「麦と兵隊」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Twodrifters (会話 | 投稿記録) m Category |
||
5行目: | 5行目: | ||
== 内容 == |
== 内容 == |
||
[[1938年]]︵[[昭和]]13年︶雑誌 |
[[1938年]]︵[[昭和]]13年︶雑誌﹃[[改造 (雑誌)|改造]]﹄に発表。発表翌月、刊行。以後百万部以上の版を重ねる。本作品は火野の弁によると小説ではなく従軍記録であり、[[日中戦争]]開始翌年[[1938年]]5月の[[徐州会戦]]に於ける進軍中の旧日本軍の実情を、従軍民間マスコミの高慢な態度などとも併せて活写している。
|
||
前年末の[[南京攻略戦]]参加︵[[杭州]]湾に敵前上陸︶の後、火野は招集直前に脱稿した政治的寓意小説﹃[[糞尿譚]]﹄によって3月に第六回[[芥川賞]]を受賞し、4月に[[中支那派遣軍]]報道部に転属されている。3月、杭州で文芸評論家[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]による陣中授与式が行われた。本作品の山場である孫圩︵そんかん︶<ref>この地名についての漢字と読みは、火野の自殺間もない[[1960年]]︵[[昭和]]35年︶6月刊行の[[新潮社]]日本文学全集﹁火野葦平集﹂による。下記のNHKスペシャルでは﹁そんう﹂とルビが振られている</ref>での中国軍の強襲の最中、極限状況に陥る場面で、火野が小林との哲学的対話を想起しながら[[走馬燈]]体験をする箇所がある。この日の記述には、''“私は、今、廟の前の穴から出て来て、再び廟の中に入り、この日記を書きつけて居る。私は昨日まで一日終わって、その一日の日記を書きつける習慣であったけれども、今、私は、既に、一日終る迄私の生命があるかどうか判らなくなった。今は午後六時二〇分である。”''というような箇所があるように、﹃麦と兵隊﹄は﹁どんなに疲れていても遺書のつもりで書く﹂(本人談)という火野の強い意志の結実であると言える。
|
前年末の[[南京攻略戦]]参加︵[[杭州]]湾に敵前上陸︶の後、火野は招集直前に脱稿した政治的寓意小説﹃[[糞尿譚]]﹄によって3月に第六回[[芥川賞]]を受賞し、4月に[[中支那派遣軍]]報道部に転属されている。3月、杭州で文芸評論家[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]による陣中授与式が行われた。本作品の山場である孫圩︵そんかん︶<ref>この地名についての漢字と読みは、火野の自殺間もない[[1960年]]︵[[昭和]]35年︶6月刊行の[[新潮社]]日本文学全集﹁火野葦平集﹂による。下記のNHKスペシャルでは﹁そんう﹂とルビが振られている</ref>での中国軍の強襲の最中、極限状況に陥る場面で、火野が小林との哲学的対話を想起しながら[[走馬燈]]体験をする箇所がある。この日の記述には、''“私は、今、廟の前の穴から出て来て、再び廟の中に入り、この日記を書きつけて居る。私は昨日まで一日終わって、その一日の日記を書きつける習慣であったけれども、今、私は、既に、一日終る迄私の生命があるかどうか判らなくなった。今は午後六時二〇分である。”''というような箇所があるように、﹃麦と兵隊﹄は﹁どんなに疲れていても遺書のつもりで書く﹂(本人談)という火野の強い意志の結実であると言える。
|
||
53行目: | 53行目: | ||
[[Category:日本の軍歌]] |
[[Category:日本の軍歌]] |
||
[[Category:徐州会戦]] |
[[Category:徐州会戦]] |
||
[[Category:改造 (雑誌)]] |
2015年3月23日 (月) 04:39時点における版
![]() | 本作の作詞・作曲は著作権の保護期間中のため、日本国著作権法第32条および米国著作権法第107条によりフェアユースと認められる形式の引用を除き、ウィキペディアへの掲載は著作権侵害となります。また、演奏などの著作隣接権についても注意ください。
歌詞全文はTemplate:歌ネットやTemplate:Genius songを使用した外部リンクにより合法的な参照が可能です。 |
麦と兵隊︵むぎとへいたい︶は、1938年に出版された火野葦平の小説。戦記文学。およびそれをもとにした戦時歌謡。﹃土と兵隊﹄、﹃花と兵隊﹄とあわせ﹁兵隊3部作﹂とも呼ばれている。
現在は、社会批評社から﹁土と兵隊﹂と合わせて出版されている︵ISBN 4907127022︶。
内容
1938年︵昭和13年︶雑誌﹃改造﹄に発表。発表翌月、刊行。以後百万部以上の版を重ねる。本作品は火野の弁によると小説ではなく従軍記録であり、日中戦争開始翌年1938年5月の徐州会戦に於ける進軍中の旧日本軍の実情を、従軍民間マスコミの高慢な態度などとも併せて活写している。 前年末の南京攻略戦参加︵杭州湾に敵前上陸︶の後、火野は招集直前に脱稿した政治的寓意小説﹃糞尿譚﹄によって3月に第六回芥川賞を受賞し、4月に中支那派遣軍報道部に転属されている。3月、杭州で文芸評論家小林秀雄による陣中授与式が行われた。本作品の山場である孫圩︵そんかん︶[1]での中国軍の強襲の最中、極限状況に陥る場面で、火野が小林との哲学的対話を想起しながら走馬燈体験をする箇所がある。この日の記述には、“私は、今、廟の前の穴から出て来て、再び廟の中に入り、この日記を書きつけて居る。私は昨日まで一日終わって、その一日の日記を書きつける習慣であったけれども、今、私は、既に、一日終る迄私の生命があるかどうか判らなくなった。今は午後六時二〇分である。”というような箇所があるように、﹃麦と兵隊﹄は﹁どんなに疲れていても遺書のつもりで書く﹂(本人談)という火野の強い意志の結実であると言える。 小林は本作品を戦場における日本人の自然な心情の発露として賞賛している。抛棄された民家に残る現地中国人の生活感、進軍中果てることなく続く麦畑等自然の風物、戦闘で負傷し遺棄されて憔悴して草をはむ軍馬の姿などが印象的である。 戦後、火野は当局に削除されていた捕虜の殺傷場面などを記憶を頼りに補筆し、これを以って﹁最終稿﹂とした[2]。時代背景
﹃麦と兵隊﹄は、捕虜の支那兵を日本軍の軍人が斬首するのを火野が反射的に目を背け、火野が自分自身のその当たり前の人間としての反応に自ら安堵する感想で終わる。前年末の南京攻略戦の折の百人斬り競争が本土および海外の紙面を賑わせた結果、国内では問題視されなかったが、海外では虐殺行為が国際的非難を呼び起こして軍部が対応に苦慮していた時期である[3]。 本作品は、発表2年後の1939年、ロンドンでの英訳刊行を皮切りに約二十カ国語に翻訳され[4]、日本国内における記憶の低下に反して現在でも評価は高い[5][6]。 火野は本作品によって、いわば帝国軍人の規範としての役割を担わされ、ために戦後には戦犯としての糾弾に苦しむことになり、結果自殺に追い込まれた。[要出典]戦時歌謡
1938年︵昭和13年︶12月ポリドールから発売。 ●作詞:藤田まさと ●作曲:大村能章 ●唄:東海林太郎 雑誌﹁改造﹂に連載された﹁麦と兵隊﹂が評判になっていたのがきっかけで、陸軍報道部では早速これを歌にすることを決めて、作詞を藤田まさとに依頼した。 藤田まさとは当初﹃麦と兵隊﹄中の孫圩︵そんかん︶での中国軍の強襲後の火野の述懐を元に﹁ああ生きていた 生きていた 生きていましたお母さん・・・﹂という歌い出しの文句を書いた。ところが、軍当局から﹁軍人精神は生きることが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ﹂と大目玉を食らい、そこで、﹁徐州 徐州と人馬は進む・・・﹂という現行の歌詞に書き直した。 作曲の大村能章は1962年没であるが、作詞の藤田まさとは1982年没であるため、歌詞の著作権は2014年現在も有効である。脚注
(一)^ この地名についての漢字と読みは、火野の自殺間もない1960年︵昭和35年︶6月刊行の新潮社日本文学全集﹁火野葦平集﹂による。下記のNHKスペシャルでは﹁そんう﹂とルビが振られている
(二)^ NHKスペシャル﹁従軍作家たちの戦争﹂︵2013年8月14日放送︶に詳細が取り上げられている
(三)^ いわゆる﹃百人斬り﹄論争関係のインターネット上の資料には、芥川賞を火野に授与した文藝春秋がマスコミの扇動する﹁百人斬り﹂を揶揄する記事がある。
(四)^ 海外オークションで見られる英訳本の表紙には火野の書いた戦場スケッチが採用されている
(五)^ 60年安保直後の火野の自裁後、間もなく米作家ジェームス・ジョーンズの上梓した小説﹃シン・レッド・ライン﹄は﹃麦と兵隊﹄のガダルカナル戦における米兵視点からの書き直しとでも言うべきものである。テレンス・マリックによる同作の1998年の映画化作品では、火野の原作を連想させる光景が頻出する。
(六)^ 日本文学研究者のドナルド・キーンは、日本文学に関心を抱いたきっかけは﹃麦と兵隊﹄を読んで感動したことだと述べている