1. ナショナリズム研究
■1980年代から盛んになってきたナショナリズム研究においては、ネーションやナショナリズムを近代になって生まれた現象であるとする立場(近代主義)と、それへの批判者(反近代主義)との間の対抗の中で議論が展開されてきた。主導的な役割を演じてきたのはベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、エリック・ホブウボーム、ジョン・ブルイリーなどの近代主義者であり、それを批判してきたのがアントニー・スミス、アンドリュー・ヘイスティングス、スティーブン・グロスビーらであった。その論争は、主な舞台イギリス(ロンドン)において、現在に至るまで繰り返されている。
■この論争を図式化すると以下のようになる。
対立する2つの立場 主 張 論 者 近代主義 出版資本主義、産業化、近代国家などがネーションを発生させる アンダーソン、ゲルナー、、ホブズボーム、ブルイリー 反近代主義 エスノ・シンボリズム ネーションの基礎としての「エトニー」(歴史に根ざした神話やシンボル) スミス、ハッチンソン 前近代主義 ネーションやナショナリズムは近代以前(古代、中世、初期近代等)に発生 ヘイスティングス、ロシュウォルド、ゴースキ (ネオ) 原初主義 人間の本質的属性としてのナショナリズム グロスビー、(シルズ、ギアーツ)
︵詳しくは拙稿﹁ナショナリズムの理論史﹂[2009]を参照されたい。︶ ■この論争を通じて、ネーションとナショナリズムについての理解は大いに深まった。しかし私は、この論争自体に根本的な限界があると考えている。というのは、論者が何を﹁ネーション﹂と考え、何を﹁ナショナリズム﹂と捉えているのかによって、その立場が大きく左右されるからである。たとえば、ネーションが11世紀西欧に発生したと論ずるヘイスティングスと、﹁産業化﹂の結果近代になって発生したと論ずるゲルナーとでは、それぞれが考える﹁ネーション﹂の定義に違いがある。ネーションの意味が違うのであれば、結論が違ってきて当然であろう。﹁近代か否か﹂の論争は、ネーションやナショナリズムの発生に関する実質的な問題で対立しているよりも、何を﹁ネーション﹂あるいは﹁ナショナリズム﹂と捉えているのかという概念的前提の部分で食い違っているのである。そうなれば、﹁論争﹂も不毛なものになってしまう。 ■私自身は、この論争にかかわるよりも、ネーションあるいはそれに相当するカテゴリーが、実際にどのように理解され、どのように利用されてきたのかに注目しながら、その歴史的変化をたどることの方に意義を見出している。このようなアプローチを︵歴史︶認知的アプローチと呼んでいる。これは私が博士課程の時代、ロジャース・ブルーベイカー先生の指導を受けながら体得したアプローチである。︵詳しくは拙稿﹁ネーション・ナショナリズム・エスニシティ――歴史社会学的考察﹂[1995]を参照されたい。︶このアプローチから近代主義/反近代主義論争を振り返ってみるならば、どうしても近代主義の立場はとれないというということである。なぜなら、今日のネーションという概念と結びついている固有名︵たとえば﹁日本﹂という名前︶は、近代以前から各地にみられることは確実だからである。それを﹁ネーション﹂と呼ぶかどうかは定義の問題だが、この固有名詞が何らかの集合体を指しし示す固有名として用いられ、しかもその固有名をもった集合体が何らかの共同体意識を喚起しているとすれば、それを全く無視して﹁ネーション﹂を論じるわけにはいかないだろう。そのため私は、近代主義の立場はとっていない。しかし、だからと言ってエスノシンボリズムや前近代主義の立場を支持するというわけでもない。﹁エトニー﹂概念には限界を感じるし、近代以前のどこかの時代に﹁ネーションの発生﹂を主張したいわけでもない。また、歴史を捨象したネオ原初主義︵グロスビーのような︶議論は、歴史分析を欠いていて支持できない。私が主張できるのは、近代主義にこだわらずネーション、あるいはそれに相当する概念の歴史を過去にさかのぼってみていくべきだ、ということまでである。 ■しかし、近代主義アプローチをとらないということは、決して近代化による変化を過小評価するものではない。資本主義や産業化、そして近代国家の形成︵官僚制、常備軍、大衆民主主義、福祉政策など︶はナショナリズムに大きな変化をもたらした。︵歴史︶認知的アプローチから見て特に注目すべきなのは、19世紀以後﹁ネーション﹂の概念が次第にグローバルに普遍化されてきたということである。20世紀には、地球上どの地域でも﹁国民主権﹂や﹁民族自決﹂の主張が、しかもそれが国際的正当性を得るようになった。﹁ネーション﹂の名によって﹁主権﹂と﹁独立﹂︵場合によっては﹁自治﹂︶が認められ、国連に加盟でき、オリンピックにも出場できる。このようなネーション概念の普遍化は、19世紀以前には決して見られなかったことである。﹁ネーション﹂が表明される国際社会、世界社会のルールが変わってきたのである。︵この点は、John W. Meyerらの新制度主義的グローバル化論が明らかにしてきたところである。︶ ■また、︵歴史︶認知的アプローチは、ネーションの︵あるいはそれに相当する︶カテゴリーが語られ、活用される社会政治的コンテクストとの関係を常に考慮する必要がある。コンテクストなくしては、ネーションの概念が用いられていることの意味がわからなくなってしまうからである。そのコンテクストとして私は、便宜上、メゾレベルのものとマクロレベルのものとの二つの次元を考えている。メゾレベルとは、ある特定の問題をめぐって構成され、そこにおいてネーションが意味あるものとして語られている﹁界︵field︶﹂のことである。ネーションは様々な場面で語られるが、ある特定の問題をめぐって語られ、争いあう場が﹁界﹂である。例えばその一つとして、ある領土の帰属をめぐって争われる界がある。私自身が研究した例で言えば、戦後ドイツにおける東方領土問題がそれである。オーデル=ナイセ線以東の領土の返還を主張するのか、放棄するのか。戦後ある時期までの西ドイツでは、その問題が様々な含意とともに語られ、論議されてきた。返還を主張するにせよ、放棄を認めるにせよ、そこでは何らかのドイツのネーション理解が表明されてきた。︵拙著﹃ナショナル・アイデンティティと領土﹄[2008]を参照されたい。︶また、最近の先進諸国の例で言えば、移民問題もまたネーションへの問いかけを迫られる問題である︵拙稿﹁﹁統合の国﹂ドイツの統合論争﹂[2010]を参照されたい︶。移民の制限するのか受け入れるのか、排除するのか統合するのか、どのように統合するのか。それぞれの立場によって異なったネーション理解が必要とされる。マクロなコンテクストは、そのような﹁界﹂の成立を可能にするもので、国際政治、経済状況など様々なマクロな歴史的要因がかかわっている。だが、私が殊に注目したいのは﹁国家﹂である。近代主義の論者が明らかにしてきたように、資本主義や産業化といった経済的変動は近代のナショナリズムを発生させる重要な要因だが、少なくとも18世紀以後を見る限り、国家なくしてネーションもナショナリズムも問題にしえない。ネーションの問題をより直接的に規定し、水路付けているのは、その時代の国家︵あるいはそれに順ずる統治機関︶と社会との関係性である。ネーションのマクロなコンテクストとしてまず問われるべきなのは、正当な暴力行使を独占する統治組織としての国家なのである。その意味で、ナショナリズム研究は国家論︵国家研究︶と効果的に結び付けられる必要がある。 ■1980年代以後盛んになったナショナリズム研究は、いわゆる﹁構築主義﹂と呼ばれる人文社会研究のアプローチから大きな影響を受けてきた。﹁構築主義﹂とは、われわれが自明のものと考えている現象が、ある時点で社会的につくり出されてきたもの︵極端な言い方をすれば、実はわれわれがそうと信じているだけの単なる幻想︶であるということを究明する方法である。多くの人々が太古からのものと自明視しがちなネーション︵民族や国民の概念︶の研究にとって、構築主義はまさにうってつけのものであったといえる。また、このアプローチを引き継ぐのであれば、グローバル化が進む現代において、実践のレベルでもネーションを相対化し、﹁脱構築﹂し、乗り越えることも、いともたやすいことのように思われるかもしれない。しかし私は、ネーションはそれほど容易に﹁相対化﹂し、﹁乗り越える﹂ことができるとは思わないし、好むと好まざるとにかかわらずそうすべきでもないと思っている。なぜならば、グローバル化する世界においてもなお、国家という暴力を保持し、徴税能力をもち、資源の再配分を行う政治制度が依然として重要な役割を維持し続けているからである。もちろん、国際機関や非国家的な団体やネットワークの意義が高まっている。しかしながら、たとえば選挙や世論という方法を通じて、どうにかこうにか制御可能な﹁われわれの社会﹂の最大範囲は、やはり国家によって枠組みを与えられた﹁ナショナル﹂な社会であり、それを超えることはなかなか難しい。国家は民主主義という方法によって制御される以外ないが、その民主主義はなかなかグローバル化しにくいのである。もっとも脱国家化が進んでいるように見える最近のヨーロッパにおいてさえ、ユーロ圏の危機をめぐって、﹁国民﹂レベルの民主主義がいかに重要な︵と同時に厄介な︶ものであるかが明らかになっている。グローバルな連関が重要になっている現代において、あらためて﹁ネーション﹂という意思決定や連帯の単位を、またそれを背景にしたナショナリズムという言説や実践のあり方を問い直してみる意義は、むしろ高まっているのではないだろうか。![]()
国家やナショナリズム、エスニシティをテーマにした「国家論研究会」を主宰しています。ほぼ月一回のペースで法政大学市ヶ谷キャンパスにて研究会を開いています。どなたでも参加できます。関心のある方は佐藤までご連絡ください。(→研究会のページ)