島崎藤村 ︻しまざき・とうそん︼ 詩人、小説家。本名、島崎春樹。明治5年3月25日︵旧暦2月17日︶〜昭和18年8月22日。長野県馬籠村に生まれる。明治24年、明治学院を卒業。詩集﹁若菜集﹂︵明治30︶などにより詩人としての名声を得たが、やがて小説家に転じ、長編小説﹁破戒﹂︵明治39︶を発表。自我の懊悩と、被差別部落という社会問題とを重層的に描き、ヨーロッパ文学と同質の近代リアリズム小説として高い評価を得た。以後は自伝的小説に転じ、﹁春﹂︵明治41︶、﹁家﹂︵明治44︶などを発表したが、特に、実の姪との危険な恋愛関係を告白した﹁新生﹂︵大正8︶は大きな反響を呼んだ。昭和4年から10年にかけ、父・正樹をモデルとし、幕末維新期の動乱を描いた歴史小説﹁夜明け前﹂を発表。近代日本文学史上、屈指の傑作と評価される。昭和18年8月22日、脳溢血により死去。享年71歳。代表作は﹁若菜集﹂、﹁破戒﹂、﹁家﹂、﹁新生﹂、﹁夜明け前﹂など。 ︹リンク︺ 島崎藤村@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 島崎藤村@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・詩 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 初めてお目にかゝつた時から島崎さんの話振りには一種印象の鮮かな特長のあるのに気付きました、それはいかなる時と場合でも少しも変らず同じです。その脣をもれる話は決して其場其場の思付きでなく、普段から幾度も腹の中で考へに考へた事を改めて話されるやうで、時としては思想や事実がさうである許りでなく、話方や、文句までちやんと出来てゐるやうに整つた話方をされる。恰度その文章のやうに落着いた選択された言葉で話される。会話の途中でも屡々深く考込むやうにしてから話される。特に人の談話や質問に対する場合決して即答されない、きつと一度じつと考へてから徐ろに口を開かれる。そんな時いつも手からはなされない巻煙草が大変具合のいゝ道具になつてゐる。恰度舞台で立役の前に端位が喋るやうな、役を巻煙草がする。敷島の袋からつまみ出された煙草は口に搬ばれ、煙になつてゆる〳〵と脣の間から少しづゝ出てゆく、じつとそれを眺めてゐられる事もある、又煙草の灰を人指々ではたきながら火鉢の中を見詰めてをられる事もある。顔の筋肉は緊張し切つてゐる。此沈黙が済むと突然哄笑と共に快活な言葉が迸る事がある、それでなくてもはつきりした今までの沈黙に不似合なほどさわやかな言葉が出てくる。 有島生馬﹁静かさと深さ﹂ 大正6年2月 ▲世渡りは巧みなりと云ふ奈何 ●泡鳴氏曰く――藤村氏は目の早い男だから、世渡りなぞは上手な方だ。卑怯なほど注意深く、失敗をしないやうに務めて居る。 ●長江氏曰く――利害は可なり見える人のやうに思はれる。しかし、其程度に於て、づるい人だと思ふのは間違だ。 ●秋骨氏曰く――世才は中々ある方だ。然し、細工を凝らして権謀的に遣るのではない。自ら具つて居るのだ。総べてのことの談判なども上手である。その意味は敏捷に遣ると云ふのではない、極く穏かに、人の感情を害はずに、それで好い結果を得る。近所のつき合は田舎式に丁寧だ。情の濃かな所がある。︵中略︶ ●秋江氏曰く――世渡りが上手ならば、利害の打算にも明かな人であらうと思ふ。けれどもさういふ事は何もその人の品性を賊するものではない。尤も自己の利益になるからと云つて、人を突き落すと云ふやうな態度を出すに至つて始めて自分の品性を賊するものである。島崎さんは世才のある人には相違ないが、その世才が島崎さんの品性を傷けるやうな世才ではあるまいと信ずる。 岩野泡鳴・生江長江・戸川秋骨・近松秋江ほか﹁島崎藤村論﹂ 明治43年8月 私が先生の姿を始めて見た第一印象は、その後の印象に塗られて、もう今は形も留めなくなつてゐますが、強ひて思ひ出して見るとかうです。先づ、身体の如何にも丈夫さうに、頑丈なのが意外でした。肥つてゐるのではないが、しつかりしてゐるのです。殊に肩が男らしいと思ひました。手や足にも柔弱な所が見えません。髪の毛の黒くて濃くて硬さうな事。皮膚の色の透き通るやうに白い事も、先づ私の目を引きました。歯の煙草で煤けてゐたのは、その時分からさうでした。髭はその時あつたかなかつたか覚えてゐません。併し、何よりも私を強く引きつけたのはあの目です――黒目勝な、大きな、はつきりした、男らしい目です。子供の時から目の小さいのを気にした私は、先づ先生の目に傾倒しました。鋭い目です。それでゐて、優しい目です。厳粛な目です。それで、何処かに皮肉な光があります。︵その後、先生の目は、私にとつて、悲しむ目になつたり、揶揄する目になつたり、責める目になつたり。拒絶する目になつたり、随分色々複雑になりましたが、私の第一印象は﹁何だかお腹の底まで見通されるやうな目﹂でした。︶ 小山内薫﹁小諸で初めて﹂ 大正6年2月 巴里に来て程好い下宿が無くて困つて居た時、初対面の私達を懇ろに世話をして、今の宿に落ち付て下さつたのは島崎君である。お蔭で私達は同君の下宿の向ひ側のホテルの一室を占領し、昼と晩とは同君の下宿に行つて、今日まで六週日の間、毎日食卓を共にする事が出来た。︵中略︶此頃の君は頻に筆を執つて居られる。夜いつまでも窓にランプが見えるので、またやつて居られるなと思ひながら、寝たことも屡ある。食事の折﹁昨夜はとう〳〵三時まで起きて居ましたつけ﹂なぞと話された時、﹁自分が寝ずに書いたものは他人も亦寝ずに読んで呉れます﹂とお答へした事のあるのも私は記憶して居る。或夕の食後、之から少し仕事をして九時頃に訪問しやうと云はれたので、私の部屋で待つて居ると、九時半にもなるのにまだ来られない。窓はと見るとランプの光が明るく射して居る。十時を少し過ぎた頃にやつと其光が消えたかと思ふと、軈て私の部屋の戸をノツクさるゝ音が聞える。歓び迎へて暖炉の傍に椅子を寄せ、例の低い声に耳を傾けながら、――どうかすると電車の音に消されて聞えません、――夜を深かした事もある。︵中略︶ 下宿の食堂で同君と会食する者は、私等の外に同君と同宿して居る仏蘭西人の大学生と、独逸人の若者と、﹁仏蘭西だより﹂に二度ばかり出て居た下宿の主婦とで、一時は随分賑はしかつたが、近頃フランス人は出て仕舞ひ、私等も遠からず行かなくなるので、大分寂しくなるだらうと思ふ。或時は島崎君が独仏聯合軍に攻め立てられ、或時は独仏戦争の仲裁などして居られたが、――件くだんのドイツ人とフランス人とは能くお国自慢で議論を始めた――それも過去の歴史になつた。 僅か数日の観光客も世界一と称せらるゝルーヴルの美術館へは必ず一度は行くに決まつて居るに、島崎君は其のルーヴルヘ一年近くも居てまだ一度も行つて居られぬ。今まで巴里に来た外国人では恐らくレコード破りであらう。何時も食事の度毎に、件のフランス人ドイツ人が、お変りはありませぬかと云ふ挨拶代りに、ルーヴルヘ行きましたかと云つて居る。ムツシユー島崎は何故色々な所を見に行かぬので有らうとは、同宿の人々の解き兼ねて居る疑問のやうである。他人が自分の境界を疑問とするを楽しむと云ふ風な所が見える。 河上肇﹁巴里に於ける島崎藤村君﹂ 大正3年5月 ただ私は、藤村をつくづくとながめながら、思ったよりも小柄な人だなと思っていた。写真で見ると、目鼻が大きくて、いかにも巨大という感じだが、実物の藤村は、思いのほか背が低くて、ほっそりした撫で肩で、まるで品のいいおばあさんのように見えた。 ︵中略︶﹁破戒﹂や﹁新生﹂などで、世間を相手に苦しい戦いを戦って来た人という先入観から、藤村を、なんとなく激しい人、気魄に溢れた人、苦渋に満ちた人という風に想像していた私は、目の前の女性的といいたいほど柔和な、繊細な人を見て、意外の感に打たれていた。 そのうち私も何か聞きたいことがあって、一言だけ質問した。それがどういうことであったか、三十年以上たった今日、どうしても思い出せないが、ただその時藤村が、 ﹁ええ、そんなふうに言うこともできるでしょうが﹂ とだけいって、あとは何も話してくれなかったことである。︵中略︶私はそのとき、藤村からみれば、私の考えていることなどは、青臭くて、まともに取り上げるほどのことでもないのだろうなと思うと同時に、それでも、青臭いなら青臭いなりに、たしなめるなり、教えてくれるなりしてくれればよかったのにと、軽い不満をおぼえた。 しかし、不満というのは言い過ぎである。それは物たりなさといったほうがいいのであろう。それよりもむしろ、私は藤村の底知れない大きさの方をひしひしと感じた。そんなことは、私に聞くまでもない、自分で考えて、出直して来なさいといわれたような気がした。私は、この人はおばあさんのように小柄で、弱々しく見えるけれど、やっぱりたいした人かも知れないぞと思ったのである。 杉森久英﹁藤村と私﹂ 昭和42年4月 私はこゝに来て英文学を島崎先生に教はりましたが、残念ながらその講義はちつとも面白くありませんでした。それ以前の島崎先生は決してさうでなく、無論静かな人ではありましても、その真面目な一家の風に加ふるに清純な情熱はたしかに生徒を感激させたもので、それなればこそあの﹃春﹄にかゝれてあるやうな苦しい恋もその中から生れたのでありませう。けれど先生は深く悶へて一時学校を退き、ところ定めぬ漂泊の旅に出たり、また頭をそり落して円覚寺山内のお寺で法衣を着て東海道を歩いて行つたりなさつたあとのことで、再びお兄様のお家の事情から教壇に立たれたのでしたから、私はそれまで友達からきいたりして期待してゐた先生の講義に失望すると共に、﹁ああもう先生は燃え殻なのだもの、仕方がない﹂と思ひました。友達もみんな島崎先生といへば﹁石炭がら﹂で不平を洩らして居りました。こちらは一生懸命で英文学の本を訳して持つて行き、非常な意気込みで質問しますのに、先生は極めて平静で、 ﹃それで宜しいでせう﹄ と一言仰しやるきり、時間になればさつさと出て行つておしまひになる、生徒はあとに呆然ととりのこされるのでした。 相馬黒光﹁島崎先生の講義ぶり﹂ 昭和11年6月 川崎で中沢君も下りた。﹃君の社はこの近所ですか﹄島崎君は窓の処に行つてこんなことを言つた。外には雨が降つてゐた。 中沢君は汽車の出るまで其処に立つて此万を見送つてゐた。やがて席に戻つて来た島崎君は、﹃段々かうして送られて別れて行くのは淋しいもんですね﹄かう言つて荷物の上に載せてあつた一箇の紙包を取つて、そして私の傍に腰をかけた。そこにはロマン、ロウランの作が三冊入つてゐた。中沢君が今朝餞別に呉れたのだなどと島崎君は私に話した。 向ふに行つてからの話を私達は絶えず繰返してゐた。﹃彼あつ方ちに行つて、先づ最初に腰を落着けやうとするところは、東京なら、湯島のやうなところで、学生だの若い人達の多いところださうです。イタリイあたりから、修業に来てゐるお医者なども居るやうな処ださうです。﹄島崎君はかう言つて、これから始めやうとする新しい生活を頭に浮べるやうな顔色をして、静かに巻煙草を吸つた。﹃ホームシック、さうですね、さびしいでせうね﹄などとも言つた。私達はドオデヱの話だの、ゾラの話だの、フロオベルの話だのをした。シャンプロゼイの森や、メダンや、ルーアンなどが私の頭を往つたり来たりした。セナールの森の中の廃れた寺院はもう残つてゐないだらうか。蔦の絡んだ古いその寺の窓は残つてゐないだらうか。メダンの邸宅の二階の一間で、客を謝して専念にぺンに親んだゾラのことだの、セイネの見える一間に当年の文星を集めたフロオベルのことなども私達の話頭に上つた。﹃さういふ人達の痕あ跡とをたづねて歩くだけでも意味のあることですね。……成なるたけ、さういふ処も見て来たいと思つてゐます。﹁ボリー夫人﹂のモデルになつた婦人の墓、さうさう、さういふこともありましたね。あれなども面白いね、行つて見ると……﹄こんな話から続いて、行つた当座は、まア、様子が解らないから巴里にゐるが、その中うち好い所をさがして田舎に住んで見るつもりだなどといふ話も出た。 島崎君には、洋服がよく似合つてゐた。年も三つや四つ若く見えた。旅行用の新しい鞄、そこから、島崎君は餞別に貰つたトルコ煙草を出して、そしてそれを私に勧めた。 相模と武蔵との間に連つてゐる低い松の多い山には、雲が懸つたり晴れたりしてゐた。梅の白く咲いたのが其処にも此処にも見えた。鶴見の停車場では、見送りに出てゐる人がある筈だと言つて、島崎君は窓から首を出してゐたが、時間でも間違へたのか、その人の姿は汽車の出るまで遂に遂に見えなかつた。神奈川あたりから雨は強く降り出して来た。 ﹃かういふ雨の日に、君を送つて行くといふのも紀念になつて好いね。﹄ かう私は言つた。 ﹃さうですね。静かで、心持が落附いてゐて、感じが好いですね﹄島崎君はかう言つて、縞のやうに雨の降つてゐる外を見た。 田山花袋﹁春雨の日に箱根まで﹂ 大正2年5月 ○第二学期から、島崎君の出席はだん〳〵稀になつて、第三学期中は全く見え無かつた。九月、即ち、第三年級の初になつて、島崎君は、帰つて来た。聞けば、高等学校の入学試験に失敗したといふ上に、脚気の上りであるといふので、杖を突いて、教場へ出て来て、甚ひどく意気銷沈の有様で、初めての日などは、机へ突つ伏して、暫時、顔をあげ無かつた。服装は、衣は肝に至るといふ程では無いが、質素な和服であつた。 ○なか〳〵皮肉な人で、ポンチを書いて他人を冷やかしたり、妙な所へ、言葉を挟んだりして、澄まして、冷笑して居ることなどがあるので、拙者はよく﹃君は陰険な男だ﹄といつて、島崎君を怒らして、寄宿舎の一室で、組打を為したことなどがある。そのうちに、島崎君は、だん〳〵学課の方などは構は無くなつて、外国教師の教場で、自分が答を為る番になつても、唯、点おじ頭ぎを為たのみで、平気で居るので、教師の方でも、為しか方たが無いから、君を抜かして、他のものに遣らすといふやうに為なつて来た。―ランヂスといふ教師は﹃島崎といふ男は、非常に出来る男だが、非常な惰なまけ者だ﹄といつて居たさうである。が、実際、島崎君は、学課は、構は無かつたが、読書は十分やつて居たやうであつた。 ︵中略︶ ○第三学年の終頃から、島崎君は、ひどい沈黙家となつて、友人と決して口をきか無くなつて、何時の間にか、寄宿舎を出て何処へか下宿して了つた。忽然として、教場へ出て来て、忽然として、何処へか行つて了ふ。遠方を、うつむき勝に歩て居るのを見て、話でも為やうと思つて近寄つて行くうちに、何時とも無く影は消えて了まつて居る。︵中略︶が、卒業間際になつてからは、忽然主義を大部緩ゆるめられたので、何故、左様まで踏とう晦くわいしたのかと聞いたら、﹃人に逢ふと、宜い加減な事を云つていかぬ。宜い加減なことをいふので、人に才子だ才子だといはれる。これが残念だから口をきかぬやうに為るには、人に逢はぬやうに為るに限ると思つて、隠れて居た﹄といふ説明であつた。島崎君は、勇猛な自家矯正家である。思切つた断行家である。 馬場孤蝶﹁明治学院及び﹃文学界﹄時代﹂ 明治42年1月 二十四年の六月に明治学院を卒業してからは、島崎君は浜町の吉村家に居た。前に云つた通り、その吉村家の主人は、島崎君を養子に仕様かといふやうな考もあつたらしく、島崎君の学資などは少くとも大分補助したらしかつた。それで、学校卒業後の島崎君の職業に就いても、可なり意見を持つてゐたのではなかつたらうかと思はれる。どうも、島崎君が文学の方へ進んで行かうとする傾向をもつてゐるのに対しては、吉村家では賛成ではなかつたらしい。文学が職業にする価値のあるものだといふやうな考は、当時の普通人の考からは非常に遠いものであつたので、吉村家の主人は、島崎君の傾向を喜ばなかつたものと考へてよろしからうと思ふ。 ︵中略︶ 或日島崎君に逢つたが、島崎君がかういふ話をした。﹃僕は君達と違つて、九ツの時から他人の仲へ這入つてゐて、自分の家庭といふものを知らなかつたので、それが僕の性格に大分影響したと思ふ。たとへば、変に掟へ目なところのあるのなども、その一例だらう。僕は、自分のさういふ性格の殻を破り度い破り度いと思つてゐるものだから、此れまで度々不自然に見えるやうな方向へ走つたことがあるんだ。母親などが東京へ出て来て、それと一緒に住まふやうになつてから、はじめて自分の家といふものが出来たといふ形なんだ﹄ 島崎君は、俳諧、浄瑠璃、小説などの徳川文学を可なり読んでゐた。矢の倉の方から入つて行く浜町の横町の角位なところに、古い和書を売つてゐる京常といふ小さい本屋があつて、主人は小男の愛嬌のない爺さんであつたが、島崎君はその店で八文字屋ものなども可なり買つて読んだやうであつた。僕は西鶴の﹃武道伝来記﹄を、島崎君から貰つて今も保存してゐるのだが、その本なども、島崎君がその店から得られたのではなからうかと思ふ。 馬場孤蝶﹁若かりし日の島崎藤村君﹂ 昭和17年11月 島崎藤村の事を考へると、私の頭に先づ浮んで来るのは、﹁夜明け前﹂の出版祝賀会の席上で、氏が諸家の祝賀の言葉に対して答へた挨拶及びその挨拶を述べた態度である。 人人のテーブルスピーチが終ると、藤村は感慨に耽り込んだやうな、そのために少しぼんやりしたやうな顔附で静かに立上り、暫くうつむき加減に黙つて立つてゐたが、やがて顔をもたげ、太い眉をきりりと上げて、そしてゆつくりした口調でかう云つたのである。 ﹁わたしは皆さんがもつとほんたうの事を云つて下さると思つてゐましたが、どなたもほんたうの事は云つて下さらない……﹂ そのまま又眼を伏せて暫く黙つてしまつた。――人人は粛然と静まり返つた。 実際諸家の言葉は月並でない事はなかつたが、由来かういふ出版記念会などに云はれる言葉は、普通作者に対する祝賀の言葉かねぎらひの言葉であるのが例なので、さういふものとして無神経に聴き流してしまへば、別段とがめ立てしなければならないやうなものでもなかつたやうに思はれる。併しそれをほんたうに聴き、その中から自分の努力に対する忌憚なき批評をほんたうに探らうといふ気になれば、諸家の言葉が余りに形式的であり月並なお世辞であつたといふ事が、藤村の心を寂しくしたとしても、これ亦無理ではないかも知れないといふ気がする。 広津和郎﹁藤村覚え書﹂ 昭和18年10月 詩人島崎藤村が小説を書きだしたのは、彼の芸術観の変遷によるのであろうが、そればかりではない。実生活を顧慮したためではなかったかと、私は推察している。当時、詩では生活費は得られなかったのであった。新体詩というものは大抵無原稿料で雑誌などに発表されていたのだ。青少年の間に心酔者の多かった藤村にしても、作詩によって得るところはきわめて僅少であったようだ。彼が新作を﹁新小説﹂に寄稿した時、原稿料を請求したら、その発行所春陽堂で異様に感じたらしく、例外の事件として来訪者に噂したそうだ。それほどに詩は金にならなかったのだ。文士は貧乏と極っていても、小説なら、まだしも生活の資が得られるのであった。 正宗白鳥﹁自然主義盛衰史﹂ 昭和23年3〜12月 明治文学史上画期的の大作﹁破戒﹂は、日露戦争中に執筆され、戦後に自費出版されたのであったが、これほど前景気の盛んな小説は、かつてなかったように、私には印象されている。﹁若菜集﹂や﹁落梅集﹂の作者たる詩人島崎藤村が、信州の山を下って東京の郊外住まいをして、貧乏生活をしながら長篇小説を書いているという噂に、当時の青年文学者は敬意をもって耳を傾けた。破天荒の作品が出現しそうに予想された。田山花袋は、藤村の新作の狙いどころをさまざまに臆測して、羨望に堪えぬような口吻を洩らしていた。自分もこの気運に乗じて何かやらなければならぬと、心を砕いていたようであった。そして、いよいよこの新作が、﹁破戒﹂という魅力ある題目を振りかざして市場に出ると、文学的熱意に富んだ文壇人は、争ってこれを読み、互いに是非の批評を下した。﹁早稲田文学﹂では、抱月はじめ、社の同人、私なども加わって合評をしたが、誰れもみな讃辞を呈したのであったと、私は記憶している。 正宗白鳥、同前 私が先生を訪ねたのは﹁中央文学﹂の用件といつたが、この雑誌の前編集者は細田源吉君で創刊当時から手がけてをり、誰が企てたものか知らぬが﹁北村透谷賞﹂を設定して年に何回か短篇小説の募集をやり藤村が選者だつたのだ。私がひきついでから何回位あつたか忘れたが当選作を扱つて発表したことはよく覚えてゐる。当選者たちのうちで文壇に出て活動した者は一人もなかつたといつていい。何か物を書いてゐた人は二三あつたが、それとてもいつしかどつかへ消えてしまつた。 当時私が当選作の原稿を一読して妙に思つたことが一つある。いづれも選者にあやからうとしたわけでもあるまいが、揃ひも揃つてスタイリストであつたことは無理はないとしても、尽くがエロ小説だつたことである。さうでないものは選に洩れてゐたのだ。私は、それで藤村といふ作家はよほど性的なものに興味と関心を持つてゐる人であることを知つたのだ。これは甚だ非礼な言ひ草だが、あの寡黙で、しかも謹厳らしい先生の風貌と考へ合はせて下世話にいふ﹁むつゝり助平﹂といつた言葉が思ひ出された位だつた。 水守亀之助﹁わが文壇紀行﹂ 昭和28年11月 巴里に居る間、私は先生がどういふ心持で日本を後にされたのか知らなかつた。後日﹁新生﹂を読む迄、あの大作の中に描かれた苦悶をいだいて居られやうとは思はなかつた。ただ、巴里に於ける先生の姿は如何にも寂しかつた。陰鬱だつた。内に蔵する力の強い先生には、悲喜哀楽の情を小児の如くあらはす事は出来ないらしい。先生は吾々と膝組で談笑されるがたとへば笑ふ時でも、いかにも相手の心持をいたはる為めに楽しさを示さうとされながら、しかも決して安易なる笑は出て来ない。それは先生の心の底に、何事につけても忍ばうといふ深い根ざしがあるからではないだらうか。先生は馳足の速力をほこる人ではない。何時迄も膝を崩さずに坐つて居る人である。声を張あげてうたふ人では無い。黙つて聴いて居る人である。心の重さが、音になつては現はれないのである。﹁新生﹂の苦悶も亦、何をもつて紛らさうとか、やけになつてごまかさうとかする事なく、運命の来るがまゝに忍んで之を受けたのである。巴里の長い滞在は、その受難の日だつたのであるが、私にはうかゞひ知る事が出来なかつた。 私は先生に絡はる暗鬱な陰影を、先生の血統の故ではないかと思つて居た。﹁家﹂に描かれてゐる通り、先生の父上は発狂して晩年を座敷牢の中で過されたのである。甚だ失礼な事ではあるが、静かに端坐した先生の姿を見ても、私には何時かは狂はんとする心の怖れから、強ひて自分をおさへつけて居る人の姿に見える事がある。 水上滝太郎﹁島崎藤村先生のこと﹂ 大正15年5月 夜は勉強の邪魔をしては相済ないと思ひつゝ、私は馬場裏の島崎さんを御訪ねして、信州の自然に就ての御話を聴いたり、又此方からも絵の話を為た。時にはラスキンのモダアン、ペインタアス中から、自分達に有益な部分の講義なども願つたりした。画家でも無い島崎さんが一冊の手帳に毎日雲の変化など、日記のやうに手記されて居たのには驚入つて了つた。 風景などに就て自分が感じて居る事は、島崎さんは一層詳しく調べ上げて、何だか実際絵を描かれる先輩のやうに思はれた。美しい島崎さんの若い奥さんは、何時も明るい朗らかな態度で、私達来訪客をねぎらつてくださつた。何分にも煤ぼけた、薄暗い田舎の家屋の座敷の中に、東京風の美しい若い奥さんが、女中代りの細かい仕事迄、甲斐々々敷立働かれて居るのを見ると、如何にも御気の毒に堪へなかつた。その奥さんは明治女学校出の秀才で、新体詩人の藤村さんにあこがれて、進んでこの質素な田舎生活に共鳴されたのだと云ふことを誰からとも無く聞いた。あの奥さんの御里は、奉公人の五六人も使つて居る、北海道函館の某素封家であるなどゝ云ふ噂も聞いた。ある日藤村さん御夫婦御揃で、私の新家庭に来訪され、これはほんの御近附の御印迄と云つて、私の妻へとして、手織木綿を一反くださつた。私の妻は大変に悦び、頂いた日のその晩、直ぐに仕立に取りかゝり有難く縫上げて早速平常着とした。 三宅克己﹁思ひ出づるまゝ﹂ 昭和11年9月
明治26年9月 大正11年8月 昭和11年8月
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