つくづく﹁左翼﹂って嫌な感じ、と確認したのが昨日の産経新聞 曽野綾子氏の連載コラム﹁透明な歳月の光﹂への批判。南アフリカにかつてあった黒人差別のための人種隔離政策﹁アパルトヘイト﹂であると断罪します。
コラムの結びにある曽野綾子氏の持論を捕まえてのことですが、それはこうです。
“人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住区だけは別にした方がいい”
居住区を捉えて﹁人種隔離﹂であり﹁人種差別﹂となじるのは、なじる人間の内面世界の告白です。つまり、断罪するものは、人種差別的発想を持っているのでしょう。
南アのヨハネスブルグでの実例として、白人だけが住んでいたマンションに、人種差別廃止以降は黒人世帯も入居するようになり、大家族主義の彼らは20〜30人で1区画を利用します。生活に使用する水の量は人口に比例し、マンションの水道管の太さは限られ、安定して水が出ないマンションになったことで、白人世帯がでていったという実例を紹介し、先の結びへとつなげます。
コラムを通読し、最後に登場した居住区に、私は﹁コミュニティ﹂とルビを振りました。生活文化の違い、そこには宗教まで含まれ、これを乗り越えるのは相当な困難で、ともすれば感情の軋轢を生みます。
だからと民族対立を煽っているのではありません﹁何もかも一緒にやれる﹂とあるのですから。
南ア+居住区=人種隔離政策
という短絡的な発想で、というより、現代の、多分日本も所属する先進国社会の常識に照らせば、黒人居住区を作ったとして、そこを不便にすることなどできはしません。大家族主義向きに設計された居住区と、核家族向けの居住区に﹁区分﹂されるだけのことでしょう。UR︵いわゆる公団︶における﹁単身世帯向け住居﹂と﹁家族向け住居﹂の違いのようなものです。
曽野綾子氏は、人種民族毎に指定した居住区以外に住んではならない、とまでは言っていません。むろん、黒人の全てが大家族主義だと決めつけているのでもなく、あくまで一般論として、しかし、人間が生きる現実に向き合ったとき、越えがたい一線があり、つまりは﹁嫁姑問題﹂と同じで、憎しみあうぐらいなら﹁別居﹂が最適解のひとつだという提言に過ぎません。
どうしても黒人が苦手、中国人と接したくない、中東の人はちょっと・・・と思う日本人だっています。苦手や嫌いも思想信条の自由であるべきです。もちろん、その気持ちを黒人や中国人にわざわざ伝える必要はありませんが、仲良くすべきとは思いながらも、仲良くすることの強制は、強制される側の人権を蹂躙しているのです。
むしろ、生活文化の違いを無視した﹁平等論﹂こそ、真の意味での﹁人権﹂を侵害しています。なぜか?
“歴史、文化、宗教といったすべての価値観が違う人種、民族も等しく、同じライフスタイルを目指さなければならない”
ということに繋がるからです。﹁居住区﹂という独自性を許さないことは、多様性の否定へも繋がります。それを全体主義と呼び、すなわち社会主義や共産主義の発想です。曽野綾子氏のコラムに﹁人種差別﹂とレッテルを貼る人に、左傾化している人が多いのは偶然ではありません。
ちなみに我が屋の近所には、中国人が多く、太極拳を練習する白人もいて、鋳物工場で働く黒人もいれば、既に生活基盤を日本に持つアラブ系に、孫を抱いているフィリピン人も多く、何人だからと気にしてなどいられず、なんとくそれなりに仲良く暮らしているように感じております。
“曽野綾子氏の連載コラムを「人種差別」と批判する人の正体” への5件の返信