書籍のISBNコード︵International Standard Book Number︶は一冊の書物ごとに振られている世界共通ルールにもとづく番号である。いまは13桁のコードが使われるようになっており、最初の3桁は﹁978-﹂で始まることになっている。その次にくるのが国別記号、出版社記号、書名記号、最後にチェックデジット︵チェック数字︶という構成になっており、この10桁分が可変的である。ついでに言えば、最後のチェックデジットはそれまでの12桁の数字から自動的に計算される、誤記防止用の数字であるから、使えるのは9桁である。さらに言えば、国別記号と出版社記号は国や出版社の規模︵出版された書籍数︶によってどこかの時点で権力的に決められているので、実際に使える桁数にはかなり幅がある。
ISBNコードが権力的であるというのは、たとえば国別記号で日本は﹁4﹂が与えられているが、英語圏が0と1、フランスが2、ドイツが3、ロシアが5、中国が7、などと決められており、弱小国になると5桁ぐらいになるものもある。ちなみにお隣の韓国は﹁89﹂、イタリアなどでも﹁88﹂となっている。出版社記号も2桁から数桁ぐらいになる。これも同じ理由で、たとえば岩波書店は﹁00﹂、講談社は﹁06﹂となっている。中堅出版社は3桁ないし4桁が多く、新興出版社やマイナープレスになると5桁、6桁になっている。これはどういうことかと言うと、国別記号、出版社記号、書名記号で使える9桁のうち、書名に使える桁にずいぶん差があるということである。未來社は﹁4-624-﹂となるため、書名用に5桁使えるので、最大99999冊のコード付けが可能であるが、これが出版社記号6桁の出版社になると書名用には2桁、つまり99冊しか本が作れないということになる。この差をどう考えるかは別にして、これが権力的でないと言えばうそになるだろう。だから外国の出版社の規模を判断するに出版社記号に何桁の数字があてがわれているかで、知らない出版社の規模がおよそ想像できてしまうことにもなる。
日本ではこのISBNコードを管理しているのが日本図書コード管理センターというところで、日本書籍出版協会の別セクションと言ってもいいような組織である。
というわけで先日、確認の必要があってこのセンターに電話をしたのだが、そこのセンター長に確認した問題への公式回答がおよそ納得のいくものでないために、わたしはこうした文書を書いて業界内外にひろく問いを立ててみたくなったのである。
ことのおこりは、たまたま未來社が参加している書物復権の会の本年度復刊書目のなかに内田義彦著﹃経済学史講義﹄というかつてのロングセラーがあり、これを復刊するにあたり、より購入してもらいやすくするためにそれ以前の箱入りをやめてカバー装にすることにしたのであるが、そのさいに読者や図書館のためにすでに購入ずみのものとは内容的に︵すくなくとも版面的に︶いっさい変更がないことを明示するために﹇新装版﹈という表示をくわえたところ、ある取次窓口から書名に変更があるからISBNコードを変えてくれ、という要請が出されたのである。﹇新装版﹈というのが書名変更にあたるというのである。一般に内容に変更がある場合、改訂版とか増補版、第二版、新版などという名前を元の書名に追加して表示することを﹁角書き﹂と呼び、それをふくめたものを書名とみなすというのは常識であるが、新装版はそれにあたらないというのがわたしの見解である。わたしはだいぶ以前に日本図書館協会の専務理事から、出版社が内容に変化がないのに安易にコードを変えることがあるのは、図書館として在庫がある書籍を間違って再購入してしまうことがあるから、こういうことは絶対にやめてくれと言われたことがある。これはたまたまわたしが聞いただけの話だが、その理屈はもっともなことだと思い、たまに新装復刊するような本があってもISBNコードを変えない原則でこれまでやってきた。それこそ外見が違うだけの同一の中身にたいして2種類のコードがあるのはおかしなことだからである。それにたいして文句を言われたこともなかった。
ところが最近はかならずしもそうではないという話で、商売的にもコードを変えたほうが販路が拡がるために変更するのがあたりまえになっているらしい。図書館が間違って購入したとしても、それは購入者の責任だという笑えない話も聞いた。ちょっとそれは出版社の頽廃じゃないの、とわたしなどは思わざるをえない。こういうことを言うと、むかしこの種の主張をしたときに言われたことがあるように、︿書生さん﹀らしい小理屈だということになるかもしれないが、一物二価ならぬ一物二コードということになるんじゃないのか。
そんなわけでこの取次窓口でもこの問題は日本図書コード管理センターの見解を聞いてくれ、ということを言われたので、さっそくセンターに確認したわけである。その結果は、驚いたことにカバーなどの外装または奥付に﹇新装版﹈と表示したらそれは書名の変更であるからISBNコードの変更が必要だという理解であり、外装を変えても表示がどこにもなければ逆にコードを変更してはならない、という見解を聞かされた。それは無原則だし、内容は同じなのに、別コードを振るというのは理念的にもおかしいのではないかと主張したところ、そういう問題にたいして議論するつもりはないときっぱり断わられてしまった。なんであれそういうルールで運用されているので、某取次窓口の判断は﹁正しい﹂のだそうだ。ただし罰則規定はないので、このルールをあてはめるかどうかは最終的に出版社の判断だとも言われる始末である。以前にも消費税増税にあたって本の総額表示問題にもそんないきさつがあったことを思い出す。わたしは前述した理念的根拠からこの﹁ルール﹂を今回にかんしては採用するつもりはない。
最近はすべてにおいて流通効率の論理が優先してしまっており、こうした原則的な問題にたいしてもなんら考慮が払われていないような気がする。出版文化のあるべきすがたや読者の立場からものを考えないこうした自己中心的な運用のしかたを業界全体が疑問視しないかぎり、読者離れと出版文化の崩壊はいっそう進むだろう。︵2015/4/25︶
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