「上田自由大学」の版間の差分
編集の要約なし |
Evelyn-rose (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
(6人の利用者による、間の7版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-8-1.jpg|thumb|260px|上田自由大学の講義風景。講師は[[高倉輝]]。]]
|
|||
'''上田自由大学'''(うえだじゆうだいがく)は、1920年代初めから30年代初めにかけて、[[長野県]][[上田市]]・[[小県郡]]地域の青年たちが起こした民衆による地域文化の創造と変革を求める自由教育運動である。 |
'''上田自由大学'''(うえだじゆうだいがく)は、1920年代初めから30年代初めにかけて、[[長野県]][[上田市]]・[[小県郡]]地域の青年たちが起こした民衆による地域文化の創造と変革を求める自由教育運動である。 |
||
この地域で創造的に生きようとしていた金井正・山越脩蔵・猪坂直一という3人の青年たちと、新しい文化運動の実現に意欲を示していた在野の哲学者である[[土田杏村]]との人間的な交流の中から生み出された。 |
この地域で創造的に生きようとしていた金井正・山越脩蔵・猪坂直一という3人の青年たちと、新しい文化運動の実現に意欲を示していた在野の哲学者である[[土田杏村]]との人間的な交流の中から生み出された。 |
||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
9行目: | 10行目: | ||
信濃自由大学は、1921年11月、上田市横町の神職合議所を会場に、[[恒藤恭]]の「法律哲学」で始まった。22、3歳から60歳くらいまでの聴講者50名余りが集まったが、その姿を見て、講師の恒藤は、”一種悲壮な感”にうたれたという。京都に帰ってから恒藤は、聴講者たちに宛てた手紙の中で、「真理と自由とに向かって熱烈な欲求をもっている人々と、それを取り巻いている簡素な、うす汚い建物の内部との対照がその建物の中にはいった瞬間に、私の眼にはっきりと映じた為ではなかったらうか」と書いている<ref>「信濃自由大学聴講者諸君!」『信濃自由大学の趣旨及内容』1923年</ref>。 |
信濃自由大学は、1921年11月、上田市横町の神職合議所を会場に、[[恒藤恭]]の「法律哲学」で始まった。22、3歳から60歳くらいまでの聴講者50名余りが集まったが、その姿を見て、講師の恒藤は、”一種悲壮な感”にうたれたという。京都に帰ってから恒藤は、聴講者たちに宛てた手紙の中で、「真理と自由とに向かって熱烈な欲求をもっている人々と、それを取り巻いている簡素な、うす汚い建物の内部との対照がその建物の中にはいった瞬間に、私の眼にはっきりと映じた為ではなかったらうか」と書いている<ref>「信濃自由大学聴講者諸君!」『信濃自由大学の趣旨及内容』1923年</ref>。 |
||
|
|||
上田自由大学の講座の開講時期は、農村青年の時間的な余裕を考慮して、いわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月までとし、聴講料は聴講者が1講座3円程度を負担し、人文科学系の講座を中心に、1講座平均5日間、1日平均約3時間の講義を行っている。講師には、法律哲学の恒藤恭をはじめ、哲学概論の土田杏村・[[佐竹哲雄]]、文学論の[[タカクラ・テル]] |
上田自由大学の講座の開講時期は、農村青年の時間的な余裕を考慮して、いわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月までとし、聴講料は聴講者が1講座3円程度を負担し、人文科学系の講座を中心に、1講座平均5日間、1日平均約3時間の講義を行っている。講師には、法律哲学の恒藤恭をはじめ、哲学概論の土田杏村・[[佐竹哲雄]]、文学論の[[高倉輝|タカクラ・テル]]、哲学史の[[出隆]]・[[谷川徹三]]、社会学の[[新明正道]]、仏教学の[[金子大栄]]、社会思想史の[[波多野鼎]]、政治学の今中次麿、心理学の大脇義一、社会政策論の[[松沢兼人]]など、学問の分野でも新しい機運を代表する人々が招かれた。その講義内容は、どの講師も普通の大学での講義と同様なものを講義していたと考えられており、現存する筆記ノートによればかなり高度であったことが知られる。今中次麿は﹁私の一番嬉しいのは私が学校に於けると同じい自由を与えられ同一程度の講義をしたにも係はらず御諒解下すった御様子を見出たことであります﹂と語っている<ref>馬場直次郎ノート﹁上田自由大学講座筆記﹂</ref>。また自由大学1週間の講義は大学1年間の講義に匹敵したといわれ、第2期に出講した山口正太郎は、﹁大阪商大の一年分の講義が五日目に終ってしまって、あわてて宿屋で翌日の講義の準備﹂をしたというエピソードも残っている<ref>{{harvnb|高倉テル|1937}}</ref>。
|
||
聴講者は、1講座当たり40名で、比較的富裕な中農層の農村青年と小学校教員が多かったが、なかには少数ながら芸妓や女教師など女性の参加も見られた。自由大学では、聴講者と講師とは学問への情熱によって結ばれ、たとえば、恒藤恭は「寒さにひきしまった空気の中に、静けさがみち渡り、あかるくたのしげに輝く電燈の下に、聴講の方々の熱のこもった瞳をみひらいて、じっと聴講して下さるのを眺めながら、私は時間のうつるのを気付かないでしゃべりました」と語り<ref>前掲「信濃自由大学聴講者諸君!」</ref>、出隆は「毎晩三時間あまりはみっちり講義をすることができたし、またその講義の前後にも、社務所に泊まりこみの熱心な青年もあって、いろいろ話し合ったが、みんな自分の気持ちをむきだしに話す真剣で実直な人々だった」と回想している<ref>『出隆自伝』1963年</ref>。自由大学の講師の中で最も人気のあったタカクラ・テルは、[[別所温泉]]に移住し、病気の土田の後を継いで自由大学を指導していった。 |
聴講者は、1講座当たり40名で、比較的富裕な中農層の農村青年と小学校教員が多かったが、なかには少数ながら芸妓や女教師など女性の参加も見られた。自由大学では、聴講者と講師とは学問への情熱によって結ばれ、たとえば、恒藤恭は「寒さにひきしまった空気の中に、静けさがみち渡り、あかるくたのしげに輝く電燈の下に、聴講の方々の熱のこもった瞳をみひらいて、じっと聴講して下さるのを眺めながら、私は時間のうつるのを気付かないでしゃべりました」と語り<ref>前掲「信濃自由大学聴講者諸君!」</ref>、出隆は「毎晩三時間あまりはみっちり講義をすることができたし、またその講義の前後にも、社務所に泊まりこみの熱心な青年もあって、いろいろ話し合ったが、みんな自分の気持ちをむきだしに話す真剣で実直な人々だった」と回想している<ref>『出隆自伝』1963年</ref>。自由大学の講師の中で最も人気のあったタカクラ・テルは、[[別所温泉]]に移住し、病気の土田の後を継いで自由大学を指導していった。 |
||
上田で始まった自由大学の試みは、各地に反響をよび、長野県・新潟県その他の地方都市や農村に波及していった。各地の自由大学は主に土田杏村の人的交流のなかから生まれていった側面が強いが、具体的には、長野県内では下伊那郡飯田町に伊那自由大学<ref>創設当初は信南自由大学。上田自由大学と同様に、土田が設立趣意書を起草した</ref>、松本市に松本自由大学、新潟県では北魚沼郡堀之内村に魚沼自由大学、南魚沼郡伊米ヶ崎村に八海自由大学、群馬県前橋市に群馬自由大学などが設立され、それぞれ地域民衆の学習運動としての足跡を残していった。また、宮城県・京都府・青森県・兵庫県などでも自由大学設立の動きが見られた。自由大学が各地に設立されるにともない、[[1924年]]8月には各地の自由大学の連絡機関として自由大学協会が上田につくられ、[[1925年]]1月からは猪坂直一が発行兼編集者となって機関誌﹃自由大学雑誌﹄が刊行された。 |
上田で始まった自由大学の試みは、各地に反響をよび、長野県・新潟県その他の地方都市や農村に波及していった。各地の自由大学は主に土田杏村の人的交流のなかから生まれていった側面が強いが、具体的には、長野県内では下伊那郡飯田町に伊那自由大学<ref>創設当初は信南自由大学。上田自由大学と同様に、土田が設立趣意書を起草した</ref>、松本市に松本自由大学、新潟県では北魚沼郡堀之内村に魚沼自由大学、南魚沼郡伊米ヶ崎村に八海自由大学、群馬県前橋市に群馬自由大学などが設立され、それぞれ地域民衆の学習運動としての足跡を残していった。また、宮城県・京都府・青森県・兵庫県などでも自由大学設立の動きが見られた。自由大学が各地に設立されるにともない、[[1924年]]8月には各地の自由大学の連絡機関として自由大学協会が上田につくられ、[[1925年]]1月からは猪坂直一が発行兼編集者となって機関誌﹃自由大学雑誌﹄が刊行された。このように自由大学運動は、全国各地に波及していく1924年に高揚期を迎えたが、しかしその頃から、当時の青年をめぐる社会的・文化的状況と無関係ではあり得なくなり、外在的にも内在的にもある種の亀裂に当面せざるを得なくなっていた。そり1つは、土田杏村の構想する自由大学の理念が批判を受けるようになったことである。
|
||
上田自由大学でも、1925年頃からさまざまの運営上の困難に直面するようになった。特に聴講者の減少にともなう財政上の困難は、自由大学の経営に大きな影響を与えた。この地域の養蚕業の停滞と不安定の傾向の継続にともなって 自由大学の聴講料は青年にとって負担となり、聴講者は減少し始めたのである。また、自由大学の講義内容が人文科学系の学問に偏っていることへの批判に加え、自由大学に熱心であった講師の海外留学による講師難、タカクラ・テルと猪坂直一との間の亀裂など問題が重なり、[[1926年]]3月以降、ついに講座の中断を余儀なくされた。
|
上田自由大学でも、1925年頃からさまざまの運営上の困難に直面するようになった。特に聴講者の減少にともなう財政上の困難は、自由大学の経営に大きな影響を与えた。この地域の養蚕業の停滞と不安定の傾向の継続にともなって 自由大学の聴講料は青年にとって負担となり、聴講者は減少し始めたのである。また、自由大学の講義内容が人文科学系の学問に偏っていることへの批判に加え、自由大学に熱心であった講師の海外留学による講師難、タカクラ・テルと猪坂直一との間の亀裂など問題が重なり、[[1926年]]3月以降、ついに講座の中断を余儀なくされた。
|
||
23行目: | 24行目: | ||
== 沿革 == |
== 沿革 == |
||
*[[1921年]] 信濃自由大学として開校 |
* [[1921年]] 信濃自由大学として開校 |
||
*[[1924年]] 上田自由大学と改称 |
* [[1924年]] 上田自由大学と改称 |
||
*[[1931年]] 廃校(自然消滅) |
* [[1931年]] 廃校(自然消滅) |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{Reflist|30em}} |
|||
<references/> |
|||
{{colend}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*{{Cite Journal|和書|title=自由大學運動の經過とその意義――農村靑年と社會敎育|author=高倉テル|journal=教育|pages=50-62|volume=5|issue=9|year=1937| |
* {{Cite Journal|和書|title=自由大學運動の經過とその意義――農村靑年と社會敎育|author=高倉テル|journal=教育|pages=50-62|volume=5|issue=9|year=1937|id={{全国書誌番号|00005148}}|publisher=岩波書店|ref=harv}} |
||
*{{Cite Book|和書|author=土田杏村|chapter=信濃自由大学趣意書|title=農村問題の社会学的基礎 改版|publisher=[[第一書房]]|year=1932|pages=139-142|ncid=BN1512866X|ref=harv}} |
* {{Cite Book|和書|author=土田杏村|chapter=信濃自由大学趣意書|title=農村問題の社会学的基礎 改版|publisher=[[第一書房]]|year=1932|pages=139-142|ncid=BN1512866X|ref=harv}} |
||
*『長野県史 通史編第8巻 近代2』 |
|||
==関連文献== |
|||
*『日本近代史の地下水脈をさぐる 信州・上田自由大学への系譜』 2000年 梨の木舎 |
|||
* {{Cite book|和書|author=長野県 |title=長野県史 |publisher=長野県史刊行会 |year=1971 |series=通史編 |volume=第8巻 (近代 2) |id={{全国書誌番号|89061305}} |doi=10.11501/9540710 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9540710 |ref=harv}} |
|||
*『上田自由大学とその周辺―長野大学からの二十一世紀メッセージ』 2006年 [[郷土出版社]] |
|||
* {{Cite book|和書|author=小林利通 |title=日本近代史の地下水脈をさぐる : 信州・上田自由大学への系譜 |publisher=梨の木舎 |year=2000 |series=教科書に書かれなかった戦争 |ISBN=4816600035 |doi=10.11501/12397829 |id={{NDLJP|12397829}} |ref=harv}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=長野大学 |title=上田自由大学とその周辺 |publisher=郷土出版社 |year=2006 |series=長野大学からの二十一世紀メッセージ |NCID=BA78187683 |ISBN=4876638330 |id={{全国書誌番号|21080490}} |ref={{harvid|『上田自由大学とその周辺』}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=米山光儀 |date=1981 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN0006957X-00000021-0011 |title=上田自由大学の理念と現実 : タカクラ・テルの教育的営為 |journal=慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要 : 社会学心理学教育学 |ISSN=0912-456X |publisher=慶應義塾大学大学院社会学研究科 |volume=21 |pages=11-19 |CRID=1050845762337142528 |ref=harv}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
*[[ |
* [[長野県史]] |
||
* [[土田杏村]] |
|||
**自由大学運動の提唱者。上田自由大学の設立趣意書を起草し、その理事の一人となった。 |
**自由大学運動の提唱者。上田自由大学の設立趣意書を起草し、その理事の一人となった。 |
||
*[[常楽寺 (上田市)|常楽寺]] |
* [[常楽寺 (上田市)|常楽寺]] |
||
**本堂が住職[[半田孝海 |
**本堂が住職[[半田孝海]]の協力により講義・学習会場に提供された。講師を務めたタカクラ・テルは常楽寺境内にあった離れに居を構えていた。 |
||
*[[安楽寺 (上田市)|安楽寺]] |
* [[安楽寺 (上田市)|安楽寺]] |
||
**境内入口に上小農民組合連合会が建立した[[山本宣治]]の記念碑、タカクラ・テルの記念碑がある。 |
**境内入口に上小農民組合連合会が建立した[[山本宣治]]の記念碑、タカクラ・テルの記念碑がある。 |
||
*[[塩田町 (長野県)|塩田町]] |
* [[塩田町 (長野県)|塩田町]] |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
*[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/108647600000/ しなのじゆうだいがく【信濃自由大学】 の意味とは - Yahoo!辞書] |
* [http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/108647600000/ しなのじゆうだいがく【信濃自由大学】 の意味とは - Yahoo!辞書] |
||
*[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=41009 上田自由大学の理念と現実] |
|||
{{ |
{{education-stub}} |
||
{{ |
{{DEFAULTSORT:うえたしゆうたいかく}} |
||
[[Category:上田市の教育]] |
[[Category:上田市の教育]] |
||
[[Category:長野県の歴史]] |
[[Category:長野県の教育の歴史]] |
||
[[Category:成人教育]] |
[[Category:成人教育]] |
||
[[category:大正自由教育運動]] |
[[category:大正自由教育運動]] |
||
61行目: | 66行目: | ||
[[Category:昭和時代戦前の教育]] |
[[Category:昭和時代戦前の教育]] |
||
[[Category:戦前日本の社会運動]] |
[[Category:戦前日本の社会運動]] |
||
|
2024年6月11日 (火) 22:50時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4e/Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-8-1.jpg/260px-Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-8-1.jpg)