。本論では、知的財産制度が、議会制民主主義政体と自由市場経済体制に緊密に結合していることを指摘し、知的財産制度がそれら政体と体制の公正さfairnessを担保する背景的環境であることを確認する。 ここから論争点となるべきは、利益配分の妥当性ではなく、知識や情報の流通を支える制度としての知的財産制度の副作用である排他的独占、すなわち情報や知識への制御支配controlの強弱の問題であることを主張する。 上記の論点から見た場合、すでに情報や知識への制御支配は、法的保護と情報技術との結合によって危険な段階にまで強化されており、これを看過するならば議会制民主主義と自由市場経済は、公正なルールたりえない段階に至るものと警鐘を鳴らす。1 はじめに
日本は知的財産立国になるのだそうです。政府には知的財産戦略会議が設置され、ビジネス界では﹁知的財産権﹂という言葉が流布しています。これらの分野で言う﹁知的財産﹂とは、特許のように産業に応用できる新奇な発明や、メディア企業*1から商品として提供される娯楽作品などが中心のようです。それら新奇な発明は私達の生活を豊かにし、娯楽作品は私達の心を豊かにしてくれます。それ以上に、それらの知的財産権は、経済活動の重要な要素として取引の対象とされています。それゆえに、知的財産権をめぐり莫大なお金が動き、複雑な利権構造が形成されています。 この2006年末には、知的財産の一つである著作権の法による保護期間の延長の是非が議論になっています*2。原則著作者の死後50年間保護されていた著作権を70年間保護するように、すなわち20年間の保護期間の延長を主張する人達がいます*3。私は、保護期間の延長について、それが知的財産戦略という観点からみて矛盾のある害の多い誤った方針であることを指摘しています*4。とはいえ、保護期間の延長がなされることはおおよそ既定事項であろうとも私は考えています。さらにいえば、保護期間の延長が私達の幸福に繋がるのであれば、一部の極端な論者の主張するように100年、150年の保護を擁護しうる場合があるのかもしれないとも考えています。ただ、私は、説得力のある延長の理由を聞いたことがありません。 この小論では、保護期間延長の是非にばかり注目があつまり*5、忘れられているように思われる論点について述べて、私達の最大かつ真実の知的財産に迫りつつある危機について警鐘を鳴らすつもりです。水の豊かなわが国で砂漠におけるコップ一杯の澄んだ水のありがたさがわからないように、陽射しの明るいわが国で闇に閉ざされる北欧の冬の厳しさがわからないように、私達にとってあたりまえの前提がもっとも重要な恵みであることは忘れられがちです*6。読者の皆さまが我らの大切な宝を守り通せますよう。2 ほんとうの知的財産とは
私は、﹁知的財産﹂という概念自体が、私達の理解や思考を誤った方向に誘導しがちな傾向をもつことを以前の論文で説明しました。﹁知的﹂という概念も﹁財産﹂という概念も、私達の﹁いわゆる知的財産﹂の内包や外延を理解するための手掛かりとしては、甚だ曖昧であることを指摘しています*7。ですから、私自身は﹁知的財産﹂という言葉を使うことにいつも躊躇を感じています。それは、その言葉を使うということそれ自体が、﹁知的財産﹂という誤りがちな概念を承認することになるからです。かくも言葉というものは、決定的な力をもつものだといつも思わせられます。 さて、本論では﹁知的財産﹂という言葉に別の光を当ててみたいと思います。 2.1 議会制民主主義 現在私達は、形式的かもしれませんが議会制民主主義政体を採用しています。法の歴史について興味のある私の目から言わせていただければ、もっとも面倒な政治体制でありながら︵決定の速度だけであれば独裁制がもっとも効率的︶、もっとも誤るところの少ない︵誤ったとしてもその被害の程度が小さい︶、もっとも平等主義的な、そしてこれまでの人類の歴史においておそらくは、私達の幸福を具体的に増大することに成功したほとんど唯一の政治体制であると言えます。 この議会制民主主義は、その他の王制や貴族寡頭政や神政政治等のこれまで人類史に現れた政治体制と一つの点で根本的に異なっています。それは、一部の人間だけでなく、その政治体制に服しているすべての人間が、みな一定以上の知識と教養と合理性をもっていることを必須条件とする政治体制である点です。簡単にいえば、﹁バカ国民﹂﹁いい子ちゃん国民﹂ばかりではポシャってしまう政治体制であるという点です。逆に、その他の権威主義的政治体制では、一部の特権階級eliteが決定することを鵜呑みにする素直な国民がいなければ体制が混乱しますから、国民がかなりの程度愚かであることが望ましかったのです。そこで、国が権威的な国教を定めたり、隷属的な道徳を説く学問を奨励しその他の学問を禁じたり、一定の社会階層のみに教育を授け、下層民を無学文盲状態に置いたままにしたりしました。 こうして議会制民主主義では、可能な限り国民の知的水準を向上させることが至上命題となります。本来公教育とはこうした目的に沿って設計されていたのですが*8、現在は、無意味な暗記ゲームを約15年間にわたって少年達に強いることと、誤解されて運用されているようです*9。 2.2 自由市場経済 現在私達は、形式的かもしれませんが自由市場経済を採用しています。経済の歴史について興味のある私の目から言わせていただければ、もっとも非人格的な経済体制でありながら︵社会主義では人為的に富の再配分を行う︶、理論的にはもっとも効率的︵ただし、理論どおりに動作する条件が整ったことはない︶、もっとも平等主義的な、そしてこれまでの人類の歴史においておそらくは、私達の幸福を具体的に増大することに成功したほとんど唯一の経済体制であると言えます。 この自由市場経済は、その他の社会主義経済や共産主義経済といった人為的かつ計画的な経済体制と一つの点で根本的に異なっています。それは、一部の人間だけでなく、その経済体制に参加しているすべての人間が、みな市場で交換される財の性質と価格に関して十分な情報を持っており、かつ合理的に判断する能力を持っていることを前提条件とする経済体制である点です。簡単に言えば、﹁バカ消費者﹂﹁ボンクラ参加者﹂ばかりでは資源・財の配分を効率的に成しえない経済体制であるという点です。逆にその他の人為的経済体制では、一部の特権階級が計画する財の配分を甘受する素直な国民がいなくては体制が混乱しますから、国民が適度に愚かであることが望ましかったのです。その上で、需要され消費される財について国家が決定したり、特定の経済理論を奨励しその他の経済理論を誹謗したり、一定の社会階層にのみ経済的自由を与え、下層民を単なる労働と消費の単位として統制の対象としたりしました。 こうして自由主義経済体制では、可能な限り国民の情報受発信能力と合理的判断能力を向上させることが至上命題となります。本来情報メディア政策と公教育とはこうした目的に沿って整備されていたのですが、現在は、消費者の欲望を刺激しつづけ必要のないものまで買わせつづけることが、美徳とされているようです*10。 2.3 情報の自由流通を必要とする社会体制 さて、このように議会制民主主義と自由市場経済は、車の両輪のようなものであることがハイエクやシュンペーターといった自由主義経済学者によって論じられています*11。自由市場経済を効率よく動作させるための条件として情報の自由流通が必要ですし、また市場参加者が自らの判断において自由かつ合理的に取引することが必要です。これらの自由は、民主主義政体においてこそ許容されまた奨励される自由です。また、自由主義経済では、生産様式の新しい結合innovationによる効率化が富の拡大において重要ですが、こうした新結合を活発に生じさせ、生産様式の継続的な改良と緒生産様式間の競争による淘汰を生じさせるためにもまた、情報の自由流通、学問の自由、思想の自由が要求されるのです。逆の方向から言えば、私達が知的でありかつ創造的であるかぎり、議会制民主主義と自由市場経済の結合体制は、私達に幸福をもたらしてくれる可能性がもっとも高い社会制度であるのです。 整理しますと、議会制民主主義と自由市場経済は、情報、知識、教養、判断力において優れた国民の存在を必要不可欠の前提としているわけです。とするならば、個々の学術作品、文学作品、娯楽作品それぞれが知的財産であるといいうる以上に、現在の私達の社会の基盤を形成し、私達の自由と幸福を支えているそれら政体と経済体制こそが、もっとも巨大で重要な﹁知的世襲財産intellectual heritage﹂であると主張したいのです。民主的な政治環境があってこそ、言論・表現の自由が至上の価値をもち、多様な表現や作品が競い合い、たとえある価値観から容認し難いような種類の表現や作品であっても、社会におけるその存在が容認される寛容が保障されるのです。自由市場経済があってこそ、民衆の思想や嗜好が反映された作品の自由な市場が形成され、芸術家や思想家は、パトロンや国家への経済的隷属状態から脱することができたのです*12。 2.4 自由の観点からの近代社会擁護 本題からはずれますが言及しておきたいことがあります。 独立し主体性のある個人から形成される近代市民社会、さらには近代市民社会の統治機関としての﹁国家﹂に対する批判が強くなっています。20世紀の最悪の産物である二つの世界大戦は、ある面では近代国家の論理が当然に行き着く先であり、それらの戦争は国家の命令のもと国民を総動員する国家間戦争でした。また、国家に強制され﹁国民﹂として形成されていくことに抵抗を感じる人々がいるでしょうし、主体性をもった自立的個人として生きていくことに疲れと疑問を抱いている人達が増えているのも事実です。機械的に動作する近代的諸制度に憤りを感じ、私達を画一的に統合しようとする統治のありかたに反発心を抱いている人達もたくさんいるでしょう。 そうした近代市民社会のあり方や主権国家のあり方に批判的な人達は、私達の日常生活と密接な関係をもつ共同体に期待をもっているようです。国家や制度が私達を画一的に支配するのではなく、私達自身が構成する共同体が私達の個性に対応して、多様性を認め、それぞれ相互の友愛と共通利害によって結び付いた、心温まる緩やかな調整を行う社会のあり方を模索しているようです。将来的にはそうした共同体の緩やかな連合体としての﹁くに﹂を目指し、現在のような統治権力としての主権国家が消滅することを期待しているようです。 そうした共同体を目指して努力することはとても良いことだと私も思いますが、かつて私達の祖先達が堅固な共同体の秩序の中にあったとき、共同体はそれほど愛に満ちた生活環境だったでしょうか? 共同体の秩序に縛られ、伝統的な家族の役割に拘束され、息苦しく暮らしてきた人もいるのではないでしょうか? 共同体の長老や顔役の意向ばかりが巾を利かせ、すこしでも変わった考え方を提示すれば、抑圧されるような状況があったことは良く知られています。私もいくつかの共同体のような組織に属していますが、そうした組織に属している人達は、いつも他の構成員の﹁思い﹂を慮りながら、共同体のなかにおける自分自身の位置に気を配っているように思われます。極めて高度かつ困難な知的心理的作業だといつも感心させられます。 私は、共同体が私達に自由を与えてくれることは自明でないと考えます。共同体は思想信条において同質な構成員から形成されるが故に共同体なのであり、共同体が多様性を認める幅は、機械的に運用される法と制度によって制御されている社会よりも小さくなるのではないかと考えています。 日本の明治期のみならず欧州での近代化の中にあっても、伝統のなかにあった共同体社会が近代市民社会へと移り変わるとき、たくさんの若者達は、村や家といった共同体から脱出し解放され、伝統に捕らわれない自己の個性と主体を探し始めました。もちろん、そうした個人としてのあり方に耐えられなかった人々もいるでしょうが、国家が定めた合理的ルールに従っている限り、自由が保障される近代市民社会は基本的に歓迎されていたと理解しています。 私が法学部の出だからかもしれませんが、私は、複雑な人間のネットワークとしての共同体の中でいろいろと思いをめぐらしながら暮らすよりも、権利義務関係によって機械的に私達を統治する国家の国民として暮らすほうが、シンプルで心穏やかに暮らせるように思います。きっとそれは、私自身が変わり者だからでしょう。3 知的財産への本質的危機とは
さて、大学の教員として数年を経て、年々悪化している学生の状況をみるに、﹁いわゆる知的財産﹂を生み出す意欲や環境が危機的状況にあることがうかがえます。また、そうした状況がさらには﹁知的世襲財産﹂の維持もまた困難にしつつあるように危惧しています。仮に、いくら著作権の保護期間が延長されても、また著作者︵創作者︶への報酬が増大しようと、創作を行う人々の意欲とそれを可能とする環境が存在しないのでは、政府が狙うような知的財産を生み出すことなど、まったくもって不可能であることは言うまでもありません。 3.1 国民の知的水準・創造力の低さ 社会においてもっとも知的であり創造的であるはずで、それゆえ次世代の議会制民主主義と自由市場経済の有力な担い手であるはずの大学生達を、私が大学の教員として観察する限り、暗澹とした気持ちにならざる得ません。彼らには高度な創造力を期待しうるどころか、そもそも創作に着手するだけの意欲に著しく欠け、さらには継続的な努力を必要とする創作活動を遂行する集中力を著しく欠いています。仮に、創作活動らしきものをしているとしても、それは既存の何かの作品の水準の低い複製︵劣化コピー︶に止まっています。こうした状況は、政治的な関心や学問的知性にもまったく同様にみられます。それゆえ、彼らの政治的見解なるものは、テレビのワイドショーでの文化人や解説者の劣化コピーであり、彼らのレポートや論文なるものは、入門書やWikipediaの劣化コピーとなってしまうのです*13。 とはいえ、既成の表現や観念を問い直し、私達に新しい発見や認識を与えてくれるような創作や知見は、そうそう簡単に得られるものではありません。それゆえ、上記の私の心配あるいは若者に対するオヤジの雑言めいたものは、昔から繰り返されてきた、ありきたりの凡庸な見解にすぎないのかもしれません。さらに言えば、近代に入ってからこの方の世界の歴史をざっと思い起こしてみたところで、人民が平均的に意欲と創造性に富んでいたような時代はほとんど存在していないようです。 ただし例外があります。信じられないかもしれませんが、それはアメリカです。私の研究の傍らで知る限り、厳しい風土に耐えながら開拓を進めてきた初期入植者達は、いずれも尊敬すべき宗教的信念と忍耐力と創意工夫に長けた人々でした。イギリスからの独立戦争の時期の平均的教育水準と政治的見解の高度さ、共和政︵民主主義︶への情熱、その後の農業国から工業国への成長の段階における創造力や勤勉さや忍耐力、社会問題への関心と関与のいずれをとっても、同時期の欧州の状況に比較すれば、議会制民主主義と自由市場経済の模範たる状態にあったと考えています。そうであったからこそ、アメリカは大国として成長することに成功したのです。こうした精神的伝統は、開拓のフロンティアで継続的に維持され、その後のアメリカ社会においても残光を保ちました。ただ、その伝統はヴェトナム戦争のあたりで潰えてしまったようです。 ですから、もとより議会制民主主義と自由市場経済の結合それ自体がアメリカのイデオロギーであったと判断することも理由のあることです。現在のおかしな状態になってしまったアメリカの状況とその押し付けを嫌う人達は、アメリカの︿帝国﹀的振る舞いに反対すると同時に、議会制民主主義と自由市場経済までも否定してしまおうとしているのかもしれません。しかし、それは産湯と同時に赤子まで捨ててしまうようなものだと私は考えます。 3.2 著作者=知識貴族lord intellectualへの誘惑 話を戻します。私達のような凡庸な人間には、もとより﹁賢者の洞察力﹂や﹁天才の創造性﹂などないのかもしれません。しかし、それを理由として著作を物すほどの知的能力を持つ人達、芸術分野で多数の人々の支持を得る人達、すなわち作家達*14を、一般の人々から切り離して特権的に取り扱おうとすることは、さらには、作家たりえない、あるいはたりえなかった人達の知識や教養を向上させる機会や手段を抑制することは、先に述べた議会制民主主義と自由市場経済の前提に対して挑戦することになります。そうした社会体制が、全ての構成員が賢く創造的であることによってのみ成功しうる社会体制であり、またそうした社会体制であるが故に言論表現︵思想︶の自由が至上の価値たりえること、すなわち知的自由が保障されているのだという、環境的理由をよくよく理解していただきたいのです。 現在の﹁いわゆる知的財産﹂をめぐる議論は、それを可能な限り一般的な財産と同じように取り扱わせようという傾向のもとにあるようです。そうした野蛮な類推に立つ議論を私は十年近くにわたって批判しつづけてきたのですが*15、私の力及ばず、まだそうした主張をしている人達を説得できていないようです。残念なことです。 ﹁いわゆる知的財産﹂を一般的な財と同じように排他的な権利︵物権︶として構成し、市場において取引可能とするという発想が経済学的視点から見た場合の﹁著作権制度そのもの﹂であることは、すでに他の論文において指摘したところです*16。ですから、そのこと自体は、長年にわたって承認されてきた事柄です。それゆえに﹁いわゆる知的財産﹂を一般的な財と同じように考えることを自明視する傾向が強いのでしょう。しかし、その仕組みが微妙な均衡のもとにおいてのみ、議会制民主主義と自由市場経済と調和するということを確認しておきたいのです。 その調和について、次の三点を指摘しておきたいと思います。4 知的財産権制度の見過ごされがちな背景
4.1 情報や知識の自由は自由市場経済体制を補完するものである 第一に、情報や知識の流通は、自由市場経済の完全な支配下に入るべきでない、という点です。自由市場経済は、個々人の労働による収益のみならず、資本が利益を生み出すことを制度として容認しています。それゆえ、自由市場経済のルールは、勝った者はより強くなり、負けた者がより弱くなる構造にあります。19世紀末から20世紀はじめの自由市場経済制度において、私達の社会にどのような状況が発生していたのか、歴史をみればよくわかるはずです。そうしたとき、議会制民主主義は、事後的な所得の再配分で自由市場経済の失敗を補うことにしました。そしてもう一つ。自由市場経済での競争において敗者となったとしても、情報・知識・教養を足がかりに社会の階層を上昇する別の回路を保障していたのです。 たとえ経済的状況において敗者となった家庭の子弟であっても、公教育で議会制民主主義の担い手たる水準までは確実に持ち上げることになっており、さらにそれより高い水準の情報・知識・教養についても、国家は自己努力をして社会の階層を上昇しようとする人々を積極的に後押ししていました。具体的には﹁表現﹂は保護するものの﹁アイデア﹂を保護しない著作権制度のもと、メッセージの中身そのものは社会において自由流通していましたし、私的複製︵著作権法第30条︶の規定のおかげで、自己の勉強や向上に用いる作品を家庭内およびそれに準ずる範囲において複製することは禁じられていませんでした。また、経済的に著作物の複製物を購入する状態にない人達のために公立図書館が整備されました*17。 日本社会における学歴信仰の根源となった﹁帝国大学合格→高級官吏﹂という貧しい秀才の出世回路は*18、﹁金持ちの子弟→金持ち的教養→金持ち﹂という自由市場経済での必勝パターンに対する社会的な補償制度となっていたことを理解しなければなりません。もし、経済的に敗北した家庭の子弟が敗者復活戦に参加できないとなれば、そう遠くない将来、自由市場経済がもたらす結果についての怨嗟の声が強まってくるでしょう。それは結果的に自由市場経済体制を危機に晒す結果となります。 現在、社会階層の固定化が指摘されています。もちろん、それには様々な要因があるのでしょう。第一には、社会の中下層の若者達が社会階層を上昇しようとする意欲に極めて欠けていることが理由でしょう*19。ただ、しかし、なぜ彼らが意欲に欠けているのかを考えなければなりません。これにも様々な理由があるでしょう。そのうちの一つに、彼らが表面的には無料で、しかし実際には商業広告を経由して商品の価格の一部として回収される費用の下において、安易に手に入る情報や娯楽作品に満足してしまっていることが挙げられるでしょう。いや、より正確にいうならば、誰かの利益のために構築された情報空間の中に閉じ込められていて、社会階層上昇の可能性から排除されていると言うべきでしょうか。 著作権法の保護期間延長問題について、私は、商業的価値のある作品の価格が高い状態で維持される不合理以上に、すでに商業的価値を失った作品の保全と活用を著しく阻害する点を問題にしていました*20。現在商品価値をもちうる作品の市場を確保するために、競合しうる過去の作品を市場から排除するためにも著作権法の独占権を使うことができます。私達の意思決定を左右しうる情報や知識や教養を、長期間、自由市場経済の都合に服させていることは危険です*21。コントロールすることは、支配することであり、それはすなわち権力を意味します。とくに情報と知識の何らかの主体による支配は議会制民主主義と自由市場経済にとって極めて危険です。仮に、著作物を商業的に利用している人々の間に貪欲や悪意が存在しないとしても危険です。自由市場経済体制が公正なルールとして機能しつづけるためには、自由市場経済とは完全に切り離されたルールとしての自由な情報空間すなわち公的領域public domainが確保されなければならないのです。 私は、リチャード・ストールマンがGNU/GPL*22を普及する理由、ローレンス・レッシグがCreative Commons*23を提唱する理由をここに認めます。彼らは共産主義者や社会主義者ではありません。真の自由主義体制を守ろうとしているのです。逆に、彼らを批判する視野の狭い商業主義者達は、自分達の幸福を実現している自由市場経済を擁護しているつもりで、実は最悪の形態の全体主義体制への道を準備していることに気がついていないのだと私は思います。 4.2 情報や知識の価値は関係性において生じる 第二に、情報や知識の価値は、その情報や知識そのものにあるのではなく、それを受容する社会の文脈contextにある、という点です。言い換えれば、それらの情報や知識を理解し、楽しみ、活用しうる社会全体の基礎的教養・知的水準が前提となって、はじめて社会的あるいは市場的価値が生じるということです。それゆえ、情報や知識を社会から切り離して何らかの絶対的価値を主張することは、傲慢な態度であるということです。 喩えを使います。貴方がギリシャ語で本を書いた場合、日本の書籍市場で何冊くらい売れるでしょうか? かなり少ないことが予測されます。これは、その書籍の内容の優劣とは全く関係がないことは明らかです。というのは、日本においてギリシャ語を読める人の数はとても少ないからです。同様に、貴方が難しい哲学の本を書いた場合、日本の書籍市場で何冊くらい売れるでしょうか? かなり少ないことが予測されます。これはその本の内容の優劣が問題ではありません。難しい哲学の本を読んで知的好奇心を満足させ、かつ自らの人生に反映させることのできる高度な︵?︶読者が、そもそも極めて少ないからです。 近年、書籍が売れないといいます。とくに堅い学術系の本がほとんど売れなくなったといいます。私の勝手な見立てでは、目先の売上を狙って軽い娯楽作品を大量に市場に送り出し、読者に安易な快楽を与えてしまった結果、さらに進んで知性・教養・努力を必要とするような高度な︵?︶書籍の読者となる可能性のあった読者層の形成を阻害したためではないか、と考えています。すこし前の鯨、最近の鮪のように、自由市場経済の論理において目先の利益ばかり考え利益の先食いをした結果、貴重な天然資源を荒廃させ、さらには絶滅状態に追い込むことによって、結果的にその資源に依存した産業が衰退消滅するといったことが、我々の歴史では何度もみられました。私は、知識や教養の市場においても同様の事態が生じているのではないかと考えています。 鯨や鮪のような天然資源の場合、政府や関係者に合理的な判断力があれば、政策的に目先の利益に走りがちな関係者を規制して、長期的に関連産業が存続できる環境を維持することができます。ところが、知性や教養が荒廃してしまった場合、議会制民主主義が正しく機能する前提自体が破壊されるわけですから、その荒廃を止めることができなくなるのです。 こうした観点から、私自身は、娯楽目的の商業作品については、著作権法の保護を強化することで、あるいは流通を厳しく取り締まることで、それら娯楽商業作品の実質価格を上昇させ全体の流通量を抑制することが望ましいとも考えるようになりました。現在のように、アニメやマンガやゲームが知的財産の重要分野となっている状態は、短期的な自由市場経済の目的からすれば喜ばしいことかもしれませんが、私にとってはいよいよ﹁知的世襲財産﹂が荒廃する予兆を感じさせる状態です。 言訳のように付け加えますが、私個人としてはアニメやマンガは大好きですし、アニメやマンガで知性や教養を涵養することも十分に可能であることは了解しています。たとえば私は、﹁学研﹂の学習漫画﹁ひみつシリーズ﹂*24の知識のおかげで、とくに勉強しなくても小学校一年生から高校卒業︵文系︶ までの理科の試験で90点以下をとったことがありませんでした。また、とりわけ印象深い文学的味わいのあるマンガとして、松本零士氏の名作﹁ザ・コクピット﹂シリーズ*25など大好きでした。とはいえ、アニメやマンガやゲームが業界の活気の最後の砦になっているような状態、それらばかりに光が当たるような状態は好ましくないと考えています。私自身がすでにオヤジ化していることは十分自覚しています。しかしながら、それでも言わねばならないことがあるのです。 ですから、著作権の保護期間の延長について私の個人的見解を述べるならば、現在保護期間延長を声高に叫んでいる娯楽作品の創作者達、営利企業やそれに関連した既得権者達には、好きなだけ期間を延長させて構わないと考えています。また、彼らの商品の使用者達の便宜を奪い自由を制限することで、使用者達の不満と反発心を育てていけば良いと思っています。ただ、彼らが商業的利益を貪りたいがために、もとより商業的に成功するあてのない政治的・学術的・文化的な目的に奉仕するための作品や、読者の真面目な学習活動の便宜まで巻き添えにすることを、彼らに止めていただきたいのです。この気持ち、男ならわかるはずです。 上記の理由から、私やロージナ茶会では、ベルヌ条約に基づく著作権の保護とは別個に商業目的作品に登録制を導入する代わりに強い法的保護を認める、いわゆる﹁二階建て﹂の保護制度を支持しています*26。強い法的保護のもと著作物でお金儲けをしたい人達に心置きなく儲けていただく一方、そうした強い法的保護が、本来の意味で有益な情報や知識の流通に悪影響を及ぼさないよう分離したいと思っているのです。 4.3 情報や知識の生産は確率的なものである 第三に、情報や知識の生産は、投資とは関係がなく確率的なものである、という点です。この考え方に立てば、可能な限り多くの人々が様々な情報──文学や芸術に触れるのみならず、自ら実践することこそが、創作活動を活発にすることにつながることになります。そして、可能な限り多くの人々がそうした活動をすることは、議会制民主主義と自由市場経済をより堅固なものとしてしていくための必須条件であるということです。 創作者として権利主張している人達も、本来著作物の利用者である私達と同じ人々です。以前の論文でも書いたように、創作者といわれる人達もかつては、他の先人達の作品に触れ、それを﹁真似ぶ﹂ことで学び創作者という立場に立ったのです。もとより著作権法では、著作権法の定義する著作物を創作する人すべてを著作者*27として認めていますから、法的に考えれば全ての人が著作者︵創作者︶であるはずなのです。ですから、今般の保護期間延長論議において、﹁著作者﹂として代表されている人達が、なにゆえその地位を得ているのかを考えなければなりません。 端的に言えば、その選別と地位の保証は、メディア企業によって行われています。ある人が、いくら﹁作家﹂を自称したとしても、出版社から本を出版してもらえないのでは、社会的に作家としては認知されないでしょう。私達一般の人々のなかから、学術・芸術分野について興味のある人達が愛好者となり、それらの分野の愛好者達のいくらかの人々が創作活動に着手し、そうして作品を生み出した人達の僅かな人々が商業的な価値を見出されて、メディア企業によって﹁作家﹂となるのです。もちろん、近年においては、何らかの理由によって﹁ある人﹂を﹁作家﹂としてプロデュースすることも広く行われていますし、そうした広告や操作に支配されやすい私達の状況を背景として、実際にそうした人々が﹁作家﹂として成立するという状況があることも事実ではあります。 また、﹁商業的な価値﹂という評価軸は移ろいやすいもので、たとえば19世紀であれば高く評価されたかもしれない﹁哲学﹂や﹁思想﹂は、いまや商業的価値を見出すことはほとんど困難になっています。一方、19世紀にはまともな芸術として扱われなかった大衆芸術がいまや高い商業的価値を与えられています。ですから、過去においても現在においても、その思想や表現が時代に合わなかった為に、世間に認められなかった天才が多数いるものと思われます。 このようにみれば、ある人が商業的に価値のある作品を生み出すことに成功し、作家としての地位を得ることは、先天的な才能を原因とする結果というよりも、一定水準の知性や教養を背景としながら、たまたまその時代の要請や課題に応える作品を彼が生み出し得た、という偶然に拠っていると私は考えます。そうして生み出された作品に対して、メディア企業が支援し、より洗練させ、広告するために投資を行った結果、確かに成功の規模を何倍にもしうると思いますし、まさにメディア企業はそうした仕事によって、私達に貢献するものであることは理解しています。しかし、それは創作が成された後のマーケティングとプロデュースへの投資です。投資がある故に創作が行われるのではありません。 こうした創作観を前提とすれば、予め﹁著作者︵創作者︶﹂と一般の人々を分離して把握することは、著作権問題の本質を見失わせると私は考えます。先の節でも主張したように、情報や知識を十分に享受し、それらを理解・愛好する一般の人々が分厚い層として存在することが、創作活動を活発化させ、メディア企業にも活躍の場を与えるのです。また、そうした知性と教養に溢れる一般の人々がたくさん存在することは、本論の主眼であるところの﹁知的世襲財産﹂すなわち議会制民主主義と自由市場経済をより理想的に動作させるための基礎条件と密接に繋がっていることは言うまでもありません。 私はいつも言います。カリスマ的なアーティストの歌や踊りに数百万人の人々が歓声を上げ、そのアーティストに関連して数億円規模の消費活動が行われる社会と、取り立ててスーパースターはいないけれども、ほとんどの人々が詩歌を諳んじ楽器が演奏できて夕べの人々の集いのなかで自然に歌が生まれる社会、それぞれの人がそれぞれに愛する作品や歌を持っている社会、いずれが知的で文化的な社会なのだろうかと。私は後者であることを確信しています。私は、知的財産戦略が、当然に後者の世界を目指して構築されなければならないのだと主張します。5 我らの知的財産を守りたまえ
私が知的財産戦略に関連する議論について述べたいことは、以上で全てです。知的財産に関する話は、ビジネスに関連する話であり、著作権者*28の利益と利用者の利益のシーソーゲームであると単純に思っていた人々には、意外な話だったかと思います。私の突飛かつ回りくどい主張が、これからの議論に少しでも役に立てれば幸いです。 読者の皆さんには、私が議会制民主主義と自由市場経済の信奉者であることがよく理解できたかと思いますが、さらに進んで私の立場が狂信的であると感じた人もいることでしょう。あまりにも理想主義的であると批判したくなった人もいるでしょう。現実の世界では、みんながゴハンを食べなければならず、誰かのポケットのお金を誰かが狙っているのです。そうしたこともまた、私は理解しているつもりです。しかし反論しましょう。私が以前の論説﹃現実2.0﹄*29で指摘したように、社会とは私達の思い込みによって成立し動作しているのです。こうした﹁思い込み﹂は、別の言い方をすれば﹁思想﹂であり﹁主義﹂であり﹁イデオロギー﹂であり﹁アーキテクチャ﹂です。 議会制民主主義も自由市場経済も、日本国はもとより世界のどこにおいても理想的に動作したことなど一度もありません。それでも、社会の多数の人々が﹁かくあるべきように﹂と信じ努力することによってのみ、それは現実に存在するのです。﹁近代は装われなければ実在しなかった﹂ことを私は理解しています*30。その努力を続けること、理想を唱えつづけることは、時として虚無的な気分を私達にもたらします。そんなとき私は、宮崎駿氏のコミック版﹃風の谷のナウシカ﹄の末尾の言葉を思い出すのです。 生命は生命の力で生きている その朝が来るなら 私達はその朝にむかって生きよう 私達は血を吐きつつ くり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ! *31 私は、これを﹁理想は信じる力によって支えられている。理想が打ち砕かれる時がくるなら、私達はその時にむかって理想を抱きつづけるしかない。私達は、好むと好まざるとにかかわらず、絶望しつつ、くり返しくり返しその時を越えて進まねばならない。﹂と読み替えます。私達が我らのほんとうの知的財産を守れますよう。6 追論﹁その朝﹂は越えられるか
上記の私の立場は、国際大学Glocomでのised@glocom*32における﹁サイバー保守主義*33﹂そのものであるのですが、実はised@glocomにおいてすでに、この立場の限界を受け入れています。東浩紀氏が論ずる、情報技術によって可能となる知識と情報の何者かによる完全支配を基本とする﹁環境管理型社会*34﹂が不可避であることを理解しているからです。 衆愚化し動物化する国民と、情報技術によってそれら国民をそれと知られないように統治するアーキテクチャの整備は、私達の目につきにくいところで進んでいます。そして、知的財産権の強化は、そうした社会全体の文脈に位置付けられるべきものです。ですから、私は本論において﹁その朝﹂と向き合いつつ、﹁その朝﹂を越えようとしました。それでもなお、知的財産権のあり方が﹁環境管理型社会﹂を支える方向へ進んでいくのなら、私は、いよいよ民主主義を諦めなければならないことを受け入れるでしょう。もし、そうであるなら「支配する側」に立ちたいなぁ。
ね、みなさん。
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*1 新聞・書籍・雑誌出版、音楽レコードCD制作販売、映画制作販売、放送番組制作配信等の、情報や知識の大量複製と大量流通を営利事業としているマス・メディア企業をさします。 *2 著作権保護期間の延長問題を考える国民会議 *3 著作権問題を考える創作者団体協議会 *4 白田秀彰, 著作権保護期間延長を擁護してみる, HotWired Japan *5 著作権保護期間の延長問題を考える国民会議 / 保護期間延長問題に関する各種情報 *6 余談ですが、安倍内閣において掲げる﹁愛国心﹂は、私達の国土が受けている類希︵たぐいまれ︶な恵みについて理解する、時間的・空間的に広い視野から自ずと育まれていくのだと思います。 *7 白田秀彰, 知的所有についてin﹃岩波応用倫理学講義第3巻情報﹄, pp.85-105. ﹁われわれは﹁知的所有﹂という言葉から、それが﹁人間の知的な営みから生ずる何ものかに対する所有権である﹂と考え、さらに近代法でいうところの﹁所有権﹂の法的効果や一般的性質から類推して﹁知的所有﹂の内容について考えてしまう。しかし、実際には、﹁知的﹂という言葉も﹁所有﹂という言葉も情報財の取り扱いに関するあるべき法の状態を示すものではない。﹁知的所有﹂という抽象概念から、情報財一般に備わった何らかの性質が導かれると考えるのは、誤りである。情報財に関する法は、個々の情報財の性質、市場における取引・交換の様態、使用段階における取り扱いの様態といった具体的な検討から開始されなければならないのである。﹂p.105. *8 ロージナ茶会︵以下、﹁茶会﹂︶のメンバーから、﹁事実上、国民国家ができるまでは公教育というもの自体の重要性はあまり認識されておらず、公教育が成立した時代には既に戦争に負けないことが重視され、国家や軍を指導するエリートとそれに従う兵隊、という形で認識されていたような気もするのですが﹂という指摘を受けました。この指摘は重要です。現在構想中の﹁暴力﹂に関する駄論では、国民国家と軍隊︵戦争︶が緊密に結合していることを論じつつ、政治担当能力をもつ国民養成と軍事能力をもつ国民養成が一組のものとして理解されていたことを論じたいと思います。 *9 白田秀彰, 現実2.0, HotWired Japan *10 白田秀彰, ﹃ハッカー倫理﹄の誤解説﹁いまや、産業と市場にとって必要不可欠な資源は需要であり、需要を創出するために欲望の創出すなわち情報の制御が緻密に行われている。その意味では、すでに形ある商品ですら﹁情報化﹂してしまっている。私たちは生産物を消費しているのではなく、情報操作によって作り出された欠乏である需要を市場に売り渡しているのだ。﹂白田秀彰, 文化不況 *11 Friedrich August von Hayek, ﹃隷従への道――全体主義と自由﹄﹃市場・知識・自由――自由主義の経済思想﹄など。Joseph Alois Schumpeter, ﹃資本主義・社会主義・民主主義﹄など。﹃経済発展の理論﹄序文, ﹁マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。私はそう確信する﹂──著者︵白田︶には、社会主義の徹底が社会主義成立の基礎を破壊したように思われます。社会とは変動する諸力の危うい均衡において調和するものと考えます。 *12 茶会のメンバーから、﹁思想家や芸術家にとっては、会社への隷属や、パトロンが見つからないために思想や芸術が外に発信されないという状態のほうが一般的なのではないでしょうか﹂という指摘がきました。これについては、著作権制度が誕生する以前の著作者達の置かれた状態に関する歴史的知識があれば、現状の方がはるかにマシな状態であることが理解できるかと思います。読みやすいものとして、A.S. Collins, ﹃十八世紀イギリス出版文化史﹄, ︵青木健, 榎本洋訳, 彩流社︶ を薦めます。 *13 茶会のメンバーから、﹁現在の大衆のリテラシーも創造性も十分に高い﹂という指摘がありました。﹁著作権を握る人たちの市場領域を大衆が侵食しているため摩擦が生じているのである﹂という指摘です。確かに情報機器の助けを借りて、私達大衆はメディア企業の市場領域を脅かしうる力を得ました。二次創作や同人誌市場の活気はそれを実証しています。もちろん、それらの領域における日本国民の層の厚さと能力の高さは目を見張るものがあります。それゆえ、マンガ、アニメ、ゲームの娯楽領域のコンテンツが日本最後の主力産業として注目を集めているのです。しかし、筆者︵白田︶の根拠なき見解を述べるなら、それらの領域は、社会の中核である政治的経済的な領域からの逃避的領域において花開いているように思われるのです。もちろん、その逃避的領域から政治的経済的知性へのゲリラ戦が時として行われていますが。私達がなぜ逃避的領域においてしか自由や創作性を発揮できないのか、という点についてはいずれ﹁暴力﹂に関する別の論考で考察してみるつもりです。 *14 本論では、職業的に創作活動を行い生計を立てている人たちを﹁作家﹂とします。 *15 白田秀彰, 著作権の原理と現代著作権理論など。 *16 失念。いずれかの論文で解説・整理した内容なのですが、どの論文で記述したのかわからなくなっています。もし、読者のなかで発見された方がいらしたら教えてくださいませ。改訂版でここに補いたいと思います。 *17 白田秀彰, インターネット化と著作権法の行方、そして図書館 *18 かつては﹁陸・海軍士官学校合格→高級士官﹂という精神力・体力に秀でた貧しい家庭の子弟が出世しうる回路も存在していました。現在、この回路を代替しているのは何なのでしょう。 *19 競争社会を否定する人達がいますが、私の見解では、個々人の向上心や上昇志向こそが議会制民主主義と自由市場経済の駆動力であり、競争そのものは必須条件です。一方、ある種の競争の敗者が別の競争で回復できるような多様かつ複線的な競争の回路が保障されることが、同時に成立すべき必須条件であると考えています。 *20 白田秀彰, やっぱり著作権保護期間延長を批判する, HotWired Japan, p.3-4 *21 これらの危険について具体的例を挙げながら批判を加えるものとして、ローレンス・レッシグ, ﹃コモンズ﹄︵山形浩生訳, 翔泳社︶と﹃FREE CULTURE﹄︵山形浩生訳, 翔泳社︶ を参照のこと。参考までに白田秀彰, 勝手につける﹃コモンズ﹄への解説とFREE ANNOTATIONも参照のこと。 *22 Richard M. Stallman, ja.wikipedia.orgにて﹁リチャード・ストールマン﹂参照, GPLGeneral Public License. オンライン文化に関する解説としては、Wikipaediaがもっとも適切だと判断するゆえ、Wikipediaを参照することとします。参考までに、白田秀彰, ハッカー倫理と情報公開・プライバシー *23 Lawrence Lessig, ja.wikipedia.orgにてにて﹁ローレンス・レッシグ﹂参照, クリエイティヴ・コモンズ・ジャパン *24 私の子供の頃、ほとんど全てもっていて装丁がボロボロになるほど繰り返し熟読していました。現在も新シリーズで継続されているようですが、内容はかなり変更されているようです。 *25 私の子供の頃、叔父が松本零士氏のファンで﹁ザ・コクピット・シリーズ﹂や﹃銀河鉄道999﹄をコレクションしていました。それを叔父の書斎で貪るように読んでいました。ほかにも、叔父は故手塚治虫氏や故横山光輝氏の膨大なコレクションを持っており、私の幼少期の精神のあり方に強い影響を与えてくれたことは間違いありません。人格形成の初期に大人の鑑賞に堪える優れたマンガに触れられた私は幸いです。 *26 境真良,﹁コンテンツ流通登録制で﹂, 日本経済新聞朝刊2006年6月30日. / 真紀奈, ﹁知的財産推進計画2006 によせて﹂ *27 本論においては、﹁著作者﹂という言葉を実際に創作をした本人に限定して用います。したがって、法律の効果で著作権を取得した人すべてを含む﹁著作権者﹂と区別します。 *28 実際に作品を作った本人の場合もありますが、実際には創作をしていないにも関わらず、法律の効果で著作権を取得した人も含む概念です。 *29 白田秀彰, 現実2.0, HotWired Japan *30 拙著﹃インターネットの法と慣習﹄の﹁著者近影﹂の意味を自分で説明することは切ないものです。 *31 宮崎駿, ﹃風の谷のナウシカ﹄︵コミック版︶ 1-7巻. 予備校生のとき通読して処分してしまったため手許にないので、具体的なページは提示できませんが、7巻の末尾だったと記憶しています。 *32 情報社会の倫理と設計についての学際的研究 *33 白田秀彰, 情報時代の保守主義と法律家の役割 *34 東浩紀氏が、﹁環境管理型権力﹂が支配する世界として提示した社会像。オンラインでは、﹁コムジン対談﹂で読みやすく整理されています。
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