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アルトサックス奏者。1932年、東京・八丁堀生まれ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」「ブルーコーツ」「小原重徳とニューオータニ・ジョイフル・オーケストラ」などビッグバンドのコンサートマスターを務める。実兄(ドラマーの故五十嵐武要氏)と自己のバンド「ざ・聞楽亭」を結成。1989年、世界で最も権威のある「アメリカ・モンタレー・ジャズ・フェスティバル」に招かれ、喝采を浴びる。その円熟味のある音色はアメリカでも“ONE AND ONLY”と称されている。現在も多岐にわたり活躍中。
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バリトンサックス奏者。1936年、京都生まれ。父親(ドラマーのジミー原田氏)や実兄(ドラマーの原田イサム氏)の影響から音楽の世界へ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」を経て、渡米。ロサンゼルス、ラスベガス、ハワイで活動。フランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.など多くの海外アーティストと共演。再び日本で、自己のバンド「ザ・ハーツ」を結成。現在「前田憲男とウィンドブレーカーズ」他、多方面で活躍中。
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1933年2月21日、東京生まれ。52年頃から北村英治コンボを皮切りに、山屋清コンボバンド、八木正生コンボバンドを経てフリー活動に入る。昭和33年から数年間は米国・ハワイのカハラ・ヒルトンホテルや、サンフランシスコのブッシュ・ガーデンホテルなどの専属歌手として人気を博した。1972年米国・ロサンゼルスでベースの巨匠レイ・ブラウンと共演『Yoshiko Meet Brown』を収録したほか、2000年ピアノのジョージ・ギャフニーらと共演『Beautiful Friendship』をリリースするなど海外プレイヤーとの共演も多い。現在は都内を中心にジャズライブ会場や、さまざまなステージで活躍するほか、後進の指導に熱意を注いでいる。
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昭和20年8月15日は、昭和16年12月に開戦した太平洋戦争で、日本が大国アメリカを相手に無謀な戦いを挑み、4年経ったこの日、ついに敗戦という無残な形で幕を下ろした戦争終結の日である。昭和の始めから続いた混乱の時代は、終戦という言い方で区切りをつけたが、まぎれもなく敗戦であった。
日本の針路をキチンと示せなかった政治。冷静な分析も判断もできず暴走した軍部。時の施政者たちが行った取り返しの付かない歴史を辿った結末の日であった。
戦後の混乱の中、自由な気分どころか食べ物もなく、住むところもないひどい状況であった。それを明るい気分にさせてくれたのが音楽であった。歌謡曲では並木路子・霧島昇﹁リンゴの唄﹂、菊池章子﹁星の流れに﹂、美空ひばり﹁悲しき口笛﹂﹁東京キッド﹂、岡晴夫﹁憧れのハワイ航路﹂など、どれだけ沈みがちな日本人のこころが癒されたか知れない。
同じように軽音楽という広義の分け方の中で、﹁ジャズ﹂の果たした役割もまた小さくなかった。今回、その時代に青春真っ盛りであり、またジャズ人生のスタートともいうべき、進駐軍時代を経験した五十嵐明要氏、原田忠幸氏、後藤芳子氏、御三方にご協力をいただき、進駐軍ジャズ時代を邂逅しながら東京散歩をお願いしました。
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●厚木に降り立ったマッカーサー
敗戦の日を迎えて程ない8月30日(1945年)、日本にダグラス・マッカーサーが連合国軍司令官として、専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサーは日比谷の第一生命ビルを本拠に、日本占領軍GHQ(*註(1))の統治者として君臨した。そして政治、経済、治安など多方面にわたって動きだした。
同時に約43万人もの米軍兵たちは、ベージュ色のサージの軍服を着こなし、颯爽と街を闊歩して、アメリカの豊かさを見せつけたのであった。進駐軍の存在には、改めて国力の違いを思い知らされた。
進駐軍の活動を目の当たりにした日本国民は、焦土と化した焼け野原のなかで、衣食住に事欠きながら、貧しい生活に喘いでいた。戦争を仕掛け、敗れた愚かさに国民は犠牲を強いられ、それを実感として捉えられたのであった。国民は長い間「欲しがりません 勝つまでは」と、我慢を強いられていた。
しかし、この鬱積した日本国民の思いも、米軍兵たちの奔放な明るさには驚かされた。同時に開放された気分も満たされ、また、自由という有難みも感じるようになっていった。街中には米軍向けのラジオWVTR(FENの前身)から、ニュースと明るく爽やかな曲が流れていた。
国民は今まで聴いたこともない、躍るようなアメリカ音楽のメロディーとリズムに自然と波長を合わせ、その新鮮な感覚に熱中していった。それがグレン・ミラー楽団であり、ベニー・グッドマン楽団、レス・ブラウン楽団などだった。 その頃流行ったボーカルではビック・ダモン、フランク・シナトラ、ドリス・デイ、パティー・ページ、アンドリュース・シスターズが挙げられる。(*註(2)) |
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(この会話は、ほぼ60年近い昔の古い話です。もし勘違いや間違いがあるかもしれません。ご容赦願うとともに、新たな情報をいただけたら有難く思っております。)
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進駐軍の多くは、若い兵隊たち。当然、衣食住以外にも要求があり、日本側に様々な供与を求めてきた。日本政府もまた、それに応えなければならなかった。求められたいくつかの条件のひとつは、一般兵士に対する娯楽、それは音楽であった。当時アメリカではスウィング・ジャズが盛んで、特にダンス・ミュージックが兵隊たちによろこばれた。
●バンドを輸送する幌がついたトラックの前の後藤さん
そこで日本政府は、税金で賄う特別調達庁︵*註︵3︶︶を設け、その対応に当たった。調達庁は米軍の要望に応え、日本のジャズ・ミュージシャンを集め、ジャズ音楽を提供した。東京周辺で集められたミュージシャンは、東京、厚木、横浜などにあった米軍キャンプや基地に派遣された。演奏はその他、接収されたビジネスビルや、ホテルに設けられた米軍高級将校や、軍属の宿舎︵ハイツといわれた︶など多方面に及んだ。それらの米軍施設の中に設けられたステージで、日本人ジャズマンたちは、演奏を行っていった。
編成は手配師みたいな人によって、パートごとに集められたプレイヤーを組ませ即席のバンド編成が組まれていた。演奏するのはキャンプや米軍将校宿舎であったが、そのバンドレベルによって、演奏場所が振り分けられていった。主に将校クラブ(オフィサーズ・クラブ)、下士官クラブ(N・C・O)、一般兵士(E・M)、女性部隊軍人向け(WAC)などに分類されていた。ギャラもバンドやシンガーのレベルによって支払われた。
当初、ジャズプレイヤーは絶対的に不足していたから、日本人プレイヤーやシンガーたちもそれなりに歓迎されていた。進駐軍は東京を中心にして、大きいキャンプや様々な基地があって、併せて幾つものクラブがあった。だから、極端にいえば楽器をもって入れさえすれば、何かしらの仕事にありつける状況であった。実際は米軍のニーズが多く、玉石混合の状態だったようだ。 ●米軍将校たちと食事をする後藤さん
しかしだんだんと、音楽レベルに差異が目立ちはじめ、レベルの低いプレイヤーは徐々に淘汰されていった。当時、日本のジャズ界には本格的なジャズプレイヤーは少なく、多くは軍楽隊出身者でかためられていた。内容的にジャズの何かを知る人も少なかったが、ジャズプレイヤーは絶対的に不足していたのであった。
その状況は、仕事のないミュージシャンにとって、神風といわれるほどの恩恵を蒙った仕事だった。しかし、その状況はいつまでも続かなかった。米軍将校や兵隊たちの要求は、徐々に高くなり、ある一定のレベルを持たなければ、演奏することができなくなっていった。
そのため、調達庁には日本人バンドのレベルを確認する、バンド審査委員会(*註(4))が設けられ、それに合格しなければ、米軍キャンプでの仕事をすることができないシステムに変っていった。 「占領軍の進駐とともに米軍クラブに出演するジャズバンドの需要が爆発的に増えたが、一方、ジャズメン不足につけこんで法外な出演料を請求するひどいバンドも現れた。この野放しのバンド界にあきれたアーニーパイル劇場(現宝塚劇場)のバーカー支配人は、日本のバンドの実際を聴いて、妥当な出演料を定めようとした。しかし、日本のバンド界の事情がわからず、なかなか格付けの作業も進まないので、GHQではこの作業を「終戦連絡中央事務所」(占領軍の国内需要を含むすべての処理を行うため昭和22年に設立された外務省の下部機関)に押しつけたのである。」 (出典:『日本のジャズ史 戦前戦後』スイング・ジャーナル社 内田晃一著)
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進駐軍キャンプのジャズは、それなりに人気を得て、兵隊たちに受け入れられていった。しかし、時間が経つにつれ、バンドの優劣がはっきりしはじめ、レベルの低い日本人ジャズメンが、進駐軍キャンプで仕事ができた期間は意外と短かった。
そして、米軍将兵や軍属の中には、アメリカでジャズをやっていた者、理論を知っている者たちも多くいた。彼等は目をつけたプレイヤーに演奏技術を教え、楽譜を貸し与えたりするようになった。或いは、日本では手に入らない楽器を惜しげもなくプレゼントすることもあった。特に、ハンプトン・ホーズやジミー・荒木などが、日本人プレイヤーに大きな影響を与えたという。
中には軍の楽器を横流しして、日本人ジャズマンたちに売りつけた猛者もいないわけではなかった。楽器を買った日本人はヤスリで米軍のマークを必死で消して使っていたという。
そのような環境の中からナンシー梅木、江利チエミ、ペギー葉山などのボーカリストが生まれ育っていった。バンドでは南里文雄とホット・ペッパーズ、東松二郎とアズマニアンズ、レイモンド・コンデとゲイセプテット、渡辺弘とスター・ダスターズ、長尾正士とブルー・コーツ、秋吉敏子など本格的な演奏活動を展開していった。 |
●ダブル・ビーツの演奏風景(左から守安祥太郎(p) 滝本達朗(b) 五十嵐武要(d) 五十嵐明要(as) 沢田駿吾(g))
日本のジャズは、戦前から一部では盛んであった。しかし、戦後のジャズブームのきっかけは、なんと言っても進駐軍キャンプの存在であった。キャンプの演奏を経て、再興の道を歩み始めたのだ。日本人向けのジャズが盛んになって、ラジオ番組やステージが盛んに行われるようになっていった。
続々とジャズバンドが編成される状況のなかで、劇場やクラブなどで活発な演奏活動が始まった。ラジオ番組やステージでは白木秀雄、ジョージ川口、小野満、海老原啓一郎などの人気プレイヤーを輩出していった。これが戦後の日本ジャズの黎明期ともいえる。 その後バンドは離合集散をくり返しながら、発展していった。進駐軍によって道を切り拓かれた日本のジャズマンたち。しかし、当時活躍された多くのプレイヤーやシンガーは引退、或いは物故された。いまその頃の実情を知る人は本当に少なくなってしまった。 |
現在、日本ジャズマンの実力はレベルも高く、また有名な外国人プレイヤーも多く来日し、いつでもファンが楽しめる時代である。またライブハウスも東京を中心に数多く存在している。中には本場アメリカで聴くのと、同じようなプレイヤーの演奏と、豪華な雰囲気を楽しめる。国内においても幅広い潜在的なジャズファンによって維持されている。
また、若い日本人ジャズプレイヤーやボーカリストは、積極的に海外に進出し、日本ジャズ界のレベルを堅持している。ライブ演奏の会場では、人気のあるジャズプレイヤーは、チケットが完売するほどの盛況ぶりである。 |
●現在の丸ノ内ホテルの正面入口
丸ノ内ホテルは米軍将校宿舎として、接収されていました。ホテル内には娯楽施設としてのクラブがあり、毎晩多くの日本人ジャズマンやシンガーたちが活躍していました。
接収されたホテルは、丸ノ内ホテルだけではありません。東京の赤坂・山王ホテル、銀座・有楽ホテル、東京駅・八重洲ホテルなども米軍将校宿舎として使われていました。 それぞれのホテル内にはジャズを演奏するステージがあり、日本人が演奏していました。出演者としてバッキー白片とアロハ・ハワイアンズやジョージ・川口さんなど著名な人の出演が多かったようです。 戦後接収されたのはホテルだけではなく、東京駅から銀座、新橋界隈にかけ、GHQに接収されたり、統治されていた建物や施設は数多くありました。GHQの活動は同時に、多種多様なアメリカ文化が持ち込まれた時代でもありました。そのうちのひとつが、ジャズというわけです。 |
東京散歩の出発地点は、米軍キャンプに縁の深い「丸ノ内ホテル」前からです。ここから戦後の日本ジャズ復興の歴史跡を訪ね歩きます。
●現在の東京駅北口の風景
「丸ノ内ホテル」を出発して、東京駅北口に向かいます。現在、東京駅丸の内側は、近辺の会社に勤めるサラリーマンたちで毎日大勢行きかいます。戦後まもないこの北口では、日雇いの日本人ジャズ・ミュージシャンたちで溢れていたそうです。楽器を保管する場所などもあって、随分とごった返していたようです。
ここで集められたジャズマンたちは、手配師の差配でバンドを組み、各地の米軍キャンプや基地に運ばれて行きました。同じように新宿駅南口や、横浜駅でも同じような光景が見られたそうです。北口の当時の写真を見ますと、今はその様相を全くうかがい知ることはできません。 GHQは、ホテルや企業など多くのビルを接収しただけではなく、旧宮家、旧華族の邸宅も米軍将校宿舎として供されました。ここでも娯楽施設として、将校向けにジャズを演奏する場所が設置されていました。特に旧宮家、旧華族は邸宅での演奏だけでなく、様々な物語があったこともまた事実のようです。 では御三方には米軍キャンプで演奏に参加した時の話や、それにかかわる様々なエピソードも絡めて、当時を邂逅しつつ関連した場所を辿っていきます。 |
五十嵐
そうそう、ここら辺りでしたね。昔の面影はまったくないけど。当時の雰囲気をなんとなく感じることはできるけれど。集合場所には仕切り屋︵バンドマネージャー︶が居て、バンドマンに声をかけるんだ。﹁ドラム居る?﹂﹁サックスはいないか?﹂ってね。
原田
オンボロのトラックに乗せられ、厚木や横浜にまで運ばれてました。幌だけだから冬はとても寒かったと思います。その頃私はバンカーズ・クラブでレイモンド・コンデさんのバンド・ボーイをしていました。ジョージ川口さん、小野満さん、平岡精二さん、フランシスコ・キーコさんなどそうそうたるメンバーが出演しました。
後藤
私はこの反対側の八重洲口に﹁ハバネラ﹂というキャバレーがあって、そこが私のシンガーとしてのスタートの場所でした。
五十嵐
当時、八重洲にあったキャバレー? その当時、僕はまだ本当のプレイヤーではなく、兼バンド・ボーイでしたよ。逗子から東京まで通っていたけど、その頃八重洲口はまだ周辺は焼け野原が多く、殺風景な雰囲気だった。
後藤
何年ごろの話?
五十嵐
昭和25、6年の頃ですかね。もともと私の実家は八丁堀で講談の席亭で、空襲で焼かれてしまってね。その縁で神田山陽さんという芸人さんのお世話で逗子に住んでいた。そこから学校に通いながら、兄貴のつてでバンド・ボーイになったわけですよ。
この﹁丸ノ内ホテル﹂でもそうでしたが、近くにあった﹁バンカーズ・クラブ﹂なんかで演奏していました。懐かしいね︵感に堪える表情︶。
﹁バンカーズ・クラブ﹂はその当時、たしか英国の管理下でした。そこで飲む紅茶が美味しくてね。ミルクティーの美味さといったらなかった。それから、サンドイッチなんかもね。
後藤
その当時のサンドイッチなんて、いま食べたらまずいと思いますけどね︵笑︶。当時は美味しかったのよ。
原田
ホント、美味しかったですね~。今となっては懐かしい味になりましたが。
五十嵐
サンドイッチのトッピングにはチーズとか、ツナなんかもありましたね。
原田
当時の日本は食糧事情が悪かったから、キャンプにはとにかく食べ物が沢山あって驚きました。コーラ、ハンバーガーなど、今まで見たことのない食べ物もあって。特に、サンドイッチは何でも美味しかった。
五十嵐
その頃の日本人で、コーラやハンバーガーなんか知っている人ほとんどいなかったんじゃない。われわれはお洒落だったんだよ︵笑︶。
後藤
普通の食パンの上に、ソーセージがのっているだけのものでしたけどね︵笑︶。
五十嵐
終わってからはラッキー・ストライクやキャメルなどタバコや、チョコレートお土産に貰ったりして。自分はまだ未成年だったから、タバコは貰えなかったけれど。
原田
タバコは貰わなかったかもしれないけれど、吸ってはいたんですよね︵笑︶。
五十嵐
う~ん……。少しだけね︵苦笑い︶。
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●現在の「銀行倶楽部」
御三方は軽妙な昔話をしながら、大改築中の東京駅前を通り過ぎます。駅北口の信号を渡り、丸の内仲通りを突っ切ると、日比谷通りに突き当たります。正面に皇居前広場が見渡せます。
皇居前広場は、サラリーマンの憩いの場として、また都内遊覧の定番コースとしても親しまれています。そして最近ではマラソン愛好者のトレーニング場所として、話題になっています。この辺りには、マラソン愛好者のための更衣室やシャワー設備などが整った施設も多くあるようです。
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●「バンカーズ・クラブ」があった現在の 「銀行倶楽部」を背景にパチリ
日比谷通りに面した右側に、赤レンガ造りの威容を誇る東京銀行協会ビルがあります。現在は「銀行倶楽部」と称され、結婚式やパーティー或いは企業や役所の用談の場としても使われているようです。
実はここが戦後まもなく「バンカーズ・クラブ」と呼ばれたアメリカ第5空軍(FifthAir Force)のクラブでした。ここで立ち止まってがっしりとした建物を見上げました。言われてみればそのような重厚な雰囲気がうかがわれます。レンガ壁際で皆さん懐かしそうに記念写真をパチリ。 |
原田
入口はたしかこちらでしたね。ここから入った記憶がありますよ。
五十嵐
この︵現在、車寄せになっているスペース︶奥に芝生の庭があって、そこで屋外演奏をやるんですよ。兄貴︵故武要氏︶たちの楽器をエッチラコッチラ運んでましたね。当時のメンバーは誰でしたか。調べれば判るとおもいますが。
後藤
バンカーズ・クラブねぇ。山屋清とファイン&ダンディーズで1年位出ていたかしら。山屋清さん︵As︶、池沢行生さん︵B︶、村田さん︵D︶でした。ピアノは誰だったか、思い出せない。
原田
︵現在の玄関を見あげて︶きれいにしたのだろうけど、石造りの玄関は昔のままだね。
五十嵐
階段も木製の手すりも当時のまま、懐かしい。
原田
当時? 仕事はきつかったけど、それなりに結構楽しかったですよ。ここは結構レベルの高いバンドが出てましたよ。︵レイモンド︶コンデさん、︵フランシスコ︶キーコさん、与田︵輝雄︶さんがいたゲイセプテット。ナンシー梅木も一緒でしたね。
後藤
私はその後、立川のオフィサーズクラブで、ディック・グールドオーケストラのシンガーとして歌ってました。ピアノは秋吉敏子さんでしたね。トランペットは、今ブルーコーツのリーダー、森︵寿男︶さんでした。
原田
森さんは今も名門バンド﹁ブルーコーツ﹂率いて頑張ってますね。トシちゃん︵五十嵐氏︶もブルーコーツで、コンサートマスターやっていた時がありますよね。
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●バンカーズ・クラブ時代の華やかさが うかがわれるクラシックな階段
このビルの支配人の方に案内されて階段を上がっていきます。一部の雰囲気は残っているようですが、内装はすっかり変わってしまっているようです。五十嵐さんと後藤さんは当時の思い出と、現在が違いすぎて戸惑っている様子。逆に原田さんは「ここに何があって、あそこは確か何々でした」と、記憶の糸を手繰っています。
しかし、進駐軍が居た時代から60年近く経過していますから、昔を懐かしむものも少なく、記憶もすっかり風化してしまったのは止むを得ないことです。 |
バンカーズ・クラブを後にして、日比谷通りを左折して新橋方面に向かって歩き始めます。右手は皇居前広場、道路沿いには一流企業のビルディングがずらり並んで壮観です。手前角に東京海上本館ビル、先を行って信号を渡った角は日本郵船ビル、三菱商事ビル別館と連なっています。
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●軒並み接収された日比谷の現在の街並み ●「日比谷イン」のあった日比谷公園の現在の様子
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日比谷通りを懐かしげに歩く御三方。何度も通っている道でも、改めて戦後を思い出しながら歩くのも、感慨深いものがあるのでしょう。そして、馬場先門の交差点までに丸の内三井ビル、千代田ビル、明治生命館と立派なビルが続きます。
とりわけ明治生命館はかなり古典風な建物です。コリント式というのでしょうか、古典的な佇まいが印象的です。明治生命館は戦後接収され、極東空軍司令部として使われていました(1956年返還)。このような歴史的な建造物はこれからも大事に保存していって欲しいものです。 |
●GHQ本部として使用した第一相互ビル
馬場先門交差点を渡った先には東商ホール、東京會舘、帝国劇場、第一生命館ビルと続きます。これらのビルはほとんどGHQに接収されています。なかでも戦後を代表する建物といったら、何といっても第一生命ビルでしょう。今も歴史を感じさせる堂々とした威厳ある建物です。それも戦後の日本を動かしたGHQの存在があったことも少なからず影響しているのではないかと思います。
1945年進駐軍が来た時、第一相互ビル︵当時︶をGHQ本部として、最高司令官マッカーサーが自ら選んだそうです。GHQは戦後の一時期、日本を統括し様々な施策を施していました。
御三方は暫らく正面玄関で当時のことを話しながら、そのまま日比谷通りを歩いていきます。
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日比谷交差点を渡った一角は日本の映画、演劇の中心地です。現在でも映画街、宝塚ビル、日生劇場などが割拠しています。途中帝劇の案内ボードがあって、それを見つけた後藤さんなにやら嬉しそう。「このショーに息子が出ているの」。物静かな後藤さんが笑顔をみせました。
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●現在の人気スポット、「日比谷街」の様子
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懐かしげに歩き回って東京宝塚劇場の前に出ました。東宝劇場も接収された施設のひとつでした。昭和30年1月に解除されるまで日本人出演者以外は、全く出入りが出来なかったそうです。
現在の建物は1997年12月に閉場され、現在の建物は2001年1月新オープンしたものです。従って当時の面影は全くありませんが、アーニー・パイル劇場という名前は、今は幻のように残っているだけです。 |
●アーニー・パイル劇場があった 現在の東京宝塚劇場
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日比谷の映画街を歩き回って、また日比谷通りに戻ります。戦前帝劇といわれた日生劇場、世界的に有名な帝国ホテル前を通って内幸町の交差点まできました。交差点手前にあったのが﹁マヌエラ﹂という当時のトップクラスのクラブでした。現在は娘さんが和食レストランを経営しています。ここでは当時の芸能人、政治家、社長たちの日本を代表する社交場として存在していました。
内幸町の交差点を左折すると、新橋駅に向かう道路になります。この辺りに来ると途端に雑居ビルが多くなってきます。新橋駅近くになって、またまた戦後の話に花が咲きます。この周辺には多くのキャバレー、クラブがあって大賑わいだったそうです。
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原田
田村町にはNHKがあって、そして現在の航空会館のところに﹁飛行館スタジオ﹂があってね。昔、この辺りに良く出没してましたね。
五十嵐
現在の第一ホテルも接収されて、たしか高級将校の寄宿舎だった。ここは昔﹁フロリダ﹂という高級クラブがあったところ。クラブといっても現在のクラブとは違って、本当の大人の遊び場、社交場だった。華やかで豪華な雰囲気の中での演奏は面白かった。NHKにもシャープスの頃、歌伴でずいぶんやりましたが、ちっとも面白くなかった。
原田
演奏の合間にポーカーしたりして・・・・。
後藤
本当の話?
五十嵐
あの頃のジャズマンは金遣いが荒い人が多く﹁飲む・打つ・買う﹂の三拍子だった。とにかく生活が派手でしたよ。今とはえらい違いです。
原田
普通なら高級住宅を買えるぐらいのギャラを貰っていたのに、﹁江戸っ子は宵越しの金を持たない﹂とばかり、派手に遊んでいた。
五十嵐
その頃から手堅くやっていたのはH.Nさん、Bさんぐらいではないかな。逆に酒におぼれた人や、ギャンブルで身を滅ぼした人も居ないことはなかった。
原田
思い返せばうちの親父もよく遊んでいたから。その頃ヒロポン︵註︵7︶︶がバンドマンの間で流行っていたこともあったけど、さすが内の親父は手を出さなかったです。その代わり、家には居候みたいなバンドマンが年中いましてね。お袋が大変だな、と子供心に思っていました。︵続く︶
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註︵7︶︻ヒロポン︵Philopon︶︼‥メタンフェタミンという覚醒剤の一種で、ヒロポンは商品名。大脳に対し強い興奮作用がある。乱用・常習によって不眠、興奮、幻覚などの症状が現れる。日本軍でも夜間戦闘員になど投与されていたこともある。それが戦後市中に出回り、多くの中毒患者︵ポン中と呼ばれた︶が出て社会問題となった。1949 年︵昭和24年︶劇薬指定され製造禁止︵覚せい剤として︶、1951︵昭和26︶年覚せい剤取締法が制定された。以後、医療用途以外に一切の使用・所持が禁止された。
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御三方は日比谷から新橋へ、そして銀座並木通りに入ります。さすがに疲れチョッとしたお店に入って休憩することにしました。思い思いにお好みの肴を注文して、まずは冷たいビールを。歩きつかれた身体にガソリンが入ったせいか、頭と身体にすぐさま反応します。そして、食べながら飲みながら話は続いていきます。
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Q. 後藤さんがジャズ・シンガーを目指したのは、その頃からですか?
後藤
ジャズ・シンガーになろうと思ったのは、終戦後、中学生の頃でした。私の兄がギターを弾いていたこともあって、その影響が大きかったです。
五十嵐
僕も兄貴︵五十嵐武要氏*註︵8︶︶の影響で、この道に。
原田
僕は父親︵ジミー原田氏*註︵9︶︶の影響です。やがてバンドボーイとしてスタートして演奏するようになりました。その頃、五十嵐さんと面識はありました。大森駅で毎日、顔は合わせるんです。挨拶程度はしましたけど、会話はしたことなかったですね。
Q. 当時のギャラ︵出演料︶はおいくらくらいでしたか?
五十嵐
そうね~。バンドボーイのときはいくらだったかな。月給でいただいていました。3千円位だったかね。ちなみに、1ドル360円くらいの時代だった。普通のサラリーマンより良かったと思います。︵*註︵10︶︶
原田
そう。3千円くらいだったね。米軍キャンプでの演奏よりも、食べ物が魅力だったりして︵笑︶。
五十嵐
でもね。当時、3千円あったら結構な高給取りでしたよ。一日100円っていうことでしょ。蕎麦屋でかけそば一杯が20円くらいですよ。ラーメンだって30円だったかな。 原田 僕はバンカーズ・クラブのサンドイッチが好きでよく食べていましたけど、ジョージ川口さんなんかは飽きていたらしく、有楽町の中華料理屋に折詰めのチャーハンを買いに行かされました。皆さん、それを楽屋で食べていましたよ。 五十嵐 飽きていたということもあっただろうけど、当時の日本人にはサンドイッチを食べる習慣がなかったんですよね。 後藤 私がシンガーになりたての頃、保険会社に就職した友達の月給が5千円だったそうです。私も歌い始めたとき、5千円いただいていました。後に榎島さんたちから﹁うちのバンドで歌わないか﹂って、お誘いの言葉をいただきましてね。月給2万円出すって言うんですよ。ビックリしましたね。 五十嵐 すごいな! 後藤 でも、すぐ使ってなくなっちゃうの︵笑︶。当時、レコードが2千円だったんですよ。 五十嵐 めちゃくちゃ高かった…。 Q. 進駐軍のギャラはキャッシュだったのですか? 五十嵐 進駐軍の仕事のときはキャッシュではなく、﹁PD﹂といって小切手みたいなものをもらって、それを現金化するわけ。結局その資金は日本政府が負担するのだから、税金をもらったようなものだね。 原田 戦後暫らくジャズマンは景気が良くて、随分贅沢ができた。自分はあまり縁がなかったけれど︵笑︶。 後藤 私も同級生よりはるかに良い、本当にびっくりするような給料でした。 五十嵐 キャンプの仕事はランクがあって、最上位のSAに比べて普通のBとかCでは雲泥の差だったのではないかな。この格付け審査もずっとあったわけでなくて、途中でどうなっちゃったのかな。 Q. その頃はどんな曲を歌われていましたか? 後藤 当時の流行歌ですね。アメリカンポップです。テネシーワルツとかね。 原田 僕は江利チエミちゃんのバックバンドなんかで演奏していました。ソロで吹くなんてことはなかった。そこから﹁マヌエラ﹂というナイトクラブで、西條孝之介さや五十嵐さん、前田憲男さんのバンドに入って初めてソロ・パートを吹くようになりました。 Q. 米軍キャンプに行って、いちばん驚いたことは何ですか? 五十嵐 あのね。ハンバーガーとコカコーラ! 後藤 あと、アイスクリーム︵笑︶。 原田 僕たちの先輩なんかは、バーボンとかウィスキーでしょうね。 五十嵐 ハイボールとかね。僕たちはまだ若いから飲めなかったけど。何といってもハンバーガーとコカコーラ! 後藤 アイスクリームの美味しさといったら! 当時、﹁ジョンソン︵基地︶﹂のオフィシャル・クラブに行ったとき、永島のたっちゃんがマネージャーをやっていましてね。﹁何か食べたいか?﹂って聞かれたので、﹁アイスクリームが食べたい﹂って言ったら、大きなカップで出てきたのには驚きました︵笑︶。 原田 日本にもそのころアイスクリームはあったのかな? 五十嵐 あったよ。あるにはあったけど、アメリカのアイスクリームは、めちゃめちゃ美味しかった! 原田 いま食べると美味しくないだろうけど︵笑︶。後日僕は米国キャンプでウィスキーを飲みました。銘柄でいうと“カナディアンクラブ”とか“V.O”とか、比較的、安いバーボン・ウィスキーですよね。米兵が飲んでいるようなもの。僕の先輩もガンガン飲んでいましたね。 五十嵐 あと、スコッチ・ウィスキーね。“ホワイトホース”とか“ジョニーウォーカー”とか。米兵が飲むものだから、そんなに高価なものは扱っていなかったんでしょう。それでも普通の日本人には飲むことができなかったからね。知らなかったんじゃない。 米軍キャンプで仕事していたときは、サンクス・ギビングデーのような祝日になると、米兵がバイキングをしててね。僕たちにもご馳走してくれましたよ。それでまずびっくりしたのが、鳥のから揚げ。生まれてはじめて食べましたよ。あと、ポテトチップス、フライドポテト。 原田 食べ物の印象がいちばん強いですよね。クリスマスになると七面鳥ね。七面鳥なんて、決して美味しいものではなかったですけどね。パサパサして。 |
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Q. 日本の軍楽隊はアドリブ演奏をしなかった︵できなかった︶というのは本当ですか?
五十嵐
そうですね。アドリブ演奏ができるというと、戦前のアメリカ人ジャズ・ミュージシャンだと思います。僕らもレコードを聴いて︵アドリブ演奏を︶暗中模索しながら覚えましたね。
原田
10セントパートというものがありました。ジャズ・バンド用の楽譜を10セントで一日貸してくれる。アレンジが良くできててね。9人編成のもので、サックス3本、トランペット2本、トロンボーン1本、ドラムス、ベース、ピアノの9人。
後藤
あと、歌ものの楽譜で﹁ヒットキット﹂というものがありましたね。 五十嵐 日本でいうと、歌唱譜のようなもの。﹁1001﹂もあった。少し厚い本みたいで、アメリカヒットしている曲の楽譜だけど、﹁センイチ﹂といっていた。 後藤 米軍キャンプに行くと、その中にサービスクラブという場所があって、楽譜がいっぱい置いてあるんですよ。そこで閲覧できるようになっていました。 五十嵐 当時、アメリカで流行っているものもあったね。楽譜とそこに歌詞が書いてあって、何曲かひとまとめにして一冊になっていました。 後藤 購入することはできなかったのですが、私は特別に何冊かいただくことができました。ジャズ・オーケストレーション用の楽譜を榎島さんに差し上げたら、大変喜んでいました。 五十嵐 あと、アメリカで流行った曲を向こうのアレンジャーがジャズ・オーケストレーション用に譜面を起こしたものもありました。それがなぜあったかというと、軍楽隊でも演奏すれば、ダンス・ミュージックになるようにということ。楽譜が各パートごとに分かれたものでした。 サービス・クラブの係員の中には楽譜をくれる人もいました。だから、よく貰っていましたよ。なかなか楽譜が手に入らなかった時代だから、ありがたかったですよ。 原田 ●写真はカウントベーシーと彼のオーケストラの Vディスクである Vディスク︵*註︵11︶︶なんかもたくさん貰いました。 後藤 Vディスクってレコードよりも一回りくらい大きいのよね。 五十嵐 米軍キャンプ内のジュークボックス︵の中身︶はVディスクばかりだった。 原田 楽器もね。軍楽隊の人が日本人ミュージシャンに売るんですよ。その楽器に“U.S.”って文字が刻まれているやつですよ。 * 註︵8︶︻五十嵐武要︼‥東京生まれ︵1930年1月30日-2007年7月23日︶ウェスタンバンドを皮切りに高見健三とミッドナイトサンズ、ウェストライナーズ、リズムエースなど有名バンドで活躍した。通称“あんちゃん”と呼ばれ、バンド仲間の信頼もあつかった。またすぐれたテクニシャンで多くのファンを魅了した。 * 註︵9︶︻ジミー原田︼‥本名は原田譲二。神奈川県生まれ。︵1911年12月10日-1995年5月12日︶神戸のダンスホールで専属ドラマーになった後、自己のバンドを結成し関西地域を中心に活躍する。その後東京に進出し多くのバンドで華やかなプレイと独特の雰囲気が人気を博した。80年にはジミー原田をリーダーとする﹃オールドボーイズ﹄がTVやジャズクラブなど多方面で活躍していた。 * 註︵10︶︻当時のギャラ︼‥﹃高澤智昌は当時の報酬について﹁安い人でも普通の社会人の倍はもらっていた。もうけた人はもうけた﹂と指摘する。また穐吉敏子の記憶によれば、一九四六年に別府のダンスホールで演奏していた時の月給が一千円、一九四七年に福岡のダンスホールに属するバンドメンバーになった時の月給が三千五百円、その三ヵ月後には五千円、そして一九四八年に上京して、進駐軍のショーの伴奏をするバンドに加入した時の月給が一万三千円、その後、ナイトクラブの専属バンドのメンバーだった一九五一年には月給が五万円だったいう。五年間で五〇倍にも給料が上がったのは特殊な例かもしれないが、進駐軍クラブなどでの演奏はたしかに実入りがよかった。︵略︶。穐吉は一九四六年の17歳の時点ですでに大卒の新任公務員の給与の報酬を受取っていたことになる﹄︵﹁進駐軍クラブから歌謡曲へ/戦後日本ポピュラー音楽の黎明期﹂東谷 護著・みすず書房刊︶ * 註︵11︶︻Vディスク︼‥﹁V﹂はVICTORYを現す。国務省が第二次大戦中前線の兵隊用に作ったレコード。78回転でビッグバンドなどの演奏が録音されていた。ベニー・グッドマン、ダイナ・ショア、カウント・ベーシーなどのVディスクがよく知られている。 Q. 外国人ミュージシャンと一緒に演奏したことはありますか? 五十嵐 ありますよ。当時、渋谷に﹁フォーリナスクラブ﹂という外国人クラブがあってね。GI専門のナイトクラブでホステスもいて、みんなでそこに遊びに行くわけですよ。そこへ軍楽隊の人たちもよく来ていたので、一緒に演奏しました。 原田 徴兵制だから、その中にはすごい人もいたんですよ。ハンプトン・ホーズとかね。 五十嵐 戦前からだけどレイモンド・コンデさんとかフランシスコ・キーコさんとか。 原田 でも二人は帰化してました。日本の名前もありました。忘れてしまったけれど。 後藤 戦後だったらジミー・荒木さんも日本のジャズ発展に貢献された方でしたね。日本でのバップの創始者みたいな感じですけど。 Q. 主にどちらの米軍キャンプで演奏なさっていたのですか? 五十嵐 ジョンソン空軍基地とか、横田基地とか、朝霞キャンプ、横須賀︵キャンプ追浜︶。浜松町とか、品川キャンプもありました。 後藤 私は羽田が多かったです。一年くらいだったかな。ほぼ毎日、歌っていました。当時、青山会館も接収されていて、そこでも歌いましたね。 原田 竹橋にある如水クラブ︵如水会館・米軍将校宿舎︶もそうでしたね。 後藤 九段会館もそうね。 五十嵐 それから、如水会館の斜め前の学士会館︵米軍将校宿舎︶もあった。 原田 いま挙げた場所には、僕たちの先輩はみんな、出演していましたよ。 五十嵐 如水会館はGHQの査定があってね。ギャランティーがランク付けされているんです。スペシャルAとかみたいになると出演料が他より高い。スペシャルAの日本人ジャズ・バンドは4つしかなかった。スターダスターズ、ニューパシフィック・オーケストラとか。特別調達庁というものがありまして、そこがオーディションをするんですよ。 原田 とにかく専属で出演できたバンドは腕もすごかったんですね。 五十嵐 こうして話をしていると、昔のことがどんどんよみがえってくるね。いろいろと思い出してきたぞ! 原田 昨日のことは思い出せないのにね︵笑︶。 Q. 戦後に“アメリカ”というものに接したとき、どんな気持ちでしたか? 後藤 憧れそのものでしたから、サンフランシスコを訪れたときは感激でした。1958年のことでしたが、飛行機の機内からゴールデンゲートが見えたときは舞い上がっちゃった。一年半くらい住んでいたこともあります。 五十嵐 洋画がいっぱい入ってくるんですよ。その映画を見て、アメリカ人はこんな暮らしをしているんだ、なんて驚いたりしました。みんな車に乗っているし、道路だって果てしなく広くて長いし︵笑︶。 原田 僕もアメリカにはニューヨーク、ロサンジェルス、ラスベガス、ハワイと仕事しながら、生活してましたが、とにかく全てにわたってスケールが大きかったというのが正直な感想です。戦後、この業界に入って進駐軍としてのアメリカに接したのですが、はるか彼方のアメリカ。そんな感じでしたが、実際に住んでみると想像以上の国でしたね。 Q. 日本のジャズ・ブームが本格的に始まったのはいつからですか? 五十嵐 米軍が進駐してから3年くらい経ってからかな。ラジオでもジャズばっかり流していたし、アメリカ人にとっては当たり前の音楽だったんだろうけど、日本人にしてみれば新しい音楽ですから。みんな憧れていましたね。それがジャズ・ブームの中心だったんでしょうね。 Q. 目標にしていたアメリカ人ミュージシャンはどなたですか? 五十嵐 誰かな? たくさんいたけど…。目標というか、憧れ的な存在ならばカウント・ベーシー以外にはいないですね。今でもステージでベーシーのナンバーをよくやります。 後藤 私は最初、ドリス・デイとか、ダイナ・シュアかな。あとはジューン・クリスティ。ジューン・クリスティの“サムシング・クール”を聴いて感動しました。 原田 私も沢山好きなプレイヤーいすぎます。でも一番好きなのはジェリー・マリガンです。目標というわけではないけれど、日本公演で伴奏して改めて凄いなと思ったのは、フランク・シナトラです。L.A.やラスベガスで多くの有名プレイヤーと共演しましたが、シナトラはスケールが違ってました。 |
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御三方は昔話を交わしながら往時を思い出し、時間を忘れて語り合っていました。
この休憩のあと、銀座各所にあった米軍施設をぶらぶら歩きしながら辿っていきます。銀座4丁目には現在の和光が米軍のPX(酒保)として使われていたのは有名です。戦後の風景写真には必ずと言って良いほど掲載されています。 銀座はGHQ本部の裏側に位置していましたし、朝鮮戦争で参戦していた休暇の米軍兵たちも多く、また日本人も娯楽を求めて繰り出しました。そのため、沢山のクラブやバー、キャバレーがあったそうです。有名な店では「モンテカルロ」「黒バラ」「ファンタジア」、新橋には「グランドパレス」「銀馬車」などに人気がありました。(図参照)並木通りなどぶらぶら歩きながら「ここには何が」「向こう側には何があった」など懐かしそうに、記憶を辿って行きました。こうして進駐軍がいた当時の東京駅から日比谷、新橋、銀座での散歩を終えました。皆様ご苦労様でした。
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●昔を懐かしく想い出すように 語る後藤芳子さん ジャズ・シンガーとしてのスタートは昭和27年に北村英治さんのバンドからでした。東京を中心にナイトクラブやジャズライブなどを中心に、唄っていました。メンバーは北村さん︵CL︶、山屋清さん︵As︶、池沢行夫さん︵B︶、村田さん︵D︶でした。 進駐軍のキャンプでも随分行きました。都内に接収された場所が多くあって、その中でもGHQの将校クラブや将校宿舎などで日本人ジャズプレイヤーが沢山出演してました。 多くの演奏プレイヤーは東京駅北口や新宿南口で集められて行くのですが、私の場合はバンドの専属歌手として唄っていましたから、そういうことはありませんでした。 進駐軍のクラブで最初に行ったのは、バンカーズ・クラブでした。山屋清とファイン&ダンディーズで半年くらい出ていたかしら。ステージが二つか、三つあったのを覚えてます。半年ぐらいしてから立川︵空軍基地︶のクラブに行ったの。ディック・グールド︵tb︶が率いるフルバンドで、ピアノは最初のころは秋吉敏子さん。その後徳山陽さんに代わったけれど。渡辺貞夫さんや現在ブルーコーツのバンドマスターの森寿男さん︵Tp︶がリードトランペットとして入団された。昭和29年ごろだったと思う。 それから羽田のオフィサーズ・クラブ︵将校クラブ︶の榎島靖起とリズム・メイツ︵?︶というバンドで唄っていました。当時のメンバーはモンティー本多さん︵P︶、山木幸三郎さん︵G︶、津田純さん︵S︶、古山日出雄さん︵D︶、千葉さん︵Tp︶、影山さん︵B︶などが一緒でした。ここは結構長かったです。 ここにはサービス・クラブがあって、そこでVディスクやヒットキットなど貰えたの。永島のたっちゃんが“なに食べたい”というから“アイスクリーム”というと、こんな大きな︵15センチくらい?︶もので、びっくりしましたね。美味しかったかどうかは覚えていないけど︵笑︶。その頃、ワンちゃんこと犬塚弘さんも一緒でした。 東京のめぼしい建物は進駐軍に接収されて、六本木から青山にかけて結構クラブがあったの。そこに﹁レディースナック﹂という店にジューン・クリスティーが来たことがあってね。ピアノは桜井センリさん︵元クレイジーキャッツのピアノ担当︶。ちょっと間違えたことがあったとき、クリスティーはセンリさんの方をチョチョっと叩いて、にっこり微笑んだりして。 そのほかにも原宿の青山会館や、銀座のマツダビルの1階、新宿の伊勢丹の最上階もクラブになっていましてね。伊勢丹のクラブで唄っている時、ギャラが2000円だった。同級生の子が一流企業に勤めていたけれど、給与は500円ぐらいだからどれだけ高かったか。でもね、レコードはとても高くて簡単には手を出せなかったほど。ピアノは山崎唯さん。 マツダ・ビルにもクラブがあって、空軍将校宿舎になっていたんです。大通りに面したフロアーで、やっていました。渡辺貞夫さんの兄弟の文男さん︵D︶もいましたね。 ●毎日あちらこちらのクラブに出演してました。 後ろは山崎唯さんです 今はなくなったけど東京駅際に八重洲ホテルがあって、そこでもジャズが演奏されてました。個人的には八重洲に﹁ハバネラ﹂というキャバレーがあって、歌手になりたての頃唄っていた思い出があります。 米軍キャンプをはじめとして、その後さまざまなバンドと共演しながらジャズシンガーとして活動してきましたが、本場のジャズに触れたくて渡米を決意したのです。ですから、私の人生はジャズをきっかけに進駐軍時代に育てられ、ジャズシンガーの道を歩き続けてきたといってもいいかもしれません。︵談︶
(2012.06.07:池袋にて) |