ウーマン・リブ
(ウーマンリブから転送)
社会における女性 |
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ウーマン・リブ︵和製英語‥woman lib、英語: women's lib︶とは、1960年代後半から1970年代前半にかけて、主としてヨーロッパやアメリカ、日本などの国々において起こった女性解放運動である[1]。日本における呼称は、1970年10月4日付の朝日新聞が女性解放運動の原語︵英語︶である﹁Women's liberation movement﹂をウーマン・リブと表記したのが始まりとされる[2]。また、単にリブとも言う[3][4][5]。
フェミニズム及びジェンダーの原点ともいわれ、19世紀後半から20世紀前半にかけて起こった女性の参政権運動を﹁第一波フェミニズム﹂、ウーマン・リブを﹁第二波フェミニズム﹂と呼ぶこともある。
概要・沿革[編集]
「History of feminism」を参照
第一次世界大戦・第二次世界大戦の最中、若者の男性は兵士として戦場に駆り出され、女性が国内の生産現場を担っていた。
第二次世界大戦が終了した1950年代になると、帰還兵の就職口を作るために、働く女性が職を手放さなければならなかったが、多くの女性はその後も工場・農場・伝統的な女性職の領域で働き続けた。
戦争が引き起こした人手不足は女性の積極的労働参加を促し、﹁女性も男性と同じ仕事ができる﹂という、仕事における自信をもたらした。この女性の社会的自立が、のちのウーマン・リブの運動の気運を高めたといえる。そしてベトナム戦争の反戦運動と共に、男社会に対する不満を抱えた女性たちによるウーマン・リブの運動がアメリカ中を圧巻した。
伝統的な女性のイメージは根本から否定され、女性の労働が当たり前となり、それまでほとんど男子校同然だった大学で女子の入学が認められ、男性中心だった学問に女性学が導入された。ウーマン・リブは反キリスト教運動も兼ねており、それまで禁止されていた人工妊娠中絶を認める法律ができた。
この運動の発端となったアメリカでは、ベトナム反戦運動や公民権運動に連動する形で、性による役割分担に不満を持った高学歴主婦や女子学生を中心に﹁男女は社会的には対等・平等であって、生まれつきの肌の色や性別による差別や区別の壁を取り払うべきだ﹂という考えのもとで開始され、1979年、国連総会において女子差別撤廃条約が採択されるなどその後の男女平等社会の推進に大きく貢献した。
ウーマン・リブという言葉が最初に日本のメディアで使われたのは1970年10月4日の朝日新聞都内版。同紙は女性解放運動の原語の﹁Women's liberation movement﹂を﹁ウーマン・リブ﹂と名付け、記事の見出しに掲げた[2]。
そして同年10月21日の国際反戦デーに女性だけによるデモが行われた。田中美津らは﹁便所からの解放﹂という手書きのビラをまいた。日本でウーマンリブが社会的注目を浴びたのはこの日のデモが最初だといわれる[6][7][8]。
同年11月14日、第1回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、男女雇用機会均等法の制定に大きな役割を果たすなどした。
脚注[編集]
(一)^ ﹃岩波女性学事典﹄ 2002.
(二)^ ab加納実紀代﹁侵略=差別と闘うアジア婦人会議と第二波フェミニズム﹂﹃女性学研究﹄第18巻、大阪府立大学女性学研究センター、2011年3月、149-165頁、doi:10.24729/00004887、hdl:10466/12477、ISSN 0918-7901、CRID 1390853649554189696、2023年8月2日閲覧。
(三)^ ウーマン・リブとは - コトバンク︵2021年8月12日閲覧︶
(四)^ ウーマンリブとは - コトバンク︵2021年8月12日閲覧︶
(五)^ 総合女性史研究会編﹃日本女性の歴史 文化と思想﹄角川選書、1993年、p.247
(六)^ 井上輝子、長尾洋子、船橋邦子﹁ウーマンリブの思想と運動 : 関連資料の基礎的研究﹂﹃東西南北﹄第2006巻、和光大学総合文化研究所、2006年1月、134-158頁、CRID 1050001338313796096、国立国会図書館書誌ID:8018559、2024年4月15日閲覧。
(七)^ 上野千鶴子. “上野講演 ウーマン・リブ”. 国際基督教大学ジェンダー研究センター. 2023年7月25日閲覧。
(八)^ “﹁強い女﹂男社会を告発 第38回 リブ女の解放宣言 性を公然と議論、風当たりも強く”. 日本経済新聞 (2014年5月18日). 2023年7月25日閲覧。