島木健作 ︻しまき・けんさく︼ 小説家。本名、朝倉菊雄。明治36年9月7日〜昭和20年8月17日。北海道札幌市に生まれる。2歳で父と死別し、母に育てられる。大正14年、東北帝国大学法学部の選科に入学。東北学連に加わって中心人物となり、仙台初の労働組合の結成にも携わる。昭和2年、非合法の日本共産党に入党するも、翌年に検挙され、起訴後に転向の声明を行った。昭和7年、仮釈放。獄中生活を題材とした処女作﹁癩﹂︵昭和9︶が世評を呼び、続けて発表した﹁盲目﹂︵昭和9︶によって新進作家としての地位を確立する。昭和12年、︿帰農﹀を主題とした﹁生活の探求﹂を発表。青年知識人を中心に大きな支持を獲得し、ベストセラーとなった。昭和17年から病床生活に入り、晩年には﹁赤蛙﹂など、小動物を題材とした心境小説を多く執筆した。昭和20年8月17日、肺結核により死去。享年41歳。代表作は﹁癩﹂、﹁再建﹂、﹁生活の探求﹂、﹁人間の復活﹂、﹁赤蛙﹂など。 ︹リンク︺ 島木健作@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 島木健作@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 習作 ‥ 発表年順 日記 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 島木の作品のどこの隅にも、怪物といふ感じは蟠つてゐない。舞台一面、真昼の陽の中に在るやうである。しかし私はたまに機会があつて島木の人物に触れる毎に、奥底の知れない人間といふ感じを新にした。だから油断がならないとか、信用ができないとか言ふのではない。ただ奥底の知れないといふ何か不気味な、気重い、いくぶん不快な感じである。 こんな風にかいてくると、人間としての島木は、私にとつては苦が手だつたといふことになる。もちろんそれは私との性格の相違に基いたものにちがひないが、その感じはかなり普遍性のあるものだと私は信じてゐた。ところが島木の鎌倉の﹁仲間たち﹂は、みぢんも島木にそんな感じをいだいてゐないのを知つて、私はおどろいたり、疑惑したりした。島木は私などに示すとは打つて変つた面を彼等にひらいて見せるのかも知れない。彼等のやうな同世代者にはそれだけ自ら相通ずるものがあるのかも知れない。そんな思ひが、さらに島木の奥底の知れなさの感じを煽つた。 しかし怪物めいたその感じこそ、作家としての島木の見究めがたい可能性を約束するものではなかつたであらうか。およそひと並すぐれた作家で、それぞれの形で怪物めいたものをひそめてゐないものはないといへる。島崎藤村などもそれのきは立つて眼についた作家の一人であつた。 青野季吉﹁島木健作について・﹁礎﹂について・ひとつの思い出。﹂ 昭和24年9月 島木君と最後に会つたのは、あの八月十五日の両三日前だつた。確かに戦争が終るらしいと聞いて、早速私は報せに行つたのである。病院で絶対安静の病人から空襲の不安を緩和すれば、病気にもいいかと思つた。ちやうど鎌倉文庫の貸本の配当を届ける用もあつた。日本の降伏について感想をもらし合ふやうな応対は、その時しなかつたのは無論である。話しする間もなく私は別れた。その時の島木君の言葉で覚えてゐるのは、﹁川端さん、お元気さうですねえ。﹂といふひとことだけだ。島木君は非常に愛情をこめて言つた。自分の命の終りを見ながら自分を離れて人の命をいつくしむやうな声だつた。 戦争が終つて後、私は昔からの日本のあはれに沈みゆくばかりで、山里にでも入りたい厭離の心が逆に身は日本橋の真中に出て日々をまぎらはしてゐるこの頃、島木君の最後の言葉を思ひ出す折々がある。生前新潮社に原稿が渡してあつた島木君の遺作集は﹁出発まで﹂といふ書名で、私は島木君から題簽を書くやうに頼まれてゐた。島木君は日本の敗戦をも自分の過去をも﹁出発まで﹂とすることが出来る、さういふ人だつたかもしれない。戦後の文学の一つの確かな﹁礎﹂を失つたことで実に惜しいと考へられる。 川端康成﹁島木健作追悼﹂ 昭和20年11月 詩人は、僕の家の筋向ひの二階屋に棲んでゐた。僕等はしげしげ行き来したが、僕の方からは勿論彼の話も僕の仕事に触れた事は殆どなかつた。彼が僕の近所に引越して来た当時、僕は瀬戸物に夢中になつてゐて、他の事には一切興味を失つてゐた。彼は世にも不興気な顔をして、僕の話をきゝ、僕の見せるものを見てゐた。その癖、内心異常な興味を感じてゐたらしく、いつまでも坐り込んで、容易に還りはしなかつた。そのうち鎌倉の古道具屋で、李朝の小さな白壺を買つてきて、恥かしさうに見せた。白壺のうちでもいゝ方に属するので、その由言ふと、彼はいかにも嬉しさうな顔をした。まだその顔が眼にチラつく。やがて、彼は瀬戸物好きの僕等の仲間に這入り、仲通りをうろつく様になり、しまひには、骨董商のH君と僕が吉原の引手茶屋でドンチヤン騒ぎをするのにも、素面で黙つてつき合ふ様になつた。 文芸上の友としては、僕は殆ど無能者だつたが、島木君が僕との付き合ひを機として、相手はたかが瀬戸物にせよ、生れてはじめて道楽の味を知つたといふ事は、恐らく確かだと思つてゐる。それが彼のつらい宿業の様な仕事の合ひ間の大きな慰めになつたに相違ないと思つてゐる。彼の顔には忍苦の刻印が捺されてゐた。凡そ楽みと暇とを神様から取上げられて了つた様な彼の顔は、付き合ふにはまことに厄介な顔であつた。それが、時として美しい歯並みを見せた笑顔に綻びると、僕はホツとした。これは瀬戸物の仕業であつて、僕の力ではない。 小林秀雄﹁島木君の思ひ出﹂ 昭和24年3月 私はつゞいて、新宿で島木さんと初めてゆつくりと語り合つた時のことを思ひ出した。十年ほど前だ。人民社から彼の﹁第一義の道﹂が、そして私の﹁故旧忘れ得べき﹂が出た時分のことで、彼は里見さんの小説をいま愛読してゐると、熱つぽい語調で言つた。いいねえ、実にいいねえ、かう言ひ、僕は小説の勉強を君等と違つて今迄余りやらんかつたからねえとも言つた。私は秘かに彼の文学的危機を感じたことを今もつて覚えてゐる。書き方が変つてきたら、つまり﹁うまい小説﹂を書かうとしたら危いと思つた。ところがどうだ、彼は少しも変らなかつた。彼は彼らしい書き方を彼らしい頑固さで書きつづけ、彼らしい精進で一層自分の手法を深めて行き、里見的描写術に感心した跡などは遂に見せないのだつた。己れを守り信ずることの強さ、己れを知ることの確かさに私は感心した。 高見順﹁島木健作の死﹂ 昭和21年1月 島木さんの死は安らかだつた。病室にあつた島木さんの腕時計が九時四十二分を指してゐた。病院の医者は歯痛で帰宅したとかで、終始姿を見せなかつた。さういふ仕打は、何もここだけのことではなく、戦時中至るところで嘗めさせられてもう慣れてゐる私たちだつたが、それでも悲しかつた。夜のうちに島木さんを扇ヶ谷の自宅へ運ばうといふことに成つて、はじめて看護婦が現れた。敷布を代へるとき、中山義秀さんが﹁よし﹂と歩み出ると、島木さんのもう生きてゐない身体の下に両手を入れて、エイと叫んで抱き上げた。その声が私の心を貫いた。えらいと言ふと、なに俺は残酷なのさと義秀さんは目を瞬いた。なに反対なのだと涙が出た。 防空演習のあの担架の上に島木さんを横たへた。さうして前を三浦さんといふ島木さんの友人が担ぎ、小林秀雄さんがこれを助けた。後を義秀さんが持つて、久米さんと私とがこれに手を添へた。川端さんは提灯を持つて先導役に立つた。かうして島木さんを、彼の仕事場である家へと運ぶのであつた。月は既に落ちてゐた。暗い道には人気が無く、さう遠くない森で梟がホーホーと啼いてゐた。長くわずらつてゐた島木さんの身体はごく軽く成つてゐたが、――重かつた。 ひとつの時代の死。久米さんが、そんな気がすると呟いた。 島木さんの顔にかけた布が担架の揺れでずれて来て、ひよつこりと生々しい顔が現れた。その顔は私たちを見ないで、暗い空を見てゐた。 高見順、同上 おそらく現代の作家のうち、氏ほど人間普通の快楽を遠ざかつた生活を送つた人はない。氏は︵病気のせゐもあらうが︶酒も煙草ものまなかつた。結婚するまで童貞であつたといふ噂の真偽は知らないが、ともかく若い時分には誰にもある程度の恋愛もしなかつたやうだし、またさういふものをあえて求めなかつた。︵氏の最後の長篇﹁礎﹂に現はれた氏の青春の世界に、女のきれはじもでてこないのは、おそらく氏にとつては自然なことであつた︶むろん遊蕩もしなかつた。芝居も映画も、ほとんど見なかつた。 旅行は好きだつたやうであるが、それもたまに出かけると、氏を楽しますより、むしろ焦だたせ、怒らせることの方が多かつたのは、﹁満州紀行﹂や﹁赤蛙﹂などで判つきりうかがはれる。 かういふ風に並べたてて見て、これらの娯楽や気ばらしが――僕等の生活ではどれほど大きな位置を占めてゐるかを正直に反省して見ると、はじめて氏が一般人の標準からはほとんど不具と云つてよいほど特殊な生活を送つた人であることが判つきりする。 氏が生前に一部の人々から苦業者かまたは良心の権化のやうに買ひかぶられ、また他の人々から付き合ひにくい野心家として排斥された所以もここにあらう。 中村光夫﹁解説﹂ 昭和23年6月 ただ、次の一点だけは、私にもよく解つてゐるつもりだ。島木健作はその生活と作品との間に毛筋ほどの隙間もない作家だといふ点である。文学もまた ART だといふ考へ方は、島木健作には無縁であつた。芸︵ART︶としての、作り物︵FICTION︶としての小説を、彼は理解したかも知れないが、それを自ら作ることには無縁または無能であつた。例へば婦人雑誌や通俗雑誌で、FICTION を書かうとすると、いつも彼はみじめに失敗した。そんな時には、例の﹁正直な苦笑﹂を浮かべて、﹁おれは駄目だよ﹂と私の顔を見たものである。 大袈裟な比喩を用ふれば、島木君は晩年のトルストイが ART を否定したところから出発し、ART に背を向けたまま小説を書き通し、宿痾に斃れて、四十二歳といふ短かい生を終つた作家である。ここに彼の名声の秘密があり、死後の淋しさの秘密がある。 いや、彼としては、決して ART に背を向けてゐたわけではない。却つて、一生 ART を追ひ求めてゐたと言つた方が正しい。その心がなければ、人は小説など書く気にもなれず、書けもしないのだ。今思ひ出しても微笑が湧くが彼の鎌倉に於ける二つの住宅の書斎には、文字通り床の落ちるほどの書物が積まれてゐたが、その大部分が世界各国の小説であつた。こんなものまで出版されてゐたのかと驚かされる翻訳小説の類が殆ど洩れなく集められてゐた。その中には、勿論、ポオもホフマンもワイルドもあった。鏡花も里見�クも揃つてゐた。彼は文壇に於ける ART に意識的に背を向けてゐたわけではない。作品に於て、つひに ARTIFICIAL なものに背を向けたまま死んでしまつたのだ。 林房雄﹁島木健作小論﹂ 昭和24年4月 この話で思ひ出したが、戦前、先生︵註、小林秀雄︶は島木健作さんと、一緒によく御出になつたものですが、鎌倉の扇谷の、先生宅の真向ひに島木さんが住んで居た、と言ふよりも、先生が居たから、他からわざわざ引越して来たと言ふのが本当らしい、島木さんを弟分の様に、愛して居たし、島木さんも、先生を心から尊敬して居た、先生から文学の批評を聞きたい為に、陶器を集めたり、呑めぬ酒を無理して御付合ひして居た様であつた。 島木さんの文章に、足りないものがあるから、少し教育しようと言ふ、小林先生の意見で、時々青山さんと、私の三人で吉原の引手茶屋、松葉屋へ連れ出して、よく遊んだことがありますが、島木さんも江戸時代の吉原の雰囲気を感じたのか、笑つたことのない彼は、初めて嬉しさうな顔をして居た。先生もその顔付を見て、やはり嬉しさうであつた。 ﹁小林さんは酒席で大いに酔払つた時でないと、仲々僕の文学の酷評をして呉れないのでね、その時が僕の一番勉強の出来る時間なんだよ﹂と度々もらして居た。終戦後、島木さんが亡くなられて、本当に惜しい事をしたと、心から悲しんだのは、小林先生であつた。其の当時は、小林さんと私が、彼を殺したと言ふ世間の噂でした。 広田煕﹁葱坊主﹂ 昭和30年10月 昭和九年︵十年?︶、ナウカ社発行の文芸雑誌﹁文学評論﹂の編集部宛に送られて来た投書のなかに、異色のある﹁癩﹂といふ小説があつた。その頃、私は徳永直、窪川鶴次郎諸氏と一しよに﹁文学評論﹂の編輯の相談役のやうな役目を引受けてゐたが、その雑誌宛の投書作品といへば、生硬で没個性のものが圧倒的だつた。その中で﹁癩﹂は題材も奇であつたが、文芸品としての魅力によつて群を抜いてゐたのである。﹁癩﹂は﹁文学評論﹂に掲載されて、小さからぬ反響をよんだ。ナウカ社主の大竹博吉氏は﹁癩﹂の作者島木健作君の作品を﹁中央公論﹂へ推薦する労をとつた。私はその前に大竹氏を通して、島木君の未発表の原稿を二、三見せて貰つてゐた。いづれも﹁癩﹂と共通する所のある題材を、他の視角から取扱つたもので、その底には社会悪と人生苦に対する淋しい諦観があるにかかはらず、なほ不幸な者達や苦しめる者等に対する燃えるやうな同情を含んでゐた。現実には滅多に存しない特異な運命の人物に、作者の思想を託する傾向は、後年には島木文学の基調をますます観念的に、また理想主義的なものにしたのだが、これらの作品にも既に表はれてゐた。原稿の文字は太く大きく、一字一劃も忽にせず、最後の一枚まで丹念に書かれてゐた。原稿の一つは先づ﹁中央公論﹂の新人号に発表され、その後島木君は丹羽文雄氏とともに一躍流行作家となつた。 森山啓﹁新進時代の島木健作氏﹂ 昭和20年11月 島木君は流行作家になつたけれど、そのことで思ひ上るどころではなかつた。文芸に関しては自分はまだ素人だといふやうなことは、世田谷に移つてからもやはり云つてゐた。文芸に志す者が一度は読む明治大正の大家の代表作や海外名作の翻訳などを読み進み、同時代の作家のものにも広く眼を通してゐたやうである。毎日倦まず撓まず、午前中には創作の五、六枚は書いてゐるのだつたが、或る日はこんなことを云つた。﹁午前中に書くのは止しにしましたよ。朝から書いてゐると読書の暇がなくなるのでね、僕は文学史上の作品をまだ幾らも読んでゐないのです。﹂夕暮、私が散歩に出かけると、世田谷の小さな古本屋で本の独り読みに夢中になつてゐる君を見かけることもあつた。また新宿や銀座に出ると、新本のあれこれを手に取つてみて、装幀や、紙質や、組み方や、活字そのものの善し悪しなど念入りに眺めて、なかなか立ち去らうとしなかつた。 森山啓、同上
大正14年2月 昭和9年頃 昭和15年
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