清荒神清澄寺は平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。天皇は讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年︵896︶に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。
当時は猪名の平野や武庫の浦が一望に見渡せる旧清と呼ばれる山の尾根に清澄寺を、そして西の谷に鎮守神として三宝荒神社を祀りました。山号である蓬莱山の由来とする現在の長尾山系の七嶺七渓に、七堂七十二坊の荘厳な伽藍を造営し、宇多天皇より日本第一清荒神の称号を与えられ蓬莱山清澄寺としておおよそ300年栄えました。
その後、平安時代末期の源平合戦や、天正年間の荒木村重の乱などの戦火により何度も焼失しましたが、荒神社のみはいずれも難を免れ、やがて清澄寺も西の谷である今の地に再建され、江戸時代末期、一代の名僧浄界和上の諸堂再興により現在の山容が形づくられ伽藍が発祥しました。
浄界和上の諸堂再興に続き、先々代 第37世法主 光浄和上に至り寺運ようやく開け、昭和22年﹁三宝三福﹂の教理に基づく真言三宝宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢をかかげました。
また、光浄和上は画聖富岡鉄斎翁との機縁により、当時名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化を通じて多くの人々の心に平和と安らぎを与えたいという理念﹁宗美一体﹂に基づき、晩年の傑作を中心に鉄斎作品を収集し、これらを国の内外に紹介して、その人類愛と平和精神を世界に呼びかけました。
先代 第38世法主 光聰和上は当山にお詣りされる篤信深き皆様方にお立ち寄りいただくために﹁清邦文化会館﹂を昭和46年に建設いたしました。当山主催のもろもろの催し事の他、ひろく一般の方々による芸術文化・社会福祉等の集会に講堂や会議室を無料で開放しています。 また、昭和50年には鉄斎作品を永く後世に伝えるため、﹁鉄斎美術館﹂を建設して一般に公開し、その入館料は、宝塚市立中央図書館内に﹁聖光文庫﹂を設け、美術図書購入基金として宝塚市に全額寄付しています。
当代 第39世法主 光謙和上は先々代、先代両和上の理想と遺志を継承し、平成11年に鉄斎美術館に併設する﹁新収蔵庫﹂を、平成20年に長年の構想を経て﹁史料館﹂を建設いたしました。
﹁史料館﹂は清澄寺の歴史や行事をご紹介すると共に什物や所蔵品の企画展示も行い、歴史や文化に親しんでいただき、荒神信仰の布教の場として活用するものです。
当山は火の神、カマド︵台所︶の神としてあがめられ、また各種の現世利益を祈願されるご参詣の方で賑わい、創建以来、連綿と続く栄光千年の法燈は、一日も絶えることなく今日を迎え、﹁三宝三福﹂・﹁宗美一体﹂の精神を体し、開山草創の原点に立って日々努力を続けています。