善光寺
善光寺 | |
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![]() 本堂(国宝) | |
所在地 | 長野県長野市元善町491 |
位置 | 北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒 / 北緯36.6617000度 東経138.1877111度座標: 北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒 / 北緯36.6617000度 東経138.1877111度 |
山号 | 定額山 |
宗派 | 無宗派[1] |
本尊 | 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏) |
創建年 | (伝)皇極天皇3年(644年) |
開基 | (伝)皇極天皇(勅願) |
別称 | 信州善光寺、信濃善光寺 |
札所等 |
西国三十三所(番外) 坂東三十三観音(番外) 秩父札所三十四観音霊場(番外) 信濃三十三観音(客番) 西山国師遺跡霊場(客番) 真盛上人二十五霊場(番外) |
文化財 |
本堂(国宝) 三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財) |
公式サイト | 信州善光寺ホームページ |
法人番号 | 4100005000576 |
長野盆地における位置
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本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。
概要
編集歴史
編集善光寺の創建と発展
編集頼朝の善光寺参詣と北条家の信仰
編集戦国大名による善光寺如来の争奪
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Kan%C3%B4_Naizen_Saireizu_left.jpg/200px-Kan%C3%B4_Naizen_Saireizu_left.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/H%C5%8Dk%C5%8Dji_Daibutsu_Kaempfer.png/200px-H%C5%8Dk%C5%8Dji_Daibutsu_Kaempfer.png)
江戸時代と明治以後
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/%E3%80%8E%E5%9C%B0%E9%9C%87%E5%BE%8C%E4%B8%96%E4%BF%97%E8%AA%9E%E4%B9%8B%E7%A8%AE%E3%80%8F%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%9B%B301.jpg/220px-%E3%80%8E%E5%9C%B0%E9%9C%87%E5%BE%8C%E4%B8%96%E4%BF%97%E8%AA%9E%E4%B9%8B%E7%A8%AE%E3%80%8F%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%9B%B301.jpg)
年表
編集伽藍
編集本堂
編集御戒壇
編集外陣
編集その他
編集1759年に完成。五間四方宝形造りのお堂。内部中央には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版『一切経』全6771巻が納められており、高さ約6m重さ約5t奥行約4mの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、すべての経典を読んだのと同じ功徳を得られるという。
経蔵入り口にはこの輪蔵を考案した傅大士の像があり、経蔵内には伝教・慈覚の両大師像が安置されている。また経蔵の前には輪廻塔があり、この石の輪を回すことで功徳を積み、極楽往生できるといわれる。[72]
日本忠霊殿
編集善光寺平を一望できる大峰山の中腹にある。1945年には空襲の被害を避けるため、本尊の厨子をここに移動した。[73]
大勧進
編集大本願
編集ぬれ仏(延命地蔵尊)
編集1722年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
1759年に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、1944年に戦時中の金属供出に出されてしまう。現在の六地蔵は1954年に再興されたものである。
歴代回向柱納所
編集御開帳の回向柱はその後、この納所に建てられ、長い年月を経て土に還っていく。
爪彫如来
編集浄土真宗宗祖・親鸞聖人が善光寺に滞在した際に手彫りした阿弥陀如来と伝わる像である。
1838年に大勧進光純が建立したもので、仏の足跡を彫った石碑。いつの頃からか健足を願う場となっており、長野マラソンの前後には、多くのランナーが完走を願って手を合わせていく。
駒返橋
編集旧如来堂跡地蔵尊
編集仲見世通り中央西に「如来堂旧地」という石碑と延命地蔵がある。この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所だと言われる。延命地蔵は江戸神田恵念、覚念により現本堂落成から5年後の1712年に造立された。1847年の善光寺地震で焼損し、その後復興するも1891年に再び焼損、1915年に再興されるが、戦争により供出されてしまった。現在の地蔵尊は1949年に再興されたものである。
本善堂の阿闍梨池
編集山門を通り、左手(西)の方角に二基ある。佐藤兄弟塚とも言い、善光寺七名所の七塚のひとつ。源義経の忠臣・佐藤継信と佐藤忠信の兄弟を弔うために建てられたという言い伝えがある。市の有形文化財。
護法石(道具塚)
編集おやこ地蔵
編集仲見世通り
編集藤原采女亮碑
編集藤原采女亮は鎌倉時代の人で、髪結いを生活の糧にしたことから理髪業の祖といわれ、理容関係者の信仰を集めている。この碑は1897年に全国の同業者によって建立された。
真田家関係古塔
編集江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩真田家の重臣たちの供養塔。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰した。
むじな燈籠
編集-
六地蔵
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歴代回向柱納所
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仏足石
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爪彫如来の御堂
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護法石(道具塚)
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おやこ地蔵の御堂
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真田家関係古塔
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むじな燈籠
宿坊
編集
北西エリア |
北東エリア
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南西エリア |
南東エリア |
資料館
編集善光寺資料館
編集善光寺大勧進宝物館
編集善光寺大本願宝物館
編集文化財
編集福祉施設
編集善光寺大勧進養育院
編集善光寺大本願乳児院
編集1962年(昭和37年)、善光寺大本願法主の一条智光が社会福祉事業の経営を発案して乳児院が設立された。1981年(昭和56年)には社会福祉法人善光寺大本願福祉会が設立されて設置運営が移管された[82]。
行事
編集お朝事
編集年間行事
編集御開帳
編集御開帳(居開帳)の歴史
編集門前町
編集善光寺町
編集地名の変遷
編集伝説
編集牛に引かれて善光寺参り
編集弁慶のねじり柱
編集空を飛んだ柱
編集残された台座の謎
編集幽霊の絵馬
編集塩竈大明神御本地
編集善光寺と歴史上の人物
編集聖徳太子
編集小林一茶
編集文化
編集善光寺にまつわる慣用語
編集善光寺を舞台にした作品
編集- 柏崎 (能)
- 東海道中膝栗毛 - 旅の途中で善光寺に参詣している。
- お血脈(落語)
- 長門有希ちゃんの消失 - 涼宮ハルヒが企画した、合宿と称した旅行で登場する。
スポーツ・芸能
編集ゆかりの寺社
編集全国の善光寺・新善光寺
編集交通
編集![善光寺下駅](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/NaganoDentetsu-M7455.jpg/220px-NaganoDentetsu-M7455.jpg)
拝観
編集- 9-16時 三堂(本堂内陣、山門拝観、経蔵拝観)と史料館、さらにお戒壇巡り 一般1200円
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 【信州 善光寺】公式ウェブサイト
- 信州善光寺本坊 大勧進
- 大本山 善光寺大本願
- 善光寺平ライブカメラ(長野市のお天気カメラ)
- 善光寺びんずる市 - 毎年4月から11月まで(2022年は12月まで)毎月第2(または第4)土曜日 善光寺周辺で行われる市場
- 信州地域史料アーカイブ「善光寺関係」 - 善光寺関係の史料・映像・朗読などのコンテンツがある。