「中村不折」の版間の差分
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[[1901年]]6月には渡仏して、[[ラファエル・コラン]]に師事。島崎藤村﹃落梅集﹄刊行。その挿絵を担当。37歳の時に[[アカデミー・ジュリアン]]に転じ[[ジャン=ポール・ローランス|ジャン=ポール・ローランス]]らから絵の指導を受け39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。また、沼田一雅、岡精一と共に[[ムードン]]に[[オーギュスト・ロダン]]を訪問、署名入りのデッサンを貰う。同郷の[[荻原碌山]]がパリに留学するとその面倒を見た。 [[1905年]]の帰国後は明治美術会の後身である﹁[[太平洋画会]]﹂に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また[[森鴎外|森鷗外]]や[[夏目漱石]]等の作家とも親しく、﹃[[吾輩は猫である]]﹄﹃[[若菜集]]﹄﹃[[野菊の墓]]﹄などの挿絵や題字を書いた{{Refnest|group="註"|漱石は不折に対して﹁発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する﹂とする旨の手紙を送っている<ref>{{Cite web |url=https://www.city.taito.lg.jp/bunkasinko/virtualmuseum/shodo_03/003/index.html|title=﹁吾輩ハ猫デアル﹂挿絵|accessdate=2015-10-4|work=台東区ヴァーチャル美術館|publisher=台東区役所|archiveurl=https://archive.is/cqGwz|archivedate=2015-10-3}}</ref>。}}。日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時、﹃龍眠帖﹄刊行。[[前田黙鳳]]らと健筆会を結成。47歳の時、[[河東碧梧桐]]らと﹃龍眠会﹄を結成。﹃蘭亭序﹄刊行。49歳、東京大正博覧会に﹁廓然無聖﹂他出品。、﹁永寿二年三月瓶﹂入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地︵現・根岸2丁目︶に転居。﹃芸術解剖学﹄﹃赤壁賦﹄発行。51歳、﹃不折山人丙辰潑墨﹄第1集・第2集刊行。第10回文展に﹁黎明﹂﹁たそがれ﹂出品。55歳の時、森鴎外没。遺言により不折が墓碑銘を書く。64歳の時、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳の時、書道博物館の建設に着手。翌年完成。70歳の時、[[帝国美術院]]改組、[[帝国美術院]]会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、11月3日、書道博物館開館式。72歳[[帝国芸術院]]入会。1943年︵昭和18︶6月6日夕刻、[[脳溢血]]の為急死。6月10日中根岸永称寺にて告別式。多磨霊園に埋葬。 中国の書の収集家としても知られ[[顔真卿]]の現存する唯一の真蹟といわれる﹁[[自書告身帖]]﹂などを収集し、[[1936年]]に[[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]]の旧宅跡に[[書道博物館]]︵現在は区立︶を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、[[宮坂醸造]]の[[清酒]]﹁[[真澄]]﹂や[[新宿中村屋]]の商品表記に用いられている。 25行目:
File:Rafu-ritsuzō by Nakamura Fusetsu 2.png|裸婦立像 1903年頃 [[三重県立美術館]]
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== 脚注 ==
=== 註釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連書籍 ==
*[[長野県伊那文化会館]] 『生誕140年 画家・書家 中村不折のすべて展』(図録。[[2006年]])
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nakamura Fusetsu}}▼
*[[日本の漢字書家一覧]]
*[[台東区立書道博物館]]
*[[森鷗外]] 遺言により中村不折が墓碑銘を筆した。「書ハ'''中村不折'''ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ」
*[[王羲之]]、[[王献之]]
▲{{Commonscat|Nakamura Fusetsu}}
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2015年10月3日 (土) 16:03時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Nakamura_Fusetsu_03.jpg/200px-Nakamura_Fusetsu_03.jpg)
中村 不折︵なかむら ふせつ、1866年8月19日︵慶応2年7月10日︶ - 1943年︵昭和18年︶6月6日︶は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石﹃吾輩は猫である﹄の挿絵画家として知られている。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Calligraphy_of_Fusetsu_Nakamura_7.jpg/200px-Calligraphy_of_Fusetsu_Nakamura_7.jpg)
不折の書
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Ratai_by_Nakamura_Fusetsu.jpg/200px-Ratai_by_Nakamura_Fusetsu.jpg)
﹃裸体﹄︵明治36年-明治38年︶
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Kaigan_no_sannimmusume_by_Nakamura_Fusetsu.jpg/200px-Kaigan_no_sannimmusume_by_Nakamura_Fusetsu.jpg)
﹃海岸の三人娘﹄︵昭和14年︶東京国立近代美術館
父・源蔵、母・りゅうの子供として江戸の京橋八丁堀︵現中央区湊︶に生まれ幼名を鈼太郎といった。1870年には明治維新の混乱を避け、一家をあげ父の郷里の長野県高遠に帰る。幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとした。19歳の時、北原安定に漢籍、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。西高遠学校授業生︵代用教員︶となる。21歳の時、西伊那部学校の助教となる。22歳の時、飯田小学校で図画・数学の教師となる。夏期休暇を利用して河野次郎に洋画の初歩を学ぶ。
1887年4月に上京し、高橋是清の館に住み込みながら,画塾﹃不同舎﹄に入門。小山正太郎に師事し絵を学んだ。25歳の時、第2回明治美術会展覧会に水彩画3点を出品。1891年油彩画を始め、現存する最初の作例﹁自画像﹂を制作。28歳の時、第5回明治美術展覧会に﹁憐れむべし自宅の写生﹂ほかを出品した。
1894年には正岡子規に出会い、新聞﹁日本﹂の記者となり、新聞﹃小日本﹄の挿絵を担当する。新聞﹃小日本﹄126号に俳句が掲載され、初めて﹁不折﹂の名を使用。30歳の時正岡子規とともに日清戦争に従軍し中国に渡り書に興味を持った。31歳の時、堀場イトと結婚。﹁日本新聞社﹂に入社、引き続き挿絵を担当。32歳と33歳の時に島崎藤村﹃若菜集﹄﹃一葉舟﹄刊行。その挿絵を担当。34歳の時、第10回明治美術展覧会に﹁淡煙﹂﹁紅葉村﹂出品。﹁紅葉村﹂は翌年にパリ万国博で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室新築し転居した。
1901年6月には渡仏して、ラファエル・コランに師事。島崎藤村﹃落梅集﹄刊行。その挿絵を担当。37歳の時にアカデミー・ジュリアンに転じジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受け39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。また、沼田一雅、岡精一と共にムードンにオーギュスト・ロダンを訪問、署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見た。
1905年の帰国後は明治美術会の後身である﹁太平洋画会﹂に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また森鷗外や夏目漱石等の作家とも親しく、﹃吾輩は猫である﹄﹃若菜集﹄﹃野菊の墓﹄などの挿絵や題字を書いた[註 1]。日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時、﹃龍眠帖﹄刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。47歳の時、河東碧梧桐らと﹃龍眠会﹄を結成。﹃蘭亭序﹄刊行。49歳、東京大正博覧会に﹁廓然無聖﹂他出品。、﹁永寿二年三月瓶﹂入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地︵現・根岸2丁目︶に転居。﹃芸術解剖学﹄﹃赤壁賦﹄発行。51歳、﹃不折山人丙辰潑墨﹄第1集・第2集刊行。第10回文展に﹁黎明﹂﹁たそがれ﹂出品。55歳の時、森鴎外没。遺言により不折が墓碑銘を書く。64歳の時、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳の時、書道博物館の建設に着手。翌年完成。70歳の時、帝国美術院改組、帝国美術院会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、11月3日、書道博物館開館式。72歳帝国芸術院入会。1943年︵昭和18︶6月6日夕刻、脳溢血の為急死。6月10日中根岸永称寺にて告別式。多磨霊園に埋葬。
中国の書の収集家としても知られ顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる﹁自書告身帖﹂などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館︵現在は区立︶を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造の清酒﹁真澄﹂や新宿中村屋の商品表記に用いられている。
経歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Calligraphy_of_Fusetsu_Nakamura_7.jpg/200px-Calligraphy_of_Fusetsu_Nakamura_7.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Ratai_by_Nakamura_Fusetsu.jpg/200px-Ratai_by_Nakamura_Fusetsu.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Kaigan_no_sannimmusume_by_Nakamura_Fusetsu.jpg/200px-Kaigan_no_sannimmusume_by_Nakamura_Fusetsu.jpg)
不折と歴史画
フランス留学から帰国した不折は東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。この時期の作品である﹁建国剏業﹂︵1907年︶は東京府主催の勧業博覧会に出品され第1等を獲得したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣・九鬼隆一は﹁不敬である﹂と激怒。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。-
裸婦立像 1903 - 04年頃 長野県信濃美術館
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裸婦立像 1903年頃 大分県立芸術会館
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裸婦立像 1903年頃 三重県立美術館
脚注
註釈
出典
- ^ “「吾輩ハ猫デアル」挿絵”. 台東区ヴァーチャル美術館. 台東区役所. 2015年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月4日閲覧。