臼井哲夫
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Tetsuo_Usui.jpg/220px-Tetsuo_Usui.jpg)
臼井 哲夫︵うすい てつお、1863年3月18日︵文久3年1月29日[1]︶- 1935年︵昭和10年︶6月29日[2]︶は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
肥前国高来郡島原村︵現:長崎県島原市︶で、臼井三平の長男として生まれる[1][3]。島原学校、松風義塾、小叩塾などを経て慶應義塾で学ぶ[2][3]。 1880年、同志と共に西海日報社を創立し、翌年まで同紙の記者を務めた[2][3]。1888年、日本輸出米商社事務長に就任[3]。以後、総武鉄道庶務課長、近江鉄道取締役、磯湊鉄道取締役、上野鉄道社長、吾妻川電力社長などを歴任した[2]。 1883年、長崎県会議員に当選[2][3]。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙において長崎県第三区から出馬し当選[2]。その後、第8回、第9回、第10回総選挙でも当選[2]。1909年、日本製糖汚職事件で検挙され、同年4月28日、衆議院議員を辞職[4]。同年7月3日に、東京地方裁判所第二刑事部において重禁固10ヶ月の有罪の判決が言い渡された[5]。その後、判決を不服として控訴したが、同年8月10日に、東京控訴院第一部で控訴棄却の判決が言い渡され、臼井は上告せず有罪が確定した[6]。これにより勲四等を褫奪された[7]。1915年3月、第12回総選挙に出馬して当選し議員に復帰[2]。その後、第13回、第14回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた[2]。栄典
著作
- 『世界の変局と日本の政治』東京堂、1918年。