有馬豊祐
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有馬 豊祐 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 正保3年(1646年) |
死没 | 元禄13年12月28日(1701年2月5日) |
改名 | 万菊(幼名)、豊範(初名)→豊祐 |
諡号 | 良雪 |
墓所 | 福岡県久留米市京町の梅林寺 |
官位 | 従五位下、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 筑後国松崎藩主 |
氏族 | 小出氏→摂津有馬氏 |
父母 |
父:小出吉重、母:有馬豊氏の娘 養父:有馬忠頼 |
兄弟 | 小出英安、豊祐、小出英直 |
妻 |
正室:松平直良の娘・満心院 継室:南部重信の娘 |
子 | 小出英致(長男) |
有馬 豊祐︵ありま とよすけ︶は、筑後松崎藩の藩主。
生涯
正保3年︵1646年︶、但馬出石藩主・小出吉重の三男︵次男とも︶として生まれる。伯父の筑後久留米藩主・有馬忠頼がなかなか実子に恵まれなかったため、その養子となる。しかし、やがて忠頼の実子として頼利や頼元らが生まれたため、家督相続権を破棄されて末子扱いとなり、賄料として3,000石を与えられた。 寛文8年︵1668年︶、頼利が死去して頼元が藩主になると、松崎1万石の所領を与えられ、従五位下、伊予守に叙任される。藩政においては、御原郡横隈が藩の中枢地としてふさわしくないとして、寛文9年︵1669年︶から寛文12年︵1672年︶にかけて松崎に居館を築き、延宝元年︵1673年︶には松崎宿を整備し、さらに宝満川流域の治水工事、延宝2年︵1674年︶には横隈街道を廃止して天下街道︵新筑前街道︶を参勤交代路とするなど、藩政の確立に尽力した。 ところが貞享元年︵1684年︶、陸奥窪田藩主・土方雄隆の家督争いが起こったとき、縁戚関係にありながら紛争解決に尽力しなかったとして、幕命により改易され、その身柄を子の英致と共に久留米藩に預けられた。旧領地は元禄10年︵1697年︶に久留米藩に還付され、豊祐親子は元禄5年︵1692年︶に土方雄隆が死去すると、罪を許された。 元禄13年︵1700年︶12月28日に死去した。享年55。
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