坂口安吾 ︻さかぐち・あんご︼ 小説家。本名、坂口炳五︵へいご︶。明治39年10月20日〜昭和30年2月17日。新潟県新潟市西大畑町に生まれる。大正15年、東洋大学印度哲学科に入学。昭和5年、同人雑誌に発表した﹁風博士﹂を牧野信一に絶賛され、文壇の注目を浴びる。その後、説話小説﹁紫大納言﹂︵昭和14︶、評論﹁日本文化私観﹂︵昭和17︶などの佳作を発表する一方、文壇的には不遇の時代が続いたが、昭和21年、戦後の本質を鋭く把握洞察した﹁堕落論﹂、﹁白痴﹂の発表により、一躍人気作家として表舞台に躍り出る。以後、﹁青鬼の褌を洗う女﹂︵昭和22︶や﹁安吾巷談﹂︵昭和25︶など、戦後世相を反映した小説やエッセイ、﹁不連続殺人事件﹂︵昭和22︶などの探偵小説、﹁安吾新日本地理﹂︵昭和26︶における独特の歴史研究など、多彩な執筆活動を展開した。昭和30年2月17日、脳溢血により急死。享年48歳。代表作は﹁紫大納言﹂、﹁白痴﹂、﹁堕落論﹂、﹁桜の森の満開の下﹂、﹁夜長姫と耳男﹂など。 ︹リンク︺ 坂口安吾@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 坂口安吾@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 探偵小説 ‥ 発表年順 明治開化 安吾捕物帖 ‥ 発表年順 歴史・地理 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 安吾にしても、生きてゐたあひだには、病気になつてみせたことがあつた。そのことを、ひとがわたしに知らせに来た。そして、知らせといつしよに、一冊の小さい本がとどけられた。安吾の著書である。なにげなくひろげて見ると、そのトビラに、字……さあ、字といふか、絵といふか、ペンでかいたいくつかの直線と曲線とがそこに交錯してゐた。なにをあらはしたものか、すぐには判じかねた。しひてたとへれは、ピカビヤのかいた線画に似てゐる。ひとの説明に依つて、わたしはそれが九箇の漢字であり、そのうち七箇が安吾とわたしとの氏名をあらはしてゐることを知つた。すなはち、著者がわたしに贈つてくれた本にしるした字である。さうおもつて読めばさう読めないこともない。これは安吾がまへの日の朝に書いた字だといふ。そして、そのまたまへの日の夜には、安吾はいはれなくバットをふるつて近親のひとを打つたといふ。わたしは見るべからざるものを見たやうに、本のトビラを伏せた。じつは、いささか虚をつかれた。といふのは、わたしの知らないうちに、すでに安吾の生理はこのきびしいジグザグの線をもつて示されるやうな状態におちこんでしまつたものと、見てとれたからである。 石川淳﹁安吾のゐる風景﹂ 昭和31年6月 坂口安吾君の最初の探偵小説﹁不連続殺人事件﹂︵﹁日本小説﹂連載︶が完結したので、この力作長篇について感想を記す。純文学畑の作家の探偵小説として画期的の本格作品であるばかりでなく、私の見る所によれば、内外の探偵小説を引くるめて、殆んど前例のない新手法を取入れた最も注目すべき作品だからである。 イギリスなどとは異り、従来発表された日本の純文学作家の探偵小説は谷崎潤一郎、佐藤春夫両氏の二三の作など極く少数の例外を除いて、見るに足るものがなく、純文学者の探偵小説には望みをかけることが出来ないというのが定説のようになっていたが、﹁不連続殺人事件﹂は見事にこの定説を破って見せ、ある意味では我々探偵作家を瞠目せしめたと云っていい。 坂口君は探偵小説について一家の見識を持ち、クリスティーの愛読者であり、探偵小説ゲーム論者であって、一昨年ある座談会で初めて会った時、長篇の筋が一つあるから書いて見たいということを漏らされ、私も大いにその発表を勧めていたのだが、これが﹁日本小説﹂誌の﹁不連続殺人事件﹂となって現われたのである。 江戸川乱歩﹁﹃不連続殺人事件﹄を評す﹂ 昭和23年12月 あまり文学書は読まなかつた人であるが、︵史書や探偵小説ばかり読み︶流石ドストイェフスキイだけは読み、人間に深淵のあること、殺すと愛すといふ極致の一致する場合、ジキールがハイドたりうることなどを、理解してゐて、君などアサハカなもんだと称してゐたが、彼こそ根つからの好人物で、悪といふものを理解するだけで、悪に無縁な、いはばおぎやと生れたまま、スクスク育つたやうな型破りの人物である。彼が悪を描けば滑稽になるいはれである。友情にもあつく、美談と失敗談しか、ない人物である。 彼の作品はどうも正当に読まれてゐない。戦後クローズ・アップされた時、サルトルを真似たと中傷されたが、それらの作品の方が翻訳よりさきで、原書でサルトルを読むやうな勉強家ではない。原書で読んだのはラクロぐらゐか。但し、コリ屋であつて、宗教の大学に行き、ボン語は、ボン仏辞典しかないので、ためにアテネ・フランセに移り、其処で文学書に親しんだもののやうだ。 大井広介﹁その頃の坂口﹂ 昭和29年9月 坂口は昭和十四年、宇野千代の﹁文体﹂の常連で﹁紫大納言﹂その他をかいた。これらの諸篇はのちに﹁炉辺夜話集﹂に納められ、スタイル社から十六年上梓された。十五年暮、私たちのやっていた﹁現代文学﹂が同人制をとった時、坂口を迎えたのも、そうした近業への親近畏敬がしからしめた。 軍国調の色濃くなってきた時期に﹁紫大納言﹂のような奥ゆかしい仕事をする人だから、狷介孤高近寄りがたい先生ではあるまいかと思いのほか、そのじぶん、私の宅では平野謙、杉山英樹にやがて井上友一郎が加わり闘球盤などで徹夜していたが、たいへん愉快な先生で、たちまちこの種のたあいないゲームの勧進元のようになって終った。︵中略︶ウスノロというトランプを使ったゲームが﹁現代文学﹂同人の特技で、探偵小説の古本をみつけてきて犯人の当てあい、ファイン・プレーというよくできた野球の玩具、イエス・ノウ、ドミノなどを、集った顔ぶれと睨みあわせてやった。どのゲームでも、坂口は極めて熱心な癖に、負けを殆ど一手に引受けた。掛け値なしに負けるのだが、君達を悦ばしてやっているのがわからないのかねと称していた。これもホンネである。戯作者精神だのサーヴィス精神だのといったように、太平楽な半面、さびしがり屋の彼は、他人を悦ばしてやるサーヴィス心があった。これを諒解しなければ、彼の作品には小首をかしげるようなものもあるだろう。 大井広介﹁戦時中の坂口﹂ 昭和30年4月 安吾の人気がジャーナリズムの上にぐいぐいのしあがってゆくのが眼に見えるようである。そのころ、今までの生活関係を中断されて、伊東の街はずれにある百姓家の隠居所にじっと身体をかがめるようにして暮していた私の耳にも、安吾の噂は風のように伝わってきた。戦後派の作家として、忽然と浮かびあがった安吾の存在は、彼と同じように長いあいだの労苦が報いて、やっと時流の上に、それぞれの立場を築きあげた太宰治や織田作之助と並んで、新興ジャーナリズムを圧倒していた。戦後派の三羽烏というような冷かし言葉がゴシップ用語として一般化されるようになったのもその頃であるが、安吾の存在が特に大きく聳え立って見えたのは、彼が小説のほかに、﹁堕落論﹂や﹁安吾巷談﹂なぞによって、彼独特の文明史観を発表していたからでもあった。一朝にして名を成したことにおいては三人とも共通していたが、仕事が急に忙しくなるにつれて、無鉄砲な徹夜生活に耐えるために、そのころ街の無頼漢や愚連隊が自分を唆しかけるために利用していた覚醒剤としてのヒロポンと、今度は、仕事のすんだあとで無理矢理に睡るためのアドルムを連用することにおいても、この三人は共通していた。 尾崎士郎﹁睡眠薬と覚醒剤﹂ 昭和33年4月 坂口君は当時独身の青年だったから、私などよりもっと接近して、牧野氏の家にも入りびたってつき合っていた。︵中略︶私の印象では、彼は飄飄とした、感受性も豊かで屈託のない、つき合いいい青年だった。その頃から彼は無帽蓬髪で、常にステッキを携えていた。ただ文学青年仲間の仁義である論争が初まると、彼程狷介不羈なものはいなかった。そういうことは頭の鈍い青年にはよくあることだが、彼程の理解力を以てしては不思議な位であった。それは、確かにいえることは、彼には殆んど病的な位激しい俗物嫌悪があって、それが彼の感受性の糧であり、同時に彼をそれ程依怙地にし、さては又殆んど苦行僧に等しい放浪の旅に出させたのだった。そしてそれが今や成熟して小説や巷談のスタイルの要素となっているのだといえよう。然しとにかく青年の狷介はさしあたり酒の肴に最も適している。酒間牧野氏はよく叫んだものだ。﹁安吾! お前はまだ中学生だぞ!﹂︵註、牧野氏によれば、中学生とはまだ大学生でないことであり、大学生でなければ、学生ワグネル等と共にアウエルバッハの窖の常連として愉快な酒宴に加わる資格はない意である︶ 河上徹太郎﹁﹃安吾巷談﹄のスタイル﹂ 昭和26年3月 彼はその頃、アテネ・フランセにも前年あたりから通はず、些少ながら原稿料も入るので、年少ながらもう完全に文士生活に入り、牧野信一が間もなく始めた﹃文科﹄といふ季刊雑誌に、小林秀雄、河上徹太郎、井伏鱒二などといふ、当時の新進中でも特に輝かしい名前と並んで、新たな長篇﹁竹藪の家﹂の連載をもはじめてゐた。全く当るべからざる颯爽たる風姿で、学校の卒業を目前に控へて卒業後の生活のことも考へねばならず、同人雑誌にいくら精を入れても駄作しか書けず、進退極つた感じで暗澹としてゐた私などには、全く傍にも寄れなかつた。が、この時を頂点として、どういふわけか坂口は急に創作力が萎え、﹃文科﹄が廃刊になつて有力な舞台が喪はれると同時に、不意に沈潜気味に陥り、殆どものを書かなくなつた。その後間もなく、井上友一郎、田村泰次郎、真杉静枝、矢田津世子、それに私なども加はつた同人雑誌﹃桜﹄に、多少のものは書いたが、生彩もなければ迫力もなく、また肝腎の本人自身に文学的な熱意が少しも見られず、字義通り、嘗つての栄光が瞬時にして足下に消えた感じだつた。今考へてみると、彼の発見者であり且つ熱心な支持者だつた牧野信一が、空に消えるやうにして小田原で自殺したことや、彼自身言つてゐるやうに、矢田津世子に﹁ダラシのない惚れ方﹂をして、その﹁愛情に疲れきつてしまつた﹂ことなどが、豪放に見えてゐて傷つき易い彼の心魂を、恐らく極度に困憊させたのに違ひない。が、とにかく坂口は、昭和五、六年のこの一時期の輝かしさから、半ば自暴自棄の感じも手伝つて一挙にずり落ち、爾後、終戦後に至つて﹁堕落論﹂を書くまでの十四、五年間、放浪に次ぐ放浪生活の中で、全く塵に埋もれてしまつたのである。 北原武夫﹁坂口安吾の生涯﹂ 昭和30年5月 しかし、このような不満は持ちながらも、何時も坂口安吾のことを考える時、私は一つの懐しい思い出がある。まだ、誰もが﹁認められてゐない﹂時だつた。われ〳〵は︵本多信と、坂口安吾と、私は︶、彼の云う﹁虚名﹂もなく、金もなく、東京の街から街をほつつき歩いていた。そうして、その最後に来るのは、神宮外苑のパーゴラの下だつた、そして、夜の更ける迄、三人とも言葉少く、そのパーゴラの下に腰を下ろしていた。そして、その空き地には、何故か知れないが、夕方近くになると、中国人の留学生の幾組かがやつて来て休んでいた。そして、彼等は讃美歌︵だと思うが。︶を歌つていた。暮れなずむ、そのパーゴラの下と、その空き地からは、段々人の姿が没して、歌声だけが聞えて来る。それらの歌声は、同じ﹁異国にある﹂われわれの心にも響いて来た。そして、それは、坂口安吾の心にも響いていたに違いない。︵坂口安吾よ、その歌声は、いまも君の耳に響いているか知ら。――そのようにして、われわれに懐しい﹁青春﹂時代は過ぎて行つてしまつたのだ。︶ 葛巻義敏﹁坂口安吾への手紙﹂ 昭和30年4月 安吾の小学生、中学生時代は全く手のつけられないキカンぼうで、毎日学校から帰ると、書物包は家の中へ放り込んで、すぐ近所の子供、数名または十数名を引率して、いわゆるガキ大将となって、町内を騒ぎまわったものであった。そのころであるから、兵隊ゴッコか何かで、垣根を乗り越えたり、大道を突っ走ったり、とても元気なものであった。時に自分より、はるかに丈の高い子供を部下として、大声で号令をかけている姿を今でも思い浮かべる。 少年時代から、特に文章がうまいとか、文学書を耽読するとかいうことは、ほとんどなく、ただ強いて言えば、探偵小説の芽ばえとでも言うか、少年のころ、忍術の豆本を読み、猿飛佐助の真似をするのだと言って、いきなり壁にかけ上って、逆さまにひっくり返っては、また飛び上ったりしていたことを想い出す程度である。 遊びが過ぎて、夕食時にも帰らず、夜おそく、帰宅したりすることがしばしばで、父母は全く困っていたようである。 安吾は、新潟の浜辺が生んだ自然児だったのであろう。縛られた生活の中にとじ込められるのが大きらいだった。 坂口献吉︵註、安吾の兄︶﹁三人兄弟﹂ 昭和31年9月 そうして十七日の朝。 茶の間にそのままやすんでしまわれた貴方は次の間にねむっていた坊やと私におふとんを掛けに来て下すった。寒い朝でした。けむりの来ないように間のカラカミを閉め切って自分でストーブをつけて下すった。坊やがむずかり始めたし、この頃は坊やが寒くないようにといって時々ストーブをつけて下すったのであまり気にとめなかった。﹁みちよ、みちよ﹂と二度ほど呼ばれて、声が少し変な感じだなと思いながら行ってみると﹁舌がもつれる﹂といって、手まねで窓を開けることとストーブに石炭を入れることを言われ、﹁いったいどうなさったの﹂といいながら貴方がいつも石炭の煙がとても嫌いであったから窓を開けながら﹁舌がもつれる﹂と言ったので、もしや脳溢血ではと思ってふりかえると貴方は静かに横になられるところであった。抱きかかえるようにしてその場に横にさせると、私の顔をみて何かいいたいように見えたのでしたが、言葉にはならなくて両腕をちぢめ全身が痙攣しておりました。あわてた私は﹁待って下さい、今お医者に電話します﹂といってお医者を呼んだのですが、十分か十五分の間のまちどおしかったこと。︵中略︶それからお医者様が見えた時にはとうに意識は失っておられました。舌がもつれるとおっしゃった以外は私が何をいっても御返事もないし、いつから意識を失われたかもわからない。お医者様が二人で必死になってあらゆることをして下すったようですが刻々に心臓は弱まり意識は再びもどりませんでした。 坂口三千代﹁亡き夫へ﹂ 昭和30年4月 施設の関係で東大では重症患者は置かない仕組みになっていたから、兇暴な患者はいないし、その脳梅の患者をのぞいてはみんな静かで、精神病患者ばかりのきちがい病院のようなところは少しもなかった。︵中略︶ おかしかったのは、小林秀雄さんがお見舞に見えた時で、持続睡眠療法がおわり、後遺症状が未だ残っていて、毎日相当量のブドウ糖を打っていた時だが、彼がドモって思うように口がきけないのにひきかえ、小林さんにペラペラとベランメエでまくしたてられて、数十回も﹁テメエは大馬鹿ヤロウだ﹂といわれていた時だった。彼が何かドモリながら口をきこうとすると、小林さんはおっかぶせるように﹁テメエは大馬鹿ヤロウだよ﹂と追打ちをかけるものだから、ますます半分も口がきけないようだった。ちょっといい気味だという気もしたが、しまいに彼が幾らか気の毒にもなった。︵中略︶ 数十回の﹁テメエは大馬鹿ヤロウだ﹂が実は小林さん一流の励ましの文句であった。彼は終始嬉しそうにニコニコとしていた。 坂口三千代﹁クラクラ日記﹂ 昭和42年3月 武笠 先生がアドルム飲みすぎて、おかしくなった時には奥さんもほんとに気の毒だった。私の袖をつかまえて、帰らないで帰らないで、一緒にいて一緒にいて、って言ってましたよ。ひどい時には、奥さんを殴ったり、見つけて殺してやるとか言って、もう目の敵で、だから私も、ずうっと一緒にいてあげなくちゃ、なんて思ってましたけど。 高橋 いちばん身近な人間に当たるんだね。でも、僕らには危害を加えるってことはない。2階へ誰も上げないように家財道具なんか全部ほっぽりだしたりして、もう大変だっていうんで、僕、三千代さんから電報うけとって行ってみると、階段の上でラジオかなんか持ち上げて、仁王立ちになってるわけですよ。でも、思いきって上がってくと、投げつけないですもんね。ちゃんと今誰が来てるってことは承知してる。だから、ほんとに狂ってるとは思えなかったですね。僕はいちばん凄まじい時にはぶつかってないんだけども、道路に出て素っ裸で棒なんか振りかざしてるのを、シイちゃんはよく平気で向かって行ったよね。 武笠 おっかない時もあったわね。でも、何しろああいうふうになると先生は私を善人に見てくれるんですよ。﹁気持ちにけがれがない。ずるくない﹂ってね。﹁周りじゅうずるいんだ﹂なんて言って。弱い者をすごくかばってくれますね。 ――例の、2階から飛び降りた時はどんなふうだったんですか。 武笠 ﹁これから飛び降りるから﹂って先生が言ったのね。だから、変な話ですけど、﹁ちょっと待っててくださいよ﹂って言って、慌てて布団を持っていって地面にひろげるのね。そうしてから、先生が布団の上へ飛び降りたわけです。あと、2階からオシッコしたり。 竹笠シズ子・高橋旦﹁思い出の中の安吾さん﹂ 平成10年10月 戦後の坂口安吾は、がらりと性格が一変したように思える。いままで内にこもって、抑えつけるようにしてきたものが、すべてそとにむかって、自由にとびだした。彼が、戦前、こういう人間になりたいと、夢想していたような人間になったことは、彼としては満足だったにちがいない。女のことでもあからさまになり、昔はワイ談のワの字も口にしなかった彼が、おおっぴらに、女の身体の部分の俗語なども口にしたようだ。内向性が外向性に変ったというようななま優しいものではなくて、なにかそこには、凄まじいものがある。彼のような気弱で、恥ずかしがり屋で、陰鬱な男が、戦後の坂口安吾を打ちだすための魂の苦闘を想像すると、私は坂口を尊敬しないわけには行かない。それと同時に、意識の抑圧がとり除かれたことで、彼の文学からあの戦前の作品に見られた魂のうめきに似た奥深い、底知れぬような奇怪な魅力がなくなったことも、残念ながら、みとめないわけには行かない。 田村泰次郎﹁青春坂口安吾﹂ 昭和30年5月 檀 太宰や織田作さんは身体が弱かったっていうことがあるけど、安吾さんは違ったな。 坂口 ええ、もう元気だったし、力はあったし……。檀さんはよくご存じだけど。 檀 あれは乱暴狼籍のたぐいだね。太宰の場合だと、同じ乱暴狼籍でも押えがきくけど、安吾さんのは、これはもう全然きかないんだ。ぼんやり見てるよりしょうがない︵笑︶。ある日、安吾さんを伊東にたずねていったら、犬と大格闘の最中でね……。 坂口 ああ、川に犬を放り込んだときね。 檀 なんでそうなったのか知らないけど、ともかく安吾さん、血まみれになって犬と組んずほぐれつやっているんだ。犬のほうも必死の形相で、牙をむきだして襲いかかる。そうすると、犬を相手に大声を張りあげて怒鳴りつけてね、ついに川に投げ込んでしまったけど……。 坂口 感情の起伏というか、躁と鬱との現われかたがひどいんですね。机に向って原稿を書き出すと、何日も何日もこもりっきりで、書きあげると、ふっといなくなったり……。 檀 書き始めると筆はずいぶん早いひとでしたね。どんつくどんつく流れるように書く。 坂口 一日に五十枚ぐらい書いていましたよ。 檀一雄、織田昭子、坂口三千代﹁夏の夜の打明け話﹂ 昭和44年11月 しかし欝気がこうじてくると、素っ裸になり、私の家の芝生の傾斜面をゴロゴロと血まみれになって転げながら、 ﹁まだ檀君。トンボ返しぐらい打てるんだよ﹂ そう云いながら、芝生の上を、身ぐるみもんどりを打って見せるのである。 その揚句の果てに、 ﹁おい、三千代、ライスカレーを百人前……﹂ ﹁百人前とるんですか?﹂ ﹁百人前といったら、百人前﹂ 云い出したら金輪際後にひかぬから、そのライスカレーの皿が、芝生の上に次ぎ次ぎと十人前、二十人前と並べられていって、 ﹁あーあ、あーあ﹂ 仰天した次郎が、安吾とライスカレーを指さしながら、あやしい嘆声をあげていたことを、今見るようにはっきりと覚えている。 これらの安吾の乱心が、何に起因したものであるか、くわしくは知らない。原稿もあったろう。それらの苛酷な仕事に伴なう、アドルム、セドリン、ヒロポンなどの乱用もあったろう。 税務署問題あり、競輪問題もあったろう。しかし、その大根は、安吾その人が突貫していった人間のバカバカしい見せかけだけの人情、道義、虚飾……、これらとの壮烈な差し違えに起因しているに相違ない。安吾はこれらの見せかけだけの気質、道義、人情をことごとく解体して、その果てに、安吾流の人生を、未開の規模に創出する熱願に燃えていた。 檀一雄﹁坂口安吾﹂ 昭和37年3月 去年の暮﹃中央公論﹄の﹁安吾新風土記﹂第一回﹁高千穂に雨降れり﹂を取材するために、安吾さんはとつぜん、前ぶれもなしに、宮崎にやってきた。県内に三泊しただけであったが、自動車を乗り回して、青島から鵜戸神宮、都城から、小林の陰陽石を回り、狭野神社の社務所にとまって霧島をみ、宮崎に引返して、西都原の古墳群をたずね、日向市の碁石製造工場を見学、それから延岡を経て高千穂峡に行き同地に一泊して付近一帯を探勝した。 そのスケジュールを組むときあまりに強行軍であることに、僕は不安をもった。 ﹁大丈夫かなあ﹂ いくどか念をおしたが、安吾さんは、 ﹁平気だよ。おれは頑健だから﹂ と健康を自慢していた。とうとう旅程どおりに強行してしまったのである。そんな安吾さんは、みるからに健康そのものであった。︵中略︶ ずっと前、安吾さんがヒロポンや、アドルムの中毒のために精神が錯乱し、病院に入院したという噂を僕は聞いていた。また去年の秋、この土地をたずねてきた小説家のNさんなども、 ﹁安吾さんは気狂いだからね、いまは僕はつきあっていないんだよ……。しかし、檀君はじつによく面倒をみてやっている。安吾さんが競輪関係者に追いまわされて、檀君の家にころがりこんでいたころは、セパードをつれてきて、座敷にまで飼っていたんだからね。目茶だよ﹂ と語っていた。 そんな噂をたびたび耳にしていた僕は、安吾さんの精神状態はノルマルではないとばかりおもいこんでいた。︵中略︶宿の歓迎会では芸者と尻相撲をとったり、手をくんで神楽せり歌をうたったりしていたが、そんなところにも病的な影はみられなかった。むしろ常人以上に健康な肉体、頭脳や神経をもっているとさえみうけられた。安吾さんの狂気はすっかりなおったものと考えて、僕は心から安堵したのであった。 中村地平﹁安吾さんの狂気﹂ 昭和30年 安吾は大きなトラックのような人物だつた。たとえなんにも積んでいないばあいでも、威風あたりをはらうようなおもむきがあつた。つまり、大器である。かれは、つねにかれの住んでいる小さな世界からはみだしているようにみえた.ツァーリ・ロシアの時代に生きていたらラスプーチンぐらいにはなれたであろう。しかし、二十世紀の日本では、かれは、ドン・カミロであることに満足していなければならなかつた。﹁陽気なドン・カミロ﹂﹁ドン・カミロ頑張る﹂﹁ドン・カミロ大いに困る﹂――たしかにグァレスキの小説は、安吾の面影を忠実につたえているようにおもわれる。 わたしは安吾に二度しか会つていない。最初は、ある雑誌から招待されたときで、そのほかに太宰治、石川淳、福田恆存、平野謙などがいた。わたしは誰にも――とくに小説家たちには会いたくなかつた。なぜなら、その日の夕刊新聞の文芸時評で、わたしはかれら三人を、サルにたとえていたからである。もつとも、サルといつても、ただのサルではない。ケーレルの﹁チンパンジーの知恵試験﹂のなかに登場するお歴々のサルたちである。たしかわたしは、安吾を、ココという名前の眼のくりくりした三歳のオスにくらべていた。 わたしは招待をことわつたが、再三、使いがきて、そんなにシンゾーが弱くては、批評家として失格だというので、ついに意を決して出かけた。なるほど、安吾はココに似ていないこともなかつた。 花田清輝﹁坂口安吾の死﹂ 昭和30年4月 あるときたはむれに坂口安吾にむかつて、あなたの小説よりエッセイのほうがおもしろいといつてゐるひとがあるが、どうおもふかといふ、もう答へはきまつてゐる愚問を発してみたことがある。案の定、かれは憤然として、そんなことがあるもんか、小説のほうがずつとおもしろいよと答へた。ぼくはかさねて第二問を用意してゐたのだが、邪魔がはいつてそれはきゝそこなつてしまつた。第二問といふのは、坂口安吾は評論を書くことによつて損をしてゐるのではないかといふことだ。自分の作品の楽屋をさらけだしてしまふといふ意味だ。これも愚問であつて、すでに答へは明白である――そんなことがあるもんか、だ。 福田恆存﹁坂口安吾﹂ 昭和28年6月 僕の知友に、風博士といふ男がゐる。いつも、あかちやけた髪の毛をばさばさと額に垂して、太い太いステツキを突き、ひよろりとして、大いに威張り、歩き振りと云つたらまつたく風に乗つたやうな大胯で、その速いの何のといつて孫悟空のやうだ。その男は、まんまと一にぎりの風をつかまへて、風に物を言はせたことがあつたのだが、ちかごろ彼の住んでゐる土地には風が凪いで、研究室で徒らに腕をこまねいてゐるさうだ。たまたま街へ出かけては、人間をつかまへて喋舌り散らすのだが、どうも辻妻が合はないで白つぽくなつてゐるらしい。どんな顔つきをして研究室の椅子に伸びてゐることやら――。ほんたうにあの男の姿と云つたら、顔つきからして風の国の先生のやうで、あの威張り臭つた声と来たら、屡々人間からは誤解を享けるもの、突風のやうなたくましさで、まさしく風を追ひかけてゐるものの風のやうな気ぐらゐなのだ。風博士が、風が吹かないで困惑してゐる格構をおもふと、定めしイライラとして書斎の中を歩きまはつてゐるであらうと、お気の毒になつて、せめてこの窓からの景色なりとも写真にとつて送つてやりたいと思ふのだが、生憎く僕は風を映す手腕に恵まれてゐないのだ。荒唐無稽の中からじやうだんを創ることの焦噪は、凡そ無稽ではない命かぎりの研究であらう。 あまり風が吹き荒むので、思はず彼の博士の上を憶ひ出した。 待つてゐる人もあるのだよ、風よ、博士の扉を叩きに行つて呉れ、世界中で君を歓迎するものはオランダの風車と、あの若い博士だけだよ。 牧野信一﹁﹃学生警鐘﹄と風﹂ 昭和8年7月 小田原にゐたじぶん、その後もずつとその習慣は変らなかつたらしいが、坂口は無類の朝起で五時頃には既に床を離れて、洗面など省略したかも知れなかつたが早々に机にむかつてまづ書ものをはじめてゐた。売文に熱心であつたといふ訳ではない。当時彼の原稿はいつかうに売れゆきが思はしくなかつた。それでも彼は書ものを廃する日がなく、売れると売れざるとは意に介しないもののやうに午前中は机に向つてゐた。食事はお昼まではとらうとしなかつた。それが毎日であつた。他のことは相当になげやりの方であつたが、安吾さんのあの勤勉ぶりはまことに徹底的に見事であつた。あの彼の快速な達意の健筆も決して一日に出来上つたものではない。私は傍らにあつていつも感服してそれを眺めながら、不敏にしていつかう学ばうとはしなかつた。 三好達治﹁若き日の安吾君﹂ 昭和30年4月
東洋大学時代 昭和16年 昭和25年頃
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