色川武大(いろかわ・ぶだい)
1929年(昭4)、東京都新宿区生まれ。旧制第三中学校中退後、博打で生活を送る。のち、﹁探偵倶楽部﹂など、娯楽雑誌の編集者となる。別名井上志摩夫、御仲十。
1961年(昭36)、﹁黒い布﹂で第6回中央公論新人賞受賞。
1964年(昭39)、﹁白猫﹂同人になる。
1968年(昭43)、阿佐田哲也名義で﹁麻雀放浪記﹂を発表。麻雀小説を創始する。
1977年(昭52)、﹁怪しい来客簿﹂で第5回泉鏡花文学賞を受賞。同時に1977年(昭52)に第77回直木賞候補となる。
1977年(昭52)に﹁小説現代﹂に発表した﹁ぐれはまちどり﹂は日本文藝家協会の﹁現代小説'77﹂に収録される。
1977年(昭52)に発表した﹁生家へ﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1978﹂に収録される。
1978年(昭53)、﹁離婚﹂で第79回直木賞を受賞。
1978年(昭53)に﹁オール読物﹂に発表した﹁少女たち﹂は日本文藝家協会の﹁現代小説'78﹂に収録される。
1978年(昭53)に発表した﹁血﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1979﹂に収録される。
1979年(昭54)に﹁小説新潮﹂に発表した﹁幻について﹂は日本文藝家協会の﹁現代小説'79﹂に収録される。
1979年(昭54)に発表した﹁存命﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1980﹂に収録される。
1980年(昭55)に﹁オール読物﹂に発表した﹁走る少年﹂は日本文藝家協会の﹁ザエンターテインメント 1981﹂に収録される。
1982年(昭57)、﹁百﹂で第9回川端康成文学賞を受賞。
1982年(昭57)に﹁オール読物﹂に発表した阿佐田哲也名義の﹁黄金の腕﹂は日本文藝家協会の﹁ザエンターテインメント 1983﹂に収録される。
1983年(昭58)に﹁文藝春秋﹂に発表した﹁風婚﹂は日本文藝家協会の﹁ザエンターテインメント 1984﹂に収録される。
1985年(昭60)に発表した﹁陽は西へ﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1986﹂に収録される。
1986年(昭61)に﹁小説現代﹂に発表した阿佐田哲也名義の﹁三〇〇分一本勝負﹂は日本文藝家協会の﹁ベスト小説ランド 1987﹂に収録される。
1987年(昭62)に﹁小説現代﹂に発表した阿佐田哲也名義の﹁鼠の散歩﹂は日本文藝家協会の﹁現代の小説 1988﹂に収録される。
1988年(昭63)、﹁狂人日記﹂で第40回読売文学賞小説賞を受賞。
1988年(昭63)に発表した﹁疾駆﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1989﹂に収録される。
1988年(昭63)に発表した﹁赤い靴﹂は日本文藝家協会の﹁現代の小説 1989﹂に収録される。
1989年(平1)に﹁週刊小説﹂に発表した﹁オールドボーイ﹂と、阿佐田哲也名義で﹁小説現代﹂に発表した﹁泥足夜行﹂は日本文藝家協会の﹁現代の小説 1990﹂に収録される。
1989年(平1)に発表した﹁道路の虹﹂は日本文藝家協会の﹁文学 1990﹂に収録される。
1989年(平1)、死去。
色川武大
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色川 武大︵いろかわ たけひろ、1929年︿昭和4年﹀3月28日 - 1989年︿平成元年﹀4月10日︶は、日本の小説家、エッセイスト、雀士。筆名として阿佐田 哲也︵あさだ てつや︶ほか、井上 志摩夫︵いのうえ しまお︶、色川 武大︵いろかわ ぶだい︶、雀風子などを名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。
(一)^ ab“史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
(二)^ 飯沢匡﹃権力と笑のはざ間で﹄52頁
(三)^ ﹃贈従五位色川三中翁略伝﹄湯本武比古、1920、p15-16
(四)^ ただし、後年、夏堀が他の作家に﹁この人も﹃新日本文学﹄の会員ですよ﹂と紹介すると﹁いや、違う﹂と色川は否定したという。新日本文学会のイデオロギー臭を嫌っていたと思われる。
(五)^ abc﹁﹃離婚﹄と直木賞﹂ ﹃ばれてもともと﹄(ページ番号不詳)または﹃色川武大・阿佐田哲也エッセイズ1﹄pp.350- 収録。
(六)^ 色川によれば、本人は実物より魅力的な女性に書いたつもりであったのであるが、雑誌掲載後、夫人は、これでは登場人物が私の事だと思われてしまう、私のことをあんなにひどく書いて、などと色川に抗議し[5]、一時別居し離婚寸前の状態に陥った[5]。直木賞受賞後は、さらに夫人の不満は募ったという[5]。
(七)^ 色川は過去20年の間で10回も引越しを行っていた。
(八)^ 岩井寛﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶42頁
(九)^ ﹃阿佐田さんと色川さんと﹄ 和田 誠
(十)^ ﹃ぎゃんぶる百華﹄参照。
(11)^ ﹁雀鬼五十番勝負﹂などの作品に見られるように元々は﹁雀鬼﹂と呼ばれていたが、後にナンバーワン代打ちとして活躍する桜井章一を﹁雀鬼﹂と呼ぶことが一般的になったため、区別するために﹁雀聖﹂と呼ばれるようになった。[要出典]
(12)^ ﹁麻雀新撰組 in the 70s'﹂﹃近代麻雀﹄第30巻第7号、竹書房、2008年3月、11から14ページ。
(13)^ ﹃小説 阿佐田哲也﹄ pp.40-44
(14)^ 当時の新日本麻雀連盟︵2014年に日本スポーツ麻雀協会に名称変更︶による開催。その後名称を変更し﹁麻雀王座決定戦﹂となり、2012年からは﹁統一チャンピオン決定大会﹂となっている。
(15)^ ﹁阿佐田哲也の怪しい交友録﹂などのエッセイには、将棋界屈指の競輪狂として知られた芹沢博文をはじめとする将棋棋士の名が度々登場する。
(16)^ ﹁九勝六敗を狙え-の章﹂、﹃うらおもて人生録﹄収録(ページ番号不詳)。﹃色川武大・阿佐田哲也エッセイズ1﹄ pp.48- に再録。
(17)^ “﹁麻雀小説家も神と祀られる﹂神社の意外な実態”. 東洋経済オンライン (2021年1月25日). 2022年8月29日閲覧。
(18)^ abc﹁節制しても50歩100歩﹂ ﹃ばれてもともと﹄(1989年、ページ番号不詳) または﹃色川武大・阿佐田哲也エッセイズ1﹄pp.72- 収録。
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