尚円王
琉球第2尚氏王朝初代国王
尚円王︵しょう えんおう、旧字体‥尙圓王、永楽13年︿1415年﹀- 成化12年7月28日︿1476年8月17日﹀︶は、琉球王国の国王。クーデターで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の初代国王︵在位1469年 - 1476年︶に即位した[1]。即位以前の名は金丸︵かなまる︶、童名は思徳金︵うみとくがね︶と言った。神号は金丸按司添末續之王仁子︵かなまるあじすえつぎのおうにし︶。
尚円王 | |
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琉球国王 | |
在位 | 1469年-1476年 |
別号 | 金丸按司添末続之王仁子(神号) |
全名 | 思徳金(幼名)→金丸(初名)→尚 円 |
出生 |
永楽13年(1415年) 北山王国、伊是名島諸見村 |
死去 |
成化12年7月28日(1476年8月17日) 琉球王国、首里城 |
埋葬 |
弘治14年(1501年)(改葬) 見上森陵→玉陵 |
配偶者 | 世添大美御前加那志 |
子女 |
尚真 音智殿茂金 |
家名 | 第二尚氏 |
王朝 | 第二尚氏王統 |
父親 | 尚稷 |
母親 | 瑞雲 |
生涯
編集即位前
編集
1415年、沖縄本島の北西部に浮かぶ伊平屋伊是名諸島の伊是名島の諸見村︵現在の、行政上は島尻郡に属する伊是名村諸見︶に父の尚稷と母の瑞雲の長男として生まれたと言われている。童名は思徳金︵うみとくがね︶と言った[注釈1]。父を助けて農業を手伝っていたが、金丸が数え年で20歳︵1434年︶の時、両親を亡くしたとされる。そのとき、弟︵後の尚宣威王︶は5歳だった。
しばらく農業に励んでいたが、旱魃にもかかわらず金丸の田だけ水が枯れなかったことから、村人たちから盗水の嫌疑をかけられるようになった。耐えかねた金丸は、正統3年︵1438年︶、24歳の時に妻と弟を連れて島を後にし、沖縄本島の国頭村︵現・国頭郡国頭村︶へ逃亡したと伝えられる。ただしこの伝説は、尚巴志王の祖父の佐銘川大主︵さめかわおおぬし︶の伝説との類似が指摘されており、それをなぞった後世の作り話との説もある。
琉球国金丸世主書状︵1471年︶
国頭村でも余所者ということで金丸一家は受け入れられず、正統6年︵1441年︶、27歳の時に再び国頭村を後にして、久志などを経て首里︵現・那覇市︶へ向かった。首里に到着すると、金丸は当時王叔だった越来王子︵後の尚泰久王︶に見い出されて、その家臣となった。当初は下役であったが、金丸は直ちに頭角を表し、景泰3年︵1452年︶、38歳の時に黄冠に昇った。冠の制度は後の嘉靖3年︵1524年︶の制定であるので、黄冠という史書の記述は後世の当てはめであろうが、紫冠相当︵親方︶の位階のなかった当時においては黄冠は最高位であり、金丸は首里に再移住・仕官して10年前後で高官に抜擢されたことになる。その後尚泰久が即位すると、景泰5年︵1454年︶に西原間切の内間領主に任命された。仕官14年目にして、自らの領地︵采地︶を有するまでに出世したのである。
金丸はその後も順調に出世し、天順3年︵1459年︶には、御物城御鎖側官︵貿易長官︶に就任した。この職は同時に王への取次職でもあり、王への上申は金丸を経由する必要があることを意味した。尚泰久王の信頼が絶大であったことがうかがえる。しかし、翌年、尚泰久王が薨去すると、世子尚徳が即位したが、尚徳王と金丸の関係は尚泰久王の時のようにはいかず、血気にはやる若き王を金丸が諫めることもしばしばであった。正史はいずれも尚徳王の悪政がつづられているが、真偽は定かでない。いずれにしろ、成化2年︵1466年︶には喜界島に尚徳王自ら遠征に出向くなど、無謀とも思える政策を重ね、次第に重臣の信頼を失っていったのは確かなようである。果たして喜界島への親征は成功し、琉球は奄美群島を一応は支配下に収めることになったが、成化4年︵1468年︶8月、金丸はついに内間村に隠遁することになる。54歳の時であった。
クーデターによる即位
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成化5年︵1469年︶4月、尚徳王が薨去し、法司︵三司官︶はその世子を即位させようと、重臣たちを招集して会議を開いたが、国王としての資質を問われ、その席で金丸を次期王に推すことが決定され、金丸は隠遁先から首里に迎えられ即位し、尚円と名乗る。[注釈2]ここから第二尚氏王統が始まった。伝承ではこの場で、泊村の老人安里大親が神がかりして﹁物呉︵ものく︶ゆすど我御主︵わがうすう︶、内間御鎖︵うちまうざし︶ど我御主﹂︵財貨を与えてくれる者こそ我が主であり、それは内間金丸さまである︶と世謡︵ユーウテー︶を謡いだした[注釈3]。それを聞いた一同は﹁ヲーサーレー﹂︵その通り︶と唱和して、金丸を王に推戴したという[2]。
この王朝交代劇は、第二尚氏公式の史書である﹃中山世譜﹄﹃球陽﹄にそれぞれ、﹁︵尚徳の︶世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す。︵中山世譜巻1歴代総紀︶﹂、﹁貴族近臣、其の変有るを見、先を争ひて逃去す。王妃・乳母、世子を擁着して真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す。︵球陽巻3附紀 尚円王伝︶﹂とあり、クーデターが行われたことは間違いない。ただし、この企てに金丸自身が積極的・主体的に関与していたか否かは定かではなく、あくまでも事後に群臣の推挙を受け、一度は隠遁した身ながらやむを得ず王位を受けた、という体裁である。 このクーデターの時期は、﹃球陽﹄の記述からすれば7月となる。
伝承では、第一尚氏の後裔と称する門中はいくつかある。たとえば、孫氏平田家︵尚思紹王次男︵三男とも︶後裔︶、武氏嘉陽家︵尚泰久王五男後裔︶、雍氏目取真家︵尚徳王三男後裔︶、明氏亀谷家︵尚徳王三男後裔︶等である[3]。もっとも家譜に記載があるわけではないので真偽はわからない。それゆえ、実際どの程度の虐殺があったのかは不明である。
即位後
編集天王寺・龍福寺・崇元寺を建立した。
また、中国との朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢とした。
家族
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●父‥尚稷
●母‥瑞雲
●妃‥世添大美御前加那志︵童名・宇喜也嘉、号・月光。1445年︵正統10年︶ - 1505年4月4日︵弘治18年3月1日︶。父名不伝︶
●長男‥尚真、久米中城王子︵のち即位︶
●長女‥聞得大君加那志︵初代聞得大君。童名・音智殿茂金、号・月清。生没年不詳︶
● 弟 尚宣威王(第二尚氏二世)
伝承
編集- 側室:君清らの按司加那志
- 子:内間大親
- 側室:まむた親部の妹内間ノロ
- 子:章氏安谷屋若松
- 側室:平安山ノロ
- 子:楊氏山内昌信
- 兄(長男) 大米須親方(翁氏鼻祖*尚徳王の時代の三司官)
- 兄(次男) 上間大親(西平殿内元祖)
登場作品
編集- テレビドラマ
- 琉球放送創立65周年特別番組 琉球歴史ドラマ「尚円王」(2020年)
脚注
編集注釈
編集出典
編集外部リンク
編集- 『王代記』 琉球大学附属図書館
- 『尚円』 - コトバンク
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