葛西善蔵 ︻かさい・ぜんぞう︼ 小説家。明治20年1月16日〜昭和3年7月23日。青森県中津軽郡弘前町松森町に生まれる。10代の頃には鉄道の車掌、営林署、砂金堀りの人夫などの職を転々とした。明治41年、郷里で結婚したが小説家を志して単身上京。大正元年、広津和郎らと同人雑誌﹁奇跡﹂を創刊し、﹁哀しき父﹂︵大正1︶、﹁悪魔﹂︵大正1︶などを発表。以後、生活苦により帰郷、上京を繰り返したが、大正7年、﹁子をつれて﹂により文壇の注目を浴び、新進作家としての地位を確立。﹁浮浪﹂︵大正10︶、﹁蠢く者﹂︵大正13︶など、妻子や弟夫婦、愛人の犠牲の上にも自己の文学を築こうとする破滅型の私小説を展開したが、後期には﹁椎の若葉﹂︵大正13︶、﹁湖畔手記﹂︵大正13︶など、澄明な心境小説を発表した。昭和3年7月23日、肺結核により死去。享年41歳。代表作は﹁哀しき父﹂、﹁子をつれて﹂、﹁蠢く者﹂、﹁椎の若葉﹂、﹁湖畔手記﹂など。 ︹リンク︺ 葛西善蔵@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 葛西善蔵@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 葛西さんは坐つてる時間が多い人だつた。︵酒を飲むためでもあつたが︶稀にする散歩と読書。葛西さんの生活は、形の上からみると、実に狭い範囲に限られて居た。その中で、一つ二つと拾ひ集めたいいものが、相当な分量に殖えると、初めて筆をとつて書く――さう云ふのが葛西さんの態度だつたと思ふ。小説の材料を漁るために、吾々は屡々卑しい、或は貪婪な心持ちを経験する。その点葛西さんは実に淡白であつた。 ﹁僕のとこにもいろんな人がたづねてくるが、僕は自分から進んでその人達を理解しやうとは思はない。第一印象なんてあやふやなものを僕は信じない。その人の自然の姿が僕の目にうつつてくるのを待つて居る﹂ 熟して落つるを待つ――そんな、のびのびした大きな心持ちであつた。葛西さんが寡作家であり、書いたものだけはそれぞれに光つて居た理由はここにもあることと思ふ。私達が埃つぽい街頭をかけずりまわつて拾ひ集めてくる材料や、読書によつて得た﹁思ひつき﹂などは、葛西さんにとつて一顧の価値もないものだつた。 ﹁知己を後世に求む――君にこのホントの心持ちがわかりますかな﹂ 酔ふと、さう云つて目を光らせた葛西さんが思ひ出される。 石坂洋次郎﹁葛西善蔵氏のこと﹂ 昭和3年9月 本郷の下宿の一室で、僕は葛西さんにひどく叱られたことがあつた。︵中略︶ ﹃汚らはしい……お前帰れ、二度と僕ンとこへはよせつけないぞウ……﹄ さう云つて原稿を畳にたゝきつけた。僕は弱々しい微笑を漂へて、目だけはじつと相手の顔に注いで居た。と―― ﹃ごめんなさい、葛西さん居るの﹄ と障子の外で若い男の声がした。 ﹃はい、どなた?﹄ ﹃僕です﹄ 姿を現したのは、色白な、ひきしまつた顔立ちの青年だつた。 ﹃おう! 牧野!﹄ 葛西さんはけもののやうな声でうめいて、よろよろ立ち上がると、いきなりその青年に抱きついて、頬ぺたに、滅茶苦茶に接吻した。そして声をたててオンオン泣き出した。 ﹃牧野! よくきてくれたア! 僕、駄目だ、駄目だア……﹄ ﹃いいよ、もういいよ、わかつたよ﹄ 青年は接吻に閉口して苦笑しながら葛西さんをなだめた。 ﹃こらア、貴様かへれ、殴るぞ、殺してやるぞウ……この意久地無し奴……﹄ 葛西さんは何か手にもつて僕に迫つて来た。僕は立ち上つて室外に逃げ出すと葛西さんもよろけながら追つてきた。廊下から階段へ、玄関へ、僕も葛西さんも裸足で外へ飛び出した…… 電車の中で、ふと僕は涙ぐんだ。牧野信一! よし、僕も今に葛西さんに接吻される位の人間になつてみせるぞ……涙が水のやうに溢れて来た。僕はやはり葛西さんが好きだつた。 石坂洋次郎﹁葛西善蔵の人生観﹂ 昭和6年5月 口述が渋つて来ると逆上して夫人を打つ蹴るは殆ど毎夜のことで、二枚も稿を継げるとすつかり有頂天になつて、狭い室内を真つ裸の四つん這ひでワン〳〵吠えながら駈けずり廻り、斯うして片脚を上げて小便するのはをとこ犬、斯うしてお尻を地につけて小便するのはをんな犬、と犬の小便の真似をするかと思ふと畳の上に長く垂らした褌の端を漸く歯の生え始めた、ユウ子さんにつかまらしてお山上りを踊り乍ら、K君々々と私を見て、……君は聞いたか、寒山子、拾得つれて二人づれ、ホイホイ、君が責めりや、おいら斯うやつてユウ子と二人で五老峰に逃げて行くべえ。とそんな出鱈目の馬鹿巫山戯ばかしやつた。或日私は堪りかねて催促がましい口を利くと、明日はS社で二百両借りて来いと命じたので、断じて出来ませんと答へるとZ・K氏は少時私をぢつと見据ゑたが、くそ垂れ! 手前などと酒など飲む男かよ、Z・Kともあらう男が! と毒吐き出して、折から夫人が怫然と色を為した私に吃驚して、仲裁を頼みに酒屋の爺さんを呼びに行つて、小腰をかゞめてチヨコチヨコ遣つて来た爺さんが玄関を上るなり、Z・K氏は、爺さん〳〵、僕この小僧つ子に馬鹿にされたよと言つた。私はお叩じ頭ぎひとつして黙つて退いた。C雑誌の若い記者が、この角を曲るとめそ〳〵泣けて来ると言つたその杉籬に添つた曲り角まで来ると、私も思はず不覚の涙を零した。 嘉村磯多﹁足相撲﹂ 昭和4年10月 三時――四時 容態依然。この間に葛西氏とは年来の芸術上の友である宮地嘉六氏が、病を押して見舞に見えたが、ちよつと眼を開いて頷いたきりで、夕刻谷崎精二氏が、耳元近く﹁谷崎だよ。﹂と言つた時は、もう全くわからないやうであつた。今まで止まつてゐた咳が出、痰が咽喉にゴロゴロと鳴つて来た。 かうして夜になつた。遅くなつて、相田医師が三度び診察に見えた。脈は微弱で、辛うじて数へらるるほどであつた。 痰がしきりにからまつた。 ﹁痰を吐き出して下さい。お出しなさい。﹂と看護婦が大きな声で言つても、最早それを口の外へ出すだけの力がなくなつてゐた。 緊張と不安とが重く、おつかぶさるやうであつた。次の茶の間では亮三君、清蔵君、嘉村君、岡本君と私とがお茶を前に置いたまま、肥つた相田先生が、喉頭結核で咽喉に穴があいてしまつた患者を今日も往診して来たが、細君がガーゼをつめかへ、絆創膏を貼つて平気で外を歩けるまでに癒つたといふ話をするのを聴いてゐた。 ﹁絆創膏を貼るんですか?﹂と誰かが訊いた。 ﹁だつて、風邪をひくといけないもの……。﹂ 相田先生はじめ、みんなが笑つた。――そこへ看護婦が急いで来た。 ﹁先生ちよつと。﹂と言つた。お医者さんの後から、みんなも立つた。 ﹁あちらの方に知らせなくては……。﹂ 気のついた嘉村君を煩はして迎へに行つて貰つた。 白い蚊帳を半分はづしたベツトの上に、葛西氏は今までどほり、肋骨の一本一本突き出た小さな胸で大きな呼吸を一つした。心臓部に聴診器をあてゝゐた相田医師が、時計を見ながら﹁眼を瞑らせて﹂と看護婦に言つた。 一指も乱れてゐなかつた。これが葛西善蔵氏の四十二年の生涯の臨終であつた。﹁午後十一時八分死去、死後体温三十七度二分﹂と看護日誌に記された。 佐々木千之﹁葛西善蔵氏臨終記﹂ 昭和3年9月 葛西君が始めての創作集﹁子をつれて﹂が出版された時の彼の歓びは、今からでも想像することが出来る。私はそのころ大阪にゐて、東京の友人のことは光用穆君を通じて耳にしてゐたが、葛西君は、その印税が手に入ると同時に、相馬君と二、三日間飲み歩き、その当時尾道にゐた故松本恭三君を訪ねて、はる〴〵下阪する時には一文もなくなつてゐたといふ。それから更に原稿料を前借してやつて来たが、朝早く私の寓居を訪ねられた時には、彼は紡絹の茶つぽい絣の羽織と着物に、セルの袴を穿いて、瓦斯木綿の太い洋傘を携へ、小さなバスケツトを手にしてゐた。私は彼のこの服装を見て、その質素に驚くと同時に、相変らず酒のため稿料の大部分を浪費してゐることを悲しんだものであつた。しかし、彼は非常な元気で新世界の憤泉浴場に入つたり、通天閣に上つたり、大阪寿しを喰つたり、小児のやうにはしやいだりして一日を大阪で遊び暮し、尾道へ発つて行つた。 鈴木氏享﹁逝ける葛西君の芸術﹂ 昭和3年8月 葛西氏は今更いふまでもなく、大酒家であつた。 ﹁十の年から飲み出した酒だ、止められるものか﹂ 葛西氏はさう言つた。そして、つる子夫人などのお話によるとほんとに十位のときから酒をのんだものらしく孫爺いさんが亡くなつた日が彼が十三の年の旧暦三月二十五日で、花見の頃だつたが彼は一瓢を携へて山へ花見に出かけ、祖父の死目に遇はせやうと家の者がいくらさがしても見つからず、よやつとのことで捜しあてると彼は陶然酔つたまゝ山奥の花散る下に眠つてゐたといふ逸話が、今でも彼の村の友達の間に語られてゐる。 その酒の量については、色々に言はれてゐるが、彼の最後の大作﹁酔狂者の独白﹂︵これは口述した作品︶の中で ﹁一年でどれだけ酒をのんだらう、一日に一升として年に三石六斗余り、一升五合平均とすれば、ざつと五石、毎月四斗樽一本づゝ飲んで来たわけである﹂ さう書いてゐる。けれども葛西氏はコツプ酒を呷つたりする方ではなく、小さい猪口でちびりちびりなめるやうにして一日一ぱいその姿で飲むといふ風の愛酒家で、その間興乗ればペンをとるといふ態度であつた。原稿を書くときも微醺を帯びてゐた方が、力が出たらしい。しかし原稿は朝のうちに書く癖をもつてゐた――晩年、酒のため非常に健康を害したことは事実であるし、そのため仕事にも影響したことは否めないが、葛西氏はよく﹁酒は僕の体には毒にはならない﹂といつた。そして臨終の日まで杯を手にし、彼は酒に見送られて死んで行つたのである。 竹内俊吉﹁葛西善蔵氏の人生観と作品と故郷と﹂ 昭和3年12月 大正七年の二月、僕は牛込弁天町へ越して来た。丁度葛西も其の頃天神町から早稲田南町へ移り、住居が近い為め其の頃からずつと親しく往来する様になつた。彼は当時無収入で、窮迫のどん底に落ちて居た。誰かゞ訪問した時、﹁お茶も無い、湯も無い。水でも飲んで行つてくれ。﹂と彼が語つたと云ふ話さへある。僕も寝坊だが、彼は其の頃もつと寝坊で、昼過ぎに行つてもまだ床の中に居る事が度々あつた。湯銭も髪銭も無いと云つて、一月以上湯屋へも床屋へも行かず、髪をぼう〳〵伸ばして居た。郷里から送られた米を屑屋に売つて金に替へたと云ふ様な話も聞いた。 温厚貞淑な夫人も此の頃は生活苦でひどく悩まれたらしい。結局夫人は三児を連れて帰郷する事になつた。舟木重雄君がさうする様に葛西に勧めた。そして葛西は家を畳み、一人で喜久井町の信濃館と云ふ下宿へ移つた。一人になつて淋しくなつたのだらう。葛西はよく僕の家へ遊びに来た。 ﹁おい君、日光浴をしないか。﹂ 彼はよく僕を散歩に誘つた。︵葛西は屡々さう云ふ彼特有の言葉を遣つて、散歩の事を﹁日光浴﹂酒を飲む事を﹁カロリイを取らう﹂などゝ云つた。︶急に妻子に置去りにされ、おまけに無収入なので、其の頃の彼は実際寂寥に堪へないらしかつた。 谷崎精二﹁葛西善蔵追憶記﹂ 昭和3年9月 相馬泰三が原稿を書いてゐるところに出かけて行つて、相馬の書いてゐる一行一行を吟味しながら、﹃これはどういふつもりで書いたのだ。こんな言葉を使つて恥しくないか﹄などと頭からかしやくなくやつつけるので、相馬が書けなくなつてしまつた事もあつた。 そして彼自身は日に二行書き、三行書き、若し原稿用紙一枚か二枚でも書けようものなら、大威張りだつた。一枚書いた、とそこでお祝ひのために直ぐ酒だ。 ﹃少し気が乗つて調子がついて来た。だから今日は止めよう﹄彼はそんな事も云つてゐた。他の人は大概筆を取つて、一枚でも二枚でも書く中に、調子のついて来るのを待つのが普通だが、葛西のは、調子がつくと、止めてしまふ。調子がつく事を彼は恐れたのだ。調子がついてぐんぐん筆の進む事は、彼には危険に思はれたのだ。安易に流れるやうに思はれたのだ。そこで止めてしまつて、翌日又二行三行を呻吟する。調子がつきかかつて来ると又止める。そして又その翌日呻吟する。 彼が稀に見る寡作家だつた事は、いはれない事ではない。そしてその寡作の、多くは短篇の、その一行一行が、そんな風にして積み重ねて行つたものである事は、彼の作の一つ一つをよく味はつて見ると合点される。 広津和郎﹁作家としての葛西善蔵の一面﹂ 昭和3年9月 そして十二時近くなつて、そこを出ると、それからが葛西一流の横暴の発揮となる、銀座のペーヴメントの上で、彼は﹃ローエストヘ、ローエストヘ﹄と叫ぶのだ。ローエストといふのは、最も低いといふ意味だ、最低級――つまり最低級の遊廓にこれから繰込まうと叫ぶわけなのだ。 ﹃広津、貴様は早く家に帰つて、親父の乳でも飲め﹄と自分に向つては彼はさう叫ぶ。自分が最年少者であり、自分の父が非常に心配家である事を、彼は知つてゐるからだ。 併し舟木に向つては、彼は仮借しない。 彼は或時は彼のそのローエスト説を拒絶した舟木に向つて、下駄を振上げた。凡そ喧嘩などといふ事をした事もなければ、さうした乱暴を好まない舟木は、この青森県育ちの何処までも何処までもしつこくまつはつて来る葛西に対して、一種脅迫観念といふやうなものさへ感じたりした。舟木は下駄を振上げた葛西から逃れるために、足袋はだしになつて、一目散に逃げ出した。彼は不思議な心的現象から、電車に乗つたら、葛西が先廻りしてその電車に乗つてゐさうな気がした。彼は銀座から六本木まで歩いて帰つた。が、彼の家の門まで行くと、その門の中に、葛西が待伏せしてゐて、﹃やつ﹄と下駄を打下ろしさうな気がした。それでたうとう彼は夜の明けるまで、青山練兵場の方へ行つて、歩きまはつてゐた…… この嘘見たやうな話は、併し真実の事なのである。葛西にはさう云つたしつこさがあつた。 広津和郎﹁葛西善蔵の思ひ出﹂ 昭和3年9月 私は、極く稀に、西洋風の踊りを、酔つて独り立つて演ずることがある。本格のものではなしに半ば出たら目の振つけなのだ。目上の人の前では勿論、誰の前でも滅多に踊らないが、葛西氏には特に望まれて何回か踊つたことがある。いつも、始めのうちは稍神妙ではあるが、大概酷く酔つてゐる時なので途中からはまるつきり滅茶苦茶になつて足踏みさへも怪しいが、私は、その私の踊りを、あんなに熱心に見物され、あんなに賞讚された経験は、葛西氏をおいては、夢にもない。一曲済むと葛西氏は拍手をおくり、深く点頭き、ねんごろに労をねぎらつて、更に所望した。私は烏頂天になつて、踊り狂ひ、屡々悶絶した。 贈られた物で、また気づいたが、いつか私が、不平の舌打ちをしながら、顔にあてゝは革砥を合せてゐる剃刀を葛西氏が眺めて、その次に訪れて来た時に、ユンケル製の剃刀と革砥と砥油とを買ひとゝのへて、持参して呉れたことがある。 この剃刀は、今も好く切れる。 ――これは紛失してしまつたが、私の子供が病気になつた時に、私には容易に買えないからといふので葛西氏は、自ら吟味に吟味を重ねた一本の体温計を購ひ、更に理科大学のお友達を訪ねて試験済みにして持参して呉れたことがあつた。何でも、その試験に日取りが懸つて、持参された時には、病人はもうとうに治つて、留守だつた。 牧野信一﹁断想的に﹂ 昭和3年9月 人としての葛西氏に就ては、語ること余りに多い感が在る。そしてそれを語る為には他に適当な人々が多からう。只、私は酔はざる時の葛西氏を懐しく考へる。葛西氏と云へば酒。酔つた葛西氏と酒とを切離すことは出来なくても、葛西氏にも酔はない時も在つたのだ。 鎌倉建長寺内宝珠院の奥座敷で、葛西氏は良く茶を焙じて飲ませて呉れた。此の茶の焙じ方にも葛西氏は独自なものを持つてゐて、他人には絶対に焙じさせなかつた。茶が美味いと云ふと喜んだ。かう云ふ時の葛西氏は、静かに、淳々と、人生を語り芸術の道を説いて飽か無い。私はかう云ふ日の葛西氏が懐しく憶ひ出される。 葛西氏とは又、空気銃を担いで建長寺の境内を歩いた。亮三君の為に金二十円とかを投じて買つたと云ふ立派な空気銃を肩に、葛西氏は、鳥打帽で、小鳥を狙つて歩いた。 ﹁兵隊のやうにはゆかんですな﹂ なぞと云ひながら、脚を少し開き加減に踏んで、雀を狙ふ姿が、今髣髴と思ひ泛ぶ気がする。 間宮茂輔﹁葛西善蔵氏の歩いた道﹂ 昭和3年9月 これまで私の見て来た彼の一面には何となき一脈の哀詩があつた。哀愁があつた。それは彼の自然児としての純な本質が醸し出す貴い詩であつたと云ふべきだらう。強い半面に純な弱さがあつたために彼は故郷を慕うて幾度か都会から遁走した。彼はよく雪深い冬の故郷のことを私に語つた。私などは、ひどくひねくれてゐるために、窮しても故郷へは帰る気になれないのである。窮すればなほのこと、私は故郷へ戻る気になれない。故郷を慕ふ心に於て彼と同様であるが、彼のやうに故郷へ戻りたがるほど私はすなほでない。彼の望郷の情は愛すべきものであつた。功なり名とげて故郷へ帰ると云つたやうな俗なものでなく、故郷の山川で愛児等と共にくらすことは彼にとつて無上のものらしかつた。故郷へ帰る、また上京する、また故郷へ引つ込みたくなる……彼が捲土重来の意気で茄子の漬物までも用意して、一切の世帯道具と共に妻子をひきつれ、牛込天神町の家に落ちついたのは何度目の上京であつたらう。半年もたゝぬうちに何もかも質屋へやつてしまつた。質つかひは大抵私だつた。 なくなる二月前に彼を見舞つた時も、故郷へ帰りたいことを語るのだつた。 宮地嘉六﹁逝ける葛西善蔵君﹂ 昭和3年9月 震災後、彼はしばらく本郷のなんとかいふきたない下宿の二階に例のおせいことお花夫人と住んでゐた。ある晩私はそこへ尋ねた。その時彼は珍しく酒気を帯びてゐなかつた。酒を飲まない彼を見るのはその時初めてだつたが、酒から離れた彼の容子といふものは正に陸に上つた河童だつた。妙に堅くなつて、日頃はそんなでもない私に向つても、キチンと坐つて恐ろしくハンブルなものごしをするので、私は内心大いにをかしかつたのだ。 が、やがて、焼カマボコかなんかで酒をはじめると、次第に意気昂じて、とう〳〵本物の善蔵となつた。彼は、酒を少しも飲まない私に、しきりにそれをすゝめた。私は幾度も断つた。すると、彼はおこり出した。 ﹁酒の飲めぬやうな奴に碌な奴はないぞ。嫌ひです、嫌ひですつて、酒になんの恨みがあつてそんなに嫌ふんだ。この罰あたり野郎!﹂ 私は、その権幕に恐れをなして、一二杯を目をつぶつて飲んだが、彼はそれを見て喜んだ。 ﹁よし、なか〳〵見込みがあるぞ﹂ 彼は私を話相手に十何本かの二合詰を倒したが、それでも止めようとはしなかつた。ぐづ〳〵いつまでも相手になつてゐたら電車のなくなる私は、十二時が近づくと帰らうとした。すると、彼はそれが気に食はぬといつて、なんだかだと私にからみかけるのである。酒癖の悪いのには今までにも大分手こずつたおぼえがあるので、しばらくの間はいゝ加減にあしらつてゐたのだが、しまひにはどうにも我まんが出来なくなつて、便所へ立つふりをして玄関へ下りた。と、彼は私がひそかに逃げかへるらしい素振を見てとつて、私より先へ別の梯子段から下りて待つてゐた。 ﹁ずるいぢやないか、君﹂ 彼は私を見てどなつた。が、私はそれにもかまはず、いきなり下駄をつかむと、はだしのまゝ一散に表へかけ出して、やつと虎口を逃れた思ひがした。 ﹁おぼえてゐろ。ずるい野郎だ﹂ 後までも彼がどなつてゐるらしかつた。 匿名子﹁葛西善蔵氏の死を悼む﹂ 昭和3年8月
明治41年 大正13年頃 昭和3年2月
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