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[[寛仁]]3年([[1019年]])の[[刀伊の入寇]]の時、肥前介源知はこれを撃退したが、第8代[[松浦久]]以後の松浦党は海上に活躍する者が多く、[[元寇]]でも大いに特技を海上に発揮した。[[元寇]]に勝利を得てから商人や大いに気を強くする者も出て、[[中国]]沿岸との貿易に従事し、あるいは辺海を掠めて[[海賊]]化して[[倭寇]]の勢力を増すようになったが、[[松浦]]地方はその根拠地となった。
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[[寛仁]]3年([[1019年]])の[[刀伊の入寇]]の時、肥前介源知はこれを撃退したが、第8代[[松浦久]]以後の松浦党は海上に活躍する者が多く、[[元寇]]でも大いに特技を海上に発揮した。[[元寇]]に勝利を得てから商人や大いに気を強くする者も出て、[[中国]]沿岸との貿易に従事し、あるいは辺海を掠めて[[海賊]]化して[[倭寇]]の勢力を増すようになったが、[[松浦]]地方はその根拠地となった。
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[[天文]]11年([[1542年]])、[[明]]人[[王直]]は、領主[[松浦隆信]]の優遇を受け[[平戸]]を根拠地として密貿易を開始した。[[中国]]沿岸は勿論、[[ルソン]]、[[安南]]、[[シャム]]、[[マラッカ]]等に航路を求め、大陸物資の導入に努め、[[平戸]]は殷盛を極めるようになった。その後は[[李旦]]、[[鄭芝竜]]が来るなど[[中国]]と松浦党の関係は密であった。
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[[天文]]11年([[1542年]])、[[明]]人[[王直]]は、領主[[松浦隆信]]の優遇を受け[[平戸]]を根拠地として密貿易を開始した。[[中国]]沿岸は勿論、[[ルソン]]、[[安南]]、[[シャム]]、[[マラッカ]]等に航路を求め、大陸物資の導入に努め、[[平戸]]は殷盛を極めるようになった。その後は[[李旦]]、[[鄭芝竜]]が来るなど[[中国]]と松浦党の関係は密であった。<ref>松浦史料博物館﹃史都平戸-年表と史談-﹄2000年改版、89
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== 関連項目 == |
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== 関連項目 == |
2017年4月4日 (火) 09:28時点における版
松浦党︵まつらとう︶は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。
摂津国渡辺党
嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を惣領とし、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。祖の松浦久︵渡辺久、源久︶は、渡辺綱︵源綱︶の子の奈古屋授︵渡辺授、源授︶の子とされ、松浦郡宇野御厨の荘官︵検校︶となり、松浦郡に所領を持ち松浦の苗字を名のる。
一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。
東国御家人との確執
本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、源平合戦においては当初、平家方の水軍であった。しかし、壇ノ浦の戦いでは源家方につき、源家方の勝利に大きく貢献したことから、その功により、鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられる。しかしながら同じ環境にあった秋月氏や蒲池氏、菊池氏などと同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝が送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの﹁下り衆﹂の下に置かれる。
特に13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ、肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子の直・留・勇は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は壱岐や対馬同様に蒙古軍に蹂躙されたという。
松浦氏と安倍氏
松浦党には、嵯峨源氏渡辺党松浦氏系のものが大半だが、一部に奥州安倍氏の生き残りで、源義家に敗れ宗像の筑前大島に流された安倍宗任の子孫の安倍宗任系のものがある。松浦党の系図は30種ほどもあり、その系譜については異同が多く、不明な点も少なくないとされる。
戦国大名から平戸藩主へ
松浦党は、居住する地域によって上松浦党と下松浦党とに大別された。上松浦党は、松浦久以来の松浦地方の岸岳城を中心に大きな勢力を誇ったが、その最大勢力である波多氏は、戦国時代をへて滅亡した。下松浦党の傍系である平戸松浦氏は、戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降、旧領を安堵されて平戸藩6万3千石の外様大名として存続した。
対外関係
朝鮮との関係
鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなしたが、元寇の以後は更に甚だしくなった。したがって朝鮮国王は使をよこして禁寇の交渉を行い、室町時代には嘉吉元年(1441年)から文明3年(1471年) の間、松浦党と歳遣船の約を結んだ。[1]
中国との関係
寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇の時、肥前介源知はこれを撃退したが、第8代松浦久以後の松浦党は海上に活躍する者が多く、元寇でも大いに特技を海上に発揮した。元寇に勝利を得てから商人や大いに気を強くする者も出て、中国沿岸との貿易に従事し、あるいは辺海を掠めて海賊化して倭寇の勢力を増すようになったが、松浦地方はその根拠地となった。
天文11年(1542年)、明人王直は、領主松浦隆信の優遇を受け平戸を根拠地として密貿易を開始した。中国沿岸は勿論、ルソン、安南、シャム、マラッカ等に航路を求め、大陸物資の導入に努め、平戸は殷盛を極めるようになった。その後は李旦、鄭芝竜が来るなど中国と松浦党の関係は密であった。[2]
関連項目
- ^ 松浦史料博物館『史都平戸-年表と史談-』2000年改版、88頁
- ^ 松浦史料博物館『史都平戸-年表と史談-』2000年改版、89
-90頁