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[[ファイル:Alexander III of Russia.JPG|thumb|270px|[[アレクサンドル3世]]は、ロシア大公の称号に関する規定に重要な修正を加えた]]

[[ファイル:Alexander III of Russia.JPG|thumb|270px|[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]は、ロシア大公の称号に関する規定に重要な修正を加えた]]

以下は[[ロマノフ家|ロシア帝室]]の成員のうち、'''ヴェリーキー・クニャージ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Великий князь}})の称号を許された人物の一覧である。[[ヴェリーキー・クニャージ]]は日本語では「[[大公]]」に相当する。その他、英語では「[[:en:Grand duke|Grand Duke]]」と訳されることが多いものの、「[[:en:Grand prince|Grand Prince]]」の方がより正確な訳語といえる。この[[儀礼称号]]は[[ロシア皇帝]]の男系子孫のみに許される称号であり、[[殿下]]([[:en:Imperial Highness|His Imperial Highness]])の称号と一緒に授けられた。'''ロシア大公'''は主権者ではないが、[[ロシア帝国]]を統べる一族に属し、帝国の支配者の一員とみなされていた。

以下は[[ロマノフ家|ロシア帝室]]の成員のうち、'''ヴェリーキー・クニャージ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Великий князь}})の称号を許された人物の一覧である。[[ヴェリーキー・クニャージ]]は日本語では「[[大公]]」に相当する。その他、英語では「[[:en:Grand duke|Grand Duke]]」と訳されることが多いものの、「[[:en:Grand prince|Grand Prince]]」の方がより正確な訳語といえる。この[[儀礼称号]]は[[ロシア皇帝]]の男系子孫のみに許される称号であり、[[殿下]]([[:en:Imperial Highness|His Imperial Highness]])の称号と一緒に授けられた。'''ロシア大公'''は主権者ではないが、[[ロシア帝国]]を統べる一族に属し、帝国の支配者の一員とみなされていた。



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=== 称号付与の厳格化 ===

=== 称号付与の厳格化 ===

[[ニコライ1世]]に男子が多く生まれると、大公の数は急に増え始めた。このおかげで、ロシアはかつての帝位継承が常に危ぶまれ、国家が不安定になる状況から抜けだすことが出来た。大公を名乗る権利は皇帝の男系子孫であれば生じ、当初は何の制限も設けられていなかった。しかし大公の人数が20人をこえた1880年代になると、時の皇帝[[アレクサンドル3世]]はその数が多すぎると感じるようになった。これ以後も全ての男系男子に大公の称号を許せば、帝室の権威と大公という称号の重みは低下してしまう、と皇帝は考えたのである。

[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]に男子が多く生まれると、大公の数は急に増え始めた。このおかげで、ロシアはかつての帝位継承が常に危ぶまれ、国家が不安定になる状況から抜けだすことが出来た。大公を名乗る権利は皇帝の男系子孫であれば生じ、当初は何の制限も設けられていなかった。しかし大公の人数が20人をこえた1880年代になると、時の皇帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]はその数が多すぎると感じるようになった。これ以後も全ての男系男子に大公の称号を許せば、帝室の権威と大公という称号の重みは低下してしまう、と皇帝は考えたのである。




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|[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル・フョードロヴィチ]]||[[カール・フリードリヒ (ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]||1728年2月21日||1762年7月17日||1762年にピョートル3世として帝位を継承

|[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル・フョードロヴィチ]]||[[カール・フリードリヒ (ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]||1728年2月21日||1762年7月17日||1762年にピョートル3世として帝位を継承

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|[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル・フョードロヴィチ]]||1754年10月1日||1801年3月23日||1796年にパーヴェル1世として帝位を継承

|[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル・フョードロヴィチ]]||1754年10月1日||1801年3月23日||1796年にパーヴェル1世として帝位を継承

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|[[アレクサンドル1世|アレクサンドル・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1777年12月23日||1825年12月1日||1801年にアレクサンドル1世として帝位を継承

|[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1777年12月23日||1825年12月1日||1801年にアレクサンドル1世として帝位を継承

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|[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1779年5月8日||1831年6月27日|| 

|[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1779年5月8日||1831年6月27日|| 

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|[[ニコライ1世|ニコライ・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1796年7月6日||1855年3月2日||1825年にニコライ1世として帝位を継承

|[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1796年7月6日||1855年3月2日||1825年にニコライ1世として帝位を継承

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|[[ミハイル・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]||1798年2月8日||1849年9月9日|| 

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|[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル・ニコラエヴィチ]]||[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ・パヴロヴィチ]]||1818年4月17日||1881年3月13日||1855年にアレクサンドル2世として帝位を継承

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|[[ドミトリー・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|ドミトリー・コンスタンチノヴィチ]]||[[コンスタンチン・ニコラエヴィチ]]||1860年1月13日||1919年1月30日||銃殺

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|[[ミハイル・ミハイロヴィチ大公|ミハイル・ミハイロヴィチ]]||[[ミハイル・ニコラエヴィチ]]||1861年10月16日||1929年4月29日||亡命ののち狂死

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|[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ]]||[[ミハイル・ニコラエヴィチ]]||1866年4月13日||1933年2月26日||亡命

|[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ]]||[[ミハイル・ニコラエヴィチ]]||1866年4月13日||1933年2月26日||亡命

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|[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ]]||[[アレクサンドル3世|アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ]]||1871年5月6日||1899年8月9日||

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|アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ||[[ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ]]||1875年8月31日||1877年3月16日|| 

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|[[ドミトリー・パヴロヴィチ]]||[[パーヴェル・アレクサンドロヴィチ]]||1891年9月18日||1941年3月5日||亡命

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|[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ・ニコラエヴィチ]]||[[ニコライ2世|ニコライ・アレクサンドロヴィチ]]||1904年8月12日||1918年7月17日||銃殺

|[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ・ニコラエヴィチ]]||[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ・アレクサンドロヴィチ]]||1904年8月12日||1918年7月17日||銃殺

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2021年6月13日 (日) 10:16時点における最新版

アレクサンドル3世は、ロシア大公の称号に関する規定に重要な修正を加えた

:Великий князьGrand DukeGrand Prince殿His Imperial Highness

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[]


князьkunigaitis

9使使

使1617

19213

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12018803

3188671472

391886 - 1918Князь императорской крови33311

[]


3021918131

ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家のロシア大公[編集]

名前 父親 生年 没年 付記
ピョートル・フョードロヴィチ カール・フリードリヒ 1728年2月21日 1762年7月17日 1762年にピョートル3世として帝位を継承
パーヴェル・ペトロヴィチ ピョートル・フョードロヴィチ 1754年10月1日 1801年3月23日 1796年にパーヴェル1世として帝位を継承
アレクサンドル・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1777年12月23日 1825年12月1日 1801年にアレクサンドル1世として帝位を継承
コンスタンチン・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1779年5月8日 1831年6月27日  
ニコライ・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1796年7月6日 1855年3月2日 1825年にニコライ1世として帝位を継承
ミハイル・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1798年2月8日 1849年9月9日  
アレクサンドル・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1818年4月17日 1881年3月13日 1855年にアレクサンドル2世として帝位を継承
コンスタンチン・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1827年9月27日 1892年1月29日  
ニコライ・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1831年8月8日 1891年4月25日  
ミハイル・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1832年10月25日 1909年12月18日  
ニコライ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1843年9月20日 1865年4月24日  
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1845年3月10日 1894年11月1日 1881年にアレクサンドル3世として帝位を継承
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1847年4月22日 1909年2月17日  
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1850年1月14日 1908年11月14日  
ニコライ・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1850年2月14日 1918年1月14日  
ニコライ・ニコラエヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ 1856年11月18日 1929年1月5日  
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1857年5月10日 1905年2月17日  
コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1858年8月22日 1915年1月15日  
ニコライ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1859年4月26日 1919年1月30日 銃殺
ドミトリー・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1860年1月13日 1919年1月30日 銃殺
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1860年10月11日 1919年1月30日 銃殺
ミハイル・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1861年10月16日 1929年4月29日 亡命ののち狂死
ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1862年7月13日 1879年2月27日
ゲオルギー・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1863年8月23日 1919年1月30日 銃殺
ピョートル・ニコラエヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ 1864年1月22日 1931年6月17日 亡命
アレクサンドル・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1866年4月13日 1933年2月26日 亡命
ニコライ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1868年5月6日 1918年7月17日 1894年にニコライ2世として帝位を継承。銃殺
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1869年6月7日 1870年5月2日
セルゲイ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1869年10月7日 1918年7月17/18日 銃殺
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1871年5月6日 1899年8月9日
アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1875年8月31日 1877年3月16日  
アレクセイ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1875年12月28日 1895年3月1日  
キリル・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1876年9月30日 1938年10月13日 亡命
ボリス・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1877年11月24日 1943年11月9日  
ミハイル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1878年11月22日 1918年7月13日 1917年にミハイル2世として短期間かつ名目的に帝位を継承。銃殺
アンドレイ・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1879年5月14日 1956年10月30日 亡命
ドミトリー・パヴロヴィチ パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1891年9月18日 1941年3月5日 亡命
アレクセイ・ニコラエヴィチ ニコライ・アレクサンドロヴィチ 1904年8月12日 1918年7月17日 銃殺

関連項目[編集]