島尾敏雄 ︻しまお・としお︼ 小説家。大正6年4月18日〜昭和61年11月12日。神奈川県横浜市に生まれる。昭和15年、九州帝大に入学。昭和19年、舟艇特攻隊の隊長となり、奄美大島の基地に着任。特攻出撃待機中に敗戦を迎える。帰還後、学校の教員を勤める傍ら、創作活動を開始する。超現実的な夢の手法を用いた﹁夢の中での日常﹂︵昭和23︶や、特攻隊としての戦争体験を描いた﹁出孤島記﹂︵昭和24︶などによって、戦後派作家としての地歩を確立。昭和30年、心因性の精神症状に悩む妻のため、妻の実家がある奄美大島に移住。﹁われ深きふちより﹂︵昭和30︶や、﹁死の棘﹂︵昭和35〜51︶などにおいて、病妻との生活を描いた。一見私小説に見える作品にも、重い日常を幻想に託した独創的な方法で、現代文学の可能性が追求されている。昭和61年11月12日、死去。享年69歳。代表作は﹁夢の中での日常﹂、﹁出孤島記﹂、﹁出発は遂に訪れず﹂、﹁日の移ろい﹂、﹁死の棘﹂など。 ︹リンク︺ 島尾敏雄@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 島尾敏雄@文学者掃苔録図書館 島尾敏雄@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 一九五六年四月、大島高校三年の新学期、僕ははじめて島尾敏雄という名前を聞いた。朝礼台に立つ嘉野校長が新任教師を次々と紹介する中で、長躯痩身のシルエットを漠然と遠くに眺めているだけであった。 そしてしばらく大島高校で非常勤の講師を務められたのだが、直接授業を受けたことはない。世界史や日本史などの授業を受けたという後輩たちから﹁授業はあまり解からなかった﹂という声の一方、﹁いつもニコニコして優しい先生で、カンニングしても怒らない、責めない先生だった﹂などと話を聞いたことがある。 それから相対して話をすることができたのは、およそ八年ほどの歳月を経る事になる。奄美に住み着いた島尾さんは当時の名瀬市民には、ちょっと気がかりな大和人であったが、﹁大変偉い人らしい﹂との噂話にはなっても、小説家と知る人は当初は少ないようであった。風呂敷包みを小脇に抱え、色白の端正な面立ちで長身をやや前屈みに大股で歩く。またバス停に佇む姿は目立って存在感があった。 越間誠﹁私の中の島尾敏雄﹂ 平成17年12月 島尾敏雄といえば、黒っぽい服装で、長身を幾分前かがみにして、風に吹かれるようにふわふわと、というか飄々と那覇の街を歩いていた姿が目に浮かぶ。そうでなければ、那覇の公設市場界隈の人ごみの中に溶けこむようにたたずんでいた姿である。 島尾は、﹁安里川遡行﹂や﹁那覇日記﹂などのエッセイで描いているように、起伏が多くて、とても整然としているとは言えない那覇の街を、ラビリンス︵迷宮︶と呼んで、足の向くままに歩き廻ることを楽しんでいた。冬の寒さを避けて那覇を訪れる時など、毎日のように散策するのを好んでいたものである。多分、定宿にしているホテルの部屋での執筆に飽きた時なのだろう、ふらりと行先をきめずに歩き始める。そうして小一時間も歩いたあとで、皆に、今日の収穫といった口ぶりで、散策の道すじで出会ったことや道中のようすを話題にするのである。そうして聞いた人は、このとき語られたことが、エッセイの一部にいかされていることを、後日、知ることになる。 岡本恵徳﹁那覇の街の島尾敏雄﹂ 平成12年12月 私にとって初対面の印象は、きわめてもの柔らかな人、ということであった。ちょっと注意して聞くと、大抵の場合彼が主語をはぶいているのがわかった。東京へ出ましてね、少しひまがあったんでお寄りしてみたんですよ。帰り道なんです。お手紙やなんかで見ますと長楽寺となっていますから、お寺かなと思ったんですが、そうじゃあないんですね。……といった調子だった。日本語の場合、主語が不粋で不要なものであることが、良い会話を聞くと解るものだな、などと私は思った。 かなり時が経っているとはいえ、島尾さんはかつて海軍士官で、特に苛酷な第一線にいたわけだが、物腰には少しもそれが感じられない。この印象を分析的に見るなら、主語をはぶいた話し振りも一つの要素であった。軍人の話し方には概して主語が多いし、島尾さんもしきりとそれを使っていたんだろうが、固苦しいことは軍服と一緒に脱いだのであろう。 小川国夫﹁偶然と意志﹂ 昭和48年10月 河出の書き下ろし叢書で﹃贋学生﹄をだした頃に私は一度六甲口の自宅に島尾さんを訪ねたことがある。奥さんが静かにでてきてお茶と黒砂糖をおき、私はその黒砂糖をポリポリ噛ったのをおぼえている。どんな話のやりとりをしたかはすっかり忘れてしまった。けれど島尾さんが自分の作品を評して痔病か慢性下痢症の体質の人間の文学だとつぶやいたことをおぼえている。それが痔だったか、慢性下痢だったか、何かもっとほかの病気だったのかがさだかでない。また、﹃贋学生﹄を自評して、あれは紫色を字で書いてみたかったのだとつぶやいたこともおぼえている。その後さまざまな作家に出会ったけれど、自作の動機や主題を説明するのに色彩を持ちだした人にはまだ私は接したことがない。私はひどくおどろいて、六甲口から阪急電車に乗り、梅田へ帰つてくるまでいっしょうけんめい考え、また感じようとあせったが、わかるようでもあり、わからぬようでもあって、困惑した。 開高健﹁流亡と籠城﹂ 昭和43年5月 庄野 博多にいましたとき下宿が箱崎といいまして、大学のすぐそばでした。漁師町ですが、そこの下宿のおばさんが下で話している言葉を、よく島尾は聞いて、丹念にノートを作っていました。ぼくはそれを見て感心したことがあります。非常に方言に対する愛情、探究心を持っていました。ただ珍らしい言葉だなと思うのではなしに、それを書きとめて整理して、他日なにかある時のためにしまっておくというところが学生のころからありました。 佐々木 あの人は耳がいいんだな。 庄野 非常によくて、映画を見に行って、映画の主題歌がありますね、よく一回で覚えてきて、その節をうまく覚えていました。 佐々木 耳も目もいい。鬼に金棒というところがあるのだな。神戸のやくざなんかが、﹁ガン︵眼︶づけ﹂したといって、電車のなかでからむ、その真似を関西弁で彼がしたことがあるが、実にうまいのだ。こっちがぞっとするくらいすごみがあった。 佐々木基一・庄野潤三ほか﹁島尾敏雄――その仕事と人間﹂ 昭和37年1月 ひとしきり東北のことを話し終えると、島尾氏はご自分の身の回りのことを話された。自転車事故に遭われたこと、大八車をさけるため自転車もろとも新川から転落してずっと入院したこと。妻のミホが心配なこと。僕の身になにか起きたら、ミホがかわいそうだとおっしゃった。そして島尾氏はご自分の黒々とした豊かな髪に手櫛を入れながら、 ﹁ぼくの髪、ぜんぜん染めてないんですよ。これ地毛なんですけどね、でもある日、一晩のうちに真っ白になってしまいそうな心配をしてるんですよ﹂ と言われた。私は何を言おうとされているのかすぐには呑み込めなかった。 ﹁ああ、それはもしや奥様のことですか……﹂ ﹁そう、ぼくはミホの身に何か起こつたら、きっと一晩のうちに白髪になつてしまいそうな気がするんです﹂ 島尾氏はたしか五十歳だった。私と二周りほど違うはずだ。五十歳の男性が、二十六歳の若い女性に向かってそんなことを言う! 僕は妻を一晩で白髪になるほど愛していると……。 佐竹京子﹁ゴムの木を見上げていた﹂ 平成17年12月 ミホ夫人から伺ったお話では、名瀬に引き揚げて間もないころ、島尾は名瀬小学校近くの日米文化会館に勤めていた。そして毎朝、マリア教会近くのバス停から通勤していた。 毎朝かならず、ミホ夫人がバス停まで見送りに来た。島尾はバスに乗り込むと後部座席に直行し、バスの後ろの窓から見送るミホ夫人に手を振って見せる。それに応えてミホ夫人も懸命に手を振る。 古見本通りはほぼ直線道路である。いつまでたってもバスの姿はミホ夫人の視界から消えないのである。バスの後部座席にいる島尾の目にもバス停にいるミホ夫人の姿はいつまでも見えている。その間お互いに一生懸命手を振り合うのである。 永田橋交差点にたどり着いてようやく、バスが左折してその姿を消してしまうまでこの光景が続くのであるから、この二人のやることを毎朝店番をしながら見せつけられるバス停近くの酒屋の主人が、ある日ミホ夫人に問うたそうである。 ﹁あなた方お二人は、どういうご関係ですか?﹂ 澤佳男﹁高校生の見た島尾敏雄﹂ 平成17年12月 第二次世界大戦の折り、父は海軍特攻隊の隊長の任にあったが、特攻基地近くの聚落に住んでいた母と親しく言葉を交わすようになり、父が﹁長崎高商の頃私は応援団長をしていました﹂と言った時、母は戸惑い、謹厳な特攻隊長と活発な応援団長が重ならず、不思議な思いがしたという。やがて戦争は終わり、母は父の許へ嫁いだ。戦火の中で焼け残った神戸六甲の父の家で、新婚早々に押し入れの整理をしていた母は、黒木綿の紋付き羽織と、縞木綿の袴、それに太くて長く白い羽織の紐を見て、これはまさしく応援団長の着用する衣裳であると思い、戦時中﹁応援団長をしていました﹂と言った父の言葉が納得出来たのだった。更にその衣装を身につけ、白鉢巻きを締めて日の丸の描かれた扇子を振りかざして応援をしている勇ましい写真迄も、母は父から見せられたのだった。 母は時折おどけて﹁応援団長の旗振りをして見せて下さい﹂と言い、父はすぐに上衣を脱いで両手で上衣を巧みにさばいて、応援の旗振りをして見せ、二人は楽しそうに笑い合った。そんな父と母の睦みのひとときもあった。 島尾マヤ﹁父島尾敏雄の知られざる一面﹂ 平成12年12月 戦争中の私の思い出のうちでいちばん鮮明に残っていますのは、最初に島尾と待ち合せをしたときと、八月十三日の島尾部隊に特攻出撃命令が出たときのことです。 最初の待ち合せは入り江の岬を回ったところにあった塩焼小屋の下の浜辺でした。九時にそこで待っているという手紙が届いたのですが、島尾が潮の干満の表を見まちがえて、干潮は夜中なのに九時にはかなり引いていると思って、その時間を指定したのです。道はなく、引き潮のとき、浜辺を歩いて塩焼小屋に行くしかないのです。私が海岸へ出てみますと、すっかり潮が満ちていました。 戦争中ですから明かりを持つことはできません。雨雲がたれ込めた真っ暗闇の中、海の中を履物で歩くわけにはゆかず素足で岩を探り探りしてそろりそろり歩いていくしかないのです。 ふつうに歩ければそれほど時間はかからないくらいの道のりですが、真っ暗闇の中を手と足の指先でまさぐりつつ這うようにして進みますので、待ち合せの場所についた時には、暁の金星が東の空に輝いて夜明けの近いことがわかりました。約束は夜九時ごろということでしたから、もちろんもう島尾隊長はいません。後で聞きましたら、島尾隊長も潮につかったりして何回も約束の浜辺へ来たそうです。私は夜が明け始めるころまでずっと塩焼小屋の下の浜辺に坐って、海を見ていました。ここに来たという証しを何か残しておきたいと思って、ハンカチを、岬の松の小枝にしっかり結んでから、夜明けの浜辺を歩いて帰りました。終戦後、結婚の為に私が島を出るときに船の上から見ましたら、そのハンカチは松の小枝で岬の海風に吹かれていました。 島尾ミホ﹁想い出の作家たち﹂ 平成5年10月 島尾敏雄が、芸術院会員になった翌年の正月に、井上光晴は彼に天性な大声で、内容は極めて当り前なことを述べたのである。 ﹁おい、島尾、お前はどうして芸術院会員になどなったのだ! おい、はっきり言ってみろ!﹂ これは当り前の言葉とはいえ、そこには、文学者に値いせぬぞ! という叱責の内容がこめられていたのである。︵中略︶ 井上光晴が、島尾敏雄を酷しく問いつめたとき、すぐには答えられぬ島尾敏雄は、暫く黙りつづけたあと、﹁ミホがもらえといったから……﹂と、彼の日頃の性情通り、弱々しく答えた。 この答に井上光晴が納得する筈もなく、さらに追及しようとするのを、私はまたまた﹁調停役﹂となり、いや、井上君、島尾には、マヤちゃんがいるんだよ、金はいくらでも要るさ、と、これまた生活なんかどうでもいい妄念の持主らしからぬ﹁穏健至極﹂な言葉をはさんだのであった。ここで、なお私の気分の奥にある島尾びいきの傍証的な部分を記しておけば、これは精密に調べつくした事態ではないけれども、﹁近代文学﹂第一次、第二次と拡大した全同人の裡、﹁自力でついに家を建てず﹂に、生涯、借家住いをつづけたのは島尾敏雄であって、そのほかには極めて少数者しか借家住いを通しつづけてはいないであろう。 小学校まで正常であったのにやがて口がきけなくなった奇病、現代医学では治療不可能な﹁マヤちゃん﹂の中学生時代、相馬の野馬追いを観るため一緒に旅行していて、その生れながらに美しい気立てをもったマヤちゃんについて﹃無言旅行﹄という文章を私が書いたのは、すでに遠い昭和四十一年である。︵中略︶ 島尾敏雄がカトリックヘ入ったとき、嘗てプロテスタントの教団へはいった椎名麟三を攻撃したようには、島尾敏雄を私が責めなかったのは、口のきけぬマヤちゃんを知っていたからである。それは、島尾敏雄の負った十字架であった。カトリックへ入った島尾敏雄は、﹁神様にすべてを預けてしまうと、気が楽になります。﹂と、私に語った。 埴谷雄高﹁島尾敏雄とマヤちゃん﹂ 昭和62年1月 小川 島では救い主みたいだったそうですね。 吉行 それはどういう……? 小川 震洋隊の隊長さんで、狭い範囲でしょうけれども、すごく人気があった。 吉行 人気があるだろうな。 安岡 本当に彼はそういう人だったんじゃないかね。 小川 隣の何とか岬にいる高射砲隊が米軍機を落としたんですって。でも、それは島尾さんの功績になっちゃった。︵笑︶ 吉行 初めて聞いたけれども、すごい話だね。 小川 島尾さんがいるから落とせたんだ。 吉行 島尾様の御利益で弾が当たった。 安岡 そうじゃなくとも、要するに彼はスターなんだよ。 安岡章太郎・吉行淳之介・小川国夫﹁島尾敏雄・人と文学﹂ 昭和62年1月 その日の取材の主な目的は、島尾さんが﹁死の棘﹂シリーズの中で書いた逸話がどこまで事実なのかという感触を得ることだった。当然、私は、お二人の暗い過去に触れる失礼を恐れながら控え目に控え目に質問を重ねたのだったが、お二人は実に屈託なく、懐かしげに、むしろ楽しげに﹁暗い日々﹂を語った。 ﹁精神病院ってね、ほんとに平和なところなんですよ。私、おもしろかったわあ。そこらへんに座り込んでても誰もなんとも思わないし、なにしてもいいんです。私、トイレに行く時はいつも主人におぶってもらって行ってたんですよ﹂ ﹁ほかの患者たちは、ぼくが患者で家内が付き添いだと思ってたようでね。ぼくが食器を洗いに行ったりしてると、ダンナ最近調子がいいようだね、なんてね……﹂ 細かな質問を重ねるうち﹁死の棘﹂のディテールが︵文章表現上のやむをえぬ脚色はあるにしても︶まったく事実を踏まえていることがわかり、私は改めて島尾さんの精神の強靭さを思ったことを記憶している。 山本巌﹁﹁ミホ﹂というミクロコスモス﹂ 平成3年1月 いつになるのか。最初に島尾さんの小岩の住家に奥野健男などと訪れたことがあった。島尾さんが座を外したとき、はしゃぎまわっている子供さんに、いたずら半分﹁オトウチャントオカアチャント、ドッチガコワイ﹂ときいた。﹁オカアチャンガコワイ﹂と応えた。﹁オトウチャントオカアチャントケンカスルカ﹂とまたきいた。﹁スル﹂と応えた。﹁ドッチガ強イカ﹂ときくと﹁オカアチャンノホウガ強イ﹂と応えた。わたしは、よく知らなかったが、それは、たぶん島尾さんとミホ夫人のあいだに危機が始まったころであったかもしれない。心ないいたずらを云ったものだ、といまでも心にのこっている。ところで、わたしたちが、島尾さんについて挿話を語るとすれば、ここで一応おわりということになるが、島尾さんにとって、それは、はじまりなのだ。島尾さんが、日常生活にかくれている亀裂を、ひとよりも鋭くみつけだし、そこに、︽幸福︾や︽不幸︾の数々を招き寄せてしまうのは、この亀裂を発見する眼が、ひとよりも鋭く、また粘りつよいからだ。島尾さんのような︽よい人︾が、どうしてこんな目にあわなければならないのだろうというような︽不幸︾が、あとからあとから訪れたりするのをみた時期に、わたしは慄然としたおもいにかられたことがあった。もっと極端に誇張すると、島尾さんには︽不幸︾を招きよせる特異な能力があるのではないか、とおもったりした。そこのところを解明することが、島尾さんの文学や人間を論ずるばあいのかなめであるような気がする。 吉本隆明﹁島尾敏雄――遠近法﹂ 昭和48年9月 粗末な机と椅子が置いてあって二三の士官が何か雑談に打ち興じていた。眉の太い顔の長いノッポの少尉が一人だけ少尉で他はみな兵曹長の襟章をつけている。色の浅黒い精かんな目付をした兵曹長達の中にあってこの少尉一人だけがのんびり間の伸びた様な風貌をしていて案外優しい声で ﹁ヤア僕が島尾少尉です﹂ と言って愛想よく迎えてくれた。︵中略︶ このときの少尉、即ち現在の島尾さんの瞳の色はあれから十七、八年経った今でも忘れることが出来ない。まことに風彩と言い、落着きと言い、堂々と押しの利く隊長たるこの初会合で私は心から喜んだのであった。と同じに一つの疑問が湧いて来るのをどうとも仕様がなかった。それは“死”と云うものを対象にした戦争に未経験な筈の学生上りのこの若い少尉はこの落着きをこの風格を何処から得て来たのであろうか。生れつきなのか。それとも附焼刃的な落着きなのか。日支事変以来弾煙雨飛の戦場で暮し続けてその怖さを充分に熟知している私には一寸不可解であった。それにこの部隊はこの隊長は万が一にも生還は期せられない筈の特攻隊であり、隊長なのである。学徒上りのわかい少尉にとってこの部隊に冠せられた体当りと云う言葉は余りにも荷が勝ち過ぎ惨酷過ぎはしないだろうか。又、ここらあたりに軍の上層部の人達の狡かつさが潜在して居るかも知れない。唯一筋に情熱の趣くままに死など省りみない青年の純情を隊長と言う名の下に利用して率先体当りさせると云う……。 脇野素粒﹁島尾敏雄を語る﹂ 昭和36年6月 最初の中は島尾中尉はあまり隊を外に出たがらなかった。それでも基地設営の交渉とかその他の公用で役場、農業会、学校には度々峠を越して足をはこんだ。幾度か部落に足をはこぶ中に部落の人達の間に知り会いも出来た。誰よりも先きに顔馴染になったのは小学校の子供たちだった。A部落の子供たちは必ず隊内を通ってB部落にある学校に通学するので毎朝、毎夕五、六名の児童が隊員の誰かと顔を会わせるのであった。B部落に出掛ると学校の門前に子供達が寄り合って ﹁隊長さんだ、隊長さんだ﹂ と言ってハヤしたてた。隊長はまた大の子供好きなのでその子ども達の持つ素朴さを心から喜んでいる風に見えた。或る時、私は隊長と用件があってA部落を通る際道路の曲り角で、五六才位の女の娘にはたと出会した。その時その女の娘が ﹁アゲー、隊長さんだ﹂ と言ってびっくりしたその表情が実に好かったと何時までも二人の語り草にしたものである。 脇野素粒、同上
昭和19年 昭和26年8月 昭和57年11月
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