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「中村不折」の版間の差分

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Fujikawa Kazuto (会話 | 投稿記録)
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[[1905年]]の帰国後は明治美術会の後身である「[[太平洋画会]]」に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また[[森鴎外|森鷗外]]や[[夏目漱石]]等の作家とも親しく、『[[吾輩は猫である]]』『[[若菜集]]』『[[野菊の墓]]』などの挿絵や題字を書いた。日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時、『龍眠帖』刊行。[[前田黙鳳]]らと健筆会を結成。47歳の時、[[河東碧梧桐]]らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。49歳、東京大正博覧会に「廓然無聖」他出品。、「永寿二年三月瓶」入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地(現・根岸2丁目)に転居。『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。51歳、『不折山人丙辰潑墨』第1集・第2集刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」出品。55歳の時、森鴎外没。遺言により不折が墓碑銘を書く。64歳の時、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳の時、書道博物館の建設に着手。翌年完成。70歳の時、[[帝国美術院]]改組、[[帝国美術院]]会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、11月3日、書道博物館開館式。72歳[[帝国芸術院]]入会。1943年(昭和18)6月6日夕刻、[[脳溢血]]の為急死。6月10日中根岸永称寺にて告別式。多磨霊園に埋葬。


[[1905]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]]{{Refnest|group=""|20<ref>{{Cite web |url=https://www.city.taito.lg.jp/bunkasinko/virtualmuseum/shodo_03/003/index.html|title=|accessdate=2015-10-4|work=|publisher=|archiveurl=https://archive.is/cqGwz|archivedate=2015-10-3}}</ref>}}退43[[]]47[[]]49寿50125251121055646770[[]][[]]7111372[[]]19431866[[]]610


中国の書の収集家としても知られ[[顔真卿]]の現存する唯一の真蹟といわれる「[[自書告身帖]]」などを収集し、[[1936年]]に[[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]の旧宅跡に[[書道博物館]](現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、[[宮坂醸造]]の[[清酒]]「[[真澄]]」や[[新宿中村屋]]の商品表記に用いられている。

中国の書の収集家としても知られ[[顔真卿]]の現存する唯一の真蹟といわれる「[[自書告身帖]]」などを収集し、[[1936年]]に[[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]の旧宅跡に[[書道博物館]](現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、[[宮坂醸造]]の[[清酒]]「[[真澄]]」や[[新宿中村屋]]の商品表記に用いられている。

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File:Rafu-ritsuzō by Nakamura Fusetsu 2.png|裸婦立像 1903年頃 [[三重県立美術館]]

File:Rafu-ritsuzō by Nakamura Fusetsu 2.png|裸婦立像 1903年頃 [[三重県立美術館]]

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== 脚注 ==

=== 註釈 ===

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=== 出典 ===

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== 関連書籍 ==

== 関連書籍 ==

*[[長野県伊那文化会館]] 『生誕140年 画家・書家 中村不折のすべて展』(図録。[[2006年]])

*[[長野県伊那文化会館]] 『生誕140年 画家・書家 中村不折のすべて展』(図録。[[2006年]])

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== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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*[[日本の漢字書家一覧]]

*[[日本の漢字書家一覧]]

*[[台東区立書道博物館]]

*[[台東区立書道博物館]]

*[[森鷗外]] 遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。「書ハ'''中村不折'''ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ」

*[[森鷗外]] 遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。「書ハ'''中村不折'''ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ」

*[[王羲之]]、[[王献之]]

*[[王羲之]]、[[王献之]]

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2015年10月3日 (土) 16:03時点における版

中村不折肖像

  18668192710 - 19431866

36-38
14

187019西21西22

18874,25231891285

1894126使30313233341031

1901637=39

1905[ 1]退434749寿50125251121055646770711137219431866610

1936宿


西190717

脚注

註釈

  1. ^ 漱石は不折に対して「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」とする旨の手紙を送っている[1]

出典

  1. ^ 「吾輩ハ猫デアル」挿絵”. 台東区ヴァーチャル美術館. 台東区役所. 2015年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月4日閲覧。

関連書籍

関連項目