周年災害
2017年9月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)
○読者の皆様へ
﹁周年災害﹂は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。
そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。
② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料の追加の場合は資料紹介の後に[追加]と表示します。
③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。
また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。
なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の﹁周年災害﹂がリンクされ読めるようになっています。
︻2017年9月の周年災害︼
・弘仁8年畿内暴風雨、大坂湾最奥部に高潮﹁摂津大風﹂(1200年前)[改訂]
・安元から治承へ改元、大極殿火災と天変による、太極殿再建されず(840年前)[改訂]
・弘治3年畿内暴風雨、摂津国沿岸に高潮襲う(460年前)[改訂]
・享保2年8月台風、京都、美濃、東海道筋、江戸、奥羽諸国に被害(300年前)[追補]
・宝暦7年7月台風、紀州、四国、中国が暴風雨、高潮で被害に(260年前)[改訂]
・文化4年江戸永代橋崩落事故、祭礼の大群衆で(210年前)[改訂]
・明治期初めてのコレラ3系統で大流行、帰還軍隊の移動で各地方へ伝播、
太政大臣命で兵員の移動中止に<︵140年前)[改訂]
・大正6年9月秋雨前線+台風、東京湾観測史上最高位高潮と大阪淀川大洪水(100年前)[改訂]
・昭和2年9月台風、有明海沿岸に高潮襲う(90年前)[改訂]
・昭和12年9月台風、兵庫県に被害集中(80年前)[追補]
・大牟田爆発赤痢事件、疑惑の化学工場爆発事故、塚本メモ市政へのぬれ衣晴らす(80年前)[再録]
・昭和22年秋雨前線+台風第9号﹁1947カスリーン台風﹂関東、東北地方に大被害(70年前)[再録]
・昭和32年台風第10号、鹿児島県南西部、奄美諸島中心に被害(60年前)[再録]
・昭和32年台風第14号﹁フェイ台風﹂沖縄群島に集中被害(60年前)[再録]
・鉛中毒予防規則公布、公害問題への世論の高まりの中で制定[追補]
・昭和52年台風第9号﹁沖永良部台風﹂+秋雨前線、誤報であわや漁船団遭難、
原因は米軍観測機が中国領空侵犯を避け観測中止したため(40年前)[再録]
・国際緊急援助隊(JDR)法制定−後に自衛隊参加で自己完結型組織の派遣も可能に、
感染症対策チームも新設<︵30年前)[再録]
○弘仁8年畿内暴風雨・大坂湾最奥部に高潮﹁摂津大風﹂(1200年前)[改訂]
817年9月5日(弘仁8年7月17日)
平安時代に編さんされた歴史書﹁日本紀略﹂の前編十四 嵯峨天皇の章に、勅撰の歴史書﹁日本後紀﹂巻第廿六の一部が抜粋されている。
その章の弘治8年秋七月甲辰(17日)の項を見ると“摂津国言。海潮暴溢。漂殺二百廿人”とある。つまり摂津国(現・兵庫県南東部と大阪府西部)からの報告によれば、海潮が突然あふれて岸に押し寄せ、220人の人々が流され死亡した。と読める。これは季節柄、巨大台風により大坂湾に高潮が起こり、沿岸の家々が流され人々が死亡した記録であろう。
古来、大坂湾の最奥部、淀川の河口周辺には“難波津”と呼ばれた港があり、首都のある大和(奈良県)地方と瀬戸内海から遙か中国大陸までも結んでいた。災害当時は、都も山城(京都府)の平安京に移り、淀川が送る土砂の堆積で港の機能も低下し、位置も移動したようだが、中央政府のある畿内と西国を結ぶ重要港湾であることは揺るがなかったようだ。場所も湾の最奥部である。風向きにもよるが高潮の被害を受けやすい。高潮によって、さまざまな港湾施設や店舗、倉庫、住居などがのみこまれ、そこで働く人々やその家族が犠牲になったのではないだろうか。
この災害を当時の人々は﹁摂津大風﹂と名付けたという。
(出典‥国立国会図書館デジタルコレクション﹁国史大系第5巻>日本紀略 前編十四>嵯峨天皇>日本後紀巻第廿六 427頁(222コマ)﹂、小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代 中世の災害>平安時代の主要災害一覧52頁‥摂津国大風雨﹂[追加])
○安元から治承へ改元、大極殿火災と天変による、太極殿再建されず(840年前)[改訂]
1177年9月5日(安元3年8月4日)
天皇の即位式など重要な儀式を行う大極殿の火災と天変により改元とある。
1058年9月(天喜6年8月)の天喜から康平への改元も大極殿の火災によるものだったが、この年の焼失は、京都千年の歴史のなかでも、屈指といわれる大火“太郎焼亡”によるものだった。
太郎焼亡は改元の年の6月3日から4日(旧暦4月28日から29日)にかけて京中を焼いた。火元は五条より南の樋口富小路とされ、その焼失範囲は東は富小路から西は朱雀門以西まで、南は六条から北は大内裏まで(玉葉)という広大な範囲で、およそ洛中の3分の1、380町、2万余家焼失、死亡者数千人(方丈記)と記録されている。
大極殿が焼けたのは延焼によるもので、まず大内裏の南外郭に隣接する大学寮から八省院の南側正門の応天門へと炎が移り、次いでその東西にある栖鳳楼と翔鸞楼へと延焼し、その北側にある会昌門から大極殿に延焼した(検非違使の日誌﹁清獬眼涉‥せいかいがんしょう﹂)という。
この火災による焼亡で大極殿は二度と再建されなかった。
実は被災当時、宮中の重要な諸儀式はすでに大極殿から、天皇の私的住居である内裏内の紫宸殿で行われるようになっていた。その上、その内裏ですら976年6月(天延4年5月)の火災以来、火災のたびに皇后の実家(里)や臣下である、時の権力者藤原氏の邸宅で営なまれる“里内裏”の時代となっており、11世紀半ばになると里内裏が常設化し、紫宸殿もその中に建てられていた。
またこのころは平清盛が六波羅で実権を握り、公家たちがわざわざ大内裏に出勤して政務を執る必要も少なくなり、平安時代のシンボル大極殿はそのような状況の中で無用の長物となっていたのである。
いまひとつの改元の理由の天変だが、この大火災は、京の北効愛宕山の大天狗“太郎坊”の仕業で、大極殿を焼亡させたのは、かって退位させられ流刑地で憤死した崇特(すとく)院のたたりと、京わらべがささやいたように、武士に政治の実権を奪われた朝廷としては、このような事態こそ“天の怒り=天変”と感じたのであろうか。
(出典‥池田正一郎編著﹁日本変災通志>平安朝時代後期>治承元年 174頁。参照‥9月の周年災害・追補版(1)﹁天喜から康平へ改元、大極殿火災、摂関政治の終焉﹂、2017年6月の周年災害﹁京都安元3年の大火・太郎焼亡﹂、2016年6月の周年災害﹁内裏焼く、里内裏の初め﹂)
○弘治3年畿内暴風雨、摂津国沿岸に高潮襲う(460年前)[改訂]
1557年9月28日(弘治3年8月26日)
細川氏の事蹟を中心に戦国時代後期の状況を描いたものに﹁細川両家記﹂がある。
その八月廿六日の項に“始め東風吹きて、後、南風吹き、高潮上がり、尼崎、別所、難波(以上現・尼崎市)、鳴尾、今津、西宮(以上現・西宮市)、兵庫(現・神戸市)、明石の間、浦々へあがる。とりわけ尼崎にて六十一人流死するという也”とある。また、摂津国の地方史誌﹁摂津誌﹂にも“大風、怒潮、陵(おか)にあがる。流溺者甚だ多し”とあり、これらは、前項の﹁摂津大風﹂と同じように、近畿地方が台風による暴風雨に見舞われ、強い南風によって大坂湾北岸に高潮が起こり、尼崎の沿岸から明石の沿岸にかけての浦々が襲われたことを記録しているが、犠牲者の数については尼崎での被害だけで、全体的には“幾千万人と云う数を知らず(続応仁後記)”とあり詳細はわからないが、山陽道沿いで城下町や集落の多い土地であり、相当の被害があったと思われる。
また、別の記録には摂津国以外にも“国々数多く洪水す(続応仁後記)”とあり、伊勢の宮川の堤防が切れ、沿岸の久留(辻久留?)、二俣及びやや離れた浦口(共に現・伊勢市)辺りの民家や並木が流されたこと(河崎氏神宮年代記、寛保洪水記)、京都の東寺の塔が大風雨で傾いたこと(続史愚抄)などの記録が残されており、断片的だが、現在の近畿地方が台風のもたらす暴風雨によって大災害があったことを伝えている。
(出典‥荒川秀俊ほか編﹁日本高潮史料13頁〜14頁‥弘治三年八月二十六日﹂[追加]、池田正一郎著﹁日本災変通志>中世 戦国時代>弘治三年 315頁﹂、小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代 中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧68頁‥近畿諸国大風雨﹂)
○享保2年8月台風、京都、美濃、東海道筋、江戸、奥羽諸国に被害(300年前)[追補]
1717年9月19日〜22日(享保2年8月15日〜18日)
大型台風が紀伊半島に上陸し本州大平洋沿岸部を縦断したのか、江戸など関東地方を中心に京都から美濃、東海道筋、奥州東部に至る範囲の被害が伝えられている。
まず、江戸時代の随筆家本島月堂が著した﹁月堂見聞集﹂に、京都で“八月十五日朝より雨降り候て、夜に入り七つ時(午前4時ごろ)より風雨甚だ敷く成り、ふしぶき(風雨の吹きつけ)強く、屋根、壁損じ申し候。翌十六日昼九つ(午前12時ごろ)に止む。加茂川、桂川、淀、橋本、木津川辺り水だいぶ出申し候”とある。
ついで月堂は翌16日、美濃(岐阜)尾張(愛知県)路を経て東海道から江戸を目指す“江戸道中、美濃、尾張路より雨降り夜中止まず、辰刻(午前8時ごろ)より午刻(午前12時ごろ)まで辰巳(南東)大風にて、町々屋根吹き破り、所々小屋掛け吹き潰し、午未の刻(12時〜午後2時ごろ)未申(南西)に風替わり、これまた大風にて所々破損仕候。岡崎辺りの松の並木、百年以来これ在れども、大方吹き倒れ申し候。これより江戸道中洪水甚だ敷く”と台風の状況を活写している。
そのほか、近江(滋賀県)では16日の大風雨で林木折れ、大水、仮橋流れ落ちる(愛智郡志)と被害が記録され、東海道筋では、15日に木曽川が氾らんし(柳営日次記)、伊勢(三重県)では海岸の堤防が決壊、津には高潮が押し寄せた(三重県災害史)。また、大井川沿岸の中島村、飯淵村(現・焼津市)では堤防の大半が決壊、家屋が流失し多くの住民が死亡している(静岡県史)。
江戸では幕府の政務日記﹁柳営日次記﹂が“十六日、関東大風雨、所々田畑損耗、江戸の屋敷、民屋大破、潰家死人多し”とその惨状を簡潔に記録しており、特に江戸城内の主要な殿舎や城門、橋、御用屋敷、増上寺など堂宇を含め合計37か所が損壊し、作事方と小普請方がそれぞれ再建と修理を担当したことが記録されている。ただ具体的に被害が記録されているのはこれだけで、﹁日本震災凶饉攷﹂も“十六日、関東の諸国大風雨、田畑損し、江戸にては士、民の家多く破損せり”としか記していない。
その点、八戸藩(青森県)は幕府に報告する﹁田畑損耗届書﹂で、詳細に“石高二万石の内、五千八百三十五石余(約30%)損耗”とその内訳を示し“流家十三軒、山崩れ百五十個所、堤切十個所、落橋十二個所”と損害をまとめ“右奥州私領分、当八月十六日大風雨、同十七、十八日迄打ち続く風雨洪水にて、在所居宅並びに家中(藩の家臣)、町、在々(村)だいぶ破損、水押(洪水)等これ有り候”とまとめている。
近畿から東海、関東、東北地方を席捲した台風であるのに被害記録が少なく、全体の被害は不明である。
(出典‥国立国会図書館デジタルコレクション﹁近世風俗見聞集 第一>月堂見聞集 巻之九 453頁〜454頁(229コマ〜230コマ)‥八月十五日﹂、荒川秀俊ほか編﹁日本高潮史料64頁〜66頁‥享保二年八月十六日﹂、静岡県編﹁静岡県史 別編2自然災害誌>第2章 静岡県の自然災害史>第5節 大井川の洪水 399頁‥享保2年の洪水﹂、東京大学史料編纂所・東京都編﹁東京市史稿>No.2>変災編 第2 136頁〜138頁‥享保二年大風災﹂)
○宝暦7年7月台風、紀州、四国、中国が暴風雨、高潮で被害に(260年前)[改訂]
1757年9月8日〜9日(宝暦7年7月25日〜26日)
この年の7月台風は、紀伊半島に上陸し四国を経て中国地方に被害を与えて去った。特に芸州藩(広島県)の被害が大きい。
台風はまず25日、紀州(和歌山県)木の本浦(現・和歌山市)に高潮による被害を与えた“風雨強水、木の本浦大浪、民家四十数軒流れる。大狗子通石畳、浪にて崩れる(熊野史)”。
ついで翌26日には、土佐藩領(高知県)を襲い“大風雨、浦々浪、人、宇佐浦(現・土佐市)破損、瀬工下田屋塩田堤切れて潮入る。真如寺本堂など神社仏閣大破(南路志)”と被害を与え、郄松藩領(高知県)では“大風洪水、海水大溢(高潮)、沿海堤防崩頽(崩壊)数十か所、壊民家数千戸、人畜多く死亡(郄松藩記)”という被害となり、伊予今治藩領(愛媛県)では“潰家千八百八十六、稲耗(稲田の損害)一万八千余石(表高の51%)(今治拾遺)”と、猛威を振るっている。
同じ日、芸州藩浅野家8代﹁鶴皐公済美録﹂によれば“封内昼夜暴風雨・高潮あり、広島城内諸所破損し、田畑の損耗五万二千七百七十石余(表高の13%)、流失損壊家屋二万七千百十八軒(侍屋敷、民家とも)、寺社の破損千八十八、土蔵崩潰百二十四、破船百十八艘、人死するもの九十人”と記録され、被害が最も多かった。なお同じ中国地方の松江藩(島根県)では“家屋百戸、同寺祠二百五十か所が倒壊、死亡一名、害稲多数(天輶公年譜)”と記録されている。
(出典‥荒川秀俊ほか編﹁日本高潮史料98頁〜99頁‥宝暦七年七月二十五日﹂、和歌山県立図書館資料、島根県立図書館資料)
○文化4年江戸永代橋崩落事故、祭礼の大群衆で(210年前)[改訂]
1807年9月20日(文化4年8月19日)
深川の富岡八幡宮では、1642年(寛永19年)以来、江戸三大祭りの一つと呼ばれ、毎年8月15日の祭礼と神輿(みこし)の渡御を絶やすことはなかったという。
ところが1777年(安永6年)以降になると、85年(天明5年)と95年(寛政7年)に祭礼は行われたが神輿の渡御は行われず、祭礼の規模もわずかばかりだったという。そこで八幡宮ではこの年、11年前から進めていた社殿などの修築が竣工したのを機会に、8月15日の祭礼と神輿の渡御を盛大に催すこととした。
一方、江戸市民は、祭礼が12年ぶりで、神輿の渡御となれば30年ぶりだったのと、修築された社殿などを拝観したいという気持ちもあり、深川、本所、京橋、日本橋の氏子たちは、山車(だし)や挽き屋台の準備を競い、町内ごとに祭衣装も気張ってその日を待った。
また日蓮宗身延山派もこの機会に参拝客を集めようと、同派の深川浄心寺に出開帳(本尊など信仰の対象になるものを本山から出張させ公開)を催すことにしたので、江戸中の人気は深川に集中し、祭り番付(プログラム)が飛ぶように売れたという。
しかし15日はあいにく大雨となり、19日のこの日に延期されたので、逆に人気はいやが上にも増した。当日、祭り太鼓が朝早くから鳴り響き、待ちきれない数十万と言われる参拝客が、隅田川を渡ろうと永代橋に向かっていた。ところが将軍家族も参詣されるとして、御座船が通過することとなり、係の役人が一時橋を通行止めとした。
御座舟が橋の下を過ぎたころ、役人は綱を外し解禁する。大群衆は先を争って永代橋の西のたもとに殺到した。役人が制すれば制するほどいらだった大群衆は、老いも若きも侍も町人もみな半ばきちがいのようになって、橋を西から東へ渡ろうとした。その時、はるか向岸の深川の方角で、人波の上を一番山車が練って行くのが見えたから、大群衆の興奮は頂点に達し、人をつきのけてまでも橋を渡ろうと焦り急いだという。
大群衆の重さに耐えきれず橋が落ちたのは、その直後の巳刻(午前10時頃)だった。中央部やや東側の橋板が32mほど崩壊、橋の上の群集は豆粒のように大雨で増水した水中に落ちた。それを見た人々は急に引き返そうとしたが、それを知らない後方の群衆が次々と押してきたので、さらにまた数百人が落ちた。橋下を漕ぎ抜けようとした数隻の屋形船の上にも落ち、舟は巻き添えを食って転覆、多くの人が水中を浮きつ沈みつ流されて行った。
ようやく群衆が引いたのは、当日御座船通過警護のため居合わせた、南町奉行所同心渡辺小右衛門が即座の機転で抜刀して振り回し、群衆に喧嘩と思わせたからで橋の上に残った数千人が助かったという。
役人の検使を受けた犠牲者は、死亡(遺体が引き揚げられた人)736人。内訳、侍86人、町人成人男498人、町人成人女76人、子ども76人。重傷者201人。川に流された行方不明者を入れれば1500人余が犠牲になったという。
また当時、この両国橋自体も架橋から110年ほど経っていた上、本普請ではない貧弱な仮普請で、大雨で橋脚が弱っていたのも惨事を招いた原因とも言われている。
(出典‥矢田挿雲著﹁江戸から東京へ>江東区42頁〜48頁‥永代橋墜落の椿事﹂、東京大学史料編纂所・東京都編﹁東京市史稿>No.3>市街編 第33 673頁〜675頁‥﹇附記1﹈永代橋墜落﹂、同編﹁東京市史稿>No.2>変災編 第3 649頁〜670頁‥永代橋壊落﹂、日本全史編集委員会編﹁日本全史>江戸時代 797頁‥深川八幡の祭礼で永代橋が崩壊、死者・不明1500人余﹂)
○明治期初めてのコレラ3系統で大流行、帰還軍隊の移動で各地方へ伝播、
太政大臣命で兵員の移動中止に(140年前)[改訂]
1877年(明治10年)9月5日
わが国で、コレラについて初めて科学的な情報が得られたのは、1822年2月(文政5年1月)に長崎出島のオランダ商館長ブロムホフが商館専属の医師ニコライ・トウルリングほかを伴い幕府へ表敬訪問を行った際であった。
商館長らは、江戸滞在中に幕府お抱え医師たちと面談、また蘭学者大槻玄沢が弟子の幕府奥医師(将軍の主治医)桂川甫賢や佐々木中沢を伴いブロムホフやトウルリングと面談した。この時、オランダ領東インド(現・インドネシア)特にジャワ島でのコレラ流行についての情報を得ており、オランダ人医師ボウイールが1820年にジャワ島バタビアでの大流行の際の治療体験から、病気の症状と治療法を書いた小冊子を、ブロムホフから渡されている。
ところがその僅か半年後の10月上旬(旧8月中旬)、中国(当時・清)から朝鮮半島を経て対馬、そして長門(現・山口県西部)へというルートで、コレラの侵入を、江戸の医師たちは確認することになる。これは日本における最初の大流行で、この時の死亡者は1か月半ばかりで10数万人と推定されている。
次にコレラ菌が侵入したのは、36年後の1858年8月(安政5年7月)で、この時は清国に寄港し、コレラに発症した水兵を乗せて長崎に寄港したアメリカ軍艦からと記録されている。文政5年の時は、コレラ菌は箱根越えをしていないが、この安政の大流行の時は、大阪・京都と拡がり江戸へも侵入している。大都会で流行したせいか死亡者は数十万人と言われているが詳細はわからない。
その後、1868年の明治維新を経てしばらくコレラの話題はなかったが、19年ぶりのこの年、第三次の流行が始まった。この時の流行の系統は明治の日本らしく、三つに分かれていたという。
その一つは新たな対外窓口の横浜で、9月5日、米国製茶会社の日本人雇い人2人の発病から始まり、横浜市内から13日には千葉県へと飛び、14日には東京市内に侵入、9月下旬には、横浜への生糸の輸送路を介して山梨県、長野県にも広がり、その後、関東一円から福島、新潟、静岡から愛知、三重へと1府11県に拡がっている。感染源は同社が中国大陸南部アモイから輸入した物品内にあったと推定された。
ついで江戸時代からの感染症侵入地長崎で、同港に入港した外国軍艦から流行が始まるという従来のパターンであった。この時の侵入は9月8日に死亡者が出た停泊中のイギリス軍艦からで、上陸して患者の死体を埋葬した大浦山地付近から流行が始まったといわれている。その後、17日には鹿児島県に達し、9月下旬には熊本県から四国の高知、近畿の兵庫、大阪、和歌山の諸県に侵入、岡山、島根、石川各県から遠く北海道もこの系統と考えられている。
最期の三つ目が、同年に起きた西南戦争の落とし子で、9月末、勝利を得て鹿児島港から帰還する政府軍軍隊を乗せた複数の輸送船が、10月1日、一斉に神戸港に入港したとき、爆発的に発生した。
この時すでに入港した各船内でコレラ患者が発生しており、船中で6人が死亡していた。しかし、内務省の検疫員が上陸を阻止しようとしても、瀕死の患者約50人を含めた兵士たちが銃剣で威嚇しながら勝手に上陸する有様で、このうち上陸後16人が死亡、新しい患者を約40人も出し、コレラ菌を神戸市内から関西地方一円に広げた。
実はこれより先の9月28日、内務省では陸、海軍両省に対し、将兵の患者が神戸港に着いた際の処置について照会していたが、その回答が届く前に、上陸が始まり、京都から滋賀、岐阜、愛媛、広島、山口の各府県に流行を広めるなど、帰還する将兵たちを介して流行が起こっている。
そこでやむを得ず関係各省を越えて、10月3日太政大臣(現・総理大臣)名で指令を出し、軍隊の移動を一時中止するなど、厳格な防疫体制を実施したので流行の勢いはややおとろえた。また10月18日までに、14か所の避病院(感染症患者の隔離病院)が作られたこともあり、翌11月には病勢は完全におとろえた。
特にこの大流行の前に、清国での流行状況をキャッチした内務省が8月27日、消毒法も別冊で規定した﹁虎列刺(コレラ)病予防法心得﹂を公布しており、太政大臣命一下、迅速に防疫体制がとれたのは、この心得が公布されていたからといえる。
この年の患者数は1万3816人で8027人が死亡した。死亡率58%である。これでもほかの大流行の年が70%前後の死亡率を出したのにくらべ、明治期最初の大流行であるにもかかわらず、それらの年より死亡率を低く抑えることができている。
(出典‥山本俊一著﹁日本コレラ史>第三章 西南戦役後>第一節 明治10年28頁〜31頁。参照‥2012年10月の周年災害﹁コレラ初めて日本へ侵入、西日本に広まる﹂、2008年8月の周年災害﹁安政コレラ大流行﹂、2017年8月の周年災害﹁内務省、虎列刺(コレラ)予防法心得公布﹂)
○大正6年9月秋雨前線+台風、東京湾観測史上最高位高潮と大阪淀川大洪水(100年前)[改訂]
1917年(大正6年)9月29日〜10月1日
9月25日、フィリッピン諸島の東方海上に発生した熱帯低気圧は北西に進み、その後台風となって北東に転じ、29日南大東島付近を通過した。
翌30日夜半、東海道沖に接近、10月1日2時過ぎには駿河湾に入って沼津付近に上陸した。上陸後、台風は90km/時という早い速度で北東に進み、3時半ごろには東京の西方を通過、宇都宮、福島、仙台を経て、三陸沖を北上した。
この台風により近畿地方以東は激しい暴風雨となり、東京では1日午前3時に最大風速39.6m/秒を観測、銚子で50.8m/秒を観測した。それにより1日夜半、東京湾では十五夜の大潮と重なったこともあり、観測史上最大の前後2回にわたる高潮を記録し、その高さは、築地の霊岸島付近で東京湾平均海面+3.1mに達した。築地沿岸には大小の船舶が打ち上げられ、月島から深川洲粼及び荒川と江戸川に挟まれた葛西地区では、ほとんどの家が床上浸水となり、中には軒下まで浸水した家も少なくなかった。
この高潮と暴雨風により東京市内だけで215平方kmが浸水、東京市を含む府下(現・都下)の被害は504人死亡、58人行方不明、961人負傷、家屋全潰4019戸、同流失1087戸、同床上浸水13万1334戸(内務省調べ)、道路決壊延べ1.66km、堤防決壊延べ7.7km、橋梁流失89か所の被害となった。
一方、関西では台風接近に先立ち9月末から秋雨前線による雨が降り続いていたが、台風の雨が29日3時半ごろから加わり、午後5時ごろから豪雨となった。そのため淀川各水系では急激に増水、1885年(明治18年)の﹁枚方切れ﹂以来の大洪水となり、1日8時40分、淀川右岸高槻の大塚堤防が決壊、直後、次つぎと支流の堤防も決壊して大阪府下が大洪水となった。中でも神崎川筋では、同日午後11時10分ごろ新庄村(現・吹田市)の堤防が決壊し、次いで味生村(現・摂津市)の堤防も破れ、吹田市を吞んだ濁流と合流して淀川右岸最下流部の大阪市西部の重工業地帯を襲った。大阪府下では死傷者は5人と少なかったが、家屋全潰250戸、同流失107戸、同床上浸水1万2314戸の被害を受けている。
東京、大阪の外、東京湾沿岸の川崎、横浜などが高潮の被害を受け、神奈川県全体で60人死亡・行方不明、80人負傷、家屋全潰1509戸、同流失143戸、同床上浸水9443戸。千葉県では江戸川河口の浦安、行徳、船橋各町が高潮に襲われ、河川の氾らんもあり、県内で336人の犠牲者と306人の負傷者を出した。そのほかの被害は家屋全潰8843戸、同流失846戸、同床上浸水1万806戸。茨城県も高潮の襲来と河川の氾らん、暴風雨により131人の犠牲者と371人の負傷者を出し、家屋全潰1万7796戸、同流失8戸、同床上浸水405戸の被害となった。福島県は暴風雨による被害が大きく家屋1587戸が全潰している。
鉄道路線の被害は、東海道線では神奈川県で酒匂川の鉄橋が落ち、当時同線だった山北−御殿場間のトンネルが崩壊するなど、しばらくの間、不通となった。とあれ日本の東西を結ぶ鉄道と東京、大阪両都を中心とした大被害があり、大正時代最大の大水害であった。
被災地全体の被害、1324人死亡・行方不明、2022人負傷、家屋全潰3万6459戸、同流失2422戸、同床上浸水19万戸弱、床下浸水と合わせて30万2917戸(内務省調べ)、船舶被害8182隻(中央気象台﹁気象災害年表﹂)。
(出典‥中央気象台編﹁気象要覧 大正5年・6年>気象要覧 大正6年9月>全国気象概況>暴風雨 257頁〜265頁‥三 九月二十五日より十月二日に至る台風﹂[追加]、近代消防連載・宮澤清治著﹁災害史シリーズ118・気象災害史106>東京湾を襲った高潮(1)−1917年(大正六年)十月の高潮−﹂、小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 451頁〜454頁‥大正6年の台風災害﹂、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編﹁台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜48頁〜49頁‥CASE07 東京湾を襲った高潮(東京湾台風)﹂[追加]、東京の消防百年記念行事推進委員会編﹁東京の消防百年の歩み>大正期>大正期の水害 195頁〜196頁‥大正六年十月の水害﹂[追加]、建設省近畿地方建設局編﹁淀川百年史>第2編 治水時代>第3章 大正・昭和初期の治水工事 522頁〜526頁‥3.1 大正6年の洪水﹂、国土交通省淀川河川事務所編﹁大正大洪水 大正6年(1917年)﹂。参照‥2015年6月の周年災害︿上巻﹀﹁明治18年淀川大洪水・枚方切れ﹂)
○昭和2年9月台風、有明海沿岸に高潮襲う(90年前)[改訂]
1927年(昭和2年)9月11日〜14日
9月13日、熊本付近に上陸し九州を横断、四国から本州南岸沿いに進んだ台風は、14日朝、京浜、房総半島を経過し三陸沖へ抜けた。
この影響で九州、四国地方から関東にかけて太平洋沿岸各地が暴風雨に見舞われた。なかでも、13日10時ごろ、熊本県小島町、中島村及び沖新村(以上現・熊本市)では、台風の接近と満潮時が重なったため高潮が押し寄せ、各所で堤防が破壊され大災害となった。宇土半島付け根の北部、有明海(島原湾)最奥部のこの地方では、海水が堤防から4.5km内陸の熊本市まで浸水、潮位は最高6mに達した。
15日現在の熊本県の調査によれば、被害は236人死亡、128人行方不明、家屋風倒182軒、同流失1112軒、同浸水1705軒。高潮の被害水田3703町歩(36.7平方km)、浸水による収穫皆無田畑3710町歩(36.8平方km)となった。この惨状を新聞各紙は特派員を出して取材、大阪毎日新聞は号外を出して現地の状況を赤裸々に報じている。
一方、東京湾沿岸の横浜、川崎、東京で家屋の倒壊や浸水の被害が目立った。被災地全体の被害は、373人死亡、66人行方不明、181人負傷。家屋倒潰・流失2211棟、同浸水3493棟(理科年表)。
(出典‥小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>4.昭和時代前期の災害>昭和時代前期の主要災害一覧 161頁:九州西部、東京地方風水害﹂、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編﹁台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 173頁‥0280海嘨(高潮)熊本県﹂、毎日コミュニケーションズ編﹁昭和ニュース事典 第1巻 昭和1年〜3年 165頁〜167頁‥災害・有明海の高潮﹂[追加]、熊本県編﹁熊本県防災情報>災害記録>昭和2年の高潮災害﹂)
○昭和12年9月台風、兵庫県に被害集中(80年前)[追補]
1937年(昭和12年)9月9日〜13日
9月2日、フィリッピン諸島東方海上に発生した台風は、徐々に北西に進み、5日朝にはルソン島東方海上で進路を東に変えた。
8日朝、南大東島の南方海上で発達しながら北北東に進み、翌9日朝には沖縄諸島の南南東海上にあり、沖縄本島や南大東島は暴風雨圏域に入った。その後、11日朝5時ごろ、四国地方西部に上陸、瀬戸内海を越え中国、近畿地方西部を抜けて、若狭湾から日本海に出て北上し、佐渡付近を経て北海道へと進んだ。
この影響で、特に兵庫県は、大港湾都市神戸市を抱えていた上に台風の直撃を受けて被害が大きく、死傷者の39%、家屋全潰の56%、同床上浸水の62%、船舶損傷の41%を出すなど壊滅的な被害となった。そのほか同台風は四国の高知、愛媛両県、岡山県、大阪府に大きな損傷を与えるなど、九州東部から四国、中国、近畿、北陸、東北、北海道にかけてほぼ全国に強風を吹き荒らして高潮を呼び、大雨によって河川の氾らんを引き起こした。
被災地全体の被害、73人死亡、11人行方不明、375人負傷。家屋全潰5228戸、同流失65戸、同床上浸水5912戸、橋梁損壊544件、道路決壊2598件、河川・港湾損壊605件、船舶損傷1363件(鹿児島県を除く)。
(出典‥気象庁編﹁気象要覧 昭和12年7月〜12月>気象要覧9月>全国気象概況>暴風雨>1.低気圧 903頁〜907の14頁﹂)
○大牟田爆発赤痢事件、疑惑の化学工場爆発事故、塚本メモ市政へのぬれ衣晴らす(80年前)[再録]
1937年(昭和12年)9月25日
7月の廬溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに、中国との戦争が全面的に始まり、重要な石炭の積み出し港・三池港を持ち、石炭化学工業の町として軍需(軍事需要)景気に期待を込めて大牟田は活気に満ちていた。
その大牟田で9月25日、全市民を揺るがす大事件が起きた。後に﹁爆発赤痢﹂と呼ばれ、赤痢の集団発症とされた事件である。
……された。というのは当時の政府調査団の結論がそうだったということだが、事件の起きた当日、同市にある三井鉱山三池染料工業所で奇怪な爆発事故が2度あり、それをめぐってこの事件との関連性が戦後(1945年‥昭和20年8月〜)論議され、1971年(昭和46年)楢崎弥之助議員が取り上げて以来、73年(同48年)と74年(同49年)と、この事件について国会でも質疑が交わされているからである。ともあれ事件の流れを見てみよう。
9月25日、午後6時、三井鉱山三池染料工業所(現・三井化学)において最初の爆発事故起こる。同じころ、多数の市民が頭痛やのどの痛み、おう吐、けいれんを起こして次々と倒れる。夜中の午前0時20分、同工業所で2度目の爆発がおこり、火災が発生したので同市消防組(現・消防団)が駆けつけたが、会社側から入所を拒否される。
翌26日午後、患者は500人を越え、4人死亡。午後1時には患者1000人を越える。27日午前9時、患者1500人、12人死亡。市内の小学校は直ちに臨時休校。まず原因として水道水の汚染が考えられ、配水池に殺菌剤のクロールカルキ投入。
28日、緊急市議会招集、近接市町村の医師会に要請し医師の応援を求める。熊本医科大学(現・熊本大学)、九州帝大医学部、九州医学専門学校(現・久留米大学)に医師の派遣を要請。
30日、内務省(現・厚生労働省)より特別派遣された小島防疫官(東京帝大教授)が、発生原因を市の水道と推定。赤痢菌の地下水への侵入を究明すべく防疫本部を設け、陸軍第12師団(久留米)及び海軍佐世保鎮守府の両軍医と調査研究を行う。
10月5日、小島防疫官は市の水道を原因とした赤痢の集団発生事件であると発表。水源の一つ、第三源井の管理人の子どもが、1週間ほど前の9月19日に下痢をしたことを理由とし汚染源と断定する。
10月下旬、流行は下火となり、月末には終わる。大牟田市民11万人のうち患者数1万1851人、712人死亡。世界ではじめての集団赤痢発症事件とされた。当時の塚本水道課長は責任を感じ、市長、助役と同時に引責辞任したが、一貫して水道は原因ではないと主張、書類(塚本メモ)を同課金庫に残す。このメモでは理由として主に次の点を上げている。
① 市水道課において水質検査、細菌培養試験をおこなったが赤痢菌は発見できなかった。② 水源井は真空状態で水を吸い上げるので、汚水が流入することは機構的に考えられない。③ 原因とされた水源の第三源井は改修され、事件当時の給水は、問題とされた貯水井戸を経由しない取水路に変更されている。④ 第三源井を常用している水道課員とその家族、さらに周辺住民数百人から一人の患者も出ていない。⑤9月21日〜25日の間に三池港に寄港し、市の水道から給水を受けた乗組員全員から異常なしの返事があった。⑥ 三池染料工業所周辺の住宅街に患者が集中している。など。
塚本メモは事件25年後の62年(同37年)に発見され、子息の唯義が中心になって﹁大牟田(いわゆる)爆発赤痢研究会﹂を結成、真相を解明すべく行動をはじめた。それ以来、次のようなさまざまな事実が明らかになっている。
① 爆発事故があった三井鉱山三池染料工業所では、当時毒ガスの原料の有機ヒ素の製造が始まっていた。② 赤痢菌ではのどの痛みは起きない。 ③ 汚染源とされた第三源井管理人の子どもの下痢は消化不良によるもので2日で治癒している。④ 患者の便から赤痢菌が検出されているが、その菌の種類が何種類も出ており、政府調査団として菌を特定した統一見解が出せなかった。一人の患者による汚染された水源からの感染であれば菌は一種類である。⑤ 同工業所で秘密裡に赤痢爆弾を製造または実験していたのではないか。など。
また、当時陸軍省の特命を受けて現地調査をした陸軍医務局大塚大佐は、原因は単なる赤痢菌による水道汚染ではないとし、熊本大学太田原教授もこれだけの患者を出すには0.18リットル以上の菌が必要で、流動する水道水中で菌は絶対に繁殖し得ない。と、揃って水道原因説を否定している。
この事件は中国との全面戦争が始まった年の事件である。戦後、陸軍が毒ガスの製造や細菌爆弾の実験を行っていたことは明らかになっている。当時でもこれらの実験や製造は国際法違反で、小島防疫官をはじめ政府調査団は、そのことを明らかにすることはできず、多数の人が共通して口にするものとして、水道水に原因をもっていったことは想像できる。一方、憲兵(陸軍の警察機構)や特高(警察の思想犯等の取締機構)の厳しい監視下、真実を明らかにして水道の潔白を示そうとした塚本課長の行動は、現在、大牟田市政の一大汚点とされたものをぬぐい去る行動として高く評価されている。
(出典‥大牟田市編﹁大牟田市史 補巻>第一章 災害について33頁〜36頁‥昭和12年9月〜10月 爆発赤痢﹂、大牟田(いわゆる)爆発赤痢研究会編﹁事件概要﹂、15年戦争と日本の医学医療研究会誌 第5巻・第2号9頁〜12頁‥新藤東洋男著﹁日中戦争と大牟田の﹁いわゆる爆発赤痢﹂﹂[追加]、塚本久光水道課長メモ(塚本メモ)﹁水道水ヲ以テ罹患原因ト認メ得ザル理由﹂)
○昭和22年秋雨前線+台風第9号﹁1947カスリーン台風﹂関東、東北地方に大被害(70年前)[再録]
1947年(昭和22年)9月14日〜19日
9月8日、マリアナ諸島東方洋上に発生した台風は、北上して13日、硫黄島西方550kmに達した。
その後、さらに北上、15日早朝、紀伊半島沖で針路を北東に転じて、18時ごろ伊豆半島南方を通過、21時ごろには房総半島南端をかすめ三陸沖へ去った。台風自体は日本に接近したとき衰弱しており、強風による被害は少なかったが、日本付近に停滞しながら12日ごろから雨を降らせていた秋雨前線を刺激し活発化させた。
特に関東地方では期間中雨量が秩父で611mm、上野原で524mmなど北西部の山岳地帯では600mm前後に達する豪雨となり、赤城山付近、足尾山地など関東北部山間部では山津波が続発し、渡良瀬川の土石流によって足利市は濁流に埋まった。また関東平野では利根川が氾らんして茨城県中川村(現・坂東市)と埼玉県栗橋町(現・久喜市)の2か所で堤防を決壊させた。濁流は猛烈な勢いで南下、それに荒川の堤防も決壊、関東平野一面が泥海と化した。次いで19日には熊谷市の桜堤が決壊、続いて中川右岸堤防も決壊して東京に流れ込み、東部の葛飾区、江戸川区の大部分と足立区の東半分が水に浸かるなど、1910年(明治43年)8月の﹁関東大洪水‥庚戌(かのえいぬ)大洪水﹂以来の大水害となった。
さらに東北地方では、秋雨前線により6日ごろから断続的に降り続いていた雨が、台風に刺激されて14日から15日にかけて岩手県、宮城県を中心に大雨となり、北上川などの河川が氾らんを起こし岩手県内各地で堤防を決壊、一関町(現・市)を中心とした沿岸各地に大水害を引き起こした。
同台風は典型的な雨台風だったが、山津波などの被害を続発させた原因は、太平洋戦争(1941年12月〜45年8月)における、軍需優先政策による治山治水対策の放棄と山林乱伐による。
被災地の被害合計1077人死亡、853人行方不明、1751人負傷。住家倒壊5301棟、同流失3997棟、同浸水(床上+床下)38万4743棟。道路損壊3536か所、堤防決壊4222か所、田畑流失129平方km、同冠水2795平方km(中央気象台﹁気象災害年表﹂)。
なお台風の名前は、当時の占領アメリカ軍気象隊の用法に従い、あらかじめ用意された女性の名前が順番につけられた。また“カスリーン”を当初“キャサリン”と呼んだのは当時のハリウッド人気女優の日本での呼び名“キャサリン・ヘップバーン”による。
(出典‥中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告﹁1947 カスリーン台風﹂、内閣府>災害関連情報‥防災情報のページ>災害史・事例集>歴史災害の教訓報告書・体験集>﹁災害史に学ぶ・風水害・火災編1頁〜11頁‥1.1947 カスリーン台風﹂[追加]、内閣府防災担当統括官室編﹁ぼうさい1月号・過去の災害に学ぶ第31回・1947年9月カスリーン台風その1﹂、﹁同第32回・1947年9月カスリーン台風その2﹂、気象庁編﹁災害をもたらした気象事例>カスリーン台風﹂、小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 470頁〜474頁‥カスリン台風﹂。
参照‥2010年8月の周年災害﹁明治43年関東大水害﹁庚戌の大洪水﹂)
○昭和32年台風第10号、鹿児島県南西部、奄美諸島中心に被害(60年前)[再録]
1957年(昭和57年)9月6日〜7日
9月6日夕方、鹿児島県佐多岬に上陸した台風は、さらに四国及び近畿地方を通過し7日夕方日本海に抜け、青森県に再度上陸して横断、太平洋へと通過した。
その影響で、鹿児島県南西部と奄美諸島を中心に熊本、大分、宮崎県など各地が暴風雨となり被害を生んだ。被災地全体の被害、13人死亡、14人行方不明、41人負傷。家屋全壊・流失1745戸、同半壊4781戸、同浸水(床上+床下)3899戸。田畑流失・埋没1.6ヘクタール(1/100平方km)、同冠水1平方km。
(出典‥日外アソシエーツ編集部編﹁日本災害史事典>昭和32年 200頁‥台風10号﹂)
○昭和32年台風第14号﹁フェイ台風﹂沖縄群島に集中被害(60年前)[再録]
1957年(昭和32年)9月25日〜26日
9月16日、グアム島の南東海上に発生した台風は、西北西に発達しながら進み、一時衰弱したが、24日の晩から再び勢力を取り戻し、向きを北西から北へ次いでさらに北東に転じて進んだ。
このため石垣島では25日昼頃から暴風雨となり期間中144mmの大雨となった。宮古島では夕方から最大風速(期間中10分間の平均風速の最大値)47.5m/秒 、最大瞬間風速60.3m/秒の暴風雨となり、沖縄本島では26日早朝から那覇で最大風速47m/秒、最大瞬間風速61.4m/秒の暴風雨となり高潮も発生した。
主な被災地は沖縄群島に集中、52人死亡、79人行方不明、62人負傷。住家全壊7150戸、同半壊8941戸。船舶沈没17隻、同座礁32隻、同流失55隻、同破損126隻。
(出典‥沖縄県消防部編﹁沖縄県災害誌 104頁‥昭和32年9月26日暴風雨(台風14号フェイ)﹂)
○鉛中毒予防規則公布、公害問題への世論の高まりの中で制定[追補]
1967年(昭和42年)9月30日
古代から親しまれさまざまな用途に使われてきた“鉛‥なまり”。その製錬や加工の過程などで蓄積されて起こる中毒から、作業者を守る法律﹁鉛中毒予防規則﹂が成立、公布された。
同規則の主な対象は、① 鉛の製錬等の工程における取扱業務。② 銅または亜鉛の製錬等の工程における取扱業務。③ 鉛蓄電池、同電池の部品製造、修理、解体等の工程における業務。④ 電線、ケーブル等を製造する工程における業務。⑤ 鉛合金の製造、同合金の製品の製造、修理、解体する工程における業務。⑥ 鉛化合物を製造する工程における業務。などとなっている。
鉛は製錬しやすく、また柔らかく加工しやすいうえ価格も安いため、古くからなじみのある多くの製品に加工されてきた。たとえば、化粧品のおしろい、油絵具白色の材料、陶器の釉薬(ゆうやく)、釣り道具のおもり、印刷の活字、小銃弾、水道管、X線など放射線の遮へい具などなど。その反面、同時に鉛による中毒つまり“鉛毒”についても古くから広く知られていた。
わが国における鉛毒のもととして著名で、その点からも早くから使用が禁止されたのは、おしろいに使う“鉛白”であり、これは白色顔料として古代から使われてきた。そのおしろいが鉛毒の原因として早くから言われ出したのは、化粧の時、それを広く厚く塗る歌舞伎役者や芸妓、おいらんなどが、鉛毒で体調を早くからこわしていたからだという。
明治時代、歌舞伎役者と温泉に同行した者が、役者が湯に浸かると、たちまち皮膚が青黒くなりびっくりした。という伝説があるが、これは鉛が比較的さびやすく、さびると黒くなるところから来たお話であろう。しかし青黒くならないまでも、1887年(明治20年)4月、天皇がご覧になった舞台で、鉛毒で脚がけいれんしても立派に舞台を務めた四代目中村福助(五代目中村歌右衛門)のエピソードはよく知られている。ちなみに、鉛白を使ったおしろいは、直接身体に塗るものとして、このエピソードにあるようにその害は早くから知られ、明治時代から代替品の開発が進められていたというが、鉛白おしろいの製造が禁止されたのは1934年(昭和9年)である。
しかしそれ以外の鉛や鉛化合物を使用した製品は、戦争と大量生産を必要とした時代に入ったこともあり、性能、コスト面から代替品を生み出すまでに至らず、ようやくガソリンが無鉛化したのは1975年(昭和50年)である。それも1970年5月、東京牛込柳町交差点付近の住民の血液や尿から鉛が異常に多く検出され、自動車の排ガスによる鉛中毒の問題が起きたからであった。
ガソリンのほかに無鉛化が進んでいるのは水道管で、順次交換が行われているが、水道管の鉛による中毒の事例が明らかになっていないこと、コスト面などから交換の動きは早いとはいえない。
今回の予防規則の制定は、明確に特定の鉛及び鉛化合物の製品の生産を中止し、消費者である国民の健康を守ることを目的としたものではなく、まず生産部門で予防対策を行い、生産者の鉛中毒を防ぐとした法の制定ではあるが、企業から無秩序に排出される工場排水や排煙、自動車の排ガスなどに対する国民の問題意識の高まり、いわゆる公害問題の高まりの動きとは無縁ではないようだ。
(出典‥衆議院制定法律﹁鉛中毒予防規則﹂。参照‥2010年5月の周年災害﹁東京牛込柳町で鉛害表面化−ガソリン無鉛化へ﹂)
○昭和52年台風第9号﹁沖永良部台風﹂+秋雨前線、誤報であわや漁船団遭難、
原因は米軍観測機が中国領空侵犯を避け観測中止したため(40年前)[再録]
1977年(昭和52年)9月8日〜10日
9月2日12時にカロリン諸島付近で発生した台風は、当初、西北西に進んでいたが、5日になると北北西に向きを変えて発達した。
その直後、またも北東から北へと向きを変えて9日午後11時には、瞬間最大風速60.4mを記録して、沖永良部島付近を通過した。台風はその後、東シナ海を西寄りに進み、中国大陸に上陸した。
台風の北上に伴い日本列島に沿うように停滞していた秋雨前線が刺激を受け、8日から10日にかけて、北海道を除く九州地方から東北地方の太平洋沿岸に、降雨期間降水量400mmに達する局地的な大雨を降らした。
特に強風が吹き荒れた鹿児島県奄美諸島の沖永良部島では、住家全壊1297戸、同半壊1356戸を数えた。被災地22都県全体の被害は、1人死亡、129人負傷。住家全壊1204棟、同半壊1622棟、同一部破損2415棟、同床上浸水735棟、同床下浸水2148棟となっている。
また、この時の台風の動きは、気象庁が10日9時の時点で、奄美諸島から北東へ針路を変え九州へ向かうと予報したのと異なり、沖永良部島付近を通過し、逆に北西へ進み東シナ海の中程で西へ針路を変え中国大陸に進んだ。この進路予報の外れた原因は、太平洋高気圧が急に発達し、台風の進路をさえぎる形で高気圧が東から西へ張り出したからである。
この変化を読めなかったのは、台風の気象観測を当時アメリカ空軍の飛行機観測に頼っていたからで、台風の目が東シナ海に接近すると、中国への領空侵犯を避けるため観測ストップになること。また同海には気象レーダーが届かないことなどの事情があった。この欠陥は1977年(昭和52年)7月、初の静止気象衛星ひまわりの打ち上げ成功で解消されることになる。
しかし、この時は誤報だけでは済まされず、日本遠洋底引漁業協会などが気象庁予報部へ抗議に訪れる事態となった。というのは、この10日9時の時点で、上海の東南東250kmという東シナ海・舟山列島沖合に、福岡、長崎県などの底引き漁船180隻が操業しており、予報を聞いた漁船群は台風を避けようと南下を始めた。ところがこの動きは逆に台風に向かってしまうことになったのである。幸いなことに被害は、無線機器の損壊やアンテナが折られた程度で沈没は免れ、一大遭難は避けられたという。
(出典‥気象庁編﹁災害をもたらした気象事例>沖永良部台風、前線﹂、宮澤清治著﹁日本気象災害史>第三章 秋>漁船の気象遭難二話 272頁〜275頁‥一九七七年九月の沖永良部台風﹂、小倉一紱編、力武常次+竹田厚監修﹁日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>4.昭和時代後期・平成の災害>昭和時代後期の主要災害一覧 250頁‥大平洋沿岸風水害(沖永良部島台風)﹂[追加]、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編﹁台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 368頁‥1874 台風9号(沖永良部台風)東北地方、関東地方、中国地方、四国地方、九州地方﹂[追加])
○国際緊急援助隊(JDR)法制定−後に自衛隊参加で自己完結型組織の派遣も可能に、
感染症対策チームも新設(30年前)[改訂]
1987年(昭和62年)9月16日
政府による海外の被災者に対する緊急援助活動の初めは、戦火を逃れタイ国内に避難したカンボジア難民に対する、1979年(昭和54年)12月から3年間に及ぶ医療チームの派遣だった。
しかし、欧米主要各国が医療チームを中心とする援助チームをタイ・カンボジア国境周辺に素早く派遣したのに対し、政府、民間を問わず、そのような活動の体験ももちろん体制も整っていなかったわが国では、諸外国よりも著しく対応が遅れた。
そこでカンボジア派遣活動を終えた82年(同57年)3月、対応の遅れに対する反省とカンボジア援助の経験を生かして、国際緊急医療チーム(JMTDR)を設立することになる。
その内容は、まず平常時より国際援助活動に対応可能な医療関係者をボランティアとして登録し、海外で災害など派遣ニーズが起きたとき、日本国として即座に公的に対応できるように整備したところにあった。
体制整備後、85年(同60年)9月メキシコ地震が起き、11月にはコロンビアのネバド・デル・ルイス火山が爆発、両災害には新たに編成された国際緊急医療チームが派遣されたが、医療関係者だけではなく、災害に対応した捜索救助及び復旧関係の専門家を含めた総合的な緊急援助体制が必要との認識が高まった。そこで政府は同年暮れの閣議で、緊急医療チームとは別に消防機関による国際緊急援助体制も整備することを決め、翌86年(同61年)4月、東京、横浜、大阪など全国の常備消防機関の救助隊や特別救助隊の参加による初めての合同訓練を行い、ここに“国際消防救助隊”を発足させ、次いでこの日の国際緊急援助隊の派遣に関する法律の制定となった。
さらにその後、より大規模で援助隊自体が寝食から医療にいたる装備を持ち、資機材等の補給、整備から輸送まで行える自己完結型の緊急援助隊の海外への派遣を実現させるため、自衛隊の同隊への参加が検討され、92年(平成4年)6月、この日制定された同法が改正され実現されることになった。
また2015年(平成27年)10月には、前年西アフリカで感染が拡大した“エボラ出血熱”など、国際的な感染症の流行に、より効果的な支援を行うため感染症対策チームを新設している。
以上の経緯から現在の同隊の編成は、1.救助チーム、2.医療チーム、3.専門家チーム、4.自衛隊部隊、5.感染症対策チームからなり、災害の規模、内容、被災国の要求内容によって登録された隊員から随時必要なチームが編成され、派遣されている。
(出典‥国際協力機構(JICA)編﹁事業・プロジェクト>国際緊急援助>国際緊急援助とは>国際緊急援助の歴史﹂、同編﹁国際緊急援助とは>国際緊急援助隊(JDR)について﹂、消防防災博物館編﹁国際消防救助隊物語>国際消防救助隊の概要﹂[追加]、衆議院制定法律﹁国際緊急援助隊の派遣に関する法律﹂。参照‥2016年4月の周年災害︿下巻﹀﹁国際消防救助隊、合同訓練行い実質的に発足﹂)
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(2017.9.5.)
伊藤和明のインサイト・アウト:防災コラム 「チリ津波が残した課題」
おもしろ瓦版:日比野克彦氏らが出演 日本文化デザイン塾「防災とアート」
防災ミュージアム:日本歯科大学 新潟生命歯学部・医の博物館(新潟県新潟市)
防災まちづくり大賞受賞団体:白川村荻町区(岐阜県大野郡)
周年災害:2018綛
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