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川合玉堂年譜
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川合玉堂 年譜
近
代
日
本
画
壇
の
巨
匠
、
川
合
玉
堂
は
日
本
の
自
然
を
こ
よ
な
く
愛
し
、
数
多
く
の
風
景
画
を
描
き
ま
し
た
。
明
治
6
年
愛
知
県
に
生
ま
れ
、
14
歳
で
京
都
の
日
本
画
家
、
望
月
玉
泉
、
の
ち
に
円
山
派
の
幸
野
楳
嶺
に
師
事
し
天
分
を
大
き
く
伸
ば
し
ま
し
た
。
23
歳
で
東
京
画
壇
に
転
じ
、
橋
本
雅
邦
に
学
び
狩
野
派
を
極
め
、
円
山
・
四
条
派
と
狩
野
派
を
見
事
に
融
和
さ
せ
、
日
本
の
四
季
が
織
り
な
す
美
し
い
自
然
の
風
物
詩
を
情
趣
豊
か
で
写
実
的
に
描
く
独
自
の
境
地
を
開
き
ま
し
た
。
東
京
美
術
学
校
教
授
、
帝
国
芸
術
院
会
員
な
ど
歴
任
し
、
昭
和
15
年
文
化
勲
章
を
受
章
し
ま
し
た
。
昭
和
32
年
6
月
30
日
没
、
勲
一
等
旭
日
大
綬
章
を
受
賞
。
明治6年
11月24日、愛知県葉栗郡外割田村に、父川合勘七、母かな女の長男として生れる。本名芳三郎。
明治20年
春、岐阜尋常高等小学校を卒業。9月、青木泉橋の紹介状をもって京都望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。
14才
明治23年
勧業博覧会出品に当り、玉泉の玉と外祖父竹堂をとって、「玉堂」と改める。11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。同輩に久保田米僊、藤山鶴城等、先輩に菊池芳文等がいる。
17才
明治24年
10月28日、岐阜県、愛知県にわたる大地震おこり、父不慮の死をとげる。享年66才。家財を整理し、母とともに京都に出て、油小路御池上ル照円寺境内の離れを借りて住む。
18才
明治26年
4月、母急性肺炎のため死去、享年50才。親戚の大洞家の次女富子と結婚。
20才
明治28年
9月、長男真一出生。京都開催の内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「龍虎の図」と「十六羅漢」をみて、深く感動する。
22才
明治29年
4月、上京。橋本雅邦の門に入る。麹町一口坂に住む。
23才
明治31年
10月、日本美術院創立、雅邦に従ってこれに加わる。
25才
明治33年
2月、次男修二出生。長流画塾も盛んとなる。
27才
明治34年
牛込若宮町に転居。
28才
明治35年
三男圭三出生。
29才
明治39年
五二共進会審査員に任命せられる。長女国子出生。
33才
明治40年
3月、東京勧業博覧会の審査官。文展審査員に任命せられる。
34才
明治41年
1月、師、橋本雅邦死去、享年74才。玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ、爾後30年続く。
35才
明治42年
長流画塾盛となり、研究会とは別に、展覧会本位の団体、下萌会が生れる。
36才
明治43年
9月8日、イタリア万国博覧会鑑査委員に任命せられる。
37才
大正元年
文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。
39才
大正3年
農商務省より大正博覧会審査員に任命せられる。
41才
大正4年
5月19日、東京美術学校教授を拝命。10月若宮町の住宅落成。
42才
大正6年
6月、帝室技芸員を拝命。
44才
大正7年
下萌会を復活。東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。
45才
大正8年
9月、帝国美術院会員となる。
46才
大正9年
10月、三男圭三死去。12月高等官三等に任ぜられる。
47才
大正11年
5月、第1回朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。
49才
大正13年
小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、川合玉堂、横山大観、6人の淡交会生れる。
51才
昭和2年
3月、従四位に叙せられる。
54才
昭和3年
1月、昭和天皇御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。11月、記念章を授与せられる。
55才
昭和6年
フランス、レジョン・ドヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグランオフイシエー・クーロンヌ勲章を拝受。
58才
昭和7年
10月、正四位に叙せられる。
59才
昭和8年
10月、ドイツ政府より赤十字第一等名誉章をおくられる。
60才
昭和10年
6月、帝国美術院会員に任命せられる。11月、勲三等瑞宝章を賜る。
62才
昭和11年
2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及帝国美術院会員の辞表を提出。11月、平正改組による第1回文部省展覧会開かれる。
63才
昭和15年
11月10日、紀元2600年式典当日、文化勲章をうける。
67才
昭和17年
1月、俳句集「山笑集」刊行、木活和綴で俳句百句を収録。
69才
昭和19年
7月、東京都下西多摩郡三田村御岳に疎開。12月更に古里村白丸に転ずる。歌集「若宮集」をつくる。
71才
昭和20年
5月、牛込若宮町の住宅戦災にあい焼失。12月三田村町御岳に移り「偶庵」と称する。
72才
昭和22年
11月、歌集「多摩の草屋」刊行。
74才
昭和23年
11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。
75才
昭和24年
12月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。
76才
昭和27年
3月、兼素洞の企画によって、玉堂、大観、龍子の三人展雪月花展を開催す。
79才
昭和28年
4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。11月、病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間制作を行わず。
80才
昭和29年
3月中旬、病気回復。俚謡「御岳杣唄」を作詞。古関裕而作曲。
81才
昭和30年
3月、兼素洞の企画によって、大観、玉堂、龍子三人展を開く。大観は松、玉堂は竹、龍子は梅の課題である。10月名誉都民に、11月青梅名誉市民に推薦される。
82才
昭和32年
2月下旬、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時回復に向う。6月上旬から再び悪化し、30日午後零時40分急逝。(勲一等旭日大綬章を賜わる)
84才
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