川越のエッセイ・自伝(1)


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狐のだんぶくろ澁澤龍彦事典澁澤龍彦の時空大人のしつけ紳士のやせがまんすこし枯れた話可笑しな宿

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「狐のだんぶくろ」 澁澤龍彦 河出文庫 1997年 ★★
 人一倍記憶力のいい著者が語る昭和初期の思い出。記憶の底から、まぼろしのように浮かびあがってくる光景。いまでも正確におぼえているが、他の誰も知らない童謡。正月のチョロギへのこだわり。両国国技館の大鉄傘。病気の問屋さんといわれていた子どもの頃。漫画、替え歌の思い出……。のぞき眼鏡でのぞいた。光りかがやく少年期という黄金時代。
 
チンドン屋のこと
 近ごろ、街でチンドン屋が一向に見られなくなったのは、さびしいことだと私はつねづね思っている。あれも昭和初年の流行現象として、いまでは忘れ去られてゆく運命にある風俗の一つなのだろうか。
 鉦(かね)、太鼓、三味線、クラリネットなどの楽器をにぎやかに鳴らしながら、三人ないし五人、それぞれ背中にポスターみたいな広告を垂らして、千鳥足で街をねり歩く。お白粉をべたべた塗って、時代劇の役者みたいな扮装をしているやつもいる。三味線をかかえた、ちょいと色っぽい女が混っていることもある。
 先頭には旗持ちがいて、大名行列の奴(やっこ)さんみたいに踊りながら一行を先導する。いちばんうしろにはビラ配りがいて、だれかれの区別なく通行人にビラを配ってゆく。もともと宣伝広告のためだから、このビラが配られなければ意味がないのだ。
朝は朝霧 夕(ゆうべ)は夜霧
泣いちゃいけないクラリオネット
ながれながれて浮藻の花は
明日も咲きましょ あの町で

 一世を風靡した「サーカスの唄」の一節だが、どういうわけか、チンドン屋にもクラリネットは付きもので、私の記憶している範囲では、クラリネットがいつも物悲しいメロディーを奏していたような気がする。
 チンドン屋の奏楽は、必ずしも陽気でにぎにぎしいとはかぎらない。いまも述べたように、へんに物悲しいところもあってハメルンの笛吹きのように、子どもたちを否応なく惹きつけるのである。私はチンドン屋のあとについて、街をどこまでも歩いていった記憶がある。もう帰らなければ、と何度も思いながら、ついつい見知らぬ街まで来てしまったときの心細さをよくおぼえている。
 チンドン屋にビラをもらうのも嬉しかったものだ。贅沢に慣れた今日の子どもには想像もつかないだろうが、私たちは争って、なんということもない一枚のビラを手に入れようとしたものである。チンドン屋ではないが、そのころはよく飛行機からも宣伝のためにビラをまいたもので、ふり仰ぐ空にぱっとビラの塊りが撒布されるのを見ると、私たちはビラの落下する方向をめざして、やみくもに駆け出したものであった。
 どうしてあんなに夢中になってビラを手に入れようとしたのだろうか。考えるとふしぎだが、やはり他人より先に、すばしこく立ちまわって、得がたいものを手に入れるという、一種の快味がそこに感じられたためであろう。
   (中略)
 私は前に、チンドン屋のクラリネットに物悲しい情緒を感じると述べたが、あらためて考えてみると、単に物悲しいというだけではまだ足りないような気がする。なにか不気味な、白昼の狂気とでもいった情緒に私たちを誘いこむ、面妖な気分を伝播していたように思われてならないのだ。話がどうも大げさになってきたようだが、こういう話はうんと大げさにしたほうがおもしろい。
 梅崎春生が死ぬ前に書いた『幻花』という名作に、街でチンドン屋に出会うと急に気分がへんになって、精神病院に入院してしまうという爺さんのエピソードがある。梅崎はこう書いている。
 「チンドン屋を見ると、なぜ変になるのか。一歩踏み込むと判りそうな気がするのだが、その一歩が踏み込めない。爺さんにも判っていないらしい。一度訊ねたことがある。爺さんは答えた。
 『わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ』
 『おかしなもんだね』
 『うん、おかしなもんだ』」
 あるとき、精神病院の同室の仲間三人が共謀して、爺さんの目の前で、チンドン屋の真似をしてみたことがあった。爺さんがどんな反応を示すか、ぜひとも知りたかったのである。夕食がすんだあと、三人がいきなり立ちあがり、茶碗をたたきながら、
 「チンチンドンドン、チンドンドン」
 口ではやして、床を踏み鳴らして歩いた。頭に派手な手拭いをかぶり、衣紋をぬいて、女形のつもりになっているやつもいる。
 爺さんはきょとんとした表情で、しばらく三人の動作を眺めていたが、そのうちにやにや笑い出すと、自分も茶碗をもってベッドから飛び降り、チンドン屋の行列に参加した。どうやら爺さん、おもしろがっているらしいのだ。
 「爺さん、気分がおかしくならないのかい」
 「おかしくならないね」
 「なぜ」
 「お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ」
 このエピソードも、私の大いに気に入っているものの一つなのである。梅崎は決して抽象概念をひねくりまわすタイプの人間ではないが、このエピソードは、心理学上のペルソナの問題を鋭く浮き彫りにしているといえるだろう。
 さて、私自身のチンドン屋体験は非常に古く、記憶もさだかでない幼児期にさかのぼる。
 私は四歳まで、埼玉県の川越市に住んでいたが、たぶん近所に花柳界があったのだろう、家から二、三軒はなれたところに箱屋のタッちゃん、通称ハコタッちゃんという爺さんがいた。念のために説明しておくと、箱屋というのは三味線箱をもって、客席に出る芸者のお供をする職業の男である。このハコタッちゃん、近所の名物男で、しかもチンドン屋の親分だった。箱屋とチンドン屋という二つの職業を、どう折合いをつけていたのかは知らないが、よく自分の小さな家の前で、子分どもをあつめては、チンチンドンドンとにぎにぎしく、商売の練習をしているのを私は見かけたものであった。
 もちろん、爺さんの顔なんかちっともおぼえていないが、これが私の幼児期の最初の記憶の一つであることは間違いないところだ。
 父の転勤とともに東京に出てきて、滝野川中里い住むようになったのが昭和七年である。そのころ、私の住んでいる界隈にチンドン屋がやってくるのは、きまって駒込神明町の方面からだった。
 三流芸者街があって、寄席があって、カフェやバーがあって、さらに少年の目から見ると、電信柱に花柳病科の医院の広告がやたりに目につくところ、それが神明町だった。ときどき旅まわりの芝居がかかって、そんなときにはリヤカーに太鼓をのせ、メーキャップした剣劇の役者がドンドコドンドコ太鼓をたたきながら、中里のほうまで触れてまわる。チンドン屋というのは、そういうあやしげな場所から忽然として出現してくるストレインジャーのように私には思われたものだ。
    (後略)
狐のだんぶくろ
    (前略)
 さて、なつかしい歌といえば、私には女中に教わった歌がいくつかある。
 当時は中産階級の家に女中がいるのは決してめずらしいことではなく、また女中という呼称はどこから見ても蔑称ではなかった。このことをお断りした上で、私は私の愛すべきとよやについて語りたいと思う。
 
  さらさらと こころ細かに雪が降る
  スキーで行こうよね
  行きましょうよね
  広い野原をどこまでも
  ツッツガツー ツッツガツー
 
 これはとよやに教わった歌である。埼玉県入間郡霞ケ関のゴルフ場近くの村から、高等小学校を卒業して私の家にやってきた彼女は、なかなか頭がよくて、勝ち気で、私にとってはいい相手だった。ずいぶん喧嘩もしたが、それだけになつかしい。ちなみに、この調子のよい「さらさらと」は、高野盛義作詞、中山晋平作曲である。もう一つ、
 
  板屋の軒に 降りくる音は
  あられか雪か 木の葉か雨か
  消えずに残れ 枯生(かれう)の芝に
  鵞鳥の羽の 散りくるごとく
 
 これもとよやに教わった歌である。よく分らないが、おそらくヨーロッパ種の曲ではないだろうか。どうも歌詞が翻訳くさいような気がするからだ。
 この同じ歌を母親から教わったという愚妻の記憶するところによると、私がおぼえている歌詞とはやや違って、最後の二行は次のごとくだという。
 
  消えずにとまれ 垣根の松に
  わが待つ梅の 蕾のごとく
 
 「垣根の松」というのが少しおかしく、彼女の記憶ちがいの可能性も大きいが、これもどうやら翻訳くさい歌詞ではないだろうか。
    (後略)
水鉄砲と乳母車
    (前略)
 記憶の底から、まぼろしのように浮かびあがってくる一つの光景がある。これについて書こう。
 滝野川の家だったか、それとももっと古く川越の家だったか、庭で母が洗い張りをしている。
 雨あがりの陽がよくあたって、庭ではアジサイの花が咲いている。柿の木があり、井戸があって、いかにもお背戸(せど)といった感じの庭である。たぶん季節は六月ごろだろう。姉さんかぶりに襷がけをした母が、ほどいた着物にのりをつけて、立てかけた張り板に一枚ずつ張っている。手でごしごしと布の皺をのばしている。
 私はそのそばで、水鉄砲かなんかで遊んでいる。そういえば私は子どもの時分、じつによく水鉄砲で遊んだような気がする。
 近くには乳母車があって、そのなかに妹が寝ている。なぜわざわざ乳母車のなかに寝かせておいたのか。おそらく、家のなかに寝かせておくよりも、自分の目のとどくところに寝かせておきたいと母は思ったのではないだろうか。
 いつのまにか目をさました妹が、不意に乳母車のへりにつかまって立ちあがろうとする。バランスを失って、ゆっくり乳母車がひっくりかえる。まるでスローモーション映画のようだ。地上に落ちた妹が、火がついたように泣き出す。母があわてて駆け寄る。
 そんな一続きの光景を、私は地上にしゃがんだ姿勢のまま、最初から最後まで呆然と見ていたような気がするのであるが、もちろん、これにはいくらか記憶の修正作用も加わっていることであろう。乳母車のゆっくり倒れるところを私が見ていたかどうかは、じつはすこぶるあやしいのだ。
    (後略)
最初の記憶
    (前略)
 四つまで私の住んでいた埼玉県の川越市の家のことは、もう少しはっきりおぼえている。
 正確にいえば川越市で三回ほど転居しており、最初が黒門町、次が志多町、それから御獄(おんたけ)下曲輪町という順序であるが、このうち黒門町の家はぜんぜん記憶になく、記憶は志多町の家からはじまっている。
 当時の銀行員の月給がどれくらいだったかは知らないが、御影石の門のある志多町の借家はずいぶん広く、庭にはイチゴ畑があって、イチゴ畑のはずれにはお稲荷さんがあった。たまたま父や祖母といっしょに日光へ旅行して、何日ぶりかで家に帰ってくると、留守中に地震があったらしく、庭の石燈籠の笠が落ちていたのをおぼえている。
 この日光旅行も断片的に記憶していて、たとえば華厳の滝の周辺を歩いているシーンが思い浮かぶ。タクシーの運転手が私の前を歩いており、不意にポケットから仁丹のようなものを出して、それを口の中へほうりこんだのをおぼえているのだ。
 どうしてそんなつまらないことを五十年間もおぼえているのか、考えると妙な気がしてくる。
 志多町の家の近所に箱屋のタッちゃんというチンドン屋が住んでいたことは前に書いたが、私の家のすぐ隣りには、雑貨屋をやっている家主さんの家があって、お店に大きなカルピスのポスターが貼ってあった。例のシルクハットをかぶった黒んぼが、蝶ネクタイをしめ、ストローでカルピスを飲んでいる図である。
 なぜそんなことをおぼえているのかというと、これにはちゃんとした理由があって、私には、あのにやにや笑っているような黒んぼの顔が不気味に見えて仕方がなかったのだ。
 そういえば、私はレコード会社のポリドールのマークも、べつに気味がわるいというのではないが、なんだか気になって仕方がなかったのを思い出す。あのラッパのようなもの、耳のようなものを左右に突っぱらかした、黒んぼの顔みたいなマークである。
 当時、川越は古い城下町の雰囲気をのこした、まことに静かな街だった。それでも花柳界のそばにカフェーみたいな店があって、そこで一日中、川越音頭とかいうレコードをかけていた。
 
  武蔵川越 御城下町よ
  月も薄(すすき)も ヤンレヤレコノ
  出てのぞく 出てのぞく
 
 そのころ家にいた女中は群馬県の高崎から来た、たいそう元気のよい「さくや」という娘だったが、どういうわけか、私は彼女を「アジヤ」と呼んでいた。早合点で、失敗ばかりやらかしている娘だったが、いたって気がよくて憎めないところがあった。或る晩、アジヤは血相かえて台所からばたばたと駆けてきて、
 「きゃー、奥さま、奥さま」
 なにごとならんと母が驚いて飛び出してゆくと、彼女は畳の上にへたりこんで、放心したように肩で息をしている。きいてみると、いまネズミが着物の襟首に飛びこんで、背中を駆けおり、裾から出ていったのだという。泣きそうな顔をしている彼女の前で笑っては気の毒だったが、これには家中が思わず吹き出したものであった。
 昭和七年の白木屋の火事のとき、裾のみだれを気にして、和服の女店員ら十四人が逃げおくれて焼死した。このときからズロースが普及したという伝説があるくらいだから、アジヤはもちろんズロースなんかはいていなかったにちがいない。そう考えると、アジヤの受けたショックも無理はないという気がする。
 しかし私自身は当時まだ三つか四つだったから、この女中のネズミ事件に関して、とりわけエロティックな想像をめぐらすというようなことはなかった。ただ、ふしぎなこともあればあるものだと思ったにすぎなかった。
 ネズミといえば、当時はどこの家にも天井裏に必ずネズミがいたもので、まるで運動会でもしているように、夜になると天井裏で盛大に走りまわったものである。下から棒で突ついて威嚇しても、さっぱり効果はなかった。
 アジヤの武勇伝はまだある。ついでだから書いておこう。
 或るとき、彼女は川越の街を歩いていて、猛スピードで突進してくる自転車にぶつかった。いや、ぶつけられたというべきだろう。しかるに彼女は倒れもぜず、からだのどこにもかすり傷一つ受けず、かえって自転車にのっていた男のほうがひっくりかえって、怪我をしてしまったというのである。
 これも志多町に住んでいたころのことだったと思うが、私は近所に住むリョウ子ちゃんという女の子といっしょに、その女の子のお父さんに連れられて、トーキーを観に行ったことがあった。まだトーキーがめずらしいころで、たしかそれは外国映画だったと思う。少女歌劇のターキー(水の江滝子)が人気絶頂だったから、ターキーとトーキーとを間違える頓馬なやつもあったらしい。
 映画の内容はまったく忘れてしまったが、西洋の幽霊、つまりKKK団みたいな、目と口の孔のある白頭巾をかぶった幽霊が、ふわりふわりといくつも出てくる場面があって、それが私には非常にこわかった。
 映画がおわって、夜道を歩いて帰るとき、リョウ子ちゃんのお父さんが、
 「タツオちゃん(私のこと)、こんなのが出てきたね」
 からかうように笑いながら、両手をだらりとさせて、幽霊のまねをして見せる。私がこわがるものだから、わざとやっているのだ。こっちは思い出したくないのに、わざと思い出させようとしているのだ。おとなのくせに、子どもをこわがらせて喜んでいるのだ。
 リョウ子ちゃんは私のなつかしい最初のガールフレンドだが、そのお父さんに対しては、こんなことがあったので、よい印象をもっていない。
 こわいといえば、川越には、幼児の私をもっとも恐怖せしめたものがあった。蓮慶寺のおびんずるさまである。
 蓮慶寺は喜多院とならぶ川越で屈指の名刹で、その本堂の前に、はげちょろけの奇怪なおびんずるさまが安置してあった。善男善女が手でさすって、病気の平癒を祈願するのである。といっても、いまでは私の記憶には、蓮慶寺の境内のイメージはなにも残っていない。ただ、やみくもにこわかったということをおぼえているだけなのである。
 おとなになってから、私は一度も川越を訪ねていない。おそらく訪ねても、初めて見る町のような印象しか得られないのではないか、という気持が強いからで、それでも近ごろ、雑誌のグラビヤなどで紹介される古い城下町のたたずまいを眺めると、一度は再訪してみたいような気がしてきている。
 志多町から御獄下曲輪町に移ると、私の記憶はさらにはっきりしてくる。
 その家は崖の下にあって、庭から崖につづいており、崖の上の道を通ると、わが家を眺めおろすことができた。やはり閑静な住宅地で、付近にお寺や雑木林があった。庭から崖にかけて、紅紫色のツツジがいっぱい咲いていたような気もしている。
 畳敷きだが、カーテンのついたガラス窓があるので、ちょっと洋間のような感じの部屋があった。私の記憶の底から浮かびあがってくるのは、この部屋のなかの情景である。
 それはじめじめした雨の日で、窓から雨に濡れた棕櫚(しゅろ)の樹の葉が見える。部屋のなかでは、ひとりのおばあさんが玩具のヴァイオリンを弾いている。私と妹が「ばあや」と呼んでいた、手伝いのおばあさんである。
 ヴァイオリンを弾くといっても、むろん、おばあさんは本式に弾いているわけではない。歯の抜けた口で、流行歌かなにかを口ずざみながら、でたらめに弾くまねをしているだけのことである。そのころの流行歌、たぶん「紅屋の娘」かなにかだろう。
 母が用事で東京へ行ったかどうかしたので、留守番の子どもたちを淋しがらせないために、おばあさんは一所懸命にサービスに努めていたのではなかったかと思う。
 おばあさんが次から次へと身ぶりよろしく、いろんな曲を弾いてくれるので、私はおもしろくてたまらず、そのキーキーいう玩具のヴァイオリンに合わせて、妹とふたりで、畳の上で飛びはねて踊っているのである。
 もしかしたら、母が家にいないという淋しさをまぎらわせるために、私はそのとき意識して陽気に振舞っていたのかもしれない。なぜかといえば、このときの情景を頭のなかに思い浮かべると、きまって一種の悲哀感を私はおぼえるからである。
 父の転勤とともに、川越市を引きはらって、私の一家が東京の滝野川へ移ったのは昭和七年、私が四歳のときであった。引越しのとき、乗っていたタクシーのなかに、どういうわけか、南部の鉄瓶が置いてあったのをはっきりおぼえている。
病気の問屋さん
    (前略)
 話が妙な方向へ逸れてきたので、ついでにもう一つ、私の少年時代の性的な好奇心に関係のあるエピソードを書いておこう。
 埼玉県入間郡霞ケ関のゴルフ場の近くの村から、とよやという娘が私の家に働きにきていたことは前に書いたが、私は或るとき、彼女が白い割烹着のポケットにすばやく脱脂綿をつめこんで、そそくさと便所へ駆けこもうとしているのを見とがめて、
 「わあ、おかしいな。とよやは脱脂綿でお尻をふくの」
 大声ではやし立てると、とよやは真赤な顔をして、きっと私をにらんだものであった。それに気押されて、私はだまってしまった。
 このときも、私には、どうして女中が脱脂綿なんか持って便所へ行こうとしているのか。その意味がまったく理解できなかった。しかし理解できないながらも、これは何か隠された意味があるらしいな、という漠然とした予感をいだかせられた。そいうことにはとりわけ敏感だったのである。
 これに関連して、次のようなエピソードも書いておくべきかもしれない。
 滝野川中里町に住んでいた私たちの氏神さまは、京浜東北線上中里の駅に近い平塚神社という古い神社で、私たちはよくそこへ遊びに行ったものだった。或るとき、とよやといっしょに平塚神社へ行くと、彼女は参道のまんなかを通らず、わきを通ろうとする。鳥居をくぐろうとせず、鳥居の横から行こうとする。私は不審に思って、
 「どうしてまんなかを通らないの」
 すると彼女は神妙な顔をして次のように答えたものである。
 「いま、あたしのからだは汚れてるの。だから神さまの前で遠慮してるんです」
 これは私には文字通り理解を絶することばだった。脱脂綿と便所の判じものには、まだしも手がかりをつかむことができそうな気がしたが、こればっかりはお手あげだった。それでも、そこに何か関連のありそうなことを見やぶっていたのだから、私の眼力も相当なものだったというべきかもしれない。事実、あとになって考えてみれば、たしかに関連はあったのである。
 おそらく今日の若い読者には、このとよやの態度は、ばかげた迷信以外の何ものでもないであろう。少年の私にとっても、事情は似たようなものではなかったかと思う。よく分らないながらも、「そんなこと迷信だよ!」と私はとよやに向って強くいったような気がする。それに対して彼女がなんと答えたかは、おぼえていない。
    (後略)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 梅崎春生(うめざき はるお)
1915〜65(大正4〜昭和40)戦後の小説家。
(生)福岡県。(学)東大。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 中山晋平(なかやま しんぺい)
1887〜1952(明治20〜昭和27)大正・昭和期の作曲家。
(生)長野県。(学)東京音楽学校(東京芸大)。

「澁澤龍彦事典」 構成/巌谷國士・高橋睦郎・種村孝弘 平凡社コロナ・ブックス 1996年  ★★
川 越  巌谷國士
 1928年(昭和三年)五月八日、澁澤龍雄(本名)が生まれたところは東京の高輪にある母・節子の実家だったが、父の勤務地は埼玉県川越市にあったので、生後しばらくしてそこにもどり、幼時のほぼ四年間をすごしている。借家ずまいで、「最初は黒門町、次に志多町、それから御嶽下曲輪町に移る」と「自作年譜」にある。
 父・武は同県の名家・澁澤一族の出である。開成中学から金沢の四高、東京帝大の法学部に進み、卒業後は住友商事に入ったが、いわゆるサラリーマンの出世コースが性にあわないと悟ってすぐ退社し、縁故のある武州(のち埼玉、現あさひ)銀行に勤めていた。長男・龍雄が生まれたときには入間川支店長、ついで川越支店の副支店長に昇任している。
 川越はいうまでもなく「小江戸」と呼ばれもする古い城下町だ。維新後も商業・交通の要地として発展し、このころにはすでに国鉄や西武、東武の各線が引かれていたから、東京への便はよかった。もともと遊び好きの都会人だった両親はよく龍雄を東京へつれていったらしい。したがっていわゆる地方都市育ちとはすこしちがうが、四歳までのあいだに、ある種の風土感覚が身についていたろうことは想像できる。たとえば関東の自然、城下町の風儀、近所づきあい、それに近郊からやってくる女中や「ばあや」たち。
 はじめに住んだ黒門町というのは旧市街の南部、現在では西部本川越駅の東側の新富町にあたるところで、八幡神社に近いやや古びた一郭だが、一年後には引っこしているから記憶にはなかったろう。ただ、一歳の八月にドイツの世界一周飛行船ツェッペリン号が来たとき、その雄姿を「眺めたような気がする」と書いているのがおもしろい。
 引っこし先の志多町は北のほうで、十七世紀に松平信綱が定めた川越十カ町のうちに数えられる。新河岸川にかかる東明寺橋周辺をいい、いまはなんの変哲もない住宅地だが、昔は職人や商人が多く住んでいたという。ここの借家は広い庭つきで、苺畑、稲荷があった。となりの大家さんは雑貨屋兼業、近くに箱屋でチンドン屋の親分の「タッちゃん」(龍雄自身も「タッちゃん」とよばれていたのだが)なる人物がいたというから、なんとなく界隈の雰囲気も察せられる。
 ただ、家のそばに沼があり、遊び友だちをそこへつきおとしたという回想は、その沼がいまでは見あたらないこともあって、まさに夢幻めいている。家にいた粗忽者の女中「さくや」、一緒にはじめての映画を見た年上のガールフレンド「リョウ子ちゃん」の思い出なども、どこかしら輪郭がぼやけて美しく切なく、『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』の著者にとって川越というところが、空間的にも時間的にも、遠い郷愁のスクリーンになっていたことを想像させる。
 三歳になるころには御嶽下曲輪(くるわ)町に移っていたが、これは現在の廓町(郭町が正しい)だろう。川越城址の西にひろがる一帯で、土地に高低があり、丘の上の御岳神社や三芳野神社など、古い文化財級のものが残っているところだ。「その家は崖の下にあって」「付近にはお寺や雑木林があった」という記述にまちがいはない。いまでも古い樹木が多く、どこかしっとりとした趣の残る住宅地だ。浸潤な低地もあるので、先の「沼」の思い出はここに移ってからのことかもしれない。
 現在の川越は観光都市でもある。そのため古い家並の保存につとめているが、それも中心部の幸町近辺にかぎられたことなので、澁澤家のあった区域についてはもちろん昔のままというわけではない。ただ、父の勤めていた武州銀行の建物だけはいまも仲町に残っている。現在は商工会議所となっているクラシックな隅切りの石造洋式建築だ。昔の黒門町からも志多町からも曲輪町からも一キロ以内の位置である。副支店長の澁澤武が渋い背広に蝶ネクタイなどして、速足でここへかよっていた様子が思いうかんでくる。
 この町には由緒正しい寺社も多いが、澁澤龍彦が回想を記しているのは蓮馨寺(れんけいじ)だけである。前記・武州銀行のすぐ近くで、「毎月八日 安産子育呑龍上人縁日」の看板をかかげている。のちにドラコニア(龍の国)の主(ぬし)となる澁澤龍雄の「」の字と、晩年に思いうかんだという「珠庵」なる号を考えあわせれば、この看板はなにか意味ありげに見えてこないでもない。しかも龍雄は五月八日の生まれである。少なくともここへよく子どもをつれてきた母にとって、この符合には偶然以上のものがあったのかもしれない。
 もっとも当人は「自作年譜」で「蓮寺」という誤植(誤記?)をゆるしているくらいだから、そんなことには頓着していなかったろう。ただ、そこの「おびんずる様をこわがって泣いた」という記述はおもしろい。お賓頭盧(びんずる)さまは十六羅漢の第一。日本ではその像の頭を撫でると除病の功徳があるといい、よく堂の前に置かれる。蓮馨寺にはいまもこれがあって、赤いテカテカの木像が前掛をしてすわっている。なるほどすこし「こわい」。先日ここをおとずれたとき、私もまた、その大きな「珠」のような禿頭をおそるおそる撫でてみたものである。

「澁澤龍彦の時空」 巌谷國士 河出書房新社 1998年  ★★
家について

 高輪に生まれる
 「昭和三年(1928)五月八日、東京市芝区(現在は港区)高輪車町三五番地に生まれる。本名は澁澤龍雄。父武(たけし)、母節子の長男。父は埼玉県のいわゆる澁澤一族の出で、武州銀行(のちの埼玉銀行)に勤務。」(「澁澤龍彦自作年譜」、『澁澤龍彦全集』第十二巻「補遺」所収)
 ここにいう高輪車町三五番地(現・高輪二丁目一五の三五)の家というのは、母・節子の実家であった。いまはあとかたもない。のちに日本鋼管の土地となり、鉄筋コンクリートのビルが建てられた。二、三年前までは同社経営の料亭「高輪クラブ」がそのビルのなかにあり、春なら白魚のオドリなど特色ある料理を供していたが、現在は「ホテルエース高輪」と名をあらてめている。
 筆者も高輪(南町五三番地)に生まれ育った縁があるので、このあたりの土地柄はよく知っている。都営浅草線の地下鉄駅からすこし坂をのぼった左手の高台の中腹で、四十七士の泉岳寺はつい目と鼻の先だ。いまではビルが林立し、ホテルやマンションや会社の寮の多いところだが、この名刹の周辺にはまだほんのすこし、昔の木造家屋や古木ものこっている。十二月十四日の討入りの日などは、あたり一面に線香のけむりと匂いがただよい、一種独特の情緒をかもしだしもする。
 そんな同郷のよしみ(?)ということもあって、生前の母堂から何度か思い出ばなしを聞いた。母堂の父君は磯部得次といい、茨城県笠間から東京に出て慶応義塾を卒業し、ガス会社などを興して財を築いた立志伝中の人物だったらしい。実業界で成功してから政界にも出て、政友会の代議士として六期ほどつとめた。母堂は明治三十九(1906年)に芝の増上寺の近くで生まれたが、幼いころにこの高輪の大きな家に引っこしてきたのだという。
 近くの高輪(現・高輪台)小学校を出てから、白金三光町の聖心女学院に進んだ。十九で卒業して花嫁修行。兄君の顧問弁護士だったある埼玉県人にすすめられて、川越市在住の澁澤武氏と見合をする。生粋の東京育ちで田舎へ行くのはいやだったというが、昭和二年二月二十二日に数えの二十二歳で結婚。武氏のほうは三十三歳で、当時武州銀行の入間川支店長という固い職業人だったが、芝居好き、競馬好き、花札好き、また登山、カメラなど多方面に趣味をもつ自由人としての人柄にひかれたのでもあろう。
 長男・龍雄が生まれたのはその翌年の五月八日である。実家にもどって出産というのはよくあることで、龍雄はしばらくのあいだ高輪で育てられたにすぎず、もとよりそのころの思い出がるわけでもない。だがその後つれてゆかれもしたはずだから、家そのものの記憶はのこっただろう。それかあらぬか、のちの澁澤龍彦は、「芝の生まれ」を強調することがしばしばだった。たとえば1968年のエッセー「肉体のなかの危機――土方巽の舞踊について」(『澁澤龍彦集成�W』所収)にはつぎのようなくだりが見られる。
 「1928年、土方巽は東北地方の秋田市で生まれている。私も同年生まれだが、私は東京の芝で生まれた。こういう地域差は、場合によっては決定的だと思う。」
 じっさいにはその後四年間を川越市ですごし、「埼玉県のいわゆる澁澤一族」のひとりとして育ったわけだが、のちの滝野川時代もふくめて、東京人としての自覚のほうが強かったということだろう。それも出身は芝の高輪。澁澤さんが晩年まで、戦前の東京市市街地図を大事にしつづけ、ときどきそれをとりだして見せたことを思いおこす。
 母堂は1991年の十一月十六日に亡くなった。信じられないことだった。文字どおり矍鑠(かくしゃく)としており、美しく、鎌倉彫に精を出すなど、とても八十五歳とは思えないほどだったからである。前日もひとりで元気に外出したが、北鎌倉の駅のホームでたおれ、入院後しばらくして息を引きとったのだという。1955年に夫君・武氏に先だたれてからも、三十二年間、長男・龍雄とともにくらしていたこの母堂が、作家・龍彦にとってどのような存在であったのか、彼自身はこの点については不思議に言葉少なだったが、いかにも興味ぶかいところではあろう。
1993年6月5日



   
 
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作成:川越原人  更新:20145/4/12