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[[鳥取県]]出身。[[東京帝国大学]]法学部在学中の[[1928年]]、外交官試験に合格。翌年[[外務省]]入省。米国、中華民国、[[興亜院]]、本省政務局勤務などを経て、[[1942年]]11月、[[在中華民国日本国大使館|中華民国駐在大使館]]の1等書記官で赴任。[[1945年]]2月、大臣官房会計課長。同年8月より[[終戦連絡中央事務局]]第4課長・[[名古屋]]事務局長等を勤めた後、[[1948年]]1月より本省管理局長として引揚げ推進のため[[GHQ]]などとの折衝に尽力した。
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アジア局の復活に伴い[[1951年]]12月、同局長。[[1953年]]11月、特命全権公使に任命され、12月より日本・[[インドネシア]]国交樹立の基礎となる賠償などの懸案の処理交渉の代表となる。[[1955年]]4月には日本政府代表代理として[[バンドン会議]]に出席。[[1957年]]6月、駐[[ベルギー]]大使となり、その間[[1959年]]10月より[[欧州経済共同体|EEC]]の日本政府初の正式大表を勤める。[[1960年]]11月より駐[[アラブ連合共和国|アラブ連合]]大使に任命され、[[1965年]]12月に退官。 |
2021年12月1日 (水) 06:35時点における版
倭島 英二︵わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日[1]︶は、昭和時代の日本の外交官。
経歴
鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4課長・名古屋事務局長等を勤めた後、1948年1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年12月、同局長。1953年11月、特命全権公使に任命され、12月より日本・インドネシア国交樹立の基礎となる賠償などの懸案の処理交渉の代表となる。1955年4月には日本政府代表代理としてバンドン会議に出席。1957年6月、駐ベルギー大使となり、その間1959年10月よりEECの日本政府初の正式大表を勤める。1960年11月より駐アラブ連合大使に任命され、1965年12月に退官。栄典
著作
- 『日本外交の刷新』鹿島研究所出版会、1965年
- 『平和と開発のためのアジア国家連合』鹿島研究所出版会、1971年
脚注
- ^ 『新版 日本外交史辞典』1093頁。
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
参考文献
- 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。