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130 朝日新聞
朝日新聞創刊130周年記念事業
- 朝日新聞 2008年3月10日掲載 -

明治・大正期の紙面を電子データベース化

 朝日新聞社は創刊130周年記念事業として、明治・大正期の朝日新聞紙面のデータベース化を進めています。完成すると、明治から現代までのすべての記事がパソコンを使って検索、閲覧できるようになります。今回の事業は、文明開化期の1879(明治12)年から、大正デモクラシー期の1926(大正15)年までの紙面が対象です。この半世紀、日本は急速な近代化の道を歩みました。日清、日露戦争、第1次世界大戦などを経て、やがて始まる日中戦争、第2次世界大戦に世の中が傾斜していく時代でもありました。新聞はそうした世の中の動きをたどり、人々の声を伝える記録の宝庫です。データベース事業に監修などで協力する東京大学明治新聞雑誌文庫の運営委員長、北岡伸一法学部教授に明治・大正期の新聞や事業の意義などについて聞きました。

時代の節目の事件、どう伝えたか ひだのある読み方できる

北岡伸一・東大教授に聞く

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北岡伸一 97年から東大法学部教授。日中歴史共同研究委員会の日本側座長。専門は日本政治外交史。主著は「清沢洌」「独立自尊 福沢諭吉の挑戦」など。

 ――明治・大正時代の新聞を読んで感じるのは何ですか。
 「折に触れ、明治新聞雑誌文庫の新聞を読んできたが、印象深いのは明治の新聞の発展プロセスが、世界史的にユニークだったことだ。福沢諭吉は『西洋事情』初編(1866年)で『西人新聞紙を見るを以(もっ)て人間の一快楽事となし、之を読て食を忘ると云(い)ふも亦(また)宜(むべ)なり』と述べているが、民間組織が世界の情報を集め、印刷し、伝えるのは、当時の日本人には大変な驚きだっただろう」
 「情報は政府専有ではなく、民間にも共有される。新聞が生まれて50年で、日本は世界屈指の新聞大国になった。まれに見る急速な発展で、非アルファベット圏では最初だった。第2次世界大戦前には100万部を出す新聞が三つもできている」
 「幕末、福沢は海外に行くと新聞に着目し、上海の英字新聞でアメリカ南北戦争や太平天国の乱を知った。清国の李鴻章も、日本の薩英戦争を英字新聞を通じて知っている」
 「新聞の急発展の素地は識字率にあった。幕末、成人男子の識字率は30%から40%、女子も10%を超えていたといわれ、世界的にも極めて高い。徳川時代の平和のたまものだ。10人に1人が文が読めると、文書行政が可能になるといわれる。口頭に比べて、正確で複雑なことが伝えられるからだ」
 「明治の新聞には、連載小説、夕刊、宅配など、日本の新聞の独自色がすでに現れていることがわかる」

世情・風俗書いた小新聞が生き残る

 ――明治の新聞の大きな流れは。
 「当初は大(おお)新聞と小(こ)新聞の系列があった。大新聞は、自分の意見を主張するための政論新聞だが、党派性が強く、政府の弾圧も受け、消長が激しかった。小新聞は世情、風俗を書く新聞だ。最終的には、朝日や読売のような小新聞が、大新聞の要素を取り入れ、いわば中新聞になって、勝利したといってよいだろう」
 「明治中期には福沢が創刊した時事新報という誰もが認める高級紙があった。紙名もイギリスのタイムズにちなんでいる。明治末、新聞の代表2人を選ぶことになったとき、1人は時事新報から、他の1人は抽選で決めるというほど時事新報の地位は高かった。福沢は、他の政論新聞とは違って、財政的な独立なくして言論の独立なしと広告を重視して、経営基盤を固めた」
 「おおむね新聞は、外交は強硬、国内はデモクラシー擁護の論調だった。政府の外交はだらしなく、国内では国民を抑圧しているという主張だった。前者は日露戦争講和条約反対、後者は大正時代の護憲運動につながる。朝日は寺内内閣期に最も反政府的となり、白虹事件=注=で弾圧され、方向転換して不偏不党を打ち出したといわれる」
 ――今の新聞との大きな違いは。
 「正確さでしょうか。露骨なセンセーショナリズムで、無責任なうわさや『こういう説がある』などと書く。だれが妾(めかけ)をもっているか、という話を政治家や実業家の実名で書く。今日の夕刊紙に似てますね」

第1次世界大戦後、速報性が勝負に

 ――明治期の朝日の特徴は。
 「朝日は憲法発布の前年、東京に進出するが、大阪は朝日と(大阪)毎日の寡占状態で、資本を蓄積していた。だから競争の激しい東京に進出できた。憲法発布、議会開設と、東京から政治ニュースが発信されるようになるときに、東京朝日が発足するタイミングだ。憲法発布の日、全文を朝日が入手し、東京から電報で大阪に送ったスクープは有名だ」
 「夏目漱石を入社させ、やや教養ある層が読んだ。一方、読売には尾崎紅葉がおり、『金色夜叉』を連載して大人気を博した。朝日は経営主体にずっと変化がなく、人手にわたったりしなかったことも大きい」  ――新聞はいつ変わりましたか。
 「第1次世界大戦(1914年)後だろう。ワシントン会議(1921年)、ロンドン会議(1930年)と、重要な海外ニュースが増え、速報性が勝負になる。記者を現地に派遣でき、組織のしっかりした大規模な新聞が有利になる。福沢が創立した時事新報や徳富蘇峰の国民新聞はその競争で消えていった」
 ――新聞と戦争の関係は。
 「密室の政治に比べ、戦争はだれにでもわかるし、国民が死ぬから大ニュースになる。新聞は戦争で伸びた。台湾出兵や西南戦争には大物記者が従軍記者として行っている。日清、日露戦争時では、直前まで戦争に反対する新聞もあったが、満州事変(1931年)以降は挙国一致になった。こんな戦争していいのかという論調は、昭和期よりむしろ明治期の新聞にあったように思う」
 ――当時の新聞を見る意味は。
 「事件がどのように報道され、人々がどのようにそれを読んだかを知るのは、歴史に対する理解を深める。板垣退助らの『民撰議院設立建白書』(1874年)は、当時の有力紙『日新真事誌』に発表された。(保守派の)加藤弘之が反論を発表したのもその新聞だった。新聞が天下の大議論の舞台になった」
 「時代の節目の事件が、新聞でどう報道されたかをもっともっと見てみたい。抽象化された歴史ではなく、当時の人と同じスタイルで接することで、歴史について、ひだのある読み方ができるようになる」
 ――すでに読売が明治・大正期の紙面をデータベース化しています。朝日の役割は。
 「読売は古い新聞だが、大正末に正力松太郎が乗り込んで立て直して、昭和期に発展した新聞だ。明治期は東京だけだったし、政治のカバーも弱かった。大阪と東京から出ていた明治・大正期の朝日がデータベース化されるのはありがたい」

 (聞き手 牧村健一郎)
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 (注)白虹事件 1918年、大阪朝日が書いた米騒動を巡る集会の記事が皇室の尊厳を冒すとされた筆禍事件

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