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「ロシア大公一覧」の版間の差分

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以下は[[ロマノフ家|ロシア帝室]]の成員のうち、'''ヴェリーキー・クニャージ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Великий князь}})の称号を許された人物の一覧である。[[ヴェリーキー・クニャージ]]は日本語では「[[大公]]」に相当する。その他、英語では「[[:en:Grand duke|Grand Duke]]」と訳されることが多いものの、「[[:en:Grand prince|Grand Prince]]」の方がより正確な訳語といえる。この[[儀礼称号]]は[[ロシア皇帝]]の男系子孫のみに許される称号であり、[[殿下]]([[:en:Imperial Highness|His Imperial Highness]])の称号と一緒に授けられた。'''ロシア大公'''は主権者ではないが、[[ロシア帝国]]を統べる一族に属し、帝国の支配者の一員とみなされていた。

以下は[[ロマノフ家|ロシア帝室]]の成員のうち、'''ヴェリーキー・クニャージ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Великий князь}})の称号を許された人物の一覧である。[[ヴェリーキー・クニャージ]]は日本語では「[[大公]]」に相当する。その他、英語では「[[:en:Grand duke|Grand Duke]]」と訳されることが多いものの、「[[:en:Grand prince|Grand Prince]]」の方がより正確な訳語といえる。この[[儀礼称号]]は[[ロシア皇帝]]の男系子孫のみに許される称号であり、[[殿下]]([[:en:Imperial Highness|His Imperial Highness]])の称号と一緒に授けられた。'''ロシア大公'''は主権者ではないが、[[ロシア帝国]]を統べる一族に属し、帝国の支配者の一員とみなされていた。



== 概要 ==

=== 大公位の成立 ===

[[スラヴ語]]起源の[[ロシア語]]「[[クニャージ]]({{lang|ru|князь}})」あるいは[[バルト語]]起源の[[リトアニア語]]「クニガイティス(kunigaitis)」は、現在は普通「[[公]]」と訳されているが、実際には王と同種の意味であった。つまり、主権者としての「ヴェリーキー・クニャージ」は「大公爵」というより「大王」「大君主」に近い。

[[スラヴ語]]起源の[[ロシア語]]「[[クニャージ]]({{lang|ru|князь}})」あるいは[[バルト語]]起源の[[リトアニア語]]「クニガイティス(kunigaitis)」は、現在は普通「[[公]]」と訳されているが、実際には王と同種の意味であった。つまり、主権者としての「ヴェリーキー・クニャージ」は「大公爵」というより「大王」「大君主」に近い。



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大公の称号付与には、本来は明確な規定など存在しなかった。大公の称号を有する者が、自分の相続者にこれを与えることで受け継がれていただけだったのである。19世紀に入る以前のロシア帝室は、男子の成員が2人あるいは1人という状況が長く続き、帝位継承は恒常的に不安定だった。大公を名乗れる男子の成員は数少なかった。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ・ペトロヴナ]]女帝は、帝室に男子が一人もいなくなると、帝室の男系子孫ではない自分の姉の息子([[ピョートル3世]])に皇族の資格と大公の身分を与えて後継者にした。

大公の称号付与には、本来は明確な規定など存在しなかった。大公の称号を有する者が、自分の相続者にこれを与えることで受け継がれていただけだったのである。19世紀に入る以前のロシア帝室は、男子の成員が2人あるいは1人という状況が長く続き、帝位継承は恒常的に不安定だった。大公を名乗れる男子の成員は数少なかった。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ・ペトロヴナ]]女帝は、帝室に男子が一人もいなくなると、帝室の男系子孫ではない自分の姉の息子([[ピョートル3世]])に皇族の資格と大公の身分を与えて後継者にした。



=== 称号付与の厳密化 ===

[[ニコライ1世]]に男子が多く生まれると、大公の数は急に増え始めた。このおかげで、ロシアはかつての帝位継承が常に危ぶまれ、国家が不安定になる状況から抜けだすことが出来た。大公を名乗る権利は皇帝の男系子孫であれば生じ、当初は何の制限も設けられていなかった。しかし大公の人数が20人をこえた1880年代になると、時の皇帝[[アレクサンドル3世]]はその数が多すぎると感じるようになった。これ以後も全ての男系男子に大公の称号を許せば、帝室の権威と大公という称号の重みは低下してしまう、と皇帝は考えたのである。

[[ニコライ1世]]に男子が多く生まれると、大公の数は急に増え始めた。このおかげで、ロシアはかつての帝位継承が常に危ぶまれ、国家が不安定になる状況から抜けだすことが出来た。大公を名乗る権利は皇帝の男系子孫であれば生じ、当初は何の制限も設けられていなかった。しかし大公の人数が20人をこえた1880年代になると、時の皇帝[[アレクサンドル3世]]はその数が多すぎると感じるようになった。これ以後も全ての男系男子に大公の称号を許せば、帝室の権威と大公という称号の重みは低下してしまう、と皇帝は考えたのである。




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39[[]]1886 - 1918{{lang|ru|[[:ru:Князь императорской крови|Князь императорской крови]]}}33[[|]]311

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=== 大公の消滅 ===

大公の数は修正条項の存在以外の理由でも減少し始めた。革命以前の30年に、大公の称号を有する皇族男子は2人しか生まれなかった。革命後は、特に[[貴賤結婚]]のせいで帝室の成員と呼べる者の数は著しく減った。1918年以後、それまでのロシア皇帝の息子ないし男系孫として大公を名乗る資格のある者は1人も生まれていない。そしてアレクサンドル3世の修正条項が加えられた結果、完全に争う余地なくロシア大公を名乗ることのできるロシア帝室の末裔は、現在1人も存在しない。

大公の数は修正条項の存在以外の理由でも減少し始めた。革命以前の30年に、大公の称号を有する皇族男子は2人しか生まれなかった。革命後は、特に[[貴賤結婚]]のせいで帝室の成員と呼べる者の数は著しく減った。1918年以後、それまでのロシア皇帝の息子ないし男系孫として大公を名乗る資格のある者は1人も生まれていない。そしてアレクサンドル3世の修正条項が加えられた結果、完全に争う余地なくロシア大公を名乗ることのできるロシア帝室の末裔は、現在1人も存在しない。



== ロマノフ=ホルシュタイン=ゴットルプ家のロシア大公 ==

== ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家のロシア大公 ==

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!名前!!父親!!生年!!没年!!付記

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2016年10月10日 (月) 04:58時点における版

アレクサンドル3世は、ロシア大公の称号に関する規定に重要な修正を加えた

:Великий князьGrand DukeGrand Prince殿His Imperial Highness


князьkunigaitis

9使使

使1617

19213


12018803

3188671472

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3021918131

ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家のロシア大公

名前 父親 生年 没年 付記
ピョートル・フョードロヴィチ カール・フリードリヒ 1728年2月21日 1762年7月17日 1762年にピョートル3世として帝位を継承
パーヴェル・ペトロヴィチ ピョートル・フョードロヴィチ 1754年10月1日 1801年3月23日 1796年にパーヴェル1世として帝位を継承
アレクサンドル・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1777年12月23日 1825年12月1日 1801年にアレクサンドル1世として帝位を継承
コンスタンチン・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1779年5月8日 1831年6月27日  
ニコライ・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1796年7月6日 1855年3月2日 1825年にニコライ1世として帝位を継承
ミハイル・パヴロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ 1798年2月8日 1849年9月9日  
アレクサンドル・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1818年4月17日 1881年3月13日 1855年にアレクサンドル2世として帝位を継承
コンスタンチン・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1827年9月27日 1892年1月29日  
ニコライ・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1831年8月8日 1891年4月25日  
ミハイル・ニコラエヴィチ ニコライ・パヴロヴィチ 1832年10月25日 1909年12月18日  
ニコライ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1843年9月20日 1865年4月24日  
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1845年3月10日 1894年11月1日 1881年にアレクサンドル3世として帝位を継承
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1847年4月22日 1909年2月17日  
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1850年1月14日 1908年11月14日  
ニコライ・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1850年2月14日 1918年1月14日  
ニコライ・ニコラエヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ 1856年11月18日 1929年1月5日  
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1857年5月10日 1905年2月17日  
コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1858年8月22日 1915年1月15日  
ニコライ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1859年4月26日 1919年1月30日  
ドミトリー・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1860年1月13日 1919年1月30日  
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ニコラエヴィチ 1860年10月11日 1919年1月30日  
ミハイル・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1861年10月16日 1929年4月29日  
ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・ニコラエヴィチ 1862年7月13日 1879年2月27日  
ゲオルギー・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1863年8月23日 1919年1月30日  
ピョートル・ニコラエヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ 1864年1月22日 1931年6月17日  
アレクサンドル・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1866年4月13日 1933年2月26日  
ニコライ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1868年5月6日 1918年7月17日 1894年にニコライ2世として帝位を継承
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1869年6月7日 1870年5月2日  
セルゲイ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1869年10月7日 1918年7月17/18日  
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1871年5月6日 1899年8月9日  
アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1875年8月31日 1877年3月16日  
アレクセイ・ミハイロヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 1875年12月28日 1895年3月1日  
キリル・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1876年9月30日 1938年10月13日  
ボリス・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1877年11月24日 1943年11月9日  
ミハイル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1878年11月22日 1918年7月13日 1917年にミハイル2世として短期間かつ名目的に帝位を継承
アンドレイ・ウラジーミロヴィチ ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ 1879年5月14日 1956年10月30日  
ドミトリー・パヴロヴィチ パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1891年9月18日 1941年3月5日  
アレクセイ・ニコラエヴィチ ニコライ・アレクサンドロヴィチ 1904年8月12日 1918年7月17日  

関連項目