1号機ものがたり 製品詳細
日本初の白熱電球
藤岡市助のあくなき探求心により、竹フィラメントの炭素電球が明治の東京に灯る。
電灯の起源は1808(文化5)年英国の化学者が実験中に発見したアークの光に始まる。しかしアーク灯の光は強烈すぎたため人々からあまり歓迎されなかった。1840(天保11)年頃から研究者たちはアーク灯より小型で眩しくなく、ガス灯のように人の目に優しく、誰でも簡単に点灯できる「白熱電球」の開発にロマンを描き、白熱体に炭素棒や白金を 使うなど本格的な研究が始まった。その後、フィラメントが空気中で酸化するのを防ぐため、真空電球が考案されたが、当初は十分な真空排気装置がなく実用化には至らなかった。
寿命の長い真空電球の実用化は1879(明治12)年で、英国のスワンと米国のエジソンがほぼ同時期に炭素電球を完成させた。エジソンは、木綿糸に「すす」を塗って蒸し焼きにしたフィラメントで、炭素電球の点灯に成功した。さらに寿命の長いフィラメント材料を求め、世界各地から7,600種類を収集したところ、竹の植物繊維が優れていることを発見し、1879(明治12)年、京都の石清水八幡宮の竹を炭化して長時間の点灯に成功した。
日本で初めて電灯が輝いたのは、1878(明治11)年3月25日(電気記念日)で東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。藤岡市助、中野初子らがグローブ電池で仏製デュボスク式アーク灯を点灯し人々を驚かせた。一方、白熱電球の日本初点灯は1884(明治17)年の上野・高崎間鉄道開通式で、この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・事業性の認識が高まっていった。1887(明治20)年、東京電燈(現:東京電力)が設立され、産業に使用できる電力体系が整備されるが、白熱電球は米国・独国製などの高価な外国製品に依存するしかなかった。
藤岡市助は、1884(明治17)年、米国フィラデルフィア万国電気博覧会に国の使節として派遣された。博覧会視察以外にも米国の著名大学や電気会社・工場などを訪問し、その先進的な電気技術に刺激を受けた市助は、白熱電球の国産化を決心したものの、いくつかの技術的な課題があった。それはガラス管球を作ること、管球の中から空気を排出すること、フィラメントを作ることなどさまざまで、1889(明治22)年京橋の東京電燈の社宅で試作・研究を開始した。翌年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍屋町に設立した。最初は木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソンが日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電球12個を日本で初めて製造した。
日本初の水車発電機
日本列島の豊富な水を活かす発電事業に着眼。
黎明期の水力発電事業を支えた、水車発電機。
日本最初の事業用水力発電所は、1891(明治24)年に運転を開始した京都の蹴上発電所である。そのNo.15号機として1895(明治28)年6月に据え付けられた60kW単相交流発電機は、1894(明治27)年末に芝浦製作所が製造した日本初の国産発電機である。
この発電所には全部で19台の発電機が据え付けられたが、他は全て欧米からの輸入品であった。なお、この芝浦製作所製の発電機はNo.15号機であるが、建設順序から言えば8番目に据え付けられた。
発電機は交流スタンレー2線式のベルト駆動の横軸機で、定格は単相60kW 1,000回転/分2,000V 133Hzであった。
発電の仕組みは、電機子巻線と界磁巻線が固定子側にあり、回転子が歯車状になっており、その回転によって磁気抵抗が変化するために、電機子巻線を横切る磁束が変化して誘導電圧が発生し交流電力が得られるという、いわゆる誘導子形の発電機である。
なお、水車は20台据え付けられ、そのうちの2台は1892(明治25)年、石川島造船所(現:株式会社IHI)で製造された。
ここに至るまでの発電機の発達に関する経緯は、一般の技術史、当社や電力会社の社史、および琵琶湖疎水記念館の資料などに記されているが、それによると、世界初の発電機は1833(天保4)年製、日本初の発電機は1883(明治16)年製で、いずれも直流発電機である。しかしこれらの直流発電機は整流子に問題があったため、その解決策の一つとして交流発電機が考えられた。
世界で最初に製造された交流発電機は、Professor Massonの示唆を受けたJoseph van Malderenによる1856(安政3)年製のものである。日本最初の交流発電機は1894(明治27)年に製造された本機である。
東芝レビュー10巻7号(578頁)によれば、1893(明治26)年に田中製造所から芝浦製作所になった当時、専任主任であった藤山雷太が時代の趨勢を察して三井部内の反対を押し切って電気機械製作を開始したが、それがこの本邦初の交流発電機の製造につながったと記されている。
その後、1901(明治34)年までに、水車との結合がベルト駆動方式から直結になり、また回転界磁形の三相交流発電機が開発された。1916(大正5)年には立軸機も開発され、これらによって水力発電機の原型が整った。それ以降は、高速化または低速化、高性能化、大容量化など時代の要求に応じて、新材料・新構造・新技術の開発・実用化が行われ、次々と新記録機が製造されて、電力系統の中核を担う水力発電機として発展していった。
日本初の電気扇風機
電球が灯る国産第1号機は、黒く頑丈な姿。
低価格の芝浦電気扇を経て、「扇風機は芝浦」へ。
日本初の誘導電動機
銅鉱山ポンプ用誘導電動機の力強い律動は、
多種多様なモーターが活躍する未来を予感させた。
世界初の誘導電動機は1888(明治21)年テスラにより発明された。日本では1895(明治28)年、芝浦製作所(当社の前身)が銅鉱山ポンプ用6極25馬力18.5kWの日本初の二相誘導電動機を誕生させた。さらに1897(明治30)年、日本初の1馬力の三相誘導電動機を世に送り出し、1910(明治43)年には820馬力という当時としては大容量の電動機を製造している。大正時代に入るとさらに大容量機が製作されるようになった。1913(大正2)年に1,500馬力、1914(大正3)年に1,740馬力、1916(大正5)年に3,500馬力、1917(大正6)年に4,000馬力の誘導電動機を完成し、業界にその威力を示した。
大正中期から昭和の初頭にかけては記録的製品はみるべきものはなかったが、それでも年間製造台数は40万台、製造容量は50万kW近くまでになった。その後、数年間は不況に見舞われたが1932(昭和7)年ごろから活況を呈し、製鉄工業や化学工業などに100馬力以上の電動機を多数納入したのを手はじめに中小容量機も製造した。当時の圧縮機用、電動発電機用大容量のものは20極、30極またはそれ以上の多極機で回転数の低いものが多かった。1940(昭和15)年に6,000馬力、360rpmという圧延用電動機を製作し、大容量機の高速化記録を達成した。
太平洋戦争終結後、1950(昭和25)年になると産業界も復興してきて鉱山や水道、しゅんせつ船などの1,000馬力級大容量機も製作されるようになった。このころから各工業界に技術革新の波がおしよせたため、小形電動機の需要が急速に高まり、その種類も多様化してきた。また大容量機の製造も年を追って増加した。1960(昭和35)年に運輸省・航空技術研究所に納入した風洞実験用電動機(12,000kW、1,000rpm)は国産記録である。このほか輸出も活発でブラジルのウジミナス製鉄所に3,300kW高炉送風機用電動機を納入したほか輸出船の補機用交流電動機も多数納入している。
近年は水中で回転する水中電動機、油中で運転する油づけ電動機、その他ブレーキモーター、モータープーリー、ギヤモーター、チェーンモーターなど各種の用途に適合する特殊の形態のものが開発されている。また可変速交流電動機として従来から整流子電動機を製造してきたがECカップリングを使用したECモーターなどが開発されている。また環境問題への対応として高効率化、低騒音化、高信頼性化が必須となっている。
日本初の手動操作式油入開閉器
明治の終わりに電流遮断の新たな一歩。
木製油入開閉器の主役は乾燥させたアメリカ松。
日本初のプランジャー形保護リレー
プランジャー形保護リレーから誘導円板形保護リレーへ、
その後、高速度の誘導円筒形保護リレーに進化。
日本初の単相積算電力計
電力従量料金制の切り札。
ヨーロッパ産製品にひけをとらない、純国産技術による積算電力計を開発。
日本初のX線管
真空管製造の独自の技術と設備を駆使して誕生。
古代インドの尊者の名を冠した純国産X線管球。
日本初の電気アイロン
国産第1号の電気アイロンは、家電製品の中で量産化が最も早く、
戦前ではわが国の家電普及の先陣を切った。
日本初の三極真空管(オージオンバルブ)
戦前に当社の開発で日本の真空管の歴史が始まり、戦後は日本のエレクトロニクスの発達に貢献した。
1917(大正6)年に当社は、日本で最初の三極真空管(オージオンバルブ)を完成した。これはアメリカのド・フォーレ(Lee de Forest)が実用的な三極真空管を完成してから10年目にあたり、ここに日本の真空管の歴史が始まった。1923(大正12)年の関東大震災の打撃を克服して完成したUV-199は本格的な真空管で、翌1924(大正13)年に始まったラジオ放送の受信用主力管となり、同年末には月産1万本に達したと記録されている。1925(大正14)年以降、自動ステム製造機・万能グリッド巻線機・高周波電気炉、さらに1929(昭和4)年に自動封止排気機(シーレックス)がGE社から輸入され、真空管製造の近代的基礎体制が確立した。更に、国産最初の酸化物陰極直熱管UX-112A、傍熱形UX-226などの歴史的受信管の製作に成功した。1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけて四極管UX-222/224が完成、整流管UX-280が生まれ、さらに1932(昭和7)年には五極管UY-247、可変増幅率五極管UY-235が完成した。またこれらに並行して電池用真空管X-109/111も生まれ、この時までサイモトロンと呼ばれていた商品名を新たに"マッダ受信用真空管"と改めることになった。1933(昭和8)年には耐震構造への切替えが全面的に行なわれ、S形と呼ばれたナス形バルブが、だるま形のST形に変わり、1936(昭和11)年に当社生産の真空管の品種は40種以上に及んだ。
一方、次第に戦争準備段階にはいった軍の要請によって、電池を使用する軍用受信管の開発も進み、UX30シリーズの量産が開始された。1938(昭和13)年に工場の近代化を達成して本格的な量産体制が整えられると供に、6F6/6V6/6J7などの全金属真空管の研究も進行し、小形直熱管(ピーナツ管)11M/14Mが完成し、顕著な技術的前進が認められるに至った。1939(昭和14)年には航空機用として6300シリーズの開発が始まり、翌1940(昭和15)年には、超短波用受信管としてエーコン管954/955の研究も始められたのであった。
戦時体制への進展から1940(昭和15)年前後の情勢は、わが国の家庭用受信機に要する資材に極端な制限が要求された。その解決のためトランスレス方式をとる以外になく、1939(昭和14)年に6C6などを原形とした12Y-R1/V1などの150mAトランスレス・シリーズが開発され、量産に移されることになった。また軍用受信管の増産が強力に要請され、代表的な製品がRH-2/RH-8/CH-1などのいわゆるHシリーズであったが、戦況の悪化とともに、品種を整理して生産体制を簡易にするため、RH-2を母体とした「ソラ」を1943(昭和18)年に完成、これを万能管と称して増産にはいった。この年以降の受信管の研究から生産までは、多摩陸軍研究所の指揮下におかれていた。したがって当社の持っていた技術のほとんどすべてが、社外に公開される結果となった。これは戦後、当社にとっては不利益な条件を残したことになったのであるが、一面わが国の電子管技術の平均水準を上げ、日本のエレクトロニクスの発達に少なからぬ貢献をしたものとして意義があった。
日本初のラジオ用送信管
日本で初めてラジオ放送が始まる9年も前から実験室では国産化を目指して送信管の研究を始めていた。
日本初の送信用アレキサンダーソン型高周波発電機
長距離無線通信を国産技術で実現。
黎明期の国際無線通信を支えた、通信用高周波発電機。
通信は第一次世界大戦後、通信量増加や通信時間の短縮要求に応えるため、ケーブル方式に代わり無線方式が採用されるようになった。初期の火花式送信機や電弧式送信機は、信号の発信に火花放電やアーク放電を利用しているので、出力が安定せずノイズが大きい等の欠点があった。さらに通信量を増やし、通信距離を延ばすために、高出力でノイズの無い信号を連続して送信できる装置が求められた。
そのような中、無線送信機の発信器として、1908年米国GE社のE.F.W. Alexandersonが同氏の名前を冠したアレキサンダーソン型高周波発電機を発明し、1920年頃には多数の出力200kW機が無線通信局で使用されるようになった。出力周波数は20kHz程度であり、通信周波数としては低い周波数に属するが、発電機としては一般的な出力周波数50Hz/60Hz(電力系統周波数)より極めて高いため、高周波発電機と称される。
当時、長距離無線通信技術を必要としていた我が国は、独自技術で同型機を開発することになり、1920年に芝浦製作所が日本海軍からの発注に基づき、125kVA機(出力100 kW)の開発に成功した。125kVA機は、1922年に当時の日本海軍佐世保無線電信所(針尾送信所)に配備され、中国大陸、東南アジア、南太平洋方面の通信に使用された。また、125kVA機は後のさらに出力を上げた400kW機および500kW機の先行開発機という位置付けもあった。
400kW機は、逓信省からの発注で製造され、1922年、原町送信所に配備され太平洋方面の通信に使用された。原町送信所は1923年、関東大震災発生の一報を米国に送信したことで有名である。500kW機は日本軍から発注され、中国北京郊外の双橋無線電信局に配備された。どちらも同型機としては世界最高出力であり、我が国の国際通信に大きく貢献した。
400kW機の完成直後となる大正10年(1921年)7月に芝浦製作所が残した図書「400キロワット特別高周波電動発電機の説明」の文末には、開発の困難さについて記述がある。 「本機製造に当たりて、時あたかも世界大戦の末期に際し、使用材料の輸入殆ど望みなかり為め機械の全部は皆内地製材料を使用せり。是がため弊所員の苦心実に尋常ならざるものありき。しかして各部設計及び製作は皆幾多の見本を製造しかつ之を試験してその結果により決定せしものにて、一片いやしくもせざりし苦心と努力とは製作に関与せざりし人々には想像だもなし能(あた)わざる所にして、全機は実に各担当者の努力の結晶と称するも敢えて過言に非ずと信ず」
今日、世界的に見ても保存が確認されている大出力のアレキサンダーソン型高周波発電機は本125kVA機(東芝エネルギーシステムズ株式会社京浜事業所所蔵)と海外にあるGE社製200kW機2台のみであり、技術遺産として大変貴重なものであると、電気学会より2019年3月、「第12回でんきの礎」に顕彰された。
世界初の二重コイル電球を試作
エジソンの炭素電球、クーリッジの引線タングステン電球、ラングミュアーのガス入り電球に匹敵する世界的な発明。
日本初の40トン直流電気機関車
民間企業初の国産電気機関車は昭和61年まで近江鉄道で活躍していた。
日本初のラジオ受信機
交流電源によるラジオ受信を可能にする受信用真空管により、
「ラジオは電灯線から」が実現。
世界初の内面つや消し電球
クーリッジ博士の引線タングステン電球、ラングミュア博士のガス入り電球に匹敵する世界的な発明。
日本初の電鉄用鉄製水銀整流器
国産初の電気鉄道用鉄製水銀整流器を経て、
四半世紀後、1,500V 1,000kW鉄製水銀整流器が誕生。
日本初の電気洗濯機
日本初の電気冷蔵庫
国産第1号の家庭用冷蔵庫は、内容量125L、重量157kg。
金庫を思わせる堂々たる風格の立ち姿。
日本初の電気掃除機
走行車輪がついた国産第1号の電気掃除機の価格は110円。
小学校教員の初任給約2か月分に当たる高級家電。
日本初の蛍光ランプ
発熱がなく明るい照明が求められ、試作品の20W昼光色蛍光灯136灯が法隆寺金堂壁画を照らす。
米国GE社のインマン博士が発明した蛍光ランプが実用化されたのは1934(昭和9)年であるが、一般への販売が始まったのは当社で量産体制が整備された1937(昭和12)年からであった。
早急に事業化しようと、1939(昭和14)年に3名の技術者(藤田文太郎、射和三郎、轟甚三)をGE社に派遣し、インマン博士から直接技術指導を受け、翌年には少量ながら蛍光ランプの製作に成功した。すべての部品が手作りで、GE社のインストラクションを頼りに試作が進められ、4本足の真空管のベースを取り付けて完成させた。
その後、国の紀元2600年記念事業の法隆寺金堂壁画模写事業において、熱がなく明るい照明として完成の域に達していた開発中の蛍光ランプが採用され、1940(昭和15)年8月27日、試作品の20W昼光色蛍光灯を136灯使用した。点灯方式はチラツキを避ける2灯用フリッカーレスが用いられた。これが日本で初めて蛍光灯が実用化された記念すべき日となった。
その後、翌1941(昭和16)年に蛍光灯を“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売した。15W、20Wともに管径は38mmで、全長は435mm、580mmだったが、明るさは現在の半分以下だった。1942(昭和17)年には、昼光色蛍光ランプの生産は月産約2,000本に達したが、1944(昭和19)年には軍需用に転換させられ、自動排気機の完成まで今一歩というところで、戦災のために焼失した。
戦時中は、発熱量の少ない蛍光灯として、潜水艦の照明用に耐震性の高い20W昼光色が、また航空母艦の着艦灯として12W緑色が採用されたほか、無影灯用としてほとんど全製品が海軍艦政本部に納入された。
戦後になると、真空管の製造拠点であった堀川町工場を本社に直結した工場組織に改め、まず1946(昭和21)年に誘蛾灯の生産から出発した。一般用蛍光ランプの生産開始の足がかりとし、1948(昭和23)年には昼光色蛍光ランプの生産も再開し、翌年には改良蛍光体を使った効率の良い白色ランプの開発とともに、光出力の大きい40W蛍光ランプを完成し、横浜で開催された貿易博覧会で点灯し、話題となった。
1951(昭和26)年には、蛍光ランプの明るさを世界的水準まで上げ、平均寿命も一挙に2倍の3,000時間をマークし、管端黒化の発生も抑制した。1952(昭和27)年には早期寿命推定法を品質管理に導入し、陰極物質の研究を重ね、米国で発表された耐熱性酸化物に代わる長寿命新陰極物質を開発した。1954(昭和29)年には平均寿命が7,500時間と向上し、明るさとともに外国主要メーカー製品と比肩することができた。
世界最大の鴨緑江水力発電機
昭和13年、日本を取り巻く内外の情勢が緊迫の度を強めるなか、
水豊発電所用の水車及び発電機が発注された。
日本初の純国産の万能真空管「ソラ」
戦後、品質管理手法でデミング賞を受賞、
初代南極越冬隊長を務めた西堀栄三郎氏が開発。
当社は1916(大正5)年に真空管の研究に着手し、1917(大正6)年にわが国初の真空管オージオンバルブを完成、ここにわが国の真空管の歴史が始まった。
ついで、1924(大正13)年にラジオ放送が開始され受信用真空管の需要が本格化するにともない、1925(大正14)年以降、自動ステム製造機、万能グリッド捲線機、高周波電気炉、さらに自動封止排気機を輸入整備して真空管製造の近代的基礎体制を確立した。また、1928(昭和3)年にわが国で初めて酸化物陰極管の製作に成功、1933(昭和8)年になす形バルブをだるま形にするなど全面的に耐振構造への切替えを 行うと同時に新品種の開発を進め、1936(昭和11)年には当社の真空管生産品種は40種をこえるに至った。
この頃から、次第に戦争の準備段階に入った軍の要請により軍用真空管の開発に取り組み、1940(昭和15)年には超短波帯用エーコン管を完成した。
その頃、他社が独国テレフンケン社のST管をベースに開発した万能真空管(FM2A05A)は、製造努力にもかかわらず歩留まりの悪さが改善されず、絶対数が不足していた。そのため、海軍が真空管の製造を委託していた当社にも万能真空管(FM2A05A)の製造要請が来た。しかし、当時の西堀栄三郎技術本部長(戦後に南極観測隊の初代越冬隊長や品質管理手法でデミング賞を受賞)は製造の難しいことを理由に了承せず、当時の山口喜三郎社長の説得にも応じなかった。海軍としては何としても製造を受けさせるべく、西堀本部長を横須賀の追浜での会議に呼びつけ、国賊とまで罵った。そこで、同じ性能の万能真空管を一カ月以内に50個作ると約束した。
要求された万能真空管(FM2A05A)は電極にボタンステムを採用していたが、当社が得意としているピンチステムではプレートとグリッド間の静電容量(Cpg)がある値以下にならない問題があった。ところが実験室で真空管を壊して静電容量を測定中に解決のヒントが見つかり、代わりとして当時すでに航空機用として使われ始めていたGT管(RH-2)を原型に、1943(昭和18)年「ソラ」の開発に成功した。「ソラ」は大量生産できることを前提に設計され、材料も極度に不足している状況から「トタン屋根を剥しても作れる」ように考えられた。品質管理基準を完備し、徹底的に微細な部分に至るまで製造マニュアルを作成して「どんな素人でも製造可能」と言われるほど優れたものだった。しかし、1945(昭和20)年になると、工場は次々と爆撃を受けて廃墟になり、高度な真空管の製造機械を製造する余裕はなかった。そこで、この時代に合わせた半自動の製造機械を工夫した。必要なものは、ガラス細工とその排気管を焼きとる小さなバーナー、そして高周波電源だけであった。高周波電源には、円盤形の放電による軍用の発信機を使った。さらに、ガラス細工をするためのガスを求めて、山形や新潟など疎開先で真空管の製造を計画し、ある程度製造を始めたころに終戦を迎えた。
日本初の発電用ガスタービンを完成
戦前の高速魚雷艇用ガスタービンが、地下から掘り出され、
戦後、日本初の発電用ガスタービンとして生まれ変わった。
1943(昭和18)年、石川島芝浦タービン(現:当社のタービン部門)が、海軍から高速魚雷艇用エンジン開発の依頼を受け、その開発に着手した。当時、わが国にはまだガスタービンの技術はなく、欧米のわずかな資料をもとに、技術者たちは文字通り寝食を忘れて、その開発に取り組んだ。その甲斐あって、1944(昭和19)年には試験運転を行うまでになった。しかし翌年、終戦となり、このガスタービンを工場の空き地に埋めてしまった。終戦後、このガスタービンの開発を知った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から、ガスタービンの図面を持って出頭せよとの命令があり、関係者は何か尋問されるのではないかと恐る恐る出頭した。ところが、とても丁重に迎えられ、しかも持参したその図面を売ってくれと言われ、関係者はまったく予想外の話に驚き、図面を渡すのもそこそこに、早々に退散したと伝えられている。
このガスタービンは当時の鉄道技術研究所(鉄研)の要請で掘り起こされ、1949(昭和24)年に日本初の発電用ガスタービンとして生まれ変わり、「鉄研1号ガスタービン」として命名された。その後、このガスタービンの軸流圧縮機、燃焼器、タービンなどの主要部分について詳細な研究が行われ、その成果は、わが国のガスタービン技術の発展に大きく貢献した。当社は、当初から海外企業との技術提携のもとに、国内外向けに多くの発電用ガスタービンを製作していた。第2次オイルショック以降の1980(昭和55)年ごろになると、発電効率を一段と高めることができるコンバインドサイクル(C/C)発電システムが注目されるようになった。これは、まずガスタービンで発電し、その排ガスを排熱回収ボイラーに導いて蒸気を作り、それで蒸気タービンを回して、さらにエネルギーを得ようとするものである。従来は、ガスタービン単独では排熱エネルギーが大きく、熱効率が低いため蒸気タービンに太刀打ちできなかったが、このコンバインドサイクル方式をとることによって、蒸気タービンより高い熱効率が得られるようになった。また、ガスタービンの燃料としてLNG(液化天然ガス)を用いることによって、排ガス中のCO2を低減できることから、現在ではLNGによるコンバインドサイクル発電が多く採用されるようになっている。
当社は、アメリカで多くの実績を持つGE社と1982(昭和57)年にガスタービンに関する技術提携を行い、大型発電用コンバインドサイクル(C/C)発電所の建設を開始した。その年、1,100℃級ガスタービンで構成される東京電力富津火力発電所1号系列向けに、1,000,000kW発電プラント(7軸で構成)の1軸を製造した。1990年代に入ると、ガスタービンの高温化による高効率化が進み、燃焼ガス温度は1,300℃級となった。1998(平成10)年には、中部電力新名古屋火力発電所7号系列1,458,000kW(6軸で構成)コンバインドサイクル発電プラントを完成した。
日本初の磁気遮断器
(東芝マグネブラスト遮断器)の誕生
アークの性質上実現困難とも言われたが、前例のない新アーク制御でブレークスルー。
昭和20年代は、電圧3.3kV~6.6kV級の高圧遮断器としては、絶縁油を遮断媒体とした油遮断器(油入遮断器ともいう)が使われていた。
当社は1943(昭和18)年に磁気遮断器の原型となる曲隙型磁気吹消気中遮断器を開発した。この遮断器は遮断媒体に絶縁油を使用しないため、火災に対する懸念がないという特長があったが、それまで使われていた油遮断器に比べ外形寸法が大きかった。また、遮断あるいは開路する電流を利用して作られる磁束と、その時発生するアーク(アーク電流)の相互作用(フレミングの法則)によって、接触子間に発生したアークを引き延ばして冷却遮断すると言う遮断原理から、短絡電流のような大電流の遮断時には大きな消弧能力が生じるが、1,000A以下の小電流の遮断時には消弧能力が低下しアーク時間が極端に長くなると言う大きな課題があった。このため、この遮断器は商品化には至らなかった。
遮断媒体を使わない自力消弧方式遮断器の宿命といわれていた小電流の遮断に対しては、開閉動作時の可動側にピストンを固定部にシリンダーを取り付けたエアーブースター(空気吹き付け機構)を考案した。これは、開路動作によって接触子が開離した時に、閉路動作に伴ってピストンがシリンダー内で圧縮した空気流を可動アーク接触子へ吹き付け、接触子間に発生したアークをアークシュート(消弧装置)内へ押し込む方法で、これによってアーク時間を短くした。また、外形寸法の小型化に対しては、アークシュートを下向きに配置する構成によって、油遮断器と同等以下の容積に収めることができた。このアークシュートを下向きに配置する構成は前例もなく、アークの性質上実現困難ともいわれたが、綿密な検討と検証試験を経て課題を解決した。かくして、国産初の磁気遮断器が誕生したのである。
その1号機は、形式AKM-5、定格3,450V-600A、800A、1,200A-50MVAであり、1951(昭和26)年8月、東芝マグネブラスト遮断器という商品名でキュービクルに収納され、東京八重洲口のブリヂストンビルに納入された。この製品は、配電盤・器具関係の乾式化の一号製品でもある。
1953(昭和28)年には、気中遮断器の東芝マグネブラスト遮断器を収納したキュービクルを東京電力日比谷変電所へ、オール乾式変電設備として納入した。
定格は6,900V-1,200A-250MVAで、東芝マグネブラスト遮断器の技術的基礎を築いたものである。
磁気遮断器は消弧媒体に絶縁油を使わないので、火災に対する懸念がなく、保守点検が容易であり、また自力消弧方式のため、遮断時にサージ電圧を発生しないと言う特長から、需要が拡大し、モデルチェンジを重ねながら定格容量も拡大して、ビル施設や工業動力制御用から、火力発電所や原子力発電所の補機設備用として広範に使われるようになった。
このようにして、東芝マグネブラスト遮断器は、昭和30年~40年代にかけて全盛期を迎え、真空遮断器が登場するまで、このクラスの主力遮断器として、ひとつの時代を形成したのである。
日本初のテレビ放送機
NHKとの共同研究を進め、テレビ新時代の要請に
俊敏かつ果敢に対応。テレビ放送用各種機器で活躍。
当社のテレビの研究は1928(昭和3)年に始まった。この年は英国のベアードが初めてテレビジョンの実験を行ってから3年後に当たる。当初の走査方式はニポー円板を用いた機械的方法で、送像側は光電管によって光の明暗を電気信号に変換し、受像側ではネオン管の電流強弱により映像を再生していた。1930(昭和5)年米国でファルンスワース方式が発表されると、当社のテレビジョン研究の方向は全電子式走査方式に転換することになり1933(昭和8)年には走査線120本、毎秒像数20枚でフィルム送像の実験に成功した。
1937(昭和12)年になると、日本のテレビジョン研究もかなり充実し実験放送の開始が要望され、これに備えて日本のテレビジョン標準方式を審議するため1938(昭和13)年に電気学会にテレビジョン調査委員会が設置された。同年9月に暫定標準方式として走査線数441本、毎秒像数25枚、飛越走査、電源同期などが決まった。
その後紀元2600年に当たる1940(昭和15)年に、国際オリンピックを東京に招致しようとする計画がおこり、その実況をテレビ放送しようと企て、カメラ、送信機、受像機の開発が計画された。大電力送信管として陽極損失30kWの両端水冷管SN-628が開発され、42MHz、20kWのテレビ用超短波送信機が準備された。残念ながらその後の国際情勢の悪化によりオリンピックは中止となったが、この準備期間中の努力でテレビの総合技術レベルは著しく向上し実用化段階まで到達した。開発された各種装置は1939(昭和14)年、全国各地で公開され一般大衆へのテレビ知識の普及に貢献した。
現行のテレビ標準方式(525本、30枚、電源非同期)は1952(昭和27)年に制定された。この年、東京、名古屋、大阪地区に対するチャンネルプランも発表され、1953(昭和28)年2月1日にそれまで実験電波を発射していたNHK東京局が映像5kW、音声2.5kWをもって正式放送を開始し、8月には初の民間放送局として日本テレビ(NTV)が開局した。
テレビ放送用各種機器は1951(昭和26)年からNHKと当社の間で共同研究を開始した。日本初のテレビ放送機は正式放送の前年、1952(昭和27)年、大阪生駒山放送所に据え付けられ、京阪地区の実験放送に使用された。この装置は映像5kW、音声2.5kW、電源非同期型に設計され、真空管は新たに開発された6F50R(エクサイター)、7T24R(電力増幅)を使用した。当社はテレビ新時代の要請に俊敏かつ果敢に対応 し、カメラ、放送機、受像機まで殆どの機器を開発した。
日本最大のかさ形水車発電機
急激に増加する電力の需要に対応すべく誕生した、
日本最大の72,500kVAかさ形水車発電機。
日本初のウインドウ形ルームクーラー
実験室の床にバケツで水をまいて温湿度を徹夜で測定、
開発から約10カ月という超スピードで発売。
日本初の計数形電子計算機
米国製コンピューターが8時間かけてできない計算を2時間で完了できる「TAC」を開発。
現在のコンピューター産業の礎を築く。
日本初の自動式電気釜
自動式電気釜は、主婦の家事労働のかかる時間を大幅に減らし、
生活様式にも変化をもたらせた。
日本初の業務用電子レンジ
業務用から家庭用へ。
高い技術力を結集した電子レンジは、常にユーザーの視点で開発されてきた。
1956(昭和31)年に研究を始めた電子レンジは、1959(昭和34)年に国産第一号機を完成させ、翌1960(昭和35)年に開かれた大阪国際見本市に出品して注目を集めた。翌1961(昭和36)年に市販第一号機を発売し、汎用電子レンジのデビューとなった。翌1962(昭和37)年には国鉄の食堂車に採用され、1964(昭和39)年の新幹線開業時からビュッフェで暖かい本格的な料理を提供するという当時としては画期的なサービスを提供した。1965(昭和40)年からは一般の食堂やレストランで使える業務用普及型を発売し、一般のレストランで広く利用されるようになっていった。
さらに当社は1966(昭和41)年に世界初のオーブン内空焼防止装置アイソレーターを開発し、これを装着した新機種を世に出した。オーブンを空のまま作動させると高価なマグネトロンが破損し、寿命短縮の原因になっていたからである。マグネトロン1本で最大出力2kW、しかも調理に応じて出力が3段階に切り換えられる機種も同時期に発売した。
その後、家庭用の需要が急速に伸びてきたこともあって、1968(昭和43)年に家庭用高性能型、翌1969(昭和44)年に改良型を発売した。これらは当時の米国厚生教育省が指摘した電波もれの心配もなく、技術力の高さを示したものである。
1970(昭和45)年には扉を開く時の電波リークを完全に止めたドアロック機構と、オーブンの内部で異常温度を検出するオーブンサーマルスイッチを付けた新機種を発売し、翌1971(昭和46)年には、ドアロック機構を改良、使いやすいワンタッチハンドル方式を採用し縦開きを実現した。また同年、高周波出力1kW、翌年には1.8kWの業務用新機種を発売するとすぐに、山陽新幹線食堂車で採用された。
この年、横型横開きワイドオープンのイメージを大きく変えた600W型を開発した。さらに使いやすさを追究した400W型、料理カードを付けた600W型を続けて発売した。さらに1974(昭和49)年には回転棚とスタラファンの両方を備えた豪華型を発売し、安全性を考慮して扉ののぞき窓に透明プラスチックのバリアを付けるなど、消費者のニーズをきめ細かく反映した開発を続けている。
1968(昭和43)年からは輸出向け機種も開発し世界各国で使われた。
世界初のへリカルスキャン方式VTR
世界中の数億台のVTRに使われている
「ヘリカルスキャン方式」で、80年代の日本経済発展に貢献。
日本初のトランジスター式テレビを開発
当時は困難とされていたテレビのトランジスター化に挑み、
東芝製の純国産トランジスターで夢を実現。
1953(昭和28)年にテレビ放送が開始されて以来、テレビ受像機には真空管が使用され、テレビのトランジスター化は困難とされていた。当時のトランジスターはラジオに使えても、テレビに使用するには高周波特性や耐圧が低く、また扱える電力が小さいなど真空管と比べ性能が不十分であったからだ。真空管もトランジスターも電子が主役の能動素子だが、結晶中の電子を扱うトランジスターは半導体という物理学的な基礎研究からトランジスター構造の細かい作り方までの技術革新が必要だった。点接触型から始まったトランジスターは合金型、成長型と進展し、信頼性と再現性(歩留まり)という条件をクリアした「使いものになるトランジスター」つまり拡散法によってベースの厚さを薄くしたメサ形(スペイン語で台地)トランジスターの登場によって、テレビのトランジスター化の機運が高まってきた。
当社はさまざまな課題を克服し、1959(昭和34)年に日本初のトランジスター式テレビを開発した。ブラウン管には90度偏向8型(20cm角型)を使用し、高圧整流管の他は全てトランジスター化し、ダイオードを含め32石全て東芝製の純国産トランジスターを使用した。電源は22Vと6Vのバッテリーを搭載し、消費電力は真空管式テレビの約1/3の30Wを実現し、重量もトランス付き受像機の半分(14.5kg)と小型軽量化を図った。トランジスターは、100MHz近辺の周波数で十分使用可能な高周波特性を改善したVHF用トランジスターを開発した。また、大きな電力を必要とする水平偏向回路のために、高耐圧大出力トランジスターを開発した。さらにトランジスターの開発と平行して偏向電力を軽減するため、新たな受像管、回路、部品を開発した。1959(昭和34)年3月4日、東芝本社(当時の銀座ビル)で社外発表した。その当時、米国ではモトローラ社およびGE社のみが前年に試作発表していたが商品化はされておらず、当社の技術力の高さと先進性を世界にアピールした。
さらに1960(昭和35)年には高圧整流用のシリコン整流器を開発し、ブラウン管以外を全て半導体化した国産初のオールトランジスターテレビを開発した。このオールトランジスターテレビのブラウン管アノード(陽極)には、一般の受像機と同じように水平出力回路で発生するパルス電圧を利用している。高圧発生トランスによって約40倍に巻き上げ、特別に開発したシリコン整流器2本を使って倍電圧整流して6kV、100μAを得ている。従来のトランジスター受像機では高圧整流は真空管を使用しているが、このセットは特に開発したシリコン整流器(M8317A)を使用し、全半導体化受像機を実現した。またこのセットは交流電源100Vと直流電源12Vでの使用が可能で、交流で使用する場合の電源トランス、整流器などを全て内蔵し、交流電源で電池の充電にも使用できた。
日本初のカラーテレビ受像機
美しい画像を追求し、繰り返されるテスト。
21型丸形受像管から、純国産17型角形受像管へ。
白黒テレビ誕生から7年後の1960(昭和35)年9月にカラーテレビの本放送が始まった。当社は1950(昭和25)年からカラーテレビの研究に着手し、カラーテレビの本放送開始に先駆け日本初のカラーテレビ受像機21型D-21WEを開発し、7月1日に市販を開始した。翌1961(昭和36)年には国産カラー受像管純国産カラーテレビ17型17WGを開発した。1953(昭和28)年12月、米国での標準方式のNTSC方式採用が決まると、NHK技術研究所を先導に、各メーカーの技術研究部門はNTSC方式の研究に注力した。1950年代後半から60年代にかけ白黒テレビの需要が急速に拡大するなか、当社ではカラーテレビ開発も全社的な取り組みと積極的人材投入が行われた。白黒テレビのライセンスに包括して送られてくる米国RCAの資料と文献をもとに、NHK技術研究所へ日参し研究結果を確認した。米国のキーコンポーネンツをもとに、明るさ、コントラスト、色彩や解像度の向上を求め、回路や部品を一つ一つ決め試作機を作り、何度も手直ししながら動作確認をした。総合評価に必要な信号源はNHK技術研究所から毎週金曜日に出されるUHF(669MHz)の試験電波を小向工場屋上のアンテナで受け、受像機テストを繰り返した。
当時、21型の丸形受像管は米国製が主力だったが、日本の家庭に合った大きさと重量を考え、純国産のカラー受像管は17型の角形とし、1957(昭和32)年5月にNHK技術研究所を中心に国内の受像管メーカーと部品材料メーカーが集まって「カラー受像管試作委員会」が発足した。21型のRCA社製丸形受像管の調査・研究に、ガラスバルブ、シャドウマスク、蛍光体、フリットガラス、電子銃などの部品材料類や露光台などの設備、受像管組立技術の開発と試作が行われた。マツダ研究所ではカラー受像管の研究が行われ、17型の開発・商品化は管球事業部が担当した。三色蛍光面製作やフリットシール(ガラスのハンダ付)など難問を克服し、1958(昭和33)年12月25日、17型角形カラー受像管の原型が誕生した。
2カ月後の1959(昭和34)年2月18日には、試作委員会で製作された純国産部品を使用した17型カラー受像管430AB22を完成させ、国産第1号として公開発表した。翌1960(昭和35)年7月に、17型17WGに搭載し名実ともに純国産カラーテレビ受像機として世に送り出した。 カラーテレビ用真空管のラインアップは当社で段階的に揃えていき、その他数多くの部品は部品メーカーと勉強会をもち回路理論、物性論、スペース性、信頼性、原価などの議論を交わしながら仕様をまとめた。カラーテレビ受像機はこうして東芝小向工場に設置された専門工場で生産されたのである。
日本初のマイクロプログラム方式
コンピューターの開発
演算速度は他のコンピューターに比較して数百倍。
その圧倒的な速さに当時の京都新聞に驚きの記事。
1961(昭和36)年、当社は京都大学と共同で「新方式電子計算機」の開発に取り組み、パイロット計算機を完成させた。京都大学の頭文字“K”と東芝の“T”を組み合わせて“KTパイロット計算機”と名付けられた。この計算機には、国産のコンピューターとしては初めて薄膜記憶装置を実装した。また新しく開発したシリコンのメサ型トランジスターを採用した高速度基本回路を用い、並列非同期式高速演算方式を採用した。
この「新方式電子計算機」とは、日本初のマイクロプログラム方式コンピューターで、電子計算機の命令体系を自由に変えて、種々の目的に従った電子計算機システムを一つのハードウェアで実現しようという試みである。このマイクロプログラム方式はイギリスのケンブリッジ大学数学研究所(後のコンピューター研究所)のモーリス・ウィルクス博士が1951(昭和26)年に提唱したもので、高速な固定メモリー(ROM)の上で特殊化されたプログラムを使いコンピューターの中央処理装置(CPU)を制御するという考え方を発展させたものである。現在では一般化している固定メモリー(ROM)による電子計算機制御の最初であった。
しかも、この固定メモリー(ROM)を可変にするという考え方で、マイクロプログラム用の固定記憶装置はダイオードによる記憶装置を用い、可変記憶装置としてはパッチボード方式およびフォトトランジスター(光センサー受光デバイス)による独自方式を用いた画期的なものであった。
このKTパイロット計算機は非同期方式で、通常の一定周期のクロック信号を持たず、代わりにマイクロ命令ごとにそのマイクロ命令の実行時間を指定するビットを持たせている。そこで指定されたビットに対応する遅延線の出力を感知することによって、そのマイクロ命令の実行を終了し、次の命令に移るという制御方式を用いた。
当社が開発したシリコンのメサ型トランジスターを使った高速基本回路と非同期制御方式の採用によって、その当時のコンピューターに比較して1桁以上の高速演算を実現していた。特に、自然対数の底eや円周率πの計算では可変マイクロプログラムに演算用のマクロ命令を追加することで、演算時間を大幅に短縮することができた。
1962(昭和37)年8月、当時の西独ミュンヘン市で開催された情報処理国際連合(IFIP)の会議で、この研究成果を発表した。すると、IBMがSystem/360を発表する前でもあり、世界最高速の電子計算機として高く評価された。1963(昭和38)年12月15日付けの京都新聞には、その圧倒的な演算速度に驚嘆した記事が掲載された。その後、KTパイロット計算機を原型として、科学技術用の大型汎用計算機TOSBAC-3400が開発された。
日本初のスプリット形ルームエアコン
カーエアコンのセルフシーリングカップリングをヒントに
国産第1号のスプリット形ルームエアコンを開発。
スプリット形ルームエアコンは、1961年(昭和36)年4月に当社が業界に先駆けて発売した「CLU-7I」(室内機)と「CLU-7H」(室外機)が、日本初である。その後、新機種の開発を進め、機種構成の拡大をはかり、冷房機能だけのルームクーラーから、冷暖房兼用のルームエアコンへの脱皮を行い、年間を通じての空調機器として機能するようになった。当時ルームクーラーはウインドウ形、水冷フロア形が主流であり、その据え付けはビルの事務所、店舗などが多く、一般家庭用としては家屋の構造などの制約もあり、普及は伸び悩みの状況であった。
そこで、業務用冷凍機のようにクーリングユニット(室内機)とコンデンシングユニット(室外機)を分離して、配管工事を現地施工する方法を考えたが、一般電気店では溶接を伴う施工は困難であったので、対応に苦慮していた。そんな折、当時のカーエアコンの開発製造を行っていた柳町工場で、新開発のカーエアコンの冷媒配管に溶接工事のいらないセルフシーリングカップリングを採用したところ、良好な成績であったので、家庭用エアコンにもこの方式を採用することを検討した。
このセルフシーリングカップリングは米国エアロクイップ社が航空機部品として開発した方式で、技術提携していた横浜ゴム(株)から柳町工場に売り込みがあったものだった。これを使用すれば現地で冷媒ガスの注入や配管の溶接工事をしなくても冷凍機工事ができることが分かり、早速試作を行った。3/4馬力コンプレッサーを使用し、クーリングユニット(室内機)とコンデンシングユニット(室外機)に分割し、配管にセルフシーリングカップリングを付け、様々な実験を重ねた結果、ガス漏れもなく、動作も確実で実用に耐えうることが分かり商品化を計画した。
1959(昭和34)年柳町工場にてルームクーラーやカーエアコンなどの部品や機能を様々な角度から比較検討して開発されたものは現在のスプリット形ルームエアコンの原型となっている。これらの実験は、現在のような自動化設備もなく、実験グループが食塩やビタミン剤の配給を受けながら、高温多湿の実験室で苦労の末成功したものである。そして、1961(昭和36)年に試作機の3/4馬力から冷房能力を1馬力にアップし発売した。当時エアコンの生産は柳町工場から富士工場に順次移管されつつあったが、新開発商品ということで初ロットは柳町工場で生産された。その後、富士工場に移管され、次々と新機種を開発して機種構成は大幅に拡大された。その間、室内ユニットは壁掛け形が開発され現在の主流となっている。また、機能面では1971(昭和46)年に除湿タイプ、その翌年にヒートポンプタイプが開発され、家庭用エアコンの省エネの先駆けとなった。
日本初のカラー用イメージオルシコン
戦前のアイコノスコープから、戦後のイメージオルシコンまで、
一貫して日本の撮像管の開発をリード。
日本初の原子力用タービン発電機
日本に初めて原子力発電の火が灯って半世紀。
日本初の試験用原子力発電として、日本原子力研究所(現:日本原子力研究開発機構)が米国GE社から導入した動力試験炉(12.5MW)を建設することを決定した。当社はタービン発電機を納入したほか、制御棒駆動機構を含む原子炉の制御系を担当し、発電所の建設など実務的な経験を蓄積した。この試験炉は1963(昭和38)年10月に初発電を行い、日本の原子力発電の第一歩をしるした。
翌年、GE社およびWH社が、経済性でも原子力発電は火力発電に十分太刀打ちできると発表したのを受けて、将来の石油供給に不安を感じていた先進諸国が競って導入をはじめ、日本の電力会社も米国から原子炉を導入することになった。
当社もGE社の沸騰水型原子炉(BWR)の技術を導入し、商用原子力発電所の建設を進める準備を始めた。GE社を中心とする沸騰水型原子炉(BWR)の建設には日立製作所も参加し、WH社を中心とする加圧水型原子炉(PWR)を製作するグループには三菱グループが参加した。
日本初の大型商用原子力発電所として、1966(昭和41)年4月に着工された敦賀発電所(357MW)は、GE社がターンキー契約で建設を行い、当社が格納容器、タービン補機の製作を担当したほか、プラント建設にも参加した。1970(昭和45)年3月に運転を開始し、世界最短工期などの成果は高く評価された。また敦賀発電所と同じくGE社から輸入された福島第一原子力発電所1号機(460MW)の建設にあたって、当社は原子力圧力容器、炉内機器などの原子炉系設備を分担製作し、敦賀発電所の製作経験と合わせて発電所全体の設備経験を習得した。
さらに、福島第一原子力発電所2号機(784MW)は、GE社が原子炉およびタービン発電機の主機を供給、当社はBOP機器(Balance of Plant)を製作し、納入したほか、配管、配線工事を含む全プラントの据え付けを担当した。この2号機は1974(昭和49)年7月に全出力運転試験を完了し、発電を開始した。また、3号機および5号機は、同2号機と同容量、同一設計で、ともに当社が主契約者としてプラント建設から製作、試運転まで担当し、国産プラントとして9割以上の機器を国産化した。
当社は、次世代を担う改良型沸騰水型原子炉(ABWR)の開発を早くから目指しており、1975(昭和50)年には原子炉に内蔵されるインターナルポンプや改良型微調整制御棒駆動機構(FMCRD)などの採用を提案し、その開発を進めた。その後、東京電力のバックアップもあり、GE社と日立製作所の3社で共同開発を進めることになり、実証試験については国の支援を受けながら20年の歳月をかけて、原子力発電所の安全性と信頼性を追求してきた。その結果、当社、日立製作所、GE社の3社はABWRの初号機となる東京電力柏崎刈羽原子力発電所6号機と7号機を共同で建設し、1996~7(平成8~9)年に無事運転を開始した。
日本初のフェーズドアレーアンテナ(P-AA)
最初の東芝方式電子走査アンテナの研究は高速飛翔体をレーダー追尾するために開発され、
機械方式の性能を上回ると期待された。
日本初の真空スイッチと縦磁界電極で大容量化
当社のプラズマ研究から「縦磁界電極」の発見があり、
「真空遮断」が受配電の分野で世界の標準遮断器となった。
世界初の大容量静止型無停電電源装置
電力用半導体素子(サイリスター)の開発で大容量化を実現。
現在の高度情報社会を支える無停電電源システムの基盤になった。
コンピューターをはじめとする情報処理システムや通信機器に安定した電力を供給する装置として以前は回転型のモーター・ジェネレーター装置(MGセット)が使用されていたが、1964(昭和39)年に当社は初めて電力用半導体素子のサイリスターを適用した静止型無停電電源装置(容量は5kVA)を実用化した。
3年後の1967(昭和42)年には200kVAという大容量無停電電源装置を実用化し、1秒の停電も許されない航空機の発着・管理などを行う東京国際空港羽田飛行場の管制システムに採用された。
基本機能は、常時商用の交流電源を受電し、これをシリコン整流素子で直流に変換後、サイリスターインバーターで安定した交流電力に変換して負荷に供給する。また、これと同時に充電器によって蓄電池を充電しておくことで商用電力が停電した際、直ちにその蓄電池からサイリスターインバーターに直流電力を供給し、インバーターは停電することなく交流電力を負荷に供給し続けられる。また、停電によって蓄電池の電源を使い果たす前に、商用電源とは別に備えた非常用自家発電装置を起動し交流電力を作り、停電中の商用電源に代わって交流電力を供給し、運転継続できるシステムである。
当時は電圧や周波数が安定した電源装置という意味合いで定電圧定周波数電源装置(CVCF)と称されていた。現在では無停電で電力供給し続ける機能を重視して無停電電源装置(UPS)と称している。その頃からコンピューター時代への移行が急加速され、コンピューターは高速化、高性能化、大規模化が進み、それに伴いコンピューターを停止させないための安定した高信頼度の無停電電力が不可欠となってきた。
1970年代には高信頼度を実現させるためのシステム技術が進展し、商用電源をバイパス電源として無停電で負荷給電継続するための無瞬断切換えスイッチの実用化、複数台のUPSからなる並列冗長システムを構成する高速サイリスター遮断器の実用化、高性能、高信頼度のシステム制御技術の開発が進み、50kVAから300kVAを標準化したTOSNIC(Toshiba Non Interruptible Converter)シリーズを製品化した。
直流から交流への電力変換には当時600V-300Aの高速サイリスターと転流リアクトル、転流コンデンサーを用いたマクマレー方式インバーターが使用されたが、その後自己消弧形電力用半導体素子が出現し、ゲートターンオフサイリスター(GTO)を経て絶縁ゲートバイポーラトランジスター(IGBT)を使用したインバーター、コンバーターが用いられた。電力用半導体素子の発展とともにUPSは高性能、高機能、高信頼度を実現し、社会の要請に応え目覚ましい発展を遂げてきた。1980年代後半には1カ所で13,000kVAものUPSが設備されたオンラインシステム用計算センターが登場し、現在では高度情報社会を実現するデータセンターや各種管制システム、半導体製造工場などの重要なシステムに24時間365日無停電で電力を供給し続けるためには無くてはならない電源システムとなっている。
世界初の郵便物自動処理装置
世界初の手書き文字認識により、手作業を機械化。
高度情報化社会における省力化機器の先駆けに。
日本の郵便制度の仕組みは1871(明治4)年に始まる。郵便物の区分業務は当社が1967(昭和42)年、世界初の手書き文字を認識する郵便番号自動読取区分機を開発するまで約100年間、人手で区分したため、作業者の熟練度により能率が左右された。
1965(昭和40)年、郵便業務効率化のため機械導入が検討され、郵政省の指導のもとに、機器事業部(当時:柳町工場)と総合研究所(現:研究開発センター)でプロジェクトを編成した。まず郵便局内の作業を系統的に分析することから着手し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を推進した。
1966(昭和41)年に、制限手書き数字を読み取る最初の試作機が完成後、自由手書き数字の読み取りについて委託研究を受け、全国から集めた千差万別の手書き文字を分析し、読み取りの可能性を報告した。1967(昭和42)年には総合研究所の光学文字読取技術(OCR)を使用し、ついに世界初の手書き文字読み取り試作機TR-2型を完成させた。
この区分機は書状本体を取り扱う機構部、郵便番号から書状の区分先を決め機構をコントロールする制御部、郵便番号を判読する認識部の3部で構成されている。供給部に置かれた書状は1通ずつ取り出されて搬送され、郵便番号はビジコンカメラによって撮像され電気信号に変換され、郵便番号だけを検出し切り出す回路により数字信号が識別部へ送られ、特徴抽出方式による判読は制御部に伝えられ、ここで区分ポケットを指定し、書状の動きと同期をとり区分ゲートを動かし所定ポケットまで書状を誘導、区分作業が完了する。
郵便番号を記入する赤枠は日本独自で、枠内の定位置に書かれることで数字の線だけを必要な信号として光学的に拾い上げることが可能だが、自由手書きでは、使用する筆記用具、字の大きさと位置、線の太さと濃度など千差万別で、30万字にも及ぶサンプルを全国から集め、解析シミュレーションをもとに改良を重ね、実用機TR-3型(区分ポケット50口)とTR-4型(区分ポケット100口)を製造した。1968(昭和43)年7月1日、郵便番号制度発足の日に東京中央郵便局で一般公開した。
読取区分機実用化と並行して1967(昭和42)年には世界初の切手検出方式による郵便物自動取揃押印機、翌年には活字印刷数字を読み取る読取区分機も完成させた。これらの研究開発成果が認められ、1969(昭和44)年に、機械振興協会賞、翌1970(昭和45)年に、毎日工業技術賞を受賞し、国内外から高い評価を受けた。これはやがて訪れる高度情報化社会での郵便局、駅、銀行などでの省力化機器開発の先駆けとなった。
日本初の量産型柱上真空開閉器
配電線網のより安全に貢献した柱上真空開閉器。
万全の品質管理で累計納入20万台を達成。
世界初のセットフリー形(可搬形)
ルームエアコンの開発
ボール紙モデルで検討開始。
事業部長宅での実用テストで水浸し事件発生。
世界初の大幅IC化カラーテレビ
故障が少なく、省電力で安定した画面で話題。
エレクトロニクスの最新技術を結集したカラーテレビ。
IC(集積回路:Integrated Circuit)は1959(昭和34)年米国TI社のジャック・キルビーにより発明された。キルビー特許のポイントはシリコン結晶中にトランジスターや抵抗、コンデンサーなどの部品を作り、結晶そのものが回路機能をもつことである。このIC技術の根幹は、実は米国フェアチャイルド社が開発したプレーナ型トランジスターにあった。そしてプレーナ構造(平面という意味)を実現させた技術革新(シリコン酸化膜形成と不純物拡散)が今日のエレクトロニクス発展になくてはならない小型、高性能、高信頼性のIC開発への道を拓くことになる。
当社は1959(昭和34)年に日本初のトランジスター式テレビ(白黒)をいち早く完成させた。カラーテレビへのIC導入も他社に先駆け、1969(昭和44)年、自動調整(AFT)回路からスタートさせた。続いて音声回路用や色信号復調回路用ICを開発し、テレビのIC化を積極的に推進した。そして1971(昭和46)年、一挙に11個のICを採用した世界初の大幅IC化カラーテレビ20C60を完成させた。
IC化とは全てがICではなく、ICとトランジスターが混在しているという意味である。IC化した回路はチューナー、出力部、電源部、水平発振および増幅、映像増幅の一部を除いた部分で、使用したICは全てバイポーラ形半導体である。このテレビは大幅なIC化を行っただけでなく、ブラウン管には直射光を受けても白けないブライトロンを組み合わせ、スイッチ1つで自動調整になるユニオートシステムを採用した。また新開発のパワートランジスター2SC1172によって水平出力と高圧発生を一本化させている。
IC化による特長は従来の個別部品から得ることができなかった高性能回路をテレビに採用でき、回路部品を大幅に削減できたことである。これにより、はんだ箇所も激減し信頼性が向上した。回路スペースが縮小され印刷基板は回路機能別にモジュール化し、コネクターで着脱可能になっている。さらにシャーシのコンパクト化によりキャビネットの奥行きが40mm縮小された。テレビ各機種間での回路の標準化と手作業組み立てが少なくなり製造工程の省力化が可能となった。
エレクトロニクスの最新技術を取り入れ完成したIC化カラーテレビは故障が少なく、消費電力がわずかで、安定した画面が見られるなど、全ての点でいままでにないレベルの高い品質を実現した。
日本初の家庭用もちつき機
世界初のブラック・ストライプ方式ブラウン管
より明るく、鮮やかに。
テレビ用カラーブラウン管の世界標準システムが搭載された画期的製品。
1950年代後半、NHK技術研究所を中心に各メーカーは共同でカラーブラウン管の試作研究を行っていた。1960年代から徐々に量産に移行し、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催を契機に、急激にカラーテレビ市場が成長した。
当時は米国の技術をベースにしたデルタ配列電子銃・丸孔シャドウマスク方式だったが、1965(昭和40)年に入ると70度偏向管から90度偏向管へ移行した。希土類蛍光体の導入による明るさの向上や、シャドウマスクの熱膨張を補償するバイメタル技術の採用、ブラックマトリクス (BM)スクリーンの採用による明るさの向上など、新技術が導入され性能が大幅に向上した。しかし改善が必要な部分も多く、色純度やコンバージェンスの調整が難しく、必要な調整回路も複雑で高価であり、高品位化や、広偏向角化による奥行きの短縮はシステム的には困難だった。
これらの問題を解決したのは、新しく開発されたスリットマスク、ストライプスクリーン、インライン電子銃をもつカラー管で3本の電子銃をインライン(一列)に配列し、シャドウマスクの開孔を長方形状(スリットマスク)に、スクリーン構造を線状(ストライプ)にした。こうした組み合わせはカラー管としては初めてであり、性能や多くの利点が期待できたが、製造が困難で実現には新しい部品やプロセス開発が必要になった。
可能性自体が不明だったスリットマスクは、それでも試行錯誤を繰り返すなかで設計やプロセス条件を掴み、実用的に十分な、開孔品位、開孔率と機械強度をもつ特殊開孔形状のスリットマスクが完成した。高開孔率のスリットマスクは、明るさが従来比20%向上した。スクリーンもインライン方式カラー管もBMスクリーンを採用した。BMスクリーンの製作は、フェース曲面とスリットマスクの不連続開孔の影響を受けやすかったため、時間をかけて、長光源の揺動とシャッターを併用する新露光方式を導入して解決した。
インライン方式カラー管は明るさの向上とコストダウンが実現できただけでなく、画面上下および横方向のランディングも正確になったため、色純度品位が向上し、調整も容易になった。
1971(昭和46)年には、蛍光体ストライプだけのスクリーンで14インチ管を商品化、続いて20インチ110度偏向BKS管を商品化した。ノン BS管も一世を風靡(ふうび)した。その後、テレビ用カラーブラウン管の世界標準となった基本システム(インライン電子銃、スリットマスク、ストライプスクリーン)は、このカラーブラウン管をもって嚆矢(こうし)とする。
世界初の家庭用単管式カラーカメラ
世界初のヘリカル方式VTRが、
周波数インターリーブ撮像管の生みの親となった。
世界初のマイコンによるデジタルコントローラー
デジタル制御が全産業の省エネ、公害防止、生産性向上に貢献。
1973(昭和48)年、当社は米国フォード社向けに自動車エンジン制御用12ビットのマイコン「TLCS-12」を開発した。0.1%の計測精度が要求されるプロセス制御など産業応用に最適で、しかもCPUや周辺LSIも整い、温度や湿度などの過酷な環境条件に耐える設計になっており、これまでの装置タイプの制御用コンピューターが手のひらに載ると技術者は驚喜した。
早速、産業用計測制御機器の応用開発プロジェクトを発足させ、1975(昭和50)年6月に従来のアナログ調節計にマイコンを組み込んだ世界初のデジタルコントローラー「TOSDIC™」の開発に成功した。
1970年代は日本産業の拡大期にあたり、鉄鋼、石油などの生産設備が大型化する一方、生産性向上、省エネ、公害防止などに対応した複雑なプラント運転が要求されるようになり、温度、流量など1点1点をアナログ調節計で制御するアナログ制御システムから、プロセスコンピューターによるデジタル制御への指向が強まった時期だった。デジタル制御では1台のコンピューターの故障がプラント全体に及ぶ恐れがあり、システムの信頼性と設備投資の経済性に課題を抱えていた。
当時のデジタルコントローラーは、マイコンを組み込んだコントロールステーションと最大8点の制御点を監視操作するループステーションで構成される分散型システムだった。運転員は従来のアナログ調節計と違和感なく監視操作ができ、信頼性においても経済性においてもアナログ制御システムを超える画期的な商品として産業界に受け入れられた。さらに、1979(昭和54)年にはおのおのループステーションにマイコンを組み込んだワンループコントローラーへと発展した。
デジタルコントローラーは各制御ループの制御性を改善したほか、複雑な多変数制御も容易に実行できた。特に、ボイラーや反応炉の燃焼制御においては、燃焼量がどのように変動しても空気、燃料の混合比を最適に維持できる「ダブルクロスリミット™燃焼制御方式」を開発実用化し、各プラントの公害防止と省エネと生産性向上に大きく寄与した。デジタルコントローラーシステムは、鉄鋼、石油化学、火力、上下水道やビル施設などほとんどの産業分野に適用され、その実績が高く評価され、1981(昭和56)年には毎日工業技術賞を受賞した。
1980年代には産業の多品種少量生産やフレキシブルオートメーションのニーズが強くなり、これに対応して、コンピューターCと、計装制御I、電気制御Eをいち早く融合し、新しくCIE統合制御システム「CIEMAC™」として発展させた。デジタルコントローラーで培ったマイクロエレクトロニクス技術、制御技術、情報・通信技術などによって圧延計測器、電磁流量計など計測制御機器も次々とマイコン化を進めることができた。
世界初の自動車エンジン電子制御(EEC)マイコン
突然フォード社から米国排ガス規制法(通称マスキー法)の
プロジェクトに参加しないかと分厚い仕様書が送られてきて...
世界初の高解像度電子スキャン型超音波診断装置
従来の製品から大きく解像度を向上させた
東芝独自の腹部用リニア電子スキャンと心臓用セクター電子スキャンの開発。
世界初のテレビ受像機用SAWデバイス
LCフィルターの性能を凌駕するも、どこも実用化に悪戦苦闘。
単結晶の育成技術、独創的なフィルター設計が道を開いた
日本初の日本語ワードプロセッサー
現在あらゆるIT分野の入力手段である「仮名漢字変換」により
生み出された日本語ワードプロセッサー。
日本初の全身用X線CT装置
頭部用から全身用へ。
将来を見据えた開発プロジェクトにより、世界最高レベルのCT装置メーカーに。
- *ヘリカルCT:
- X線管を高速で連続回転させながら患者を撮影し、らせん状に撮影データを連続収集する方式。従来のCTと比べて短時間に広範囲の撮影ができる。
世界初のベクトル制御インバーター
交流モーターを直流モーターのように自由に制御したいとの想いを
ベクトル演算で実現、交流可変速モータードライブ時代の幕開けに。
世界初の電球形蛍光ランプ
「ネオボール™」(ボール形)
どこまで小さくできるかが、大きなポイントであったが、
最終的に直径110mmのボール形状に収めることができた。
世界初のマイコン応用デジタルリレー
マイコンを使ったデジタルリレーの研究は国内外で盛んに行われたが、
当社が世界初の電流差動リレー装置として実用化。
世界初の家庭用インバーターエアコンの開発
インバーターでコンプレッサーを壊すところから始まり、
夏休みを返上し裸で試作と確認を繰り返す。
1970年代前半の冷暖房タイプのエアコンは暖房能力が不十分で、室内ユニットに補助ヒーターを組み込むタイプが主流であった。
一方、1973(昭和48)年の石油危機による省エネの高まりから、エネルギーロスを低減するため、オン・オフ運転で行う室温調整に換えて、圧縮機を連続で能力制御できる機能が要求されていた。既にアイデアとしてインバーター(周波数変換装置)を使えばその実現の可能性は予想されていたが、当時は高価で大きいという欠点がありエアコンへの搭載は困難と考えられていた。そこで、当社は最新鋭の大電力トランジスターの利用やマイクロコンピューター制御による「正弦波近似パルス幅変調方式」を採用し、従来のインバーターの1/6という大幅な小形・軽量化を実現して、世界で始めて業務用インバーターエアコンを1980(昭和55)年12月に発売した。
この業務用インバーター技術を家庭用インバーターエアコンに応用すれば必要に応じて能力を上げられるとの期待から、1981(昭和56)年1月に開発がスタートした。最大の課題はインバーター(圧縮機の回転を早くしたり遅くしたりする電気回路)の価格と大きさであった。また、それまでは一定の回転数で回ればよかったエアコンの心臓部である圧縮機がインバーターの指令によって遅くなったり速くなったりするので、どこに異常が生じるか全くわかっていなかった。
したがってまずは圧縮機を壊すことから始めたようなものだった。それは、第1に回転数を上げると圧縮機の機構部の潤滑油が過剰に流れ出し、逆に回転数を下げると潤滑不良が発生した。第2には吐出弁がみな折れてしまった。ローラーの回転が上がると弁の衝突の度合いが激しくなるためである。同じ理由でベーンが摩耗してしまうという故障も見つかった。第3には「キーン」という異常音が発生した。次々と出てくる課題を一つずつ解決していった。家庭用エアコンは交流100V仕様のため、いったん交流200Vに変換して圧縮機に供給する倍電圧整流方式を採用した。小型化のためのジャイアントトランジスター(圧縮機とインバターを結ぶ回路をコンピューター制御する重要な部品)の開発は半導体事業部との共同で行った。
圧縮機とインバーターのめどが立ったのは1981(昭和56)年8月末で、インバーターは業務用のものに比べ1/3の大きさとなり家庭用エアコンの室外機の圧縮機上部に配置することができ、価格は2/5にまで改善できていた。一方、冷凍サイクルの開発も困難にぶち当たり、工場修理のための停電の悪条件の中、夏休みを返上して、裸で試作と性能確認を繰り返し行い、同年9月にようやく完成を見た。
1981(昭和56)年11月12日の報道発表の反響はすさまじく、エアコン技術史に大きな革命を起こしたとして1984(昭和59)年に(財)新技術開発財団から「市村産業賞」を受賞、2008(平成20)年には(社)電気学会から第一回「でんきの礎」に登録された。また、2020年には、電気・電子学会IEEEから「IEEEマイルストーン」に認定された。
日本初のMRI装置
試行錯誤を繰り返し、作り上げたMRI装置。慈恵医大病院に納入した1号機は、世界初の商用機。
人体を切らずに病気を診断したいという医者の夢は、1895(明治28)年、ドイツのW.C.レントゲンによって発見されたX線により人体の透過像が得られて、初めて実現した。また、透過像でなく実際に切断したように体内を見てみたいという願いも、1972(昭和47)年に英国のG.N.ハンスフィールドによって開発されたX線CT装置からコンピューターで再構成する手法により輪切り像(断層像)が得られ、より精密な画像診断が可能となった。
しかしX線では人体の柔らかい組織の識別が難しく、放射線被曝の問題もあるため、より安全に人体の詳細な組織画像を得るため、それまで化学分析などに使用していた核磁気共鳴(NMR)技術により、体内の水分についての画像を得る方法が、米国のラウターバーらにより1970(昭和45)年に考案された。この功績により2003(平成15)年、英国のマンスフィールドと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
その後、研究成果を基に各社がMRI装置の開発を始め、当社では1979(昭和54)年から東京大学物性研究所安岡研究室と、小型磁石を使った基礎的な研究を開始した。磁石が小さいため、近くの八百屋で買ったレンコンや、オクラ、プチトマトを試料に、断面像を得ることから始めた。植物は断面が容易に見られるので便利だが、測定は手作りでデータを紙テープに記録しオフラインで計算機にかけ再構成を行った。
1980(昭和55)年秋にはMRI装置開発プロジェクトチームが発足、基礎研究から装置開発に移行した。当時、人体の検査装置は空芯の常電導磁石を使ったものしかなく、1981(昭和56)年に全身用常電導磁石をドイツから購入し、那須工場でMRI装置を試作した。試作した装置を1982(昭和57)年に大井町の東芝病院に据え付けて、初めての臨床研究とMRI装置の治験を進めた。当初、撮像の条件が十分に分らず、メンバーが被検体となって試行錯誤を繰り返し、撮像条件を決めていった。
そして当社の治験結果を基に厚生省から薬事認可を得て、1983(昭和58)年5月に慈恵医大病院に1号機を納入した。これが厚生省から認可を受け、商品として販売した日本初のMRI装置であった。米国では海外各社の臨床研究用MRI装置が稼働していたが、商用機としての認可は米国FDA(食品医薬品局)から取得していないことが判明し、日本初の商用機は世界初の商用機になった。
その後、MRI装置の技術開発が急速に進み、現在では常電導磁石を使った低磁場の装置より画像が鮮明で高速撮影ができる高磁場超電導MRI装置や、中磁場で開放的なオープンMRI装置が多く使われている。
世界初インバーター制御高速ギヤレス
エレベーターの開発
高速エレベーターの“快適な乗り心地”を実現するには
インバーター制御が不可欠だった。
世界最大の空気冷却水力発電機・ベネズエラの
グリⅡ発電所
1978年(昭和53)に初号機が日本の工場で完成。
現地で組立・据付・調整後に詳細な性能試験が行われ、営業運転が開始されたのは6年後の1984年(昭和59)であった。
世界初の1MビットDRAM
「世界トップのDRAMメーカー」という積年の夢を実現。
「半導体の東芝」を世界にアピールした功労者。
DRAMの誕生は1971(昭和46)年に米国インテル社が1,024(1K)ビットDRAMを開発・製品化した時である。その後、ほぼ3年で4倍というペースの大容量化と新しい市場の開拓でDRAMは発展を続けてきた。
当社におけるDRAMの歴史は、1973(昭和48)年に1KビットDRAMを開発した時に始まる。ICの最新技術であるPチャネルシリコンゲート技術を駆使した3トランジスタ/セル方式であった。その後、4Kビット、16Kビット...256Kビットと開発・生産を行ってきたが、当社が半導体メーカーとして確かな地位を築いたのは1MビットDRAMの時代に入ってからである。
1981(昭和56)年末、日本経済新聞に「東芝、DRAM事業から撤退」と報道された。これを契機にDRAM事業への再挑戦が始まった。1982(昭和57)年から開始された“W作戦”の重点戦略として1MビットDRAMの開発がスタートした。その後、シリコンサイクルの波に動揺しない一貫した設備投資による土台作りから、技術者の重点配分による技術力強化、従来実績のあるNMOS品と高速動作・低消費電力という性能向上を狙うCMOS品の並行開発、および最終的なCMOS品の選択へと進み、1984(昭和59)年秋に世界に先駆けて開発に成功した。
翌1985(昭和60)年2月にニューヨークで開催された半導体技術の国際会議(ISSCC)で発表し、同時に大手ユーザーへのサンプル出荷を行い、製品開発段階で他社に大きく先行した。さらに、生産面では予定より早い1985(昭和60)年10月に月産1万個の規模を達成し、長年の夢だったDRAMにおいて世界トップメーカーに躍り出た。1MビットDRAMは、当社の技術を世界的レベルにまで高め、当社全体でもヒット商品の一つとなった。
当社の半導体事業の中で、売上、利益規模、国際化への広がり、知名度アップなど、広い面で1MビットDRAMほど大きな貢献をした製品はないといっても過言ではない。4MビットDRAMでも、2世代制覇へ向けて全社一丸となって開発を進めた。競合他社と激しい競争を繰り広げたが、当社は依然として優位に立ち、1989(平成元)年には他社に先駆けてサンプル出荷を始め、大手ユーザーの認定をいち早く取得した。続く16MビットDRAMでも1990(平成2)年にサンプル出荷を始めた。一方、生産面でも主力ラインとするために、大分工場に多額の設備投資を行い生産体制を着々と整えていった。また、1993(平成5)年にはメモリーの主力工場として四日市工場を建設し、生産をスタートさせた。
世界初のノンラッチアップIGBT
絶縁ゲート・バイポーラートランジスター(IGBT)の開発中に
逆転の発想でラッチアップ(素子破壊)を防いだ。
パワー半導体素子は電力変換素子として広範囲な応用分野でエレクトロニクスを支える柱の一つである。当社は、大電力ゲートターンオフサイリスター(GTO)の開発に1970年代初めに着手したが、その後実用化を阻んでいた原因がターンオフ時の電流集中であることを突き止め、これを回避する素子を開発し、1977(昭和52)年に1.3kV-600A素子を製品化した。さらに1979(昭和54)年に、大阪市交通局向けにGTOサイリスターを使用した日本初の電車用VVVFインバーターを納入した。その後、電鉄用だけでなく産業用交流モーター可変速制御や大電力インバーター電源の実用化時代を開いた。1970年代後半には、大電力サイリスターを直接光トリガーする研究にも着手し、1981(昭和56)年に高出力LEDを光源とする素子を製品化した。
1980年代前半は、ジャイアントトランジスター(GTR)やゲートターンオフサイリスター(GTO)の出現によってインバーター技術が著しく進歩し、家庭用のインバーター・エアコンも登場した。さらに、エレベーターや電車などモーター駆動に代表される電力変換装置の電力スイッチング素子は、ますます高性能・高信頼化が求められた。特にスイッチング速度は、装置の低騒音化、精度向上、小型化の要求から、可聴周波数を超える領域までの動作が求められた。従来、高速スイッチング素子としては、MOSFETがあるが、大電流、高耐圧化が困難で、AC200V程度の小容量装置への適用に限定されていた。
この頃、世界中のメーカーが新デバイスの開発を競っており、1982(昭和57)年に米国GE社から縦型NチャンネルMOSのドレイン側にP層が付加されドレイン層が伝導変調されるIGBT(Insulated Gate Bipolar Transistor)構造が発表された。しかしGE社のIGBT構造は寄生サイリスターを内蔵しており、そのラッチアップのために寄生 サイリ スター がオンになってしまい大電流は切れない構造上の問題で実用化は困難であった。その頃、当社の総合研究所(現:研究開発センター)では、このGE社のIGBT構造がバイポーラGTRを置き換えられる有望な素子であることに着目し研究を始めた。早速、2次元のデバイスシミュレーターで計算し、その結果と比較したところ、当時パワーMOSで主流となっていたメッシュ構造のパターンをやめ、単純なストライプパターンのマスクを描くと、思いがけずラッチアップ防止の有力技術の発見につながった。さらに、MOS部の飽和電流を素子がラッチアップする電流以下に設定することを思いついた。これによって初めてノンラッチアップ構造のIGBTが大電流を切ることができる実用的な素子であることを実証でき、量産化へとつながった。1984(昭和59)年、当社は新規素子構造を採用した破壊に強いノンラッチアップ構造のIGBTを開発し、半導体国際会議(IEDM)で発表するとともに、翌年の1985(昭和60)年に製品を発表した。世界に先駆けて開発したことによってIR-100、大河内記念技術賞を受賞するとともに、2010(平成22)年には(一社)電気学会より「でんきの礎」でも顕彰された。
世界初のラップトップPC
技術を結集し、携帯性・小型化・省電力化を追求。
ラップトップPC開発のけん引者として市場を創造。
日本初の量産化された超電導マグネット
液体ヘリウムの極低温容器の断熱技術の工夫や
漏洩磁束を極小化して量産化を実現。
医療用に開発されたMRI(Magnetic Resonance Imaging)システムは、磁気共鳴現象を利用して人体の断層画像を撮影する技術である。MRIの実用化には、コンピューター画像処理技術と超電導マグネットの2つがキーテクノロジーとして寄与している。MRI用超電導マグネットについては、大空間に強磁場を発生させ、診察対象となる領域に100万分の1(ppm)オーダーの高精度な磁場均一性を実現するための高度なコイルの製作技術を開発した。また、病院に設置するために、漏洩磁束を極小化する高度な磁気シールド技術が求められた。
このほか、極低温容器の断熱技術の工夫や小型冷凍機の搭載により、液体ヘリウムも半年以上にわたって補充を必要としないようにした。さらに、電源と切り離した状態でも磁場減衰をほとんどゼロとするために、超電導の低抵抗接続(10-12Ω)の実現や永久電流スイッチを開発した。このような周辺技術の開発と統合により、1985(昭和60)年にMRI用超電導マグネットを実現した。
当社の京浜事業所は、現在の東芝メディカルシステム社の依頼を受け、磁束密度が0.5T(テスラ)と1.5Tという強磁界のMRI用超電導マグネットを業界に先駆けて市場に投入した。しかし、1985(昭和60)年のプラザ合意に始まる円高と、1990年代初頭の日米貿易摩擦を受けて、アメリカ製品の導入促進政策の実施など市場環境の急激な変化があり、コストダウンが急務の課題となった。この対応のため、当社は、設計改善や調達部品のコストダウン、流し組立による省力化などを実施した。現在、MRIは、全世界で年間3,000台以上の製造が行われており、身近な医療診断装置となっている。また最近は性能も飛躍的に向上し、短時間で鮮明な診断画像が得られるようになった。
これと同時に、単結晶引き上げ用の超電導マグネットも開発した。半導体は、純度の高い単結晶のシリコンウェハー上にサブミクロンの加工をして作られる。シリコン単結晶の製造には、多結晶シリコンを石英製のるつぼに入れ、加熱溶融して、種結晶から単結晶を成長させる方法がとられている。シリコン単結晶の大口径化が進むにつれて、るつぼ内でのシリコン融液の対流が大きくなって、単結晶の品質に影響を及ぼすという問題が生じてきた。これに対処するため、1980(昭和55)年ごろから、シリコン融液に静磁界を加えることで対流を抑える方法について研究が始まり、この静磁界を発生させるため超電導マグネットが使われることになった。ここで必要な中心の磁界の強さ(磁束密度)は0.4~0.5T程度であるが、ユーザーの使い勝手や周辺設備との協調性を考慮して、容器を「コの字」形としてコンパクトにし、コイル含浸用のエポキシ樹脂を高熱伝導性のものに改良するなど、設計上・製造上の様々な工夫を凝らした。
その結果、1990年代の初頭には8インチ(200mm口径)の単結晶製造ラインへ適用されるようになり、2000(平成12)年の初頭には、この技術により12インチ(300mm口径)の単結晶の製造も可能となった。
世界初の光トリガーサイリスター実系系統試験に成功
絶縁ゲート電源不要の光トリガーサイリスターは、
パワーエレクトロニクスのキーデバイス。
パワー半導体素子とは、電源やインバーターに使われるダイオードやトランジスターなどの半導体素子で、交流と直流の変換や電圧の昇降、周波数の変換などに使われる。当時の重電事業本部システム事業部の強い要請を受け、1972(昭和47)年に総合研究所(現:研究開発センター)の電子部品研究所で大電力GTO(ゲート制御でターンオフ可能なサイリスター)の本格的な開発が始まった。GTOについては既に1960年代に論文が発表され、1970年代初めには米国のGE、ウェスチングハウス、RCA各社が開発したものの期待した性能が出ずに縮小・撤退という状況で、国内でも多数の会社が取り組んだが、ことごとく開発に失敗していた。当社でも半導体事業本部で小型GTOを開発していたが、歩留まりが上がらずに終息する方針であった。このため、慎重論が支配的であったが、この大電力のGTOを利用した産業用、電鉄用の電力変換器で巻き返しを図りたいシステム事業部の強い要請があり、社長命令で事業部がスポンサーとなって新しいクリーンルームを設置し、半導体事業本部と協力して開発をスタートした。応用範囲の拡大を考えると、GTOのターンオフ電流を増やすことが最大の開発課題であった。1976(昭和51)年に、耐圧と電流定格の世界記録を大幅に更新し、1978(昭和53)年には耐圧を倍増した2,500V-600AのGTOを発表した。その後、4,500V-3,000AのGTOは新幹線のぞみや欧州高速鉄道の機関車にも採用され当社のパワーエレクトロニクス関連事業の発展に大きく貢献した。その頃、開発が進められた光トリガーサイリスターは、発光ダイオード(LED)でトリガーできるサイリスターである。電気でトリガーする従来のサイリスターに比べ、機器の小型化につながり、部品点数も削減できるので信頼性も向上する。周波数変換所や直流送電で利用される超高圧サイリスターバルブを完全に光トリガー化したいというシステム事業部の強い要請を受けて、1978(昭和53)年から開発がスタートした。既に4,000V-1,500Aの電気トリガーサイリスターは製品化されており、同じ電気特性を維持しつつ100倍近い光ゲート感度で汎用LEDをトリガーに使える大電力光トリガーサイリスターの開発は冒険であった。それだけに、90個もの4,000V-1,500Aの光トリガーサイリスターを直列接続したサイリスターバルブが、電源開発(株)佐久間周波数変換所で1983(昭和58)年12月から1985(昭和60)年2月までの実系統試験に世界で初めて成功した時の関係者の感激は大きかった。この素子を用いて直流送電ができることが実証されたのである。その一方で、大電力光トリガーサイリスター4,000V素子開発が一段落した1981(昭和56)年から、高出力LEDと高耐圧化の研究が始まった。
十数種類もの光ゲート構造の試作を経て、その課題を見事に解決する新型多段増幅光ゲート構造の開発に成功し、1982(昭和57)年に世界最大容量の8,000V-1,200A素子を東芝総合技術展に出展し、1984(昭和59)年には過電圧保護機能を集積化した8,000V素子を発表した。4,000V-1,500A素子は変電所などに設置される無効電力補償装置に広く使われ、6,000V-2,500A素子は、周波数変換所や直流送電に多く採用され、さらには、鉄鋼所のモータコントロール用コンバーターなどの産業用にも使われた。1990(平成2)年には半導体事業本部で6,000V-2,500A過電圧保護機能付き光トリガーサイリスターが開発された。
世界初の赤色半導体レーザー室温連続発振
世界初の赤色レーザー室温連続発振を達成、
翌年には光ディスクに応用された横モード制御構造を世界に先駆けて開発。
世界初の超々臨界圧大容量蒸気タービン
歴史的に偉大な技術や重大な出来事として
技術年表「電力技術の一世紀」の紙面を飾った。
電力技術に関する国際的機関誌PEi(Power Engineering INTERNATIONAL)の2010(平成22)年5月号はこの1世紀(1910年~2010年)における世界の電力技術の発展に関して特集を組み、歴史的に偉大な約50の技術や重大な出来事を年表の形式で紹介した。その中で1989(平成元)年に当社が世界初の超々臨界圧タービンを開発したことが写真付きで取り上げられている。超々臨界圧タービンとは水蒸気の臨界点圧力22.1MPaより大幅に高い31.1MPaの主蒸気圧力で作動する蒸気タービンを意味し、超臨界圧タービンと呼ばれていた24.2MPaの主蒸気圧力で作動する従来のタービンと区別するために付けられた呼称である。当時、世の中は二度のオイルショックを経験し、発電事業に対し高効率化の要望を急速に強めていた。しかし火力発電プラントにおいては熱効率向上に必須の高温高圧化技術が、米国でのパイロット機の不調から信頼性面に不安を持たれ、世界的に高温高圧化の趨勢(すうせい)は十数年間にわたり進展を止めていた。その技術的停滞を打破する発端となったのが、当社のタービンの技術である。
このタービンの主な仕様は中部電力川越LNG火力発電所1号機および2号機向け、周波数60Hz、定格出力700MW、2段再熱31.1MPa、566/566/566℃、TC4F-33.5、4車室の蒸気タービンである。この蒸気条件によってタービンプラントの発電端熱効率は従来同等機の39.7%から41.7%へと相対的に5%向上した。
設計方針として中圧タービンと低圧タービンに関しては従来機の技術をそのまま応用し、開発の焦点を超高圧・高圧タービンに集中した。特に注力した研究開発は三つあり、一つ目は回転部のみならず全ての静止部品に新たな12Cr鋼を採用し、高圧化に伴う熱応力の増加を防いだことである。二つ目は超高圧化によって懸念された「スチームホワール現象」と呼ばれるローターの不安定軸振動に対し、新たな試験装置を用いてローター系の特性を事前に解明し、その発生を防止したことである。三つ目は全部品の中で最も過酷な条件にさらされる初段動翼について徹底した数値解析と実体回転試験を行い、事前に信頼性の確認を行ったことが挙げられる。この蒸気タービンは運転開始から今日まで20年間にわたり期待通りの順調な稼働を続けている。1991(平成3)年にはその業績をたたえられ、日本機械学会技術賞や英国機械学会論文賞なども授与された。ただLNG火力に対しては、その後に超々臨界圧蒸気タービンよりもさらに高効率を発揮するコンバインドサイクルが普及し、蒸気タービンは主役の座をガスタービンに譲った。しかし世界の電力界で今なお大きな比重を占める石炭火力発電や石油火力発電に関しては、このタービンで培った技術はそのまま蒸気条件のさらなる高温化も促し、日本や中国を始めとする世界の省エネルギー化や温暖化防止に地道な貢献を続けている。当社の蒸気タービンが現在の世界における蒸気タービン技術の潮流を最初に作り出したことが歴史的に改めて認識され、国際的評価を受けたと考えられる。
世界初の可変速揚水発電システム
水車発電機の理想を実現した可変速発電機の仕組みが、
60年の時を経て世界初の可変速揚水発電システムに生まれ変わった。
一般の水力発電所では、発電機は系統周波数(東日本では50Hz、西日本では60Hz)に対応した一定の回転数で運転している。しかし発電機を駆動している水車は、その特性上、落差や出力に応じて回転数を変えた方が効率の良い運転ができる。例えば、落差や出力に応じて発電機の回転速度を変えることができれば、さらに水車の効率を向上させ発電量を増やすことができる。
当社は、この水車発電機の理想を実現した日本初の可変速発電機(750kVA)を、金沢市電気局(現:北陸電力)吉野第二発電所に納入し、1930(昭和5)年に運転を開始した。当時としては非常に高度な技術と性能を持った可変速発電機であったが、その後適用が拡大することはなかった。
戦後経済が高度成長期に入って電力需要は大きく伸長してきたが、それと共に昼夜の電力需要の格差が著しく増大し、かつ変動も大きくなってきた。系統周波数を一定に保ち電力を安定供給するには、変動するピーク需要に合わせて発電量を迅速に調整し、需要と供給をバランスさせる必要があった。水力発電は流量を調節することによって出力を迅速に変えることができるのでこの目的にかなっているが、日本では大きいピーク需要に見合うような大容量の水力発電所を新しく建設できる地点が、1960(昭和35)年以降、ほとんどなくなってしまった。
そこで、これに代わって揚水発電所が建設されるようになった。一般の水力発電所が河川の自然流量を用いて発電しているのに対し、揚水発電所では、原子力などの夜間の余剰電力を用いて下ダムの水を上ダムにくみ上げて貯蔵し、この水を利用して昼間にピーク発電を行う。そのため河川流量に関係なく大容量の発電所を建設することができる。この揚水発電所は、一般の水力発電所と同様、出力を迅速に変えることができるため、電力の安定供給と系統周波数の維持に不可欠の役割を果たしている。ところが、これまでの揚水発電システムでは一定の回転数で運転されるため、揚水運転時にポンプの特性上、電気入力を変えることができない。もし回転数を変化させることによって電気入力を自由に変えることができれば、需給の微調整が可能となり、夜間の揚水運転時の系統周波数調整も可能になる。
このことに着目して東京電力と当社は共同研究を重ね、1990(平成2)年に矢木沢発電所において世界で初めて低周波交流二次励磁方式による可変速発電電動機を用いた揚水発電システムを完成させた。
この発電電動機の原理は60年前に製作された吉野第二発電所の発電機と同じであるが、低周波交流励磁電流は大容量サイリスター素子を用いた静止型周波数変換器であるサイクロコンバーターから供給するようになっている。この可変速揚水発電ユニットは、高速高性能のデジタル制御装置によって、従来の水力発電機に比べて極めて高速な入出力制御が可能なほか、系統の電力動揺の抑制といったさらに複雑で高度な制御も行っている。
世界初のオーバードライブ技術搭載の液晶テレビ
液晶ディスプレイの残像を低減して鮮明化するオーバードライブ技術は、
世界中の液晶テレビに採用された。
世界初のNAND型フラッシュメモリー
国産初の世界標準メモリとして採用。
独自の技術で大容量化を実現し、「市村産業賞本賞」を受賞する。
世界最大規模11MW燃料電池発電プラント
燃料電池発電プラントは、発電効率の良さで高評価を獲得。
固体高分子形燃料電池へと進化を遂げる。
第1次、第2次オイルショック以降、高い発電効率と優れた環境性を持つ「リン酸形燃料電池」は通商産業省ムーンライト計画に取り上げられ、水力、火力、原子力に次ぐ第4の発電方式として注目を集めるようになった。
当社では1960(昭和35)年代初めから基礎的な研究に取り組んでいたこともあり、1982(昭和57)年には、ムーンライト計画の火力代替用(加圧型)開発プロジェクトに参画し、1987(昭和62)年に中部電力知多第二火力発電所内に1MWプラントを設置、運転研究を実施した。当社は電力会社向けに新たな事業を開拓するため、アポロやスペースシャトルなどの宇宙船での実績があり、世界最先端の燃料電池技術を持つ米国UTC社と、当社の発電プラント技術の融合によって、1985(昭和60)年4月に合弁会社(IFC社)を設立した。
11MWリン酸形燃料電池プラントは、1991(平成3)年に東京電力の五井火力発電所に納入し、1997(平成9)年まで運転し、高い発電効率と良好な環境特性が実証された。
一方、1990(平成2)年にはオンサイト用専門会社ONSI社をIFC社と合弁で設立し、1991(平成3)年から当社が担当で製作した改質器、電気制御機器を組み込んだオンサイト用200kWリン酸形燃料電池の準商用機(PC25A)を日本以外にも、北米など世界各地に56台出荷、商用機の目標としていた4万時間の運転を達成した。さらに、コスト低減とコンパクト化に取り組んだPC25Cを1996(平成8)年より商用機として発売した。1997(平成9)年には財団法人新エネルギー財団主催の新エネ大賞(21世紀型新エネルギー機器等表彰)を受賞した。国内では病院、ホテル、ビール工場、テーマパーク、上下水道などでコージェネレーションとして運用されている。最近では、2005(平成17)年3月に開幕した愛知万博「愛・地球博」の会場内にも200kWが4台設置され、長久手会場の日本政府館に電力を供給していた。
また、1992(平成4)年からのNEDOニューサンシャイン計画に参画し、固体高分子形燃料電池(PEFC)の研究開発を開始し、1995(平成7)年には1kW級電池スタックを完成させた。ついでシステム開発にも取り組み、2000(平成12)年には、1kW級家庭用PEFCコージェネレーションシステムを開発し、2002(平成14)年から新エネルギー財団(NEF)の固体高分子形燃料電池システム実証等研究にも参画し、実用化に向けた開発を進めている。
世界初の550kV 1点切りガス遮断器
変電所の大容量化と縮小化の切り札となる消弧室の開発実用化は、
都心への大容量送電を可能にした。
世界初の大容量ガス絶縁変圧器
高気圧のSF6ガスを絶縁と冷却に用いて、
275kV-300MVAの大容量不燃変圧器を完成。
絶縁油の代わりに不燃性のSF6ガスを用いた変圧器は日本では当社が1967(昭和42)年に初めて66kV-3,000kVAのものを第一生命地下の変電設備に納入した。SF6ガス絶縁化は絶縁性能の高さ、不燃という特性優位性から開閉装置ではより高電圧の機器にも迅速に展開されていったが、変圧器の場合は冷却能力が油より小さいため、なかなか大容量化は進まなかった。しかしながら都市部における地下変電所増設の需要とその安全性確保の観点から大容量ガス絶縁変圧器の開発が期待されていた。
大容量不燃性変圧器の開発は、米国で1980年代初めに300MVA級の開発実用化を図るとの計画が示されたが、米国政府の財政規模縮小で計画が中止された。日本では、米国での開発計画に触発されて1983(昭和58)年に本格化した。当時は、変圧器の大容量化にはSF6ガス単独では冷却能力が不十分と考え、冷却にフロロカーボン液を使用する案が考えられていた。当社は、GE社が手がけていた方式、すなわち巻線にアルミシートを、絶縁にPETフィルムを使用し、巻線内に金属製のパネル形冷却板を巻き込んで、その中にフロロカーボン液を流して直接巻線を冷やすセパレート式(絶縁はSF6ガス、冷却はフロロカーボン液にそれぞれ独立して依存する方式)冷却を採用して実用化を目指した。各社がそれぞれ異なる方式で開発を競い合ったが、最初に製品化に成功したのは当社で、1989(平成元)年に東京電力旭変電所向けに世界初の154kV-200MVA大容量ガス絶縁変圧器を完成した。続いて1990(平成2)年には、275kV-300MVAの変圧器を開発し、東京電力新坂戸変電所に納入した。
しかしながらこの変圧器は、巻線冷却のために冷却パネルを内蔵する特別な構造を必要とし、かつ冷却用のフロロカーボン液が非常に高価であることもあり、変圧器としてのコストが従来の油入の3倍近くなり、今後継続的に普及させていくことは困難と考えられた。そのためSF6ガスで直接冷却するための研究を並行して進めていた。最大の課題であるガス単独での冷却性能アップのために製品開発課と研究所とで開発チームを作り、ガス自体の冷却特性向上策、変圧器としてみたときの巻線内部の流れ方、流れを変える新しい構造の探究を続けた。その結果、ガス圧力の昇圧、高めの常用温度設定を可能にする高耐熱絶縁物の採用、大容量高圧ガスブロワの開発、および巻線内ガス流コントロールの詳細解析評価による巻線温度の均一化などの技術によって300MVA級の変圧器もSF6ガス単独で冷却可能とすることに成功し、1994(平成6)年に、東京電力東新宿変電所向け275kV-300MVA変圧器の全ガス大容量変圧器を製品化し、以降標準機種の一つとして販売を継続している。
当社では、同じ年に275kV-150MVAガス絶縁分路リアクトルも製品化し、東京電力葛南変電所に納入した。これによって、ガス絶縁変圧器と分路リアクトルが冷却のために特別なシステムを持たない形態で実現し、東京電力では、このガス絶縁機器が油入に代わって地下変電所向け機器の主流となっている。この方式は、日本国内の他の電力会社でも採用され、海外でも世界の都市部の安全な地下変電所構築のキーコンポーネントとして注目されている。
世界初のクリーナーレスプロセス搭載のファクシミリ
従来の電子写真は、トナー粒子とキャリアと呼ばれる磁性体粒子の二つの成分から構成される現像剤を用いていた。トナー粒子とキャリアの摩擦帯電でトナー粒子を所定の極性に帯電させ、マグネットローラーで感光体ドラムまで搬送し、感光体ドラム上に露光によって描かれた静電潜像を現像していた。キャリアは現像器の中で何度も再利用されるが、用紙に転写されなかった感光体ドラム上のトナー粒子はクリーニングブレードで除去され、廃トナーボックスに回収される。しかし、定期的なメンテナンスの必要があることが課題であった。またキャリアの表面はトナー粒子との撹拌で生じる微粉などで被覆されて劣化するため、キャリアの交換が必要であった。さらに、キャリアはマグネットローラーに磁力で保持されているので、ローラーからキャリアとトナー粒子をはがすのは大変な作業であった。この作業を不要にしてメンテナンスフリーにするため、現像剤をトナー粒子だけの一成分にすることを目標に、新しい技術の開発に取り組んだ。
最初は、キャリアの持つ磁力搬送の機能をトナー粒子の機能として取り込んだ一成分磁性トナーに挑戦した。しかし、磁性トナー粒子を運ぶマグネットローラーが必要で小型化が難しいことや、カラー化が困難との判断で開発を断念した。その後、一成分で非磁性のトナー粒子にすれば良いと確信し、研究開発に着手した。その実現には、三つの困難な課題を克服しなければならなかった。一つめは、キャリアを使わずにどのようにトナー粒子を摩擦帯電させるか。二つめは、非磁性のトナー粒子を磁力の助けを借りずにどのように感光体ドラムに運ぶか。そして三つめは、高画質の画像を得るために、潜像電荷分布上にいかに忠実にトナー粒子を付着させるか、であった。
一つめの課題は、トナー粒子を現像ローラーと弾性ブレードで挟むことにした。トナー粒子が現像ローラー上で単層に近い薄さになると、十分に摩擦帯電が行われた。二つめの課題は、現像ローラーとトナー粒子間の摩擦係数が最大で、トナー粒子同士の摩擦係数が最小である材料を使えば解決できることがわかった。トナー粒子を十分に摩擦帯電し、なおかつ薄層にすると、鏡像力が働いて、現像ローラーから感光体ドラムに運べることが確認できた。三つめの課題は、現像ローラーと感光体ドラムの間を非接触でトナーを飛ばす非接触現像法を選択して製品化を進めたが、安定性や他社の特許に関わる問題が顕在化して断念せざるを得なくなった。結果的には、接触現像法を選択した。所定の摩擦帯電性と電気抵抗を有する導電性ゴムによる弾性現像ローラーの開発が、成功のポイントとなった。さらに、この接触型一成分非磁性現像を用いると電界強調効果によって、高画質現像と同時に現像電界によるクリーニングを実現できることも見いだした。開発を開始して十数年後の1995(平成7)年に、多機能レーザーファクシミリを製品化することができた。
世界初のDVDプレーヤー
DVD規格統一化のリーダーとして活躍。
「火の見やぐら」は、スリムなDVDプレーヤーに姿を変える。
世界初の改良型BWR(Advanced BWR)の
営業運転開始
最新技術を集大成した改良型BWRの開発から建設、
そして21世紀の主力軽水炉へ。
日本初のDDインバーター全自動洗濯機の開発
深夜でも騒音で気がねしない洗濯機を目指して。
世界初のGMRヘッド搭載HDDを実用化
GMRヘッドと垂直磁気記録の革新技術でHDDの記録密度・容量が飛躍的に向上。
世界初の高音質音声合成方式を実用化
音声符号化の発想により、音声データから自動学習する「閉ループ学習法」を
世界で初めて開発、世界一の音声合成方式を実現。
音声合成の研究は、音声認識と同様にコンピューターとのインタラクションを実現するヒューマン・インターフェース技術としてスタートした。1982(昭和57)年に音節単位の音声を文字に変換する音声ワープロを開発、銀行向け音声認識応答システムに適用された。その後、方式の改善とともに専用ハードウェア、ワークステーション上の音声合成ソフトを開発、1995(平成7)年にはパソコン上で動作する音声合成ソフトを製品化した。しかし、合成音の音質や自然性は「鼻声」「ロボット声」に代表されるように、とても満足できるものではなかった。合成音の音質は、波形生成のための素片辞書を大きくすれば改善する。しかし、辞書のサイズが増大し、小型のハードウェアでの実現が困難になる。また、素片辞書の作成は熟練した技術者による試行錯誤に頼っており、開発に時間がかかる問題もあった。これらの問題は、多くの研究機関で種々の解決策が検討されていたが決定打はなかった。
この状況が、1994(平成6)年に音声符号化の研究者が参画して一変した。音声合成の常識にとらわれず、ゼロから問題を洗い直したのである。既存の知識やノウハウに依らず、音声データから音声合成のパラメーターを自動学習することを基本方針に掲げ、「鼻声」「ロボット声」の原因分析に基づいて、音質の問題を学習データとの誤差という形で定式化することに成功した。続いて、その定式化に基づいて合成音の誤差を最小化する素片辞書の学習方式を世界で初めて開発、「閉ループ学習法」と命名した。本方式は、最小の素片で音質を最大化するものであり、省メモリーで人間並みの高音質・自然な合成音を実現し、音質と辞書サイズの二律背反問題を解決した。しかも、学習データを用意すれば自動的に短期間で合成辞書を作成でき、学習データに用いた人間の音声に近い合成音が作成できるという特徴を持つ。当時は、音声合成の開発には長年の知識とノウハウが必須で、技術者の耳に頼った試行錯誤が避けられないというのが常識であったので、「閉ループ学習法」は従来の常識を破る画期的な方式となった。
これらの研究成果を実用化するため、研究者自ら顧客を訪問して市場を開拓し、1998(平成10)年、音声合成ミドルウェアが大手自動車メーカーに採用された。その後、他のメーカーにも採用され、2006(平成18)年には国内カーナビ市場で94%のシェアを占めるまでになった。2002(平成14)年には英国と中国にも研究開発拠点を設立して多言語化を推進、欧米市場、中国市場でも東芝の音声合成および音声認識技術が採用されている。さらに、音声合成のコンテンツ作成応用など新たなサービスの開拓にも取り組んでいる。また、特定の話者や話し方を合成する話者適応・話調適応技術や感情的な音声を合成する感情音声合成技術の開発も進めており、応用分野の拡大に努めている。
世界初の可変気筒デュアルロータリーコンプレッサー
精密加工技術を駆使して日本で初めて独自開発に成功、
インバーター技術で世界に先駆け、空調用コンプレッサーの潮流を築く。