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{{基礎情報 公家 |
{{基礎情報 公家 |
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|氏名=藤原実資 |
| 氏名 = 藤原 実資 |
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|画像=藤原実資.jpg |
| 画像 = 藤原実資.jpg |
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| 画像サイズ = 200px |
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|画像説明=[[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』より |
| 画像説明 = [[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』より |
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|時代=[[平安時代]]中期 |
| 時代 = [[平安時代]]中期 |
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|生誕=[[天徳 (日本)|天徳]]元年([[957年]]) |
| 生誕 = [[天徳 (日本)|天徳]]元年([[957年]]) |
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|死没=[[永承]]元年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1046年]][[2月26日]]) |
| 死没 = [[永承]]元年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1046年]][[2月26日]]) |
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|改名=大学丸(幼名)→実資 |
| 改名 = 大学丸(幼名)→実資 |
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|別名= |
| 別名 = 賢人右府<br/>号:小野宮 |
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| 諡号 = |
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|戒名= |
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| 神号 = |
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|墓所= |
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| 戒名 = |
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|官位=[[従一位]]、[[右大臣]] |
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| 墓所 = |
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|主君= |
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| 官位 = [[従一位]]、[[右大臣]] |
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| 主君 = [[冷泉天皇]]→[[円融天皇]]→[[花山天皇]]→[[一条天皇]]→[[三条天皇]]→[[後一条天皇]] |
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|父母=父:[[藤原斉敏]]、母:[[藤原伊文]]の娘<br>養父:''[[藤原実頼]]'' |
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| 氏族 = [[藤原北家]][[小野宮流]] |
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| 父母 = 父:[[藤原斉敏]]<br/>母:[[藤原尹文]]の娘<br>養父:''[[藤原実頼]]'' |
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| 兄弟 = [[藤原高遠|高遠]]、[[藤原懐平|懐平]]、'''実資''' |
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|子=[[良円 (天台宗)|良円]]、[[藤原千古|千古]]([[藤原兼頼]]室)、観薬<br>養子:'''''[[藤原資平|資平]]'''''、''[[藤原資高|資高]]''、''[[藤原資頼|資頼]]''、''[[藤原経季|経季]]'' |
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| 妻 = [[源惟正女]]<br>[[婉子女王]]([[為平親王]]の娘)<br>[[源頼定]][[乳母]]の娘 |
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|特記事項= |
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| 子 = [[良円 (天台宗)|良円]]、女子、[[藤原千古|千古]]、観薬、女子<br>養子:'''''[[藤原資平|資平]]'''''、''資高''、''資頼''、''[[藤原経季|経季]]'' |
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| 特記事項 = |
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'''藤原 実資'''(ふじわら の さねすけ)は、[[平安時代]]の[[公卿]]。 |
'''藤原 実資'''︵ふじわら の さねすけ、[[天徳 (日本)|天徳]]元年︿[[957年]]﹀ - [[永承]]元年︿[[1046年]]﹀︶は、[[平安時代]]の[[公卿]]。[[藤原北家]][[小野宮流]]、[[参議]]・[[藤原斉敏]]の四男。
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藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、[[有職故実]]に精通した当代一流の学識人であった。[[藤原道長]]が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に[[従一位]]・[[右大臣]]に昇り、﹁'''賢人右府'''﹂と呼ばれた。実資の残した日記﹃[[小右記]]﹄はこの時代を知る貴重な資料となっている{{sfn|佐々木恵介|2018|loc=Kindle版、位置No.全392中 358 / 91%}}。
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== 経歴 == |
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祖父・[[藤原実頼|実頼]]の養子となり、﹁実﹂の字を与えられる。非常に愛されて家領の多くを相続し、小野宮流を継承した。
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小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの[[九条流]]に[[摂家|摂関家]]の主導権を奪われたが、九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。また学問のみならず、[[蹴鞠]]の達人としても知られ、[[長徳]]3年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]] |
小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの[[九条流]]に[[摂家|摂関家]]の主導権を奪われたが、九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。また学問のみならず、[[蹴鞠]]の達人としても知られ、[[長徳]]3年︵[[997年]]︶[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]には、[[賀茂祭]]の余興として自邸で鞠会を開き<ref>﹃小右記﹄</ref>、後世[[大江匡房]]からは﹁当世の名人﹂と評されたという︵[[藤原頼輔]]﹃[[蹴鞠口伝集]]﹄︶。その膨大な家領については未だ不明な部分も多いが、相当な財力を有していたことは当該期史料から判明している。
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実資は故実家・資産家としても知られたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。 |
実資は故実家・資産家としても知られたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。 |
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円融天皇のときの[[天元 (日本)|天元]]4年([[981年]])[[蔵人頭]]に |
[[安和]]2年︵[[969年]]︶に叙爵。同年[[侍従]]に任じられ、[[天禄]]2年︵[[971年]]︶に[[兵衛府|右兵衛佐]]、同4年︵[[973年]]︶に[[近衛府|右少将]]となる。[[円融天皇]]のときの[[天元 (日本)|天元]]4年︵[[981年]]︶[[蔵人頭]]に補される。[[永観]]元年︵[[983年]]︶[[近衛府|左中将]]に転任。同2年︵[[984年]]︶の[[花山天皇]]践祚に伴い再び蔵人頭となる。[[寛和]]2年︵[[986年]]︶の花山天皇の退位、[[一条天皇]]の践祚に伴い蔵人頭を去るが、翌[[永延]]元年︵[[987年]]︶に蔵人頭に補され、[[永祚 (日本)|永祚]]元年︵[[989年]]︶に参議となり公卿に列した。
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[[長保]]元年([[999年]])[[藤原道長|道長]](当時[[左大臣]])の娘[[藤原彰子|彰子]]が[[入内]]する際、調度品の一つとして、公卿名士たちから[[和歌]]を募り、筆を入れさせる四尺の[[屏風]]が用意された。これには公卿たちだけでなく、花山法皇までも歌を贈ったが、当時[[中納言]]であった実資だけは、道長から何度催促されても「大臣の命を受けて、その屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と言って、歌を献じるのを拒んだ。 |
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[[正暦]]元年︵[[990年]]︶に権勢を誇っていた九条流の[[藤原兼家|兼家]]が没すると、子の[[藤原道隆|道隆]]が関白となり、次いで[[藤原道兼|道兼]]を経て、道長が左大臣となり[[内覧]]を許され、[[藤原伊周|伊周]]︵道隆の嫡子︶との政争の末に主導権を握り、権勢を振るうようになる。
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長保3年︵[[1001年]]︶[[大納言|権大納言]]に任じられ、[[近衛大将|右近衛大将]]を兼ねる。これ以降実資は42年の間右大将の地位にあった。
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[[長保]]元年([[999年]])道長の娘の[[藤原彰子|彰子]]が[[入内]]することになり、その調度品のひとつとして四尺の[[屏風]]をつくらせ、それは当時の公卿名士たちから[[和歌]]を募り、[[藤原公任]]が選首となり、[[書家]]の[[藤原行成]]に筆を入れさせる趣向であった。これには公卿たちだけでなく、花山法皇までも御製の歌を贈った。このとき、[[中納言]]であった実資だけは「大臣の命を受けて、その屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と言って、道長から何度催促されても歌を献じるのを拒んだ。 |
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長保3年([[1001年]])権[[大納言]]に任じられ、右[[近衛大将]]を兼ねる。 |
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[[寛弘]]8年︵[[1011年]]︶一条天皇が崩御して[[三条天皇]]が即位した。三条天皇と道長は不仲で、やがてことごとに対立するようになった。ところが朝臣の多くは権勢家の道長に阿り、天皇は孤立し、朝廷の綱紀は日々弛緩するようになった。この時も実資は敢然として公平な立場に努め、天皇も密かに実資に頼るようになった。
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[[寛弘]]8年︵[[1011年]]︶一条天皇が崩御して[[三条天皇]]が即位した。三条天皇と道長は不仲で、やがてことごとに対立するようになった。ところが朝臣の多くは権勢家の道長に阿り、天皇は孤立し、朝廷の綱紀は日々弛緩するようになった。この時も実資は敢然として公平な立場に努め、天皇も密かに実資に頼るようになった。
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三条天皇には |
三条天皇には東宮時代からの[[女御]]に道長の娘の[[藤原妍子|妍子]]と[[藤原済時]]の娘の[[藤原娍子|娍子]]がいた。即位と共に妍子は[[中宮]]とされたが子はなく、一方、娍子は[[敦明親王]]を生んでいた。[[長和]]元年︵[[1012年]]︶、天皇は娍子を皇后に立てるよう欲するが、道長に憚って決しかねていたところ、道長から立后の提案があった。ところが立后の儀式の日になると道長は嫌がらせを行い、同日を中宮妍子の参内の日として出席せず、諸公卿もこれに同調して皆中宮の[[東三条第]]へ行ってしまった。天皇は勅使を東三条第へ送って出席を命じるが、諸公卿は勅使を嘲り、参議[[藤原正光]]に至っては瓦礫を投げつける始末だった。実資はこの日は病身であったが﹁天に二日なし、土に両主なし﹂と言うや中納言[[藤原隆家]]と共に参内して、儀式を取り仕切った。
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三条天皇は実資の態度を徳として感謝し、実資の養子[[藤原資平|資平]]に「朕は長く東宮にあって物情を知らず、一旦登極すれば全て意のままになると思っていたのに、后を立てるにも皆左大臣(道長)を憚り、勅命に応じようともしない。(実資の)忠懇を嘉とする。これからは諸事、大将と議したい」と伝え、これを聞いた実資は歓喜した。もっとも、賢明な実資は道長と正面から対決するようなことはせず、あくまで筋を通す態度を貫き、また、三条天皇も資平を蔵人頭に任じると約束しながら、道長を憚って止み沙汰にしてしまうなど、あまり頼りにはならなかった。 |
三条天皇は実資の態度を徳として感謝し、実資の養子・[[藤原資平|資平]]に「朕は長く東宮にあって物情を知らず、一旦登極すれば全て意のままになると思っていたのに、后を立てるにも皆左大臣(道長)を憚り、勅命に応じようともしない。(実資の)忠懇を嘉とする。これからは諸事、大将と議したい」と伝え、これを聞いた実資は歓喜した。もっとも、賢明な実資は道長と正面から対決するようなことはせず、あくまで筋を通す態度を貫き、また、三条天皇も資平を蔵人頭に任じると約束しながら、道長を憚って止み沙汰にしてしまうなど、あまり頼りにはならなかった。 |
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道長と対立を続けた三条天皇だが、やがて失明寸前の眼病となり、道長から強く退位を迫られ、結局、長和5年︵[[1016年]]︶に敦明親王を東宮とすることを条件に[[後一条天皇]]に譲位した。[[春宮大夫]]には実資が推薦されたが、実資は老衰の身であるとして固辞した。翌[[寛仁]]元年︵[[1017年]]︶に三条上皇が崩御すると、約束は反故とされ、道長の画策で敦明親王は東宮を辞退している。
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道長と対立を続けた三条天皇だが、やがて失明寸前の眼病となり、道長から強く退位を迫られ、結局、長和5年︵[[1016年]]︶に敦明親王を東宮とすることを条件に[[後一条天皇]]に譲位した。[[春宮坊|春宮大夫]]には実資が推薦されたが、実資は老衰の身であるとして固辞した。翌[[寛仁]]元年︵[[1017年]]︶に三条上皇が崩御すると、約束は反故とされ、道長の画策で敦明親王は東宮を辞退している。
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寛仁3年([[1019年]])、[[刀伊の入寇]]を撃退した[[大宰権帥]]藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。[[大納言]]公任と中納言行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。これは貴族たちが隆家は道長の政敵であった伊周の弟でもあることから道長に追従したためでもあるが、同時に文官統治を維持する立場から当時各地の豪族や在庁官人が武装化して勢力を拡大しつつある現状に危機感を抱いていたことも背景にはあった。そのため、勅符なしでの軍事行動を許容することで彼らが朝廷の命令を無視して独自の判断で軍事行動を起こすことが危惧されたことから、公任・行成らの主張にも一理があった(普段、公任らに対して批判的な記事の多い『小右記』でも、この主張そのものに関する批判的な記述はしていない)。 |
寛仁3年([[1019年]])、[[刀伊の入寇]]を撃退した[[大宰権帥]]・藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。[[大納言]]公任と中納言行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。これは貴族たちが隆家は道長の政敵であった伊周の弟でもあることから道長に追従したためでもあるが、同時に文官統治を維持する立場から当時各地の豪族や在庁官人が武装化して勢力を拡大しつつある現状に危機感を抱いていたことも背景にはあった。そのため、勅符なしでの軍事行動を許容することで彼らが朝廷の命令を無視して独自の判断で軍事行動を起こすことが危惧されたことから、公任・行成らの主張にも一理があった(普段、公任らに対して批判的な記事の多い『小右記』でも、この主張そのものに関する批判的な記述はしていない)。 |
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これに対し実資は勅符が到達する以前に戦った点には問題があることを認めつつも、﹁勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。[[寛平]]6年 |
これに対し実資は勅符が到達する以前に戦った点には問題があることを認めつつも、﹁勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。[[寛平]]6年︵[[894年]]︶に[[新羅]]の凶賊が[[対馬国]]を襲撃したとき、島司[[文室善友]]は直ちにこれを撃退し、賞を賜った。これと同じことである。特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が一千人余りも誘拐され、数百人が殺された。[[壱岐国#国司|壱岐守]]・[[藤原理忠]]も戦死した。しかし、[[大宰府]]は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう﹂と弁じ立てる。
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まず、大納言[[藤原斉信]]がこれに同意し、続いて公任・行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。また、当時政治の一線から退いていた道長もこれを是としている。このとき実資は右大臣に任ぜられるか否かで同僚らの歓心を買わなければいけない時期だったが、それでも付和雷同・阿諛追従することなく、ものごとの道理を滔々と陳述している。 |
まず、大納言[[藤原斉信]]がこれに同意し、続いて公任・行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。また、当時政治の一線から退いていた道長もこれを是としている。このとき実資は右大臣に任ぜられるか否かで同僚らの歓心を買わなければいけない時期だったが、それでも付和雷同・阿諛追従することなく、ものごとの道理を滔々と陳述している。 |
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[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])右大臣を拝し、皇太弟傅を兼ねる。[[長暦]]元年 |
[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])右大臣を拝し、皇太弟傅を兼ねる。[[長暦]]元年([[1037年]])従一位に叙された。 |
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常に九条流に対抗する小野宮流の当主として活躍したが、晩年は養子の資平への家督継承と家領温存のため、道長・[[藤原頼通|頼通]]親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる |
常に九条流に対抗する小野宮流の当主として活躍したが、晩年は養子の資平への家督継承と家領温存のため、道長・[[藤原頼通|頼通]]親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる{{refnest|group="注釈"|右大臣就任時に実資は﹁隠文帯・樋螺鈿剱﹂の装束で道長・頼通に拝謁している<ref>﹃小右記﹄治安元年7月26日条</ref>が、これは本来天皇の譲位・立后・立太子・任大臣の儀式などに限定されたもの<ref>﹃[[西宮記]]﹄</ref>であり、摂関への拝謁に﹁隠文帯・樋螺鈿剱﹂を用いるのは、道長が定めたいわゆる[[御堂流]]の新儀であった。﹃小右記﹄にはその5年前の正月2日に全く同じ行動を取った公任を故実に反して道長に媚びたと非難している。}}。特に実資は頼通に非常な好意を抱いていたようで{{refnest|group="注釈"|ある時、実資は[[清涼殿]]の東廂で頼通を抱いて臥した夢を見、その際彼の[[陰茎]]は勃起したという<ref>﹃小右記﹄長元2年9月24日条</ref>。}}、﹃小右記﹄には頼通を批判する記事はほとんどなく、頼通の方も政界の長老である実資への敬意を怠らなかったという。{{要出典範囲|その一方で、当時の慣例に反して頼通が関白のまま実資と共同で[[一上]]の職務を行い、[[藤原公季]]の死去により空席になった[[太政大臣]]への昇進を頼通が実資の死後まで控えたのは、実資が頼通の後任の[[左大臣]]に昇進することで、一上として太政官を率いて頼通と対抗することを恐れたからだとも言われている|date=2023年3月}}︵一上には通常左大臣が就任して、関白及び太政大臣はその職務には携わらず、左大臣が関白を兼ねる場合には右大臣が一上となる慣例であった︶。
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また、長保5年([[1003年]])に発生した[[平維良]]による下総国府(下総守[[宮道義行]])襲撃事件や長元2年([[1029年]])に発生した[[平季基]]による大隅国府(大隅守[[船守重]])襲撃事件について、襲撃した維良・季基及び季基を庇おうとした[[大宰大弐]][[藤原惟憲]]はいずれも道長・頼通父子の家司・家人で、襲撃された義行や守重は実資の家司・家人であったことから、背景に地方における両陣営の対立を指摘する見解もある(なお、両事件とも襲撃・擁護側は処分されなかった)<ref>[[加藤友康]]「平安時代の大隅・薩摩 : 人の交流と交易・情報伝達を媒介にして考える」 倉本一宏 編『王朝時代の実像1 : 王朝再読』所収、[[臨川書店]]、2021年、pp. 411-416。{{ISBN2|978-4-653-04701-8}}。(初出:『黎明館調査研究報告』第17号、[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]、2004年3月。{{CRID|1390855765230953984}}、{{DOI|10.24484/sitereports.129105-119242}}。)</ref>。 |
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花山院の女御・[[婉子女王]]と大恋愛して結婚したが子供に恵まれず、晩年[[アルツハイマー型認知症]]が進行してからは焦りのために手当たり次第に手を出し、妻が非常に少なかった政治上の弟子・宇治関白頼通を嘆かせている。兄の権中納言[[藤原懐平|懐平]]の子である資平を養子としたが、最愛の子は実娘の[[藤原千古|千古]]であった。[[万寿]]元年︵[[1024年]]︶に行われた千古の[[着裳]]に際しては、実資は右大臣としての権力を用いて[[受領]]に対して諸国所課を行って物資の取立を行っている。
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花山院の女御・婉子女王と大恋愛して結婚したが子供に恵まれず、晩年[[認知症]]が進行してからは焦りのために手当たり次第に手を出し、妻が非常に少なかった政治上の弟子・宇治関白頼通を嘆かせている。兄で権中納言・[[藤原懐平|懐平]]の子である資平を養子としたが、最愛の子は実娘の[[藤原千古|千古]]であった。[[万寿]]元年︵[[1024年]]︶に行われた千古の[[裳着]]に際しては、実資は右大臣としての権力を用いて[[受領]]に対して諸国所課を行って物資の取立を行っている。
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[[永承]]元年︵1046年︶に90歳で死去。信仰厚い[[仏教]]徒であったが、今はの際まで現実社会で活躍することを好み、その死に臨んでも[[出家]]することはなかった。天寿を全うするとき、実資の小野宮第には朝野上下の人々が参集し、声を放って慟哭したという。
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[[永承]]元年︵[[1046年]]︶に90歳で薨去。信仰厚い[[仏教]]徒であったが、今際の際まで現実社会で活躍することを好み、その死に臨んでも出家することはなかった。天寿を全うするとき、実資の小野宮第には朝野上下の人々が参集し、声を放って慟哭したという。
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実資は小野宮家の財産を多く千古に継承させ、養子の資平には一部しか継承させなかった。このためか、実頼から継承したと思われる[[家領]]は分散継承され、[[院政]]期には空中分解を遂げることとなる。また、男系子孫に財産が渡らなかったことによって同家の経済的な衰微を招き、小野宮家没落の原因を作ったと言われている。
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実資は小野宮家の財産を多く千古に継承させ、養子の資平には一部しか継承させなかった。このためか、実頼から継承したと思われる[[家領]]は分散継承され、[[院政]]期には空中分解を遂げることとなる。また、男系子孫に財産が渡らなかったことによって同家の経済的な衰微を招き、小野宮家没落の原因を作ったと言われている。
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実資は日記史料として後年、故実に必携の書となる﹃小右記﹄︵'''小'''野宮'''右'''大臣家'''記'''の略︶を残す。ここで実資は、現存する限り蔵人頭から右大臣右大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な道長の﹁この世をば…﹂の和歌は実資の﹃小右記﹄から現代に伝えられた。
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実資は日記史料として後年、故実に必携の書となる﹃小右記﹄︵'''小'''野宮'''右'''大臣家'''記'''の略︶を残す。ここで実資は、現存する限り蔵人頭から右大臣右大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な道長の﹁この世をば…﹂の和歌は実資の﹃小右記﹄から現代に伝えられた。
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== 人物 == |
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32歳で議政官となった有能な官僚であり、道長や頼通の相談相手でもあった。儀礼については厳しく、﹃小右記﹄では儀礼に失敗したものを﹁愚の又、愚なり﹂と厳しく批判する記述がある。長和5年の[[後一条天皇]]即位の際には、奉幣使に持たせる官符の作成作業の監督にあたった。しかし部下のミスにより、官符に太政官印が押されていないものが含まれてしまった。実資はミスを誘発した[[少納言]]藤原庶政を厳しく批判している。しかし印が押されていない官符が使用されることについては儀式が終わっているのだからどうしようもない、もし摂政道長からなにか言われた場合には自分に告げろと述べ、実務面においては柔軟な運用を行っている<ref>{{Cite journal|和書|title=︿エッセイ﹀上司としての藤原実資|author=堀井佳代子|authorlink=堀井佳代子|year=2019|date=2019-03|url= |publisher=[[国際日本文化研究センター]]|journal=日文研|number=62|doi=10.15055/00007284|naid=120006599782|issn=09150889}}</ref>。
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気難しい性格であった実資も好色であったようで、『[[古事談]]』に以下の逸話が伝わっている。 |
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=== 道長との関係 === |
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:実資の邸宅であった小野宮第の北対の前によい水の出る[[井戸]]があり、付近の下女たちがよく水を汲んでいた。下女の中で気に入った女がいると実資はよく誰もいない部屋に引っ張り込んでいた。そこで頼通が一計を案じ、自邸の[[侍所]]の雑仕女の中から美人を選んで水汲みにやらせ、もし実資から引っ張り込まれそうになったら、水桶を捨てて逃げ帰るように命じた。案の定、実資はその雑仕女に手を出そうとしたが、予定通り女は水桶を捨てて逃げ帰った。後日実資が頼通を訪ねて公事について話をした際、頼通が「ところで、先日の侍所の水桶を返していただけないか」と言った所、さすがの実資も赤面し返事ができなかったという。 |
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実資は道長の所業に対して強い批判を書き残している。豊かな国への受領の任免権が道長の権益となっていることや<ref>『小右記』長和三年十二月二十日条</ref>、実兄藤原懐平を差し置いて、年少の[[藤原教通|教通]]が造宮行事所別当に任官されたことなどがある<ref>『小右記』長和三年五月二十四日条</ref>。 |
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その一方で道長の能力・人物については高く評価しており、道長も実資に一目を置いていた(以下『小右記』)。 |
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また、『古事談』には、実資と[[藤原教通]](頼通の弟)とが[[遊女]]・香炉をめぐって鞘当てをした話も伝わっている。 |
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* 長和元年([[1012年]])道長が病気になった際に実資・[[藤原道綱|道綱]]・隆家・懐平・[[藤原通任|通任]]の5人が悦んでいるという噂が立てられた際に、道長は実資と道綱に限ってそういうことはないと述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている<ref>『小右記』長和元年6月17日・20日・7月21日条</ref><ref>[[朧谷寿]]『藤原道長 : 男は妻がらなり』[[ミネルヴァ書房]]〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年、pp. 233-234。{{ISBN2|978-4-623-04884-7}}。</ref>。 |
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実資は道長の所業に対して強い批判を書き残しているが、その一方で道長の能力・人物については高く評価しており、道長も実資に一目を置いていた。 |
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* 三条天皇の病気や後一条天皇の幼少で久しく中断されていた[[官奏]]が復活して実資が[[職事]]を勤めた際に、道長は息子・教通がなぜ物陰からでも実資の様子を見てその作法を学ばなかったのかと、実資に嘆いている<ref>﹃小右記﹄治安元年11月16日条</ref><ref>末松剛﹃平安宮廷の儀礼文化﹄吉川弘文館、2010年、pp. 281-283。{{ISBN2|978-4-642-02475-4}}。</ref>。
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* 実資は摂政となった道長が病に倒れ一時重態となった際に﹁朝︵朝廷︶之柱石﹂が失われることを憂慮している<ref>﹃小右記﹄長和5年5月10日条</ref><ref>関口力﹃摂関時代文化史研究﹄[[思文閣出版]]、2007年、pp. 170-174。{{ISBN2|978-4-7842-1344-3}}。</ref>。
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道長が「[[この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば]]」の[[和歌]]を披露した際、道長は実資に対してこれに必ず和してもらいたい(返歌を作って欲しい)と述べた。実資は[[白居易]]が[[元稹]]の詩を絶賛して和せずにただその詩を繰り返し吟唱した故事をあげ、居並ぶ公卿とともにその歌を数度吟詠している{{sfn|佐々木恵介|2018|loc=Kindle版、位置No.全392中 151 / 39%}}。 |
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長和元年︵1012年︶、道長が病気になった際に実資・[[藤原道綱|道綱]]・隆家・懐平・[[藤原通任|通任]]の5人が悦んでいるという噂が立てられた際に、道長は実資と道綱に限ってそういうことはないと述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている︵﹃小右記﹄長和元年6月17日・20日・7月21日条︶<ref>朧谷寿﹃藤原道長﹄︵ミネルヴァ書房、2007年︶ ISBN 978-4-623-04884-7 P233-234。</ref>。また、三条天皇の病気や後一条天皇の幼少で久しく中断されていた[[官奏]]が復活して実資が[[職事]]を勤めた際に、道長は息子・教通がなぜ物陰からでも実資の様子を見てその作法を学ばなかったのかと、実資に嘆いている︵﹃小右記﹄治安元年11月16日条︶<ref>末松剛﹃平安宮廷の儀礼文化﹄︵吉川弘文館、2010年︶ ISBN 978-4-642-02475-4 P281-283。</ref>。一方、実資は摂政となった道長が病に倒れ一時重態となった際に﹁朝︵朝廷︶之柱石﹂が失われることを憂慮している︵﹃小右記﹄長和5年5月10日条︶<ref>関口力﹃摂関時代文化史研究﹄︵思文閣出版、2007年︶ ISBN 978-4-7842-1344-3 P170-174。</ref>。
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=== 女性関係 === |
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気難しい性格であった実資も好色であったようで、『[[古事談]]』に以下の逸話が伝わっている。 |
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実資の邸宅であった小野宮第の北対の前によい水の出る井戸があり、付近の下女たちがよく水を汲んでいた。下女の中で気に入った女がいると実資はよく誰もいない部屋に引っ張り込んでいた。そこで頼通が一計を案じ、自邸の[[侍所]]の雑仕女の中から美人を選んで水汲みにやらせ、もし実資から引っ張り込まれそうになったら、水桶を捨てて逃げ帰るように命じた。案の定、実資はその雑仕女に手を出そうとしたが、予定通り女は水桶を捨てて逃げ帰った。後日実資が頼通を訪ねて公事について話をした際、頼通が「ところで、先日の侍所の水桶を返していただけないか」と言った所、さすがの実資も赤面し返事ができなかったという。 |
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『古事談』には、実資と[[藤原教通]](頼通の弟)とが[[遊女]]・香炉をめぐって鞘当てをした話も伝わっている。 |
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== 官歴 == |
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『[[公卿補任]]』による。 |
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*[[安和]]2年([[969年]]) 2月22日:[[従五位|従五位下]](元服日有勅叙之)。6月25日:[[侍従]](佐時任右兵衛佐替) |
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*安和3年([[970年]]) 正月27日:[[昇殿]] |
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*[[天禄]]2年([[971年]]) 3月20日:[[兵衛府|右兵衛佐]](佐時任少納言替) |
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*天禄4年([[973年]]) 7月26日:[[近衛府|右近衛少将]] |
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*[[天延]]2年([[974年]]) 正月7日:従五位上(佐労)。正月20日:[[近江国#国司|近江権介]] |
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*[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]]) 正月7日:[[正五位|正五位下]](少将労) |
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*[[天元 (日本)|天元]]2年([[979年]]) 正月29日:[[伊予国#国司|伊与権介]] |
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*天元3年([[980年]]) 正月7日:[[従四位|従四位下]](少将労)、還昇。7月25日:従四位上(皇太后宮日来御座件朝臣宅、還御本宮後、以臨時息所叙之) |
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*天元4年([[981年]]) 2月14日:[[蔵人頭]]([[大江斉光|斉光]]替) |
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*天元5年([[982年]]) 正月:[[備後国#国司|備後介]]。3月11日:兼[[中宮職|中宮亮]](立后日、[[中宮]]・[[藤原遵子]]) |
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*[[永観]]元年([[983年]]) 12月13日:左近衛中将(亮如元) |
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*永観2年([[984年]]) 2月1日:[[美濃国#国司|美乃権守]]。8月27日:止頭(踐祚)、蔵人頭 |
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*[[寛和]]元年([[985年]]) 12月24日:中宮大夫(中宮・藤原遵子)、中将如元 |
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*寛和2年([[986年]]) 6月23日:止頭([[禅譲]])、昇殿。7月22日:[[正四位|正四位下]](臨時) |
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*[[永延]]元年([[987年]]) 11月11日:蔵人頭([[藤原安親|安親]]替) |
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*永延2年([[988年]]) 8月29日:近江権守 |
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*[[永祚 (日本)|永祚]]元年([[989年]]) 2月23日:[[参議]] |
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*[[正暦]]元年([[990年]]) 正月29日:[[美作国#国司|美作権守]]。8月30日:[[従三位]] |
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*正暦2年([[991年]]) 9月23日:左兵衛督 |
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*[[長徳]]元年︵[[995年]]︶4月28日‥[[検非違使|検非違使別当]]。8月28日‥[[中納言|権中納言]]、右衛門督。9月5日‥別当如元。9月28日‥[[太皇太后宮職|太皇太后宮大夫]]︵[[太皇太后]]・[[昌子内親王]]︶
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*長徳2年([[996年]]) 7月20日:中納言、督大夫等如元。7月21日:別当如元。9月19日:辞別当並督 |
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*[[長保]]元年([[999年]]) 正月7日:[[正三位]](中納言労、超[[藤原時光|時光]])。12月7日:止大夫(依宮崩也) |
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*長保2年([[1000年]]) 11月21日:[[従二位]](造宮行事賞、超[[藤原懐忠|懐忠]]) |
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*長保3年([[1001年]]) 8月25日:[[大納言|権大納言]]、兼右近衛大将 |
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*長保5年([[1003年]]) 2月26日:[[正二位]](石賀行幸行事賞) |
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*[[寛弘]]4年([[1007年]]) 正月28日:[[按察使 (日本)]] |
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*寛弘6年([[1009年]]) 3月4日:大納言、大将使如元 |
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*[[長和]]元年([[1012年]]) 日付不詳:止按察使 |
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*[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]]) 7月25日:[[右大臣]]。7月28日:右大将如元。8月29日:兼[[東宮傅|皇大弟傅]] |
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*[[万寿]]3年([[1026年]]) 4月1日:聴輦車 |
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*[[長元]]3年([[1030年]]) 11月16日:[[宣旨]]、諸節会不候列従腋可参上者 |
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*長元9年([[1036年]]) 4月17日:止皇太弟傅 |
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*[[長暦]]元年([[1037年]]) 正月5日:[[従一位]]。3月27日:請辞大将、勅不許 |
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*[[長久]]4年([[1043年]]) 11月2日:辞大将 |
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*[[寛徳]]元年([[1044年]]) 6月:上表乞身、不許 |
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*[[永承]]元年([[1046年]]) 正月18日:薨去 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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*父:[[藤原斉敏]] |
*父:[[藤原斉敏]] |
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*母:[[藤原尹文]]の娘 |
*母:[[藤原尹文]]の娘 |
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*妻:[[源惟正]] |
*妻:[[源惟正女]](?-986) |
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**女子:(985-?)<ref>『小右記』寛和元年4月28日条</ref> |
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*妻:[[婉子女王]]([[為平親王]]の娘) |
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*妻:[[婉子女王]]([[為平親王]]の娘) - もと[[花山天皇]]の女御) |
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*妻:不明(官女某) |
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*妻:官女某 |
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**男子:[[良円 (天台宗)|良円]](983-1050) |
**男子:[[良円 (天台宗)|良円]](983-1050) |
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*妻:[[源頼定]]の[[乳母]]の娘(977-?)<ref>小右記 |
*妻:[[源頼定]]の[[乳母]]の娘(977-?)<ref>『小右記』万寿2年3月8日・20日条、四十九の厄を迎えたという記述による。</ref> |
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**女子:[[藤原千古]] |
**女子:[[藤原千古]] - [[藤原兼頼]]室 |
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*生母不 |
*生母不明の子女 |
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**男子:観薬 |
**男子:観薬 |
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**女子:(?-990) |
**女子:(?-990) |
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*養子女 |
*養子女 |
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**養子:[[藤原資平]](986-1067) - 実は藤原懐平の子 |
**養子:[[藤原資平]](986-1067) - 実は藤原懐平の子 |
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**養子: |
**養子:藤原資高(?-?) - 実は藤原懐平の子 |
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**養子:[[藤原資頼]](?-?) - 実は藤原懐平の子 |
**養子:[[藤原資頼 (小野宮流)|藤原資頼]](?-?) - 実は藤原懐平の子 |
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**養子:[[藤原経季]](1010-1086) - 実は[[藤原経通]]の次男 |
**養子:[[藤原経季]](1010-1086) - 実は[[藤原経通]]の次男 |
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== 関連作品 == |
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<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--> |
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;テレビドラマ |
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*『[[光る君へ]]』(2024年、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[秋山竜次]]) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=天皇の歴史3 : 天皇と摂政・関白|author=佐々木恵介|authorlink=佐々木恵介|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|year=2018|isbn=978-4-06-292483-2|ref=harv}}{{AmazonKindleLink|1=B079S586BG|2=co.jp|date=2018}}。
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* [[倉本一宏]]『現代語訳 小右記』全16巻、[[吉川弘文館]]、2015-2023年。 |
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* [[黒板勝美]]・国史大系編修会 編『[[公卿補任]] 第一篇』吉川弘文館〈[[新訂増補国史大系]]〉、1982年。 |
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* 黒板勝美・国史大系編修会 編『[[尊卑分脈]] 第二篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1987年。 |
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== 外部リンク == |
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* 『[https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/ 摂関期古記録データベース]』[[国際日本文化研究センター]](『[[小右記]]』の読み下し文を公開) |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:ふしわら の さねすけ}} |
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[[Category:小野宮流|さねすけ]] |
[[Category:小野宮流|さねすけ]] |
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[[Category:平安時代の |
[[Category:平安時代中期の貴族]] |
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[[Category:蹴鞠に関する人物]] |
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[[Category:日本の日記作家]] |
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[[Category:957年生]] |
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[[Category:1046年没]] |
[[Category:1046年没]] |
2024年5月19日 (日) 21:14時点における版
藤原 実資 | |
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![]() | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 天徳元年(957年) |
死没 | 永承元年1月18日(1046年2月26日) |
改名 | 大学丸(幼名)→実資 |
別名 |
賢人右府 号:小野宮 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 |
父:藤原斉敏 母:藤原尹文の娘 養父:藤原実頼 |
兄弟 | 高遠、懐平、実資 |
妻 |
源惟正女 婉子女王(為平親王の娘) 源頼定乳母の娘 |
子 |
良円、女子、千古、観薬、女子 養子:資平、資高、資頼、経季 |