北原白秋 ︻きたはら・はくしゅう︼ 詩人、歌人。本名、北原隆吉。明治18年1月25日〜昭和17年11月2日。福岡県柳川市に生まれる。明治37年、早大英文科予科に入学。明治41年、木下杢太郎らと芸術談話会﹁パンの会﹂を起こし、詩人・画家たちと広く交流した。明治42年、処女詩集﹁邪宗門﹂を刊行。豊穣な官能と南蛮趣味の横溢により、たちまち新進詩人としての地位を確立する。大正2年には処女歌集﹁桐の花﹂を刊行し、歌壇においても確固とした地位を確立した。また、高踏的傾向の詩歌とは異なり、童謡集﹁とんぼの眼玉﹂︵大正8︶など、人間的で親しみやすい作風の童謡も多く制作した。前期は頽廃的、耽美的な詩歌を多く作ったが、後期には詩集﹁水墨集﹂︵大正12︶など、伝統的な枯淡の世界へ向かった。昭和17年11月2日、腎臓病、糖尿病の悪化により死去。享年57歳。代表作は﹁邪宗門﹂、﹁思ひ出﹂、﹁桐の花﹂、﹁東京景物詩及其他﹂、﹁水墨集﹂など。 ︹リンク︺ 北原白秋@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 北原白秋@文学者掃苔録図書館 著作目録 詩 ‥ 発表年順 短歌 ‥ 発表年順 童謡 ‥ 発表年順 歌謡 ‥ 発表年順 *詩・短歌・童謡・歌謡以外の著作目録は準備中です* ◆北原白秋@青空文庫 ◆北原白秋@近現代日本文学史年表 回想録 さうだ恰度、一昨年の春、今頃であつた。福日文化賞をうけて、海道東征のレコードを持つて、多磨の九州大会が此柳河で催された折だつた。あの朝八時頃、白秋はドヤドヤと夫人・令息・令嬢を伴つて私の病床を見舞つてくれた。そして大きな水仙の花束を一握り、﹁そらア﹂といつて私に手渡してくれたのだつた。真黒な眼鏡をかけ、思つたより痩せてもゐないが、彼は眼鏡越しに、私の顔にすりつけるやうにして、﹁ほうら、あんた比頃総髭たてとるばいのう﹂と云つた。実は私は病気で皮膚を犯され、剃れないので、一寸見たら総髭のやうに見えるのである。彼は頻りに私の顔を注視しながら、 ﹁今朝は早く起きて、高畑公園のお宮に参詣して、序に朝のうちに、皆を連れて、ぐるぐる見て巡つたたん、鵲も深山居たばん、九時から中学校で話さにやなんげなけん、ゆつくりされん、大事にせんのう、また会はうだん﹂ と云つて家族づれで、ドヤドヤと出て行つたのである。私は床を這ひ出て、彼が門を潜りぬけるまで、ぢつと見送つた。そして先刻貰つた水仙の花は後で仏に供した。 川野三郎﹁白秋を偲びて﹂ 昭和18年6月 はじめて御治病にお心を潜められるに到つたが、なほ御静養の裡でも清閑の日は少なかつた。 ﹁自分のからだは誰よりも自分がよく知つてゐるんだ。﹂ と、勁くお気構へを持したこの幾年であつた。視力をおいために成られた当初から、すでに致命的な再起不能をお覚悟なされた。 ﹁鴎外先生でも萎縮腎のお手当はつかなかつたのだ。﹂ ともよく例にされ、医師にも薬餌にもはたからのお勧めを退けがちで関心を持たれなかつた。多磨の米川さんのみには、お心おきなく委かされてお出になられた、随分お世話になつたことであつた。 ﹁おれは別だよ病気も苦にならない、痛みもいたみとして味はふのだ。それでどんな痛みにも楽しめるのだ。﹂ と、かへつて看とりのものが、おののき取紊すのをさかさに優しく劬はつてくだされたものであつた。 あたかも常々の習慣のやうに、この一刻その或るもののありやうに、心を空しく詩趣に乗ずるやうに機微を見遁がされなかつた。かかるお態度と、思念の連続とは、終始お変りないさまであつた。それは御臨終のお床の辺に於てもさうでおありになつた。 ﹁死とはこのやうなものか、わかつたよ、いま一息のところまでいつてきたよ。﹂ 御苦悩のあへぎが過ぎるまなくお言葉は明晰に洩らされる、静観のお眼差も異るさまもない、まれまれにみる胆力を示され、死を前にして微動だもなされなかつた。如何に毅い精紳力に支へられてお出でになられたことか。 北原菊子﹁永遠のお人﹂ 昭和18年6月 北原は恐ろしい癇癪持ちです。一寸虫の居処が悪いと真赤におこつた火をひつ掴んで投げつけたりしますが、自分がすつかり火の玉になつてゐる場合ですから、別に火傷もしないやうです。命知らずの向う見ずな気性が家族の者をはら〳〵させます。北原が若し帝国の軍人でしたら一番先きに戦死する人でせう。兎に角畳の上で人並みな死方はしさうにも思へません。生れた儘な人で腹が立てば相手かまはず面と向つて怒りつけますが、後は夕立の霽れたやうにさつぱりとしたものです。︵中略︶全くやんちやで、だゞつ児で無邪気な我儘をしますがそれで又他人の我儘も思ふさま許してやる寛大な処があります。かうした性分ですから、妙に人から好かれる不可思議な徳を持つてゐて、いつも莞爾々々︵にこ〳〵︶して晴れやかな顔をしてゐますが、家庭では時々陰欝な恐ろしい顔をします。それが別にこれと云ふ理由なしに、むく〳〵と起つて来るのですから手のつけやうがありません。時によると毎日一度も二度も起りますので、其度に私は背骨がぐさ〳〵に砕かれる程つらく感じます。其病的な陰欝は怪しい肉体の底から起るのでまるで潮の満干のやうな具合でせう、時間が過ぎれば治るのです。これは北原自身も無意識の中に意識してゐるのと見えて、決して他人にそれを見せるやうな事はありません。特に心をゆるされた者のみが共に受けねばならぬ苦痛です。 北原章子﹁妻の観たる北原白秋﹂ 大正7年4月 それから又類なしの正直人で、何でも人の言葉は真正直に聞きます。何時であつたかどなたかお端書に、﹁仏蘭西の女のやうな柔かい手の持主で、此頃降る雪のやうに色の白いあなたの御出席を待つ﹂と云つたやうな文句がありました。その言葉は北原を夢中に悦ばせました。それからすぐに鏡を取り出して長い間見てゐました。其後三四日の間は鏡台の前に来ると﹁俺はほんとに色が白いのかなあ﹂と自分の顔の白さを今初めて発見した悦びを感じてゐるものゝやうに見えました。そんな場合﹁あなたは色の白い方ではありませんよ﹂とでも申しますと北原はがつかりして仕舞ひます。つまらない例を引いたりして馬鹿げきつてゐるやうですが、ほんとうに其正直さは時によつて却つて相手の人を恥ぢ入らせる位です。北原をよく知つてゐる方は必ずそれを感じてゐられる事でせう。それで時々人に瞞されて大層馬鹿を見る事もあります。そんな時には随分怒りますが、すぐに、あゝ、俺はやつぱりこれでいゝのだと安心して又同じ人から幾度も同じ手にのせられます。 北原章子、同上 殆んど学校へは行かず、家で詩や歌ばかり作つてゐるので父の心配は大きかつた。そして早稲田の文科へ入学するといつてがんばるので、父は酒屋の息子が文学をやつたんでは酒はだれが作るかといつて、どうしても希望をゆるしてくれなかつた。そのうち中学のある先生と衝突して、卒業試験を目の前にひかへて、突然退学届を出して中学をやめてしまつたのである。さうして、どうしても早稲田へ行くといつて暴れる、父はどうしても駄目だといつて怒る、そんな修羅場がつゞいたのである。母と私は何んとかして兄の希望通りにしてやりたくて、いろいろ仲に立つて苦労したのであるが、どうしても父は頑として許してくれないので、遂にひそかに蒲団夜具衣類や書物などを荷作りして、一足先きに番頭へいひふくめて駅にもたせてやり、兄の家出を成功さしてしまつた。その代り私は父にひどく叱られたのであるが、全くの泣訴哀願で父の心も祈れ、兄の遊学が正式に認められることになつた。兄は上京後間もなく、早稲田学報に﹁全都覚醒賦﹂を出して一等当選の栄誉をかち得て、私たちを狂喜させたのである。兄の詩の生活はこれより開けていつたのである。 北原鉄雄﹁上京前後﹂ 昭和18年6月 父はこの上なく寛大であつた。どんな時でも慈愛深くあつた。父は私達を怒つた事は滅他にない。いくら騒いでも知らぬ顔をして居られた。母を相手に口述筆記をさせてゐる父には如何なる喧騒も耳に入らなかつたのかも知れぬ。私達兄妹はそれをいい事にして、仕事に没頭してゐる父の傍で言ひ争ひを始めたりするのだつた。父の環境を静かに保つ事など考へもしなかつた。父のゐる雰囲気が何となく温かなものだから家族は自ら父の許に集つて了ふのだつた。﹁みんなお父さんにくつついて来る﹂と父は冗談を云はれるのだつたが、やつばり何時も自然にさうなつて了つた。父は人を何かしら幸福にせずにはおかない明るさを何時でも四辺に放つてゐたやうに思はれる。父の許にゐる事が何となく安心であつた。如何なる不安も心配も此処迄は侵入する事が出来ないかのやうであつた。 併し父は許すべからざる事は実に激しく怒つた。父の精神には猛烈なものがあつた。遅疑逡巡を許さぬものがあつた。父ほど潔白な人を私は知らない。父ほど純なる人を知らない。父は真に怒る事の出来る人であつた。深く憤る事の出来る人であつた。疚しさは一点だに無かつた。父は詰らぬ私事で怒りなどしなかつた。寧ろ温容すぎる程、寛容であつた。併し曖昧や虚偽や不正は到底父には堪へられない事であつた。就中、軽薄といふ事を父は最も嫌はれたのである。 北原隆太郎﹁父﹂ 昭和18年6月 北原君は本科に入ると退学したが、予科在学中に詩人として東京学生界のみならず、全天下に名を為した。それは偶然の機会からであつた。当時島村抱月が英国留学より帰朝し、休刊になつてゐた﹁早稲田文学﹂を復興し、﹁全都覚醒賦﹂といふ題の詩を募つた。数多き応募者の内から、予科在学中の北原君が一等当選となり、当時としては大金である何百円かの賞金を受けた。それで、北原君は有名になつた。内気らしく、優しげな、無口な北原君も、之がために、クラス内で有名になり、誰れ彼れとなく、あれが北原だよと指をさゝれるやうになつた。︵中略︶ 交際の始まりは、帝国美術学校が昭和四年に創立され、学校の校歌を作る時に、筆者の友人の音楽家小松耕輔君の紹介で、校歌を作つてもらつたことに始まる。北原君は筆者の家を訪ひ来り、学校へ同行した。すると北原君は校庭に佇ずんだきり、心行くばかり、武蔵野の光景を眺めてゐたが、やがて立ち上つて、大体の構想が出来たから、もうどこかいつて飲まうといひ出した。それで一先づ拙宅へ立ち寄り、家内の手料理で一二杯やつて、付近の料理屋で相当飲み合つた。筆者も当時は三軒や五軒の梯子飲は平気な方であり、北原君も酒仙といはれるほどであつたから、市内の料亭を飲み回り北原君が徹夜で飲まうといふのを、漸く虎口を逃れて帰宅したことがある。流石の筆者も北原君の酒仙ぶりには閉口した。 北�ヤ吉﹁北原白秋君﹂ 昭和18年6月 北原白秋君において僕は初めて﹁詩人﹂といふものを見たやうに思ふ。詩をつくる人はすくなくないが、﹁詩人﹂として全体渾一した存在をなすものは、必ずしも極めて多くはない。これは僕のやうに、新聞記者生活といふ実務的な方面に青年時代・壮年時代を過して来たものにとつては、なかなか理解しがたいことでもあるが、それだけに一層尊い一生であつたと思ふ。不屈不撓といふが、北原君は実に詩人としての不屈のたましひをもち、不撓の努力をつづけて、その生涯を終始一貫した。北原君の精神も肉体も、ことごとく﹁詩﹂に凝集され繋結されてゐた。北原君には人間の部分的な発現といふものがすこしも感じられない。常に、いつでも全身全霊的な﹁詩人﹂であつたと思ふ。そのために一切妥協といふものがなく、自己に対してもきびしいものをもつてゐたと同時に、他に対しても決して許容するところがなかつた。許容し得ないものとは交渉をもたなかつた。世俗的には、それが単なるわがままとみられたに相違ないが、北原君としては、それをみづから制するなどといふことを考へたこともなかつたであらうし、またその必要もないほど厳然たる存在であつたわけである。 土岐善麿﹁詩人北原君﹂ 昭和18年6月 或日、季節は秋の初め頃だつたかと思ふ、私が井荻町の自宅を出て、何か用達しをしてから、たまたま西荻窪の駅前を通りかゝると、黒の背広に縞ヅボンをはいた︵と記憶する︶北原君が、切符を買はうとでもするやうに、窓口でうろうろしてゐた。 ﹁北原さん!﹂と私が声を掛けると、君はあらぬ方を振向いた。 ﹁中村ですよ、どちらへ?﹂ すると、私に気付いたらしく、覚束ないあし取りで近づいて来た、といふよりは私の方が近寄つて行つたのだらう。 ﹁善福寺池に行つて、静かな所で歌を作らうと思つて来たのだが、どのバスが善福寺行きかわからないものだから、面倒臭くなつて帰らうと思つたところです。﹂ ﹁さうですか、善福寺行きはこちらです。﹂ 私は手を取つて導きながら言つた。 ﹁やつぱりよくお見えにならないのですか? それで、一人歩きは危険ですね。﹂ ﹁なに、此の頃は馴れて、この位ゐの遠出は一人でするのですが、今日はわからなくて弱りました。﹂ ﹁ぢやあ、僕、今は暇ですから、善福寺池まで御案内しませう。﹂ やがて来た善福寺行のバスに二人は乗つた、途中いろいろの話をしたが、眼の病気に関する話が多かつた。バスを降り、池のほとりのベンチに腰をおろさせた。 ﹁この頃はまあいくらか好くなつた、とは言ひ切れませんが、眼の病気は進行せずに止まつてゐるといつた風です。変なことは、あなたならあなたと向き合つてゐると、あなたの輸廓は見えるが、細部は見えず、却つてあなたの体のうしろの物が見えたりすることがある……で思ふんですが、未来派の画などで、重ね写真みたいな形を表はしたものがあつたが、あゝいふことは、今のわたしから言はせると、幻想でも幻影でもなくて間違ひのない真実なのです。﹂ こんな話を、黒眼鏡をかけた北原君はした。 中村星湖﹁或日の北原白秋氏﹂ 昭和18年6月 北原氏は、私の知つてゐる範囲で、最もよい感じをもつた人です。あの人の感じを一言で言へば﹁ふつくりとした人柄﹂でせう。私のやうないら〳〵した性格の人間は、一般に人嫌ひが多いので、友人といふものがめつたにできません。たいていの人とは逢つても落着いて話ができません。然るに北原氏には、私のいら〳〵がたつぷりと這入るだけの余裕があります。ですから私はあの人と話をしてゐるときが、心が落着いていちばん楽々します。 北原氏の感じでいちばん好い所は、どこかぼんやりとした所があつて、それが非常に魅惑的なあたたかみをもつてゐることです。あの人の手や身体の丸々としたあたたかみは非常に女性的の肉感をあたへます。 話をしてゐても、あの人の神経の細かく利いてゐることには驚きます。併しそれがいつも例のぼんやりの膜につゝまれてゐるので、決してこせ〳〵した不快や、妙に気を回すといふやうな感じでなく、却つて非常に暖つたかいよい気もちをあたへるのです。言はばあの人の感じは春の感じです。明るくてしかも感覚的です。 萩原朔太郎﹁ふつくりとした人柄﹂ 大正7年4月 交り始めは明治三十七年の若葉の頃であつたらしい。楓若葉に降りそゝぐ雨を見つめてゐたが何を感じたのかふと立ち上つて﹁即興詩人はいゝね、あれは僕のバイブルだよ﹂と丸々として帰つて行つた後ろ姿が最初の印象として想ひ出される。恐らく誰が引き合したと云ふ事もなくふとした機会から知り合つたのであらう。が、若い者同志はすぐ良くなるものと見えて、毎日のやうに往き来したものであつた。そして読んだものや、書いたものを見せて批評し合つたと云ふよりは寧ろ青年らしい自負心からお互の感想や作品に対して悪口を云ひ合つたものであつた。その歯に衣をきせない悪口が文学に対する理解を深めたり、詩魂を磨く上に役立つたやうに思ふ。或る時など原稿を読んでゐた彼がそれを畳の上に叩きつけて﹁よをし、俺もやるぞ!﹂と弾き返されたやうに席を蹴立て、ぴしやりと障子を閉めて、荒々しい足どりで帰つた事もあつた。が、さう云ふあとにはきつと驚くばかりの雅作を見せて友人に刺戟を与へたものであつた。 そのころの彼は森鴎外訳の即興詩人、旧約聖書の詩篇、大槻文彦の言海の三書を愛読してゐた。彼の絢爛たる詩華の萌芽はこの二書によつて培はれ、豊潤な語彙は﹁言海﹂によつて養成されたものであらう。或る時彼は﹁言海を始めから繰つて新語を見出しては歌を作るのだよ、新らしい詞を見出すと胸のわななく思ひがする﹂と云つた。詞に対する敏感は既にそのころからきざしてゐたのである。 人見東明﹁追憶﹂ 昭和18年6月 北原君はおつとりした人のよい、どういふ人からも善意をもたれる方の人で、暖国人らしいゆつくりした人がらを有つてゐる。初めて会つた人でも﹁いゝ人ですね。ほんとに気どらないいい人ですね。﹂と云つてゐる。だから、どういふ人々に対してもよく話をする人で少しの気むづかしさのない人のやうに思はれてゐる。けれども北原君が永くつかつたばあやさんやおくさんは、北原君が訪問客に現はさない﹁気むづかしさ﹂をよく知つてゐられるやうに思ふ。あの、むつちりと肥えたからだの中に非常な気むづかしいところが蔵つてあるやうに思ふ。ずゐぶん親しく交際︵つきあ︶つてゐるけれど、まだ私はそこに触れたことがない。おくさんがよく知つてゐられるやうに思ふ。まだ北原君と喧嘩したことも、又、怒つたことも見たことがない。 室生犀星﹁我慢のつよい忍耐力﹂ 大正7年4月 白秋はよく引っ越す人である。私なぞにその都度転居通知なぞが来るはずはない、彼の引越し先につぎつぎと現われ、一年に二、三度は訪ねた。部屋は何時でもきちんとかたづき、机の上には原稿紙でない上質の洋紙が重ねられ、それに詩の下書きがほどこされて、さらにそれを原稿に書きなおしていたのかも分らぬ。冗談もいわなければ砕けた話もしない、それで大家振つている気障なところはなく、手元に引き寄せられて話は熱心にするが、それ以上に女の話などするとか、私自身の生活を聴き取ってくれるとか、そういう一さいのうるさい話はしなかった。詩の話、雑誌の話、木下杢太郎の話、吉井勇の話、そんなふうなことで話はすぐ絶えてしまって、私はきゅうくつになり、長居はしないで何時も早々に退去した。つまり顔さえ見ればよかったのだ。どんなに窮していても原稿売込を頼むとか、金銭なぞは一銭も借りたことがなかった。私はそれだけでも私の幾つもない徳にかぞえていたのだ。他人にはきゅうくつになる田舎書生の私と、いつも高度のハイカラ趣味を持った白秋との、いんぎんにして礼儀のある交際は、そのまま永い間続いた。小説を書いて少し名前が出た時分でも、白秋は以前にくらべて少しばかり敬意を持ってくれただけで、私は例のきゅうくつなものから脱けきれないで、にこにこしながら、いまから考えると彼にたいする尊敬と、きゅうくつなものを最後までまもっていたように思われた。 室生犀星﹁北原白秋――我が愛する詩人の伝記﹂ 昭和33年12月 稚心の保持者白秋こそは私の最も好むところだった。世に人は多い。が、白秋のように童心に生きた人はまれだ。だからこそ彼には神が宿るのだ。彼は生みうるのだ。私が詩人白秋を尊敬するのはその点だ。彼はいつでも大人の衣を脱いで、素ハダのこどもになれる人であった。︵中略︶ かつて上海の自然科学研究所で私は、中国の白秋なるものをはじめて知った。白秋と私の間柄を、とてもよく知っている京都大学のK博士がある午後、私をその研究所の標本ダナの前に立たせて これが中国の白秋ですよ。 そういいながら、雪花のような、白い結晶を私の掌の上にのせた。 便所の壺の縁などにできる結晶物ですよ。これは。つまり、はっきりいえば、アンモニアのようなものですよ。 といわれた。私は心中、白秋に対するいいみやげ物ができた、と思い雀躍たる心中をどうすることもできなかった。 帰京するなり私は彼を訪ねて、上海での白秋の由来を彼に伝えた。中国で白秋というのは、便所の壺の縁にたまる白い結晶物を指すのだ、と告げた。だから、いままでの白秋はやめて、せめて伯秋と変えてはどうかとも提案した。すると白秋はいつものダダっ子ぶりを発揮して 便所の息子の白秋か、こりゃおもしろいや。 といったかと思うと、急に形相を変えて なにッ、じやあオレは、さしずめ北原伯シャクになるじゃないか。でお前は、コウシャクになる。いやだよオレは、アッカンべーのベエだ。 と赤い舌をペロッと出したものだ。 その時の白秋の坊やのような稚気にあふれた顔を、私はいまもなお忘れることができない。このいたずらッ子の白秋が、詩人北原白秋を永劫のものとするのだ。考えてできるわざではない。実に自然にあふれでるこどもっぽさだ。 山田耕筰﹁白秋寸描﹂ 昭和37年9月 北原一族は硬軟両面に濃い血を持っている。いわば大家族制の面影をどことなく残していて、祖父母をかこんで一族はよく集った。白秋や鉄雄伯父は酔うと人の顔を甜めるくせがあった。変な大人がベロベロべーなどといっては、ことにメイ達を追いまわすのだ。そして帰途、東中野のホームで、黒メガネをかけた白秋が、盲の真似をしながら線路におちるふりをしたり、わざと若い女性の方へ近づいたりした風景をはっきりと覚えている。また鉄雄伯父は酔うとよく、﹁白秋は親不孝のくせに孝行の歌などつくって、うそつきだ﹂といっていた。︵中略︶ 草野心平さんがまだ若い頃、白秋と巷の酒屋で飲んだことがあったそうだ。草野さんはただ一度のこの交流をいまも愉しく追想して、僕にこういった。 ﹁白秋がね、酔っぱらってね、青二才の僕をつかまえて、“ねえ君、僕は日本一だろ、ね、そうだろ”って何べんもくりかえすんだからね、弱ったなあんときは﹂ 恐らく、こうした逸話は限りなくあるだろう。日本一の白秋が日本一といっても少しもおかしくない時代であったろうが、そういって陶酔したり、確かめたり、人をからかったり、逆に甘えたり――様々の心理を団子にして吐き出しながら、人を説得せずにはいない包容力のある大人の風格で白秋は独歩していたのだ。 山本太郎﹁白秋の思い出﹂ 昭和37年6月 以前私がしばしば泊り込んだ時分には、興が至ると二日も三日も徹夜して白秋君は歌を詠んだ。酒をのみつつも歌を詠んだ。どうだ、また出来たぞ、この歌はどうだ。うむこいつは素晴らしいや、傑作だ。私が酒をのみながら相槌をうつてゐると、いくつも善い歌が出来る。﹁おれは善いぞと褒められるとどんどん歌が出来る。けなされると一つも出来なくなる。﹂と白秋君はよく言つてゐた。それで奥さんは一晩中白秋君と起きてゐて、一々出来上つた作品を賞め讃へて、詩人歌人白秋君の妻としての、涙ぐましい努力を続けてゐられたものである。 吉植庄亮﹁北原白秋の追憶﹂ 昭和17年12月
明治42年 昭和2年頃 昭和14年
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