義経公ロマンの旅

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衣関 清悦宮  新旧平泉地図    






5殿
宿

 
 西輿輿
稿 殿

殿
 


  
     
 
  殿殿殿



西



 
53511294
  
      
調





 
  




http://www.saitama-j.or.jp/~kankosta/kurihasi.htm
sizuka.html


西
  
 
 
    
http://www.st.rim.or.jp/~s_haya/spot002.html
    
8283





1. 116
西p244
2. 1117
姿(p248)
3. 1118
調p248
4. 128
殿(p256)
5. 1215

6. 1216
殿
7. 229
殿
8. 2213

9. 231

10. 236

姿
(p284)
11. 2322
(p284)
12. 248

13. 2514
殿(p296)
14. 2527
(p298)
15. 2729
(p314)
16. 2916
(p320)
17. 2922
2(p321)





便>

!

  
     
    西
   
  
   
西   
  
     
宿 0248-22-1147
http://www.shirakawa.ne.jp/~menu/sekinomori/seki4.htm

西


 




15 ,  
 TEL (0248)32-2526
http://www.naf.co.jp/omotego/sights/sakura.stm
http://www.fks-wo.th.moc.go.jp/htm/db_5.htm
 



殿


 
1544
 0248-22-1147
2









   
88877



    
21936

 

    
12退92234
西


  

  

 

    
5


西



28263634

http://www.anoa.or.jp/myhome/kawachi/izaka/izaka.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~vr2y-nsn/oku/iizaa01.htm
  024-542-4241



3()
西椿殿(殿)使

   



椿西  
  
 






http://www.anoa.or.jp/myhome/kawachi/izaka/ioji.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~vr2y-nsn/oku/iojaa01.htm


()
511893.2q
  TEL (024)585-2892 



 5729
  
 西2
88西189西10宿
820姿3



58107173036        14
87388
3
西89西
(以上「改訂 郷土史事業7 福島県」より)
http://www.fusion.isp.ntt.co.jp/sasukene/4/1/kunimi/kuni3.html
http://www.f.do-fukushima.or.jp/kunimi/iware/iware.htm
http://www.fusion.isp.ntt.co.jp/sasukene/4/1/kunimi/index.html
http://www.fusion.isp.ntt.co.jp/wnn-c/tokushu/98-7/30/izumi/5.html 


 ()

(
  TEL (024)585-2892
ICkm




04


()
() 谿


使
姿
         
   

144殿姿
 
  0224-22-1343




  
   022-214-8892



 

93



 
使

 
 殿
 西
 

 
西


                           
熊野三所別当権大僧都

三僧祗法印

龍宝院承栄 印影」(解読及び現代語訳佐藤弘弥)

問い合わせ先:金成町役場 教育委員会 0228−42−2986


殿
48
  

沿湿20宿24西
  


  





 


退
綿
使

8
調

  



 

   


 
  
以上 「藤沢宿かまくら屋資料館 平野雅道」 記



 
  
  




1719

  

殿   
使便


25便

便







西麿



西
駿
西駿


 38
http://www1.neweb.ne.jp/wa/kurikoma/yoshitsune/kurikoma.html
  



 西
  
 
 
  
沿  寿







  
       

    
      
            
            
     
            42
 

http://www.laphouse.com/ptBashouHI.htm
http://www.laphouse.com/ptChusonji.htm
http://www.laphouse.com/ptPhoto3.htm

http://www.kpc.co.jp/chusonji/
 




(一)  西

(二)  

(三)  

(四)  

(五)  

(六) 沿 

 
使殿
調
 
E 
鹿

鹿鹿姿

 
  0191-46-2331
       

http://www2.kpc.co.jp/motsuji/INDEX2.html
http://www.laphouse.com/ptBashouHI.htm
http://www.kurikoma.or.jp/~imamuraa/iti/midokoro/motsuji/index.html



姿姿
西

姿綿

(一)

(二)

(三)



 

 

   
  
     
     
     寿
    寿
    寿 
     寿
     寿

     

2       
  





60
3
 
西
 西
  
   

  
   
   

  
(以上高舘・義経堂パンフレットを参考として)
  
        
 






 
 
  


西

 56.8 54
 34.2 
 34.0 
 32.0 
 15.0

 
(以上 出典:衣川村誌 資料提供 衣川村教育委員会)


 
  
 

  0197-52-3111
       0197-52-3068





   西
    
    
 西
 
 
調
(以上資料提供 衣川村教育委員会)
 

国道を平泉方面から来て衣川を渡ると、すぐ衣川橋というバス停がある。バス停からすぐの角を西に折れ、衣川に沿った水田地帯の小道を10分ほど歩くと三峯神社参道入口という標識が見えてくる。そこを右に曲がりゆるいカーブを5分ほど行くと、右側の土塁に石碑と案内板が立っている。ここが長者原廃寺跡(県史跡)である。

このあたりは古くから金売吉次屋敷跡とも朝日町長者屋敷跡ともいわれた。金売吉次(三条吉次信高)は京都と平泉を往来した商人で、16歳の義経(牛若丸)を鞍馬寺から秀衡のもとにつれてきた人物として知られている。彼の手をとおして京の情報や産物が平泉に、奥羽の砂金や馬は京に運ばれたことであろう。

長者原廃寺跡の土塁に立ってみると、南に衣川を隔てて中尊寺の関山、東に西行法師に詠われた束稲山、北に6層建の衣川莊(国民宿舎)と城郭建築の懐徳館(歴史資料館)、西に高速自動車道を挟んで山峰と月山神社の森が見渡せる。肥沃な河岸段丘の平坦地である。1958(昭和33)年のこの地の発掘調査の結果、約100m四方の土累跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認されている。礎石の配列や建物の配置、出土した土師器などから、平泉藤原時代かそれ以前の寺院跡と判明した。

またこのあたりは衣川柵に隣接し、平泉時代以前の11世紀には、陸奥の豪族阿部氏の本拠地であり、源義経・義家軍と対峙した前九年の役(1051-62)の激戦地でもあった。近くに阿倍氏に関連する旗鉾神社(阿倍氏の守護神)、池田九輪塔跡(現五輪塔、伝阿倍頼時の墓)などもある。12世紀、藤原氏の平泉時代になると、この地を含めた古都は10万人の人口を擁する京都に次ぐ都市といわれた。このころも川に沿った河岸地帯が一般市民の生活の場、生活物資交易の場として繁栄した。長者原廃寺跡の東西に残る六日市場、八日市場も往時のゆかりの地名と考えられる。

なお、この廃寺跡から西北に3km行くと、村の中心地である古戸に出る。そこに一首坂がある。前九年の役の折、敗走する安倍貞任を追った源義家が矢をつがえ「衣のたてはほころびにけり」と和歌でよびかけたところ、貞任は馬をとめてふりかえり「年をへし糸のみだれのくるしさに」と上の句をつげた。義家はそのゆかしさを感じ、矢をおさめ引き返したという「古今著聞集」に出てくる故事の地である。(「岩手県の歴史散歩」山川出版より)

問い合せ先

 衣川村教育委員会 0197-52-3111
 衣川村ホームページ http://www.isop.ne.jp/atrui/koro.html



 

衣関

去高館一街餘、山下有小関路、是古関門之址也、
東史日、此地昔時西界白河関東限外濱、行程十餘日、
於其中間立関門、名日衣関、
一説日、衣関在伊達郡白鳥村、日鵜木、其傍有関山明神、
今日之関門宅、是乃往時通行之道路而今廢其地也、
高闢関門、左則隣高峻、右則通長途、南北層巒相峙険隘之地、

 もろ共にたたまし物をみちのくの衣の関をよそに見るかな
  詞花 別             和泉式部(大江雅致ノ女)

 さくら色によもの山風染てけり衣の関の春のあけほの
  夫木集 春部           前中納言定家(藤原)
 

亀井松

去高館西北二街餘、田中有古墳、是乃亀井六郎重保戦死之地、
後人葬之以為一堆塚、上植一青松、日之亀井松、

鈴木墓

去亀井松西北三街餘、在田上、鈴木三郎重家戦死之地也、
郷人葬于玄、或日兼房墓也、

弁慶堂址

在衣関以西山頭、往昔有一堂、藏武藏坊弁慶像、其堂今荒廢遺像在大日堂、
或日、此地乃重家墓所也、
 

問い合せ先

衣川村教育委員会 0197-52-3111
 衣川村ホームページ http://www.isop.ne.jp/atrui/koro.html


清悦宮

東磐井郡川崎村。義経公亡き後、その命により、生き延びて、義経公最期について、事の次第を詳細に語ったと伝えられる常陸坊海尊と清悦坊の縁の宮。常陸坊海尊は秋田仙北、清悦坊は平泉にそれぞれ生き延び、代々語り継がれてきた物語が「清悦物語」である。土地の民の間では、清悦宮は清悦坊さまと呼ばれ、川崎村の河崎の柵跡西口北上川河畔にあり、葛西氏が守っている。社殿はアイオン台風の時にながされ、現在はセメントのお宮が祀られている。清悦物語は異本が多いことで知られ、川崎村、栗駒町でもそれぞれ内容の異なるものが発見されている。

佐藤の訪問レポート
岩手県川崎村の清悦宮を訪れました。例の前九年後三年の役の戦場になった所です。 そこへ参ってがっがりしました。谷間の狭い道路を砂利を採取するためか、 砂利トラックが、猛スピードで行き交います。また村の背後には、山崩れを防ぐために切り取った部分に鉄筋を通し、コンクリートを吹き付けてある。仕舞いには歴史の漫画のようなものを書いている。 実に情けない光景を目にしました。 でも古い街道の町並みはすばらしく、その町並みを生かした村造りはできないものか、 と思いました。そこから北上川を遡って一ノ関の方へ少しいくと清悦宮が、ぽつんと道ばた に立っています。おそらく誰もきに止めないでしょう。以前は、ちゃんとしたお堂のようなものが あり、鞘堂のような建物もあったそうですが、昭和20年初期のアイオン台風の時にすべて流されて下流にあった宮の看板を拾ってきて、祠は別に作って再び元の位置に戻したのだそうです。お宮の裏の葛西さんというお宅には、清悦宮の木の看板が 掛けてあって、それを写真に撮らせていただきました。私はその時、この清悦宮が生きていると感じました。何かほっとする思いがしました。村の人々が、清悦さんを大切に思い今でも信仰の対象としていることに感動したのです。
でも悲しいしいことですが、もうじき堤防工事とかで、清悦宮もそこにある家々も移転させられる運命にあると 聞きました。確かに洪水の危険があるので、致し方ないのかは知れませんが、何か考えさせられましたね。 でもそれを大切にしながら、守っていくという人があるかぎり、その清悦宮は生きており、その何かが、祠の前に立つ者の感動を呼び覚ましているのでは?と感じました。(2000.3.28)
 

問い合せ先:川崎村教育委員会 0191-43-2111


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更新
2000.3.30 Hsato